AIの開発者が「今年の人」に選ばれた意味とは?
速水健朗さんはまず、2025年にアメリカのTIME誌が選んだパーソン・オブ・ザ・イヤー ── TIME誌がその年に最も影響を与えた人物や存在を選ぶ企画。かつては「マン・オブ・ザ・イヤー」と呼ばれていましたの話から入ります。選ばれたのは「人工知能の設計者たち」、つまりAIを作っている人たちでした。
速水さんはこの話を、M-1グランプリ決勝で優勝したたくろうの2本目のネタと重ねます。GoogleでAIを開発している「ジェームス」に対し、「Yahooで天気予報を見ているジョージだよ」と返すくだりです。
速水さんによれば、1982年のTIME誌では、人物以外として初めて「The Computer」が選ばれています。当時はまだ「マン・オブ・ザ・イヤー」という名前で、「パーソン」に切り替わったのは90年代後半ごろだといいます。
1982年はディズニーの『トロン』が公開され、CGが本格的に使われた年でもあります。当時は「5、6年以内に労働人口の60パーセントがコンピューターの前で仕事をする」と予測されていましたが、実際にはもっと時間がかかったと速水さんは振り返ります。
速水さんの話では、日本人はAI失業をあまり心配していないそうです。経済学者などから「需要が増えるので仕事も増える」と聞かされているせいもあるのではないか、と速水さんは見ています。
呑気なんですよね。
速水さんは、今回の賞がAIそのものではなく開発者に与えられた点にも注目します。1982年の「The Computer」は「人間に取って代わる」というシャレでしたが、今はそれがシャレにならない状況になっています。だからこそ人間に賞を与えたのではないか、と速水さんは受け止めています。
『パディントン』と間違えた男が観た、不快さの映画
本題は映画『エディントンへようこそ』です。速水さんは今年、劇場で映画をあまり観ておらず、このままではいけないと思って日比谷の映画館に足を運んだといいます。
ところが初日、速水さんは『エディントンへようこそ』を観るつもりで、リバイバル上映中の『パディントン3』のチケットを買っていました。スクリーンは隣同士で、上映時間も近かったそうです。
(現場で)「おー、危ねえな、これパディントン買ってたら」と思って、自分のスマホを見たら「パディントン」って書いてあって、俺はとりあえず初日は『パディントン』を見ました。
改めて観た『エディントンへようこそ』は、AIのデータセンターが進出しようとしている、アメリカ・ニューメキシコ州の小さな町が舞台です。主人公はその町の保安官です。
監督は『ミッドサマー』のアリ・アスター ── アメリカの映画監督。『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』など、観客に強い不安や居心地の悪さを残す作品で知られますです。速水さんは鑑賞後に宇野維正さんの「MOVIE DRIVER」の解説を聞き、アリ・アスターの作家性は「人が不快に思う映画を作ること」だと整理しています。
速水さんによれば、現代のコンテンツは、不快になるとすぐ別のものに移られてしまうため、いかに不快さをなくすかが重視されています。一方で映画館は、一度入ったら途中でなかなか離れられない視聴環境です。
その映画館で、現代最高の映画作家の一人があえて不快なものを作る。速水さんはこの点を、映画に何が求められているのかを考える重要な話だと捉えています。
(映画館で人は)アリアスターを見るんですよっていう話でいうと、僕は行って正解でした。これはね。
速水さんは、観ている最中の違和感や、観た直後の「これどういう話だった?」という混乱もあったと話します。それでも2、3日経つうちに映画の解像度が上がり、ある点に気づいて「ようやく理解したかも」という体験をしているそうです。
マスクとBLMで揺れる、ウイルスが来ていない町
『エディントンへようこそ』の時代設定は2020年5月ごろ、つまりコロナ禍です。速水さんは、コロナ禍は5年前のことで、みんな忘れたことにしているけれど、絶対に忘れていないと話します。
(コロナ禍の亀裂は)友達とか家族でもさ、あるのよ。うちもありますよ。それはその俺、家の中でもマスクつけさせられたからねみたいなこと言い出すとさ。
映画の冒頭付近、マスクをしていない主人公は、スーパーでマスクをつけていないことを責められている老人を助けます。そこから物語が始まります。
この小さな町には、まだコロナウイルスは到達していません。それなのに人々はマスクをつけ、ロックダウンが行われ、疑心暗鬼に陥っています。主人公と同居する妻と義母も、陰謀論のYouTuberにはまっています。
町ではブラック・ライブズ・マターのデモも起きています。ただし町に黒人はあまり多くありません。駆けつけた主人公の同僚の黒人警察官は、黒人が一人もいないデモで「警察を解体せよ」と叫ばれ、「この町で警察で黒人って俺なんだけど」と戸惑います。
速水さんによれば、この映画では自撮りなどスマホの画角が何度も描かれます。町の人々は画面の中で起きていることに強く影響され、目の前のことを見ていない人たちとして描かれているといいます。
主人公は応援できるのか?西部劇を現代に置き換えた構造
スーパーの場面では優しさを見せた主人公ですが、感情移入できる人物かというと、その期待は1時間以内に裏切られると速水さんは話します。主人公は、自分が選ばれると勘違いして市長選に立候補し、現職の市長に挑みます。
現職の市長は、データセンターの誘致を目論み、地元に新しい産業を作ろうとしているヒスパニック系の人物です。この市長と主人公の妻には、17年前に何かしらの関係があったらしいとされています。
主人公はそのことを勝手に憶測し、「市長が妻をレイプした」という話を吹聴します。これは義母が主張していることでもありますが、動画が拡散したことで夫婦の仲は断絶し、主人公は全く応援できない人物になっていきます。
速水さんは、この物語の表面は西部劇だと指摘します。市長は酒場の経営者でもあり、酒場での一悶着が何度も描かれます。主人公は町の治安を守る保安官で、州警察とは立場が違います。
西部劇では町の利権をめぐる争いが定番で、鉄道や石油、金の場合もありますが、最も多いのは牧場の牧草地に必要な水資源の奪い合いだと速水さんは説明します。『エディントンへようこそ』では、大量の冷却水を使うデータセンターがその役割を担っています。
牧場の牛を育てる牧草地のために、水資源を奪い合う
大量の冷却水を使うデータセンターをめぐって、水の利権を争う
速水さんは、こうした置き換えを「いろんなものを丁寧に置き換えている」と評価しています。市長対保安官の選挙戦というドタバタが続きますが、途中から崩れていき、どこまでがドタバタでどこまでがシリアスなのかが明確に分かれないまま進むため、ついていくのが大変なところもあるそうです。
裏側にある女性たちの物語とは?
速水さんは、ここまでの男性原理の西部劇を「表の話」とし、物語の裏側には女性原理の話があると考えています。主人公の保安官を演じるのはホアキン・フェニックス、妻のルイーザを演じるのはエマ・ストーンです。
夫婦は同じベッドで寝ていますが、夫婦の営みは妻のルイーザに拒まれているという設定です。ルイーザは17年前に望まぬ妊娠をしており、それがトラウマになっているようで、母親のドーンとも対立しています。
ルイーザの父親、つまりドーンの夫はすでに亡くなっていますが、保安官でした。主人公はこの家に婿入りし、義父の保安官の仕事を継いでいます。
ドーンにとって亡き夫は、社会が間違っているときに立ち向かえる立派な保安官でした。速水さんは、それが理想化されたアメリカ像のようになっていて、婿の主人公はその像を継げていない、つまり「失われたアメリカ」に見えているのではないかと話します。
一方で速水さんは、この父親こそが娘に暴行を働いていた当の本人で、ろくでもない人物だったのだろうと読んでいます。死んだ父親をめぐって母娘が対立し、市長テッドとの17年前の関係も含めて、町の出来事にはこの母娘が関わっているように見えるといいます。
さらに、白人を罰しようとする過激な運動家として、17、8歳の少女サラが登場します。ブラック・ライブズ・マターのデモの中心にいるのもサラで、同年代の男の子たちはサラに気に入られようとして、運動に加担していきます。
速水さんは、母のドーン、娘のルイーザ、そしてサラという3人の女性が、町の裏側の権力やトラブルの元になっていると見ています。ただし、それを「女性がすべてのトラブルの元」と言うとミソジニー的な読み解きになりかねないとして、あくまで自分の考察だと断っています。
まあこれ僕の考察なのでね、まあ皆さん見て判断してください。
サラは母娘とつながっている?考察の補助線
速水さんの考察の中心は、映画の中で描かれていない一つの仮説です。それは、少女サラとドーン、ルイーザの母娘には血縁関係があるのではないか、というものです。
17、8年前に起きた性暴行と望まぬ妊娠の結果がサラだったと結びつけると、町の構造が見えてくると速水さんは話します。表舞台が男性原理の権力構造なら、裏側には女性たちによる別の構造があるという見方です。
速水さんはこれを「閨房 ── 寝室のこと。転じて、表の場ではなく私的な空間で物事が動く、という意味合いで使われますの政治学」と表現します。中学時代の古文の先生が「君たちにはちょっと早いけど」と言いながら、この字を書いてくれたのを覚えているそうです。
「歴史は夜動く」というとき、料亭の密室での談義を指すこともあれば、大奥のように寝室で起こる政治を指すこともあります。速水さんは、この映画はまさにその話だと見ています。
劇中のドーンは陰謀論界隈のインフルエンサーのような存在です。ルイーザは家を出てカルト宗教にはまり、夫との関係は拒んでいたのに、教祖とおそらくそういう関係になり、妊娠して次世代を作ろうとする様子が描かれます。
市長対保安官の選挙戦。データセンターや水など、希少な資源を奪い合う権力闘争
陰謀論やカルト宗教に託された、物語による支配。17年前の出来事から続く関係
速水さんによれば、男性たちが資源を奪い合うのに対し、女性たちの原理は「もうちょっと物語的な支配」です。具体的には描かれていないものの、カルト宗教や陰謀論に託して、全く違う原理で動いていることが少しずつ示されているといいます。
スマホで人は変わったのか?技術決定論と社会構成論
速水さんは、この映画を観るうえで、スマホ以前と以降の変化はもちろん重要だと認めます。人々がアルゴリズムやアテンション、プラットフォームに抗えなくなって変わってしまった、という見方です。
(この映画の)重要なテーマが、スマホで人はおかしくなってしまったんですって言うと、「うん、じゃあ大した話じゃないじゃん」ってなってしまうと思うんだよね。
速水さんは、スマホが普及して人が変わったという見方は技術決定論 ── 新しい技術の登場が社会や人々の暮らしのあり方を決める、という考え方に寄りすぎていると指摘します。例えば鉄道の登場で郊外に住んで通勤するようになり、貿易が強まり、国力まで変わった、と考えるのが技術決定論です。
これに対して、鉄道以前から資本主義が進み、工場で大量生産された商品を運ぶために鉄道が生まれた、という反論があります。都市に人が増えて交通機関が必要になったことや、馬車で道を切り開く技術がすでにあったことも挙げられます。
先に社会の変化と要請があり、それに応えて技術が普及しただけだという考え方を、速水さんは社会構成論 ── 技術そのものより、先に文化や経済などの社会的な条件があり、それが技術のあり方や普及を形づくる、とする考え方として紹介しています。
スマホが登場して普及したことで、人々は変わってしまった
文化戦争や、ケーブルテレビで家族団らんが失われるなど、80〜90年代に土壌ができていて、そこにスマホが普及しただけ
速水さんは、この2つの見方が映画に重なると考えています。男たちはスマホの時代におかしくなり、データセンター誘致をめぐって権力闘争をしています。その裏で、町には17年前、スマホ以前からトラブルの芽があり、映画はそれを下部構造として描いているという読みです。
速水さんは、この二段構えこそが『エディントンへようこそ』の面白さではないかと話します。そこを補助線として示すことで、映画の見方を補足できるのではないかと考えて話しているそうです。
結局、勝者は誰なのか?そしてパディントンの引用
映画の勝者が誰かについて、速水さんは具体的な名前は伏せます。ただ一つ言えるのは、映画がデータセンターの勝利をはっきり描いていることだといいます。
一方で、女性たちは全員が勝利者として描かれていると速水さんは話します。この構造からも、表の男性原理と裏の女性原理という自分の読みが裏づけられるのではないか、という受け止めです。
これから見る方、誰が勝利した映画なのか、誰が敗れているのかっていうところを、最後にもう一回ちょっと思い出していただければなあという、僕なりの解説でした。
話は間違えて観た『パディントン3』にも戻ります。速水さんが観たのは、クマのパディントンがペルーに行く作品です。
パディントンがパスポート用の証明写真機とやり取りする場面は、速水さんの見立てでは『2001年宇宙の旅』のHALのパロディです。川をさかのぼってアマゾンの奥に自分のルーツを探しに行く筋立ても、『地獄の黙示録』と『2001年宇宙の旅』のパロディだろうと話します。
速水さんにとって『パディントン』は、引用を散りばめた映画好きのための映画でもあります。たまたま間違えたことで両方を観ることになり、「パディントン・エディントン」が今年観た映画の中で印象に残ったといいます。
2025年に劇場で観た映画の振り返り
最後に速水さんは、2025年に劇場で観た映画を振り返ります。挙がったのは『セプテンバー・ファイブ』、新しい『キャプテン・アメリカ』、『28年後...』、『近畿地方のある場所について』、『キムズビデオ』、『劇場版タローマン』、『メガロポリス』、『ワン・バトル・アフター・アナザー』、そして『パディントン』と『エディントンへようこそ』です。
速水さんは合計11作ほどだと話しています。年内にあと何回かポッドキャストを更新する予定で、収録済みのゲスト回もいくつか溜まっているため、追いつけるように頑張りたいとのことです。
まとめ
速水健朗さんは『エディントンへようこそ』を、コロナ禍の町で男たちが資源と権力を奪い合う西部劇として読むだけでなく、その裏で17年前から続く女性たちの物語が町を動かしている映画として捉えました。スマホで人が変わったという技術決定論ではなく、もともとあった土壌に注目する社会構成論の視点が、映画を読み解く補助線になると速水さんは考えています。
- アリ・アスター監督は、すぐに離脱されにくい映画館という場で、あえて観客が不快になる映画を作っている
- 映画の表の構造は、データセンターの冷却水を水資源の争いに置き換えた、市長対保安官の西部劇
- 速水さんは、少女サラと母娘の血縁を仮定すると、女性たちによる「閨房の政治学」という裏の構造が見えると考えている
- スマホを原因とみる技術決定論だけでなく、スマホ以前からの土壌を見る社会構成論で読むと、映画の二段構えがわかる
- 誰が勝者で誰が敗者かを思い出すと、データセンターと女性たちが勝っている構図が浮かび上がる



