六本木のラーメン屋「ぶち」と長渕剛の店員たち
話は十五、六年前にさかのぼります。速水さんは当時、東京の街についての本を書いていて、いろんな街の飲み屋を一人で回っては常連にヒアリングしていたそうです。
ある夜、六本木で終電を逃し、ロアビルの地下にあった深夜営業のラーメン屋に入りました。魚介豚骨のつけ麺ブームの時代で、とりわけ味の濃い店だったと言います。
店に入ると、BGMがずっと長渕剛だったそうです。「乾杯」などが流れ続け、有線の長渕専門チャンネルかと思ったほどだったと話されています。
さらに店員を見ると、全員が長渕の髪型でした。「とんぼ」の頃の伸びた五分刈り、もっと短い髪、後ろが長い「親子ジグザグ」の頃の髪型。時代は違えど、全員が長渕ヘアだったのです。
店名は漢字一文字で「ぶち」。そこでようやく合点がいき、以後よく通うようになったと言います。
乾杯かなんかがかかっていて、あれ、これ有線で長渕専門チャンネルなのかなとか思って、まあずっと長渕がかかってるんですよ。
あるとき思い切って店長らしき人に話しかけると、自分の趣味だと教えてくれました。十五歳で地方から上京し、東京のど真ん中でラーメン屋をやりたかった、という話を聞いた気がすると振り返ります。
ただし速水さん自身、十五年前の記憶なので話が盛られている可能性、あるいは半分は自分の空想かもしれない、と正直に断っています。
自著『ラーメンと愛国』とは何だったのか
速水さんは、2011年に出した『ラーメンと愛国』を自身の主著だと語ります。田原町における『サラダ記念日』のようなもの、というたとえで、この回はその自著解題だと位置づけています。
この本の元ネタになったのが、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』です。ナショナリズム研究では必ず通過する有名な本だと紹介されています。
アンダーソンは、十五世紀に印刷技術が登場したことに注目しました。出版業者はなるべく多くの人に売ろうとし、その過程でみんなが読める標準語のようなものが確立されていきます。
新聞などが一定の広さのエリアで作られると、その範囲の人々に共通の話題や意識が生まれます。これがナショナリズムの最初のあり方だった、というのがアンダーソンの見立てです。
速水さんはこれを「出版資本主義」という言葉で説明します。まず領域があるのではなく、出版が届く範囲がやがて「同じ言語で読み書きできる仲間」になっていく、という順番です。
ここでポイントになるのは、これが権力者ではなく、メディアや資本主義の力が自然発生的に作り出したものだ、という点です。
ラーメンは「出版資本主義」ならぬ「ラーメン資本主義」
速水さんは、このアンダーソンの考え方が日本のラーメンにも当てはまるのではないか、と思いついたと言います。
ラーメンが果たした役割っていうのは、ちょっとベネディクト・アンダーソン的に考えることができるんじゃないかっていうふうに思いついたんですよ。
日本には北海道から九州まで、札幌の味噌ラーメンや九州の豚骨ラーメンなど、ご当地ラーメンが数多くあります。それぞれに歴史や物語があり、地元の人は成り立ちを語れるほど定着しています。
しかし速水さんは、これが「うまくできすぎている」と感じていました。ラーメン自体が明治以降に定着したもので、地域ごとの固有性も近代以前には存在しない、後付けの歴史だと指摘します。
たとえば札幌イコール味噌ラーメンというイメージが定着するのは六十年代以降です。塩や醤油もあるのに、味噌だけが特有の文化としてアピールされ、七十年代には道産子ラーメンのチェーンとともに札幌ラーメンブームが起きました。
その後、喜多方ラーメンのブームやチェーン展開があり、八十年代にはグルメブームでテレビがラーメンを特集します。地域ごとの物語が、こうしてメディアを通じて定着していったのです。
九十年代の頭には、新横浜にラーメン博物館ができます。昭和三十年代のノスタルジーを再現し、屋台や夜鳴きそばといった「日本人の原風景」の中にラーメンを位置づけました。
館内には日本地図があり、地域ごとのラーメンが図解されています。速水さんはこれを「ラーメン資本主義マップ」と呼びます。
一見すると地域の固有性を謳いながら、実際には日本という国がラーメンでつながった一つの共通体験だとアピールするテーマパークだ、というわけです。
だからこそ、アンダーソンのいう「出版資本主義」にあたるものが、日本では「ラーメン資本主義」だった。それがこの本の一番大きなアイデアです。
なぜ「帝国」ではなく「愛国」だったのか
タイトルについても解題があります。『ラーメンと愛国』というタイトルは、当初の担当編集者がつけたものだそうです。
速水さんは『ラーメンと帝国』でも良かったと思う一方で、それでは意味がずれると説明します。帝国にすると、明治の近代国家が意図的にラーメン資本主義を作ったかのように聞こえてしまうからです。
資本主義っていうのは国が作るのではなくて、まあ市場とか、民間から生まれてくるもの。
アンダーソンのナショナリズム研究が自然発生的なものを扱うように、ラーメンもまた誰かがコントロールしたのではなく、不自然ながらも自然に生まれてきたジャンルです。そこが面白いのだ、と語られます。
本ではさらに細かい話にも触れています。ラーメンの丼の中華マークや赤い暖簾、来来軒のような中国風の名前は、必ずしも中国の移民文化ではなく、中国を真似して作った文化だという指摘です。
それがある時期からテーマカラーが紺や黒になり、手書きメニューや作務衣、タオルを巻いた店主というスタイルに変わっていきます。それがいつからなのか、という素朴な疑問も出発点のひとつだったそうです。
国民的ドラマに描かれたラーメン
速水さんは、国民的ドラマがしばしば国民的体験としてラーメンを描いてきた点にも注目します。
たとえば『北の国から』の田中邦衛の名台詞「まだ子供が食べてるでしょうが」。あの場面がなぜラーメン屋でなければならなかったのか、という分析です。
『渡る世間は鬼ばかり』の「幸楽」も、中華系の移民ではない夫婦が町中華を営む設定です。町中華がどんな歴史を背負ってきたか、という切り口も面白いと語ります。
山田太一の『ふぞろいの林檎たち』では、柳沢慎吾の役の実家がラーメン屋でした。続編では跡を継ぎながらも経営が難しくなっていく様子が描かれます。
一方で中井貴一の役の実家は酒屋で、続編ではコンビニに変わっています。速水さんは、八十年代が個人経営からチェーン店へと移り変わる時期だったと指摘し、ラーメン屋とコンビニを対比的に読み解きます。
ここから漏れた話、長渕剛と『親子ゲーム』
ここからが、本には書かなかった話です。速水さんが中学時代、1986年に長渕剛主演の『親子ゲーム』というドラマシリーズがありました。
『親子ジグザグ』『親子ゲーム』など似た設定のシリーズで、志穂美悦子と長渕剛が夫婦役を演じます。子供のいない二人が、店に置いていかれた子供を育てるという疑似家族の物語でした。
トレンディドラマ全盛の時代に、下町で地に足をつけて生きる疑似家族を描いた下町コメディ。速水さんはこのシリーズが大好きで、クラスの男の子もみんな見ていたと振り返ります。
当時の長渕剛は、後の「ビッグボス」とはまるで違い、へなちょこで軽薄、決してかっこよくない主人公でした。それでもたまに情熱や熱さを見せる、その匙加減が魅力だったと言います。
『とんぼ』での大転換と長渕剛が背負ったもの
転機は『とんぼ』です。同じ制作スタッフの座組で、長渕剛が急にシリアスなヤクザの若頭を演じます。
この頃から役作りに長渕本人の色が強く出てきて、チンピラではなく「ビッグボス感」が現れます。ここから『JEEP』までは一直線だった、と語られます。
ほのぼのしたコメディが好きだったファンには戸惑いもありましたが、それ以上に新しいファンを獲得し、歌手としても二段階ほど上に行ったと言います。
速水さんは、長渕剛が背負っていたものを「上京」や「成り上がり」だと読み解きます。地方出身者が花の都・東京を目指す物語は、北島三郎や矢沢永吉にも通じるものです。
なかでも矢沢永吉は、リーゼントにサングラス、オートバイというロッカーズのファッションを含め、カリスマ的な存在でした。ラーメン屋の店主にも、矢沢に憧れて上京し店を持った人が多いと言います。
目の前で長渕剛が『親子ゲーム』から『とんぼ』へとクラスチェンジする瞬間を、速水さんの世代は目の当たりにしました。とんぼになぞらえれば、幼虫からトンボへの孵化のような大転換です。
矢沢に憧れて上京しても、必ずしもロックスターになれるわけではありません。なれなかったけれど矢沢的な心を抱いたまま下町で生きる、『親子ゲーム』の長渕剛。そこに魅力があった、と語られます。
長渕剛が影響を受けた金子正次と映画『竜二』
『とんぼ』でヤクザを演じた長渕剛が明らかに影響を受けていたのは、金子正次だと速水さんは指摘します。{要確認: 書き起こしでは「金子昇次」「金子昇」と表記}
金子正次は1983年に亡くなった俳優です。唯一の主演作『竜二』は、ほぼ自主制作で、自ら脚本を書き、監督は盟友の川島透に任せた作品でした。
カタギになりたくてもなれない若いヤクザというキャラクターを、自ら作り出して自ら演じた唯一無二の存在です。『とんぼ』の長渕剛はこれにかなり影響を受けている、と語られます。
長渕には歌の「勇次」があり、『親子ジグザグ』の役名も下別府勇次でした。速水さんは、この「勇次」と映画の「竜二」が重なっているのではないかと推測します。
『親子ゲーム』のような下町の軽薄で人間味あるキャラクター
『とんぼ』以降のシリアスなヤクザ、ビッグボス的な存在感
速水さんは、長渕剛の中にはラーメン屋的なものと竜二的・勇次的なものの二面性があり、立場が大きくなるほど後者が膨らんでいったと見立てます。
話はさらに広がります。『竜二』の監督・川島透は速水さんが一番好きな映画監督で、続編にあたる『チンピラ』ではジョニー大倉と柴田恭兵がヤクザを演じました。
速水さんは、柴田恭兵の『あぶない刑事』のキャラクターにも『チンピラ』の頃の竜二を引きずるものがあると指摘します。ハードボイルドの裏にある軽薄さ、当時いう「C調」が、最もポピュラーに伝わったのが長渕剛のキャラクターを通してだった、というわけです。
さらに『竜二』は一時、松田優作主演で映画化が決まりかけた話もあり、金子正次と松田優作は親友同士でした。登場人物が入り乱れ、ラーメンの話が三十分の脱線になってしまった、と本人も笑っています。
川島透が『チンピラ』の後に撮った続編『ハワイアン・ドリーム』は、速水さんのマイフェイバリットムービーです。配信もブルーレイもなく過小評価されているとして、別途ポッドキャストで語り直したいと締めくくっています。
まとめ
『想像の共同体』の出版資本主義を下敷きに、ラーメンがいかに国民的な共通体験として作られてきたかを解題し、その延長線上で長渕剛という存在がなぜ世代の心をつかんだのかまでを一気に語った回でした。
- ラーメンの地域性は自然発生的に作られた「ラーメン資本主義」であり、新横浜ラーメン博物館はそれを体現する「ラーメン国家」のテーマパークだと speaker1 は読み解きます。
- 『ラーメンと愛国』が「帝国」ではなく「愛国」なのは、ラーメンが国家主導ではなく民間から自然に生まれたことを示すためでした。
- 『親子ゲーム』の軽薄な長渕剛から『とんぼ』のビッグボスへの転換は、八十年代にアップデートされた「矢沢永吉像」であり、成り上がりの共通体験だったと語られます。
- 『とんぼ』の長渕剛は金子正次の映画『竜二』に強く影響を受けており、歌の「勇次」と映画の「竜二」が重なっていると speaker1 は推測しています。
