なぜ同業者は二人組でポッドキャストを始めるのか?
収録は、速水健朗さんが「同業者がみんな二人組でポッドキャストを始めている」と話を振るところから、雑談のように始まります。速水さんは、もともとソロの仕事だったライターにも「チーム戦の時代」が来たと感じていて、そのきっかけにテケシュンを挙げました。
みんな二人組で始めていて、なんかやっぱチーム戦の時代だなと思って。
必ずワンセットじゃん、テケシュンって。
伏見瞬さんによると、相方の照沼健太さんが一人でしたインタビューの仕事でも「テケシュンさんの仕事だ」と言われるそうです。XGのプロデューサーにインタビューしたときにも「いつもテケシュンさん見てます」と書かれていて、二人がワンセットで見られていると実感したといいます。
速水さんが「どっちが実を取るか」と冗談めかすと、伏見さんは「両方得が一番いい」と返します。照沼さんがジークアックスの企画で二人組を強く推したのは、テケシュンより後のことで、テケシュンを始めた頃は「チーム戦」を意識していなかったそうです。
それでも伏見さんは、二人でやることは楽しいと話します。菊地成孔 ── ジャズミュージシャン、文筆家。大谷能生との共著やラジオなど、二人での語りの仕事でも知られますと大谷能生 ── 音楽批評家、サックス奏者。菊地成孔との講義録や共著で知られますのコンビが好きで、テケシュンでもそこは意識していたといいます。
YouTube・note・X、伏見瞬さんの足場はどこにある?
自己紹介として、速水さんは伏見さんが運営しているメディアの数を尋ねます。伏見さんの答えは「3つか4つ」で、有料コンテンツになっているのがYouTubeとnote、主戦場のSNSがX(旧Twitter)だといいます。
Xでの情報発信からYouTubeやnoteへ飛べる設計になっていて、インスタグラムはプライベート寄りで、友達に向けている感覚が強いそうです。
伏見さんにとってYouTubeは音楽評論の足場の一つであり、一番安定した収入源にもなりました。伏見さんは、YouTubeをやっていたから会社を辞められた面がかなりある、と振り返っています。
テケシュン音楽情報は、2023年10月に伏見さんと編集者の照沼健太さんの二人で始まり、収録の少し前に2周年を迎えました。雑誌が機能せず、ネットメディアも広告ばかりになって音楽の情報がごちゃついている中で、「みんなが見るメディアを一つ作ると面白いのでは」と考えたのが始まりだそうです。
テケシュン音楽情報は、なぜ2年で6万5000人に届いたのか?
速水さんが軌道に乗るのが早かった理由を改めて聞くと、伏見さんはまず「登録者1000人」という壁の話をします。二人ともライター仕事で名前を知ってくれている人がいたため、初日に600〜700人、翌日には1000人を超えたそうです。
その後の3か月ほどは少しずつ伸びる程度でしたが、2024年に入ってすぐNUMBER_iがデビューし、楽曲「GOAT」を取り上げた動画の公開日に約2500人が登録しました。伏見さんはこれを「2回目のロケットダッシュ」と表現しています。
テケシュン音楽情報の登録者数の伸びは、次のような段階を踏んでいます。
開始直後
ライターとしての知名度で、翌日に登録者1000人を超える
停滞期
3か月ほどは少しずつ伸びるペース
NUMBER_i「GOAT」
デビュー直後に取り上げ、その日に約2500人が登録
1万人へ
3〜4か月で1万人に達し、アルゴリズムにも選ばれやすくなる
現在の登録者数は約6万5000人です。伏見さんは、周りにはもっと伸びが早い人もいるので「まだまだ」と感じる一方、うまく伸びていない人のほうがずっと多いので、その中ではうまくいっているのかもしれない、と話しています。
速水さんは、YouTubeのルールやアルゴリズムが変わって「かつてほど楽じゃない」時期に始めて伸びたことを面白がります。伏見さんも、同業者の中では早かったものの、YouTuber全体で見れば完全に新参だったと認めています。
音楽YouTubeが手薄な状況について、最初に懐疑的だったのは伏見さんのほうで、照沼さんは「いける」と考えていたそうです。伏見さんは、手薄なのがブルーオーシャンなのか、単にお客さんがいないだけなのかわからないまま始めました。実際には「今の音楽がわかって助かる」と言ってくれる友人や知り合いがいて、需要はある程度あったのだと後から気づいたといいます。
ライター、批評家、ポッドキャスター、肩書きはどう名乗る?
伏見さんはスピッツの本を書いた時点で副業ライターでした。速水さんが今の名乗り方を尋ねると、もともとは「批評家ライター」と名乗っていたものの、「ライター」という言葉は貧乏くさい感じがして好きではないと答えます。
その後に使っていた「批評家YouTuber」についても、伏見さんは「批評家」もイメージが固定されて、怖い人に見られるのが嫌になってきたと話します。速水さん自身も、名乗り方が実はぶれていると明かしました。
ライターだと軽いし、たまにさ、ジャーナリストって書かれちゃうこともあるわけ。で、ジャーナリストにしては取材するタイプじゃねえ、こたつ派だしなとかさ、批評家っていうとちょっと偉そうだしな。
速水さんは「肩書き問題」は同業者同士だと盛り上がるものの、リスナーに興味があるかはわからないと笑います。編集でバッサリ切って「YouTuberの伏見君」にしておこうか、という冗談で話を次へ進めました。
会社員・伏見瞬さんは「戦略的窓際族」だった?
伏見さんが会社員との兼業をやめた理由は明快で、YouTube、note、原稿依頼の月収が、会社の月収を超えたからでした。それに加えて、明らかに体が疲れているのを感じていたといいます。
そっか、二毛作は疲れるよね。
伏見さんは兼業中、会社ではずっと眠い状態で、仕事へのやる気はずっと前からなかったと話します。「伏見瞬」はペンネームで、会社では本名で呼ばれていたそうです。
会社員としての伏見さんは、自分の立ち位置を「戦略的窓際族」と表現します。やる気のないキャラクターでいながら、外国語大学出身で英語ができる人と思われていたため、外国人の顧客が絡む小さな案件が回ってくる存在だったといいます。
伏見さん自身は、英語は周りに比べればできる程度で、ネイティブのように話せるわけではないと付け加えています。「やる気はないけれど特殊作業はできるやつ」として生き残っていた、という自己分析です。
速水さんは、今のテケシュンでの伏見さんが「元気いっぱいで目立ちたいやつ」というキャラクターであることと比べます。会社では後輩と車の中で「別に上にも行きたくない」と話していたそうで、二つの顔はかなり違っていました。
会社員としては本名で、やる気のない「戦略的窓際族」。英語対応などの特殊作業だけ引き受ける
ペンネームの伏見瞬として、YouTubeに顔を出し、目立ちたいキャラクターで音楽を語る
顔出しをしていても、会社の人からは直接何も言われませんでした。ただ出勤の最終日に、同い年くらいのアルバイトの女性から「いろいろ書いたりしてるんですよね」と言われたそうです。伏見さんが辞めると知って調べ、見つけたようだといいます。
伏見さんは副業申請を出していなかったため、退職金を下げられる可能性を考えて、辞めるまで活動を伏せていました。退職理由も「友達の小さなメディア系の会社に入る」と、所属はしないものの嘘とも言い切れない、ギリギリの説明で通したそうです。
速水さんは、発信や執筆は研究でもあり、権利としての発信でもあるのでは、と問いかけます。伏見さんも、バレたらその理屈が通用するかもしれないと思いつつ、わざわざ言う必要もないと考えていたそうです。「YouTuberとしてブレイクしたので辞めます」は格好悪いし、そもそもブレイクと言うほどではなく「目処が立った」程度だった、と二人は笑い合います。
釣りバカ日誌状態から、書き手の道へ
速水さんは、伏見さんの兼業時代を映画釣りバカ日誌 ── 会社では冴えない社員の浜崎伝助が、終業後や休日には釣りに熱中する姿を描いた漫画・映画シリーズにたとえます。会社では地味な社員、5時以降は音楽の人、という二重生活です。
これが成り立ったのは、伏見さんが残業のない会社を選んで入社していたからでした。ただし入社時の目的は書くことではなく音楽を作ることで、大学時代にバンドをやっていて、曲作りを続けるために「お金はそれほどでなくても残業がなさそうな会社」を選んだそうです。
伏見さんはその後、自分は作り手より書き手のほうが向いているらしいと気づき、批評再生塾 ── 批評家の佐々木敦が主任講師を務めた、ゲンロンの批評家育成講座。毎回の講師が課題を出し、受講生が論考を提出していましたに参加します。速水さんはそこで講師を務めていて、伏見さんはその課題を本で読んでいたといいます。
速水さんが出した課題は「アメリカの影について」でした。速水さんが最も優れていたと記憶しているのは「アンパンと日本人」という論文で、米食文化の日本に西洋的なパンが入り、そこに餡を入れるという題材が、まさに「アメリカの影」だと感じたそうです。
伏見さんが批評の道を選んだ背景には、年齢の意識もありました。30歳を過ぎ、ポップミュージックは基本的に20代で成功するものだと考えていたため、書くことで力試しをしてみようと思ったそうです。
伏見さんは批評再生塾で審査員賞などを受け、1年間やり通せたことで「これはいけそうだ」と感じ、キャリアの組み立てを考え始めました。
なぜ最初の本の題材はスピッツだったのか?
伏見さんは、批評再生塾を卒業した時点で、スピッツ論が出る4年ほど前から、誰にも言わずにスピッツの本を書こうと決めていたそうです。
伏見さんがスピッツを選んだ理由は、自分の守備範囲の中で一番本にしやすい対象だったからです。人気があり、誰も書いておらず、この先も誰も書かなそうで、本を読む人が興味を持ちそうな対象がスピッツくらいだったといいます。
速水さんが「本当に何でも書いていいとしたら誰を書くか」と聞くと、伏見さんはそれでもスピッツだったと答えます。書きたいものと、本として成り立つものが合致していたというのが伏見さんの説明です。好きでもマイナーすぎて本にならないアーティストはたくさんいて、その中で一番メジャー感がある存在を選んだそうです。
速水さんは、30年以上活動を続けるスピッツが、今でもオールタイムベストで上位に入ることに触れます。伏見さんも、スピッツは年を追うごとにランキングの順位が上がっていると補足しました。
サッカー日本代表がスピッツを歌った意味とは?
速水さんはサッカーの話題から、スピッツの立ち位置の変化を語ります。ワールドカップで日本がドイツとスペインに勝った後、帰りのバスで選手たちが音楽をかけて歌ったとき、最初に歌ったのがスピッツだったというのです。
多分ね、ミスチルも歌ってるし、ゆずも歌ってんのよ。けど最初にスピッツから歌ってるの。
伏見さんはこれを象徴的だと受け止めます。日本代表といえばもともとMr.Childrenで、スピッツはチームスポーツと相性がよくないと思っていたからです。オアシスの「Don't Look Back in Anger」のようなサッカーアンセム的な曲はスピッツにはない、と伏見さんは考えていました。
スピッツの不思議さってそこなのかなって。国民的な存在じゃなかったのに、いつの間にか国民的になってたよね。
伏見さんは、宇野常寛さんとレジーさんの共著『日本代表とMr.Children』を挙げます。日本代表の歌がミスチルからスピッツに移ったのは、国民的バンドがミスチルからスピッツに変わったのと同じだ、というのが伏見さんの見立てです。
速水さんは、その本が出たときに朝のラジオ番組に二人を招いたエピソードを明かします。全国放送でおくびにも出さないつもりだったのに、終了後に宇野さんから「ミスチル嫌いだったのバレてた?」と言われたそうです。速水さんは、あの本も宇野さんがミスチルを大好きで書いたのではなく、日本代表を語るうえでミスチルが重要だと結びつけた本だと話します。
好きな対象ではなく「テーマ」で書くとは?
伏見さんは宇野さんの本の話を受けて、書き仕事を続けるうちに、好きな対象について書くことへの興味がどんどん薄れてきたと話します。今は「このアーティストについて書きたい」という気持ちがほとんどないそうです。
伏見さんが今文章を書くのは、これとこれがつながると思えたときです。編集者からお題をもらわない限り、特定の作家のCDや本について自分から書くことはしていないといいます。
書きたいものと本になる対象が一致した、好きなスピッツについて書く
好きな対象ではなく、自分の中でつながりが見えたテーマから書く
速水さんは、書きたいテーマと好きな音楽が乖離していると、モチベーションの問題が生じると指摘します。そして、自分もそういうタイプだと打ち明けました。
音楽ライターではない速水さんが、音楽の本を書くなら絶対にこのアーティストだと思っていたのが、ドリームズ・カム・トゥルーでした。90年代半ば、TSUTAYAなどでレンタルビデオが広まった頃、金曜の夜に恋人の家でデートムービーを見て、翌日にドライブデートをする、その生活の中心にドリカムがあったと速水さんは語ります。
速水さんによると、かつてはユーミンや山下達郎がその役割を担っていたかもしれませんが、ドリカムはもっと大衆性のある音楽でした。それでも、みんなが好きなわりに音楽的にはほとんど評論されていない、と速水さんは見ています。
今みんなさ、藤井風でジャム&ルイスって言ってるけど、歌謡曲におけるジャム&ルイスの影響とかって言われてなかったんだけど、そのブラックミュージックの影響とドリカムっていうのを書きたかったわけよ。
速水さんによれば、中村正人さん本人はアース・ウィンド&ファイアー ── 1970年代を中心に活躍したアメリカのファンク・ソウルバンド。ホーンを生かした華やかなアレンジで知られますの影響を強く語っています。一方で、80年代後半から90年代のジャム&ルイス ── ジミー・ジャムとテリー・ルイスによるアメリカのプロデューサーチーム。ジャネット・ジャクソンなどを手がけました期のR&Bが日本の歌謡曲に与えた影響は見過ごされている気がした、と速水さんは話します。
ただ、速水さんはドリカムが「そこまで好きか」と言われると好きではありませんでした。初めて行ったドリカムのライブは裏ドリカム的な内容で、知らない曲ばかりなのに周りがすごく盛り上がっていたため、自分は素人すぎると思ってやめたそうです。
伏見さんは、ドリカムから少し離したテーマを設定できれば書けそうだと応じ、速水さんも「音楽と切り離さなきゃダメだな」と答えます。
J-POPはブラックミュージックの上に成り立っている?
伏見さんはドリカムの位置づけを、ユーミンの後継者だと考えます。ユーミンが「あなたのお父さんとお母さんのムードを盛り上げたのは私」と語ったという、速水さんの過去の話に近いことを、90年代の吉田美和さんがやっていたのではないか、と伏見さんは話します。
伏見さんはKing Gnuについての記事で、日本のポップスにおけるブラックミュージックの影響の流れを書いたそうです。その流れは、次のように整理できます。
伏見さんの見立てでは、ジャニーズには当時一番売れているブラックミュージックを取り入れる系統があります。そうした流れを追うと、J-POPはずっとブラックミュージックの翻案で成り立ってきた歴史として読める、と伏見さんは話しています。
話が盛り上がったところで前編は終了し、続きは後編に持ち越されました。速水さんは「2026年もよろしくお願いします」と締めくくっています。
まとめ
前編では、伏見瞬さんがYouTubeで足場を築き、会社員との兼業から独立するまでの道のりと、書き手としての関心が「好きな対象」から「テーマ」へ移ってきたことが語られました。話はドリカムを入り口に、J-POPとブラックミュージックの関係へと広がり、後編へ続きます。
- テケシュン音楽情報は2023年10月開始。NUMBER_i「GOAT」回などを弾みに、約2年で登録者約6万5000人に達した
- 伏見さんは副業の月収が会社員の月収を超え、体力の限界も感じたことで独立した
- 最初の本でスピッツを選んだのは、書きたいものと本として成り立つものが一致したから
- 今の伏見さんは、好きな対象ではなく、自分の中でつながりが見えたテーマから書いている
- 伏見さんは、J-POPの歴史をブラックミュージックの翻案の連続として捉えている

