なぜサトシ・ナカモトは「最も有名な匿名の人」なのか
この回の速水健朗さんのテーマは「有名性と匿名性」です。入り口は、ビットコインの発明者とされるサトシ・ナカモトの正体をめぐる本、ベンジャミン・ウォレス著『サトシ・ナカモトはだれだ?』でした。
速水さんはまず、ネット上の謎の音源を有志が何年もかけて突き止める「ロストウェーブ」を例に挙げます。正体探しが最終的に決着する話は珍しくありません。それに対してサトシ・ナカモトの正体は、今もまったくたどり着けていないといいます。
サトシ・ナカモトは性別も国籍も年齢も不明のまま、蒸発に等しい形で姿を消しました。2025年現在も正体はわかっていません。
ビットコインの始まりは2008年です。リバタリアン ── 個人の自由を最大限に重んじ、政府の介入をできるだけ小さくすべきだと考える政治思想の持ち主。経済や技術の分野にも支持者が多い立場ですのプログラマーたちが匿名でやり取りするメーリングリストに、サトシ・ナカモトが投稿したことがきっかけでした。
サトシ・ナカモトは初期のオープンソース開発や運営に積極的に関わり、ほかのメンバーとも連絡を取っていました。ただし、その姿を見た人は誰もいないといいます。
上の年表のとおり、サトシ・ナカモトは数年で表舞台から去りました。速水さんによると、本人は最初から謎めいた人物として振る舞っていたわけではありません。むしろ「正体不明の人物」として広めないでほしいと、メンバーに伝えていたそうです。
それでも速水さんは、この経緯を「出来すぎた話」だと見ています。ビットコインは政府や中央銀行と結びつかない、中心のない通貨として設計されました。しかし、プログラムを書いた本人がいれば、その人が特権的な中心になってしまいます。
その中心になり得るサトシ・ナカモトっていう存在が姿を消したっていうのは、ちょっとこれ出来すぎた話っていうか、ビットコインの普及にはこの匿名性っていうのは欠かせなかったわけ。
謎が多いほど、サトシ・ナカモトの伝説は迫力を増し、熱心なフォロワーを生みます。そして『サトシ・ナカモトはだれだ?』の中では、匿名性を武器にした存在として、作家トマス・ピンチョンの名前が挙がっています。
覆面作家トマス・ピンチョンの16年の沈黙
トマス・ピンチョンはアメリカの小説家です。代表作は1973年の難解で分厚い長編『重力の虹』で、インタビューや写真、活動内容を出さない覆面作家として知られてきました。今も存命です。
速水さんはピンチョンを、ポストモダン文学 ── 20世紀後半に広がった、断片的な構成や複雑な語りで従来の物語の約束事を崩す文学の潮流。難解な作品が多いとされますの作家として紹介します。同じ流れの作家として、ジョン・バースやリチャード・ブローティガンの名前を思い出そうとする場面もありました。
こうしたアメリカの作家は、村上春樹の影響もあって1980〜90年代の日本でよく読まれました。その後、急に取り上げられなくなった人が多い中で、ピンチョンは別格で、忘れられていない作家だと速水さんは話します。
『重力の虹』のあと、ピンチョンは短編こそ出したものの、16年間表に姿を現しませんでした。そして1990年、突然大長編『ヴァインランド』を発表します。
これ(『重力の虹』と『ヴァインランド』)は僕はどっちも正直挫折してます。それでもまだ読もうとしていたっていうね。
速水さんにとってピンチョンは、「絶対読んでおかなきゃいけない作家」の代表であり、同時に「みんな挫折する作家」の代表でもあったようです。
速水さんは、この「16年間」を覚えておいてほしいと念を押します。ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』の主人公も、16年間地下に潜伏している革命活動家だからです。
レオナルド・ディカプリオが主演するこの映画は、クレジット上は原作扱いではありません。それでも、時代やプロットを変えた『ヴァインランド』の翻案であることは確かだと速水さんは言います。アンダーソン監督は以前にもピンチョンの『インヒアレント・ヴァイス』を映画化しています。
同じ作家を何度も映画にする監督は、複数の作品を合体させることがよくあります。速水さんは、映画の「16年」にはピンチョンの沈黙期間が重ねられているのではないか、さらに別のピンチョン作品も取り込まれているのではないかと考えながら観たそうです。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』はどんな逃亡劇なのか
映画でディカプリオが演じるのは、極左テロリストグループのメンバーです。恋人役はテヤナ・テイラーで、二人は組織の一員として難民収容所や銀行を襲い、送電線の施設も破壊します。
恋人は妊娠してお腹が大きくなっても、前線でライフルを撃ちまくるほど過激な活動家です。出産後も子育ては革命の邪魔だとして興味を示しません。一方でディカプリオ演じる主人公は活動に迷いがあったのか、子育てに邁進し、二人の方向性の違いが表に出ます。
その後、恋人は銀行襲撃のあとに捕まり、グループの情報をすべて漏らしてしまいます。組織から見れば裏切り者です。主人公のほうは逃亡し、16年間娘を育てる子煩悩な父親になります。ここまでが序盤です。
二人が属していたグループの名前は「フレンチ75」です。主人公の逃亡生活では、この組織が資金面の面倒を見たり、偽のIDを用意したりして支えています。
極左グループ「フレンチ75」のメンバーとして、収容所や銀行、送電施設を襲うテロリスト
娘にスマホを持たせない、頑固で機械音痴の「普通のリベラルパパ」
上の図のように、16年後の主人公にはテロリストの面影がまったく残っていません。速水さんはこの姿を、左翼パパにありがちなパターンだと笑いながら紹介します。
主人公が娘にスマホを持たせないのには理由があります。娘には逃亡中であることを伝えてあり、警察や軍による傍受を警戒しているのです。主人公自身も、傍受されない特別な古い携帯を使っています。
(主人公の携帯は)浅野温子とかがトレンディードラマの時代に持ってたような巨大なバカでかい携帯電話で。
この携帯はバッテリーがすぐ切れるため、主人公は充電できる場所を探しながら逃げることになります。速水さんは、その様子が面白おかしい逃亡コメディになっていると話します。
ピンチョン作品に潜む監視と地下ネットワーク
速水さんによると、映画に出てくる携帯電話や送電線襲撃といったモチーフは、ピンチョン作品、とくに『ヴァインランド』と重なります。
『ヴァインランド』は、1960年代のカウンターカルチャー ── 既存の体制や主流文化に対抗する若者文化。アメリカでは1960年代の反戦運動やヒッピー文化などが代表例ですが権力に骨抜きにされた1980年代を舞台にした物語です。テレビと電話が重要な役割を果たし、国家が電話を通じて盗聴する監視社会がピンチョンのテーマになっているといいます。
映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』でも、ネットワークや暗号を使った通信が繰り返し描かれます。速水さんは、アンダーソン監督が『ヴァインランド』以外のピンチョン作品も参照している可能性を指摘します。
その候補が、1960年代に書かれた『競売ナンバー49の叫び』です。1980〜90年代の日本の書店では、ピンチョン作品の中で最も手に入れやすく、読みやすい作品として流通していたそうです。速水さんは新訳版を最近手に入れたものの、まだ読めていないと話しています。
『競売ナンバー49の叫び』は陰謀論をめぐる物語です。神聖ローマ帝国の時代から、表の歴史に出てこない反体制勢力のネットワークが存在したという話で、主人公は切手をきっかけに「地下郵便」という組織の存在を知り、その歴史を調べ始めます。
地下郵便って明らかに、ワン・バトル・アフター・アナザーで出てくるフレンチ75っていう組織とかが、そのネットワーク型の反政府組織みたいなものの原型になっていると思うんですよね。
暗号通貨と映画の「合言葉」はどうつながるのか
社会の裏側にある反政府組織は、陰謀論と強く結びついています。速水さんは、ピンチョンが1960年代の時点でこのテーマを扱っていたことを確認したうえで、話をサトシ・ナカモトの本に戻します。
『サトシ・ナカモトはだれだ?』でも、反体制とネットワークは重要なテーマです。たとえば、FBIが自ら開発した暗号化携帯電話が、かえって犯罪組織に使われてしまったという話が出てくるといいます。
暗号通貨は、そもそも政府のあり方と相反する存在です。そのため、政府に縛られないことを目指すリバタリアンやアナキズムといった思想、つまりカウンターカルチャーと結びつきやすいと速水さんは説明します。
政府がいらない
リバタリアンよりさらに急進的な「暗号無政府主義」の考え方
国家に紐付かない通貨
政府なしの世界を実現するには、特定の国に依存しない通貨が必要になる
取引から税を徴収
通貨のやり取りから一定数を税として集め、分配して世界を作る
ビットコインの誕生
こうした理想論がなければビットコインは生まれていない
上の流れは、本の中で紹介されている理想論を速水さんが整理したものです。だからこそ「仮想通貨」より「暗号通貨(クリプトカレンシー)」という呼び方が本来ふさわしい、と速水さんは言います。日本では仮想通貨という言葉が先に広まりました。
映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』でも、暗号が鍵になります。さらわれた娘が組織に保護されているとわかり、主人公は久しぶりに組織へ電話をかけますが、相手から「今何時だ?」と問われ、合言葉で答えなければなりません。
ところが、16年間組織と距離を置いていた主人公は、その合言葉を忘れています。合言葉は、組織の理念を記したマニュアルのような文書に書かれた基本中の基本です。娘の合流場所を知りたい主人公と、合言葉を求める組織とのやり取りが延々と続きます。
ここが映画の一番重要な場面です。なので、暗号化されたっていうか、合言葉化されたパスワードに接続できない元左翼活動家の話。
速水さんは、サトシ・ナカモトがコピーや偽造のできない秘密鍵の仕組みを発明したことと、この場面を重ねます。プログラムコードと反政府的なネットワークの共通点こそが、この回の核心です。
速水さんは、この発想を自分で思いついたというより、ウォレスの本を読むとたどり着かざるを得ない話だと言います。本の翻訳が出たのは9月末、映画の公開は10月3日ごろで、タイミングも重なりました。
ポール・トーマス・アンダーソンってこの本読んだ、もしくはサトシ・ナカモトを意識して、意図してピンチョンの話を現代に置き換えたのかなっていう、思わざるを得ないぐらい共通する符合が多すぎるっていうね。
ピンチョンもサトシも「正体は誰か」と囁かれる
トマス・ピンチョンの写真として出回っているのは、1955年ごろの海軍時代のものです。速水さんはWikipediaを見ながら、その写真が本物かどうかも判別がつかないと話します。
ピンチョンは1937年生まれで、88歳です。そのため「サトシ・ナカモトはピンチョンである」という陰謀論には無理がある、と速水さんは言います。
一方で、サトシ・ナカモトは若くないという説もあります。LinuxではなくWindowsの開発環境に関わっていたのではないかという証言から、そこそこ年配ではないかと見られているそうです。本の中では、思想やコードの書き方、使うプログラミング言語が似ているというイーロン・マスク説も、ジャブのように紹介されています。
ピンチョンにも、正体をめぐる説がたくさんありました。速水さんが知っているのは、初期にあった「J・D・サリンジャーの変名ではないか」という説です。
サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の作者として神格化され、表にほとんど出ず、引きこもって暮らしたことで伝説化した作家です。ただし、後年には娘などを通じて私生活が明らかになっていきました。
速水さんが思い出したのは、ティーンエイジャーになったサリンジャーの娘が、友達に誘われてウッドストックに行きたいと父に相談したという話です。娘を育てる父という点で、『ワン・バトル・アフター・アナザー』とも重なります。
速水さんはうろ覚えで出典もすぐには見つからないと断ったうえで、1919年生まれで当時50歳近かったサリンジャーは、娘のウッドストック行きを快く思わなかったと記憶していると話します。
人は年を取ると保守化もするしっていうね、永遠の子供ではなくなるっていう。
パスワードを失えば人生が詰む時代
最後に速水さんは、暗号とパスワードの話を自分の生活に引き寄せます。今の世界はパスワードなしには生きていけず、さらにパスワードから「パスキー」への転換期にもあるといいます。
速水さんは複数のメールアドレスを使い、iPhone、Googleのスマホ、ノートパソコンも使い分けています。そのため、パスキーではかえって混乱すると話します。
自分が持っていない機種と紐付けるよう求められ、承認できなくなる
長くないと突破されるうえ、ブラウザ管理に頼ると端末ごとに環境が違ってしまう
どちらを選んでも、複数の機器を使う人は「いろんな意味で詰む」と速水さんは言います。16年潜伏していた映画の主人公でなくても、パスワード社会は生きにくいのではないかという問いかけです。
速水さんは、自分が持っているパスワードは50個ほどだろうと見積もります。ビットコインの世界でも、パスワードを忘れたことで何千万円も失った話はいくらでもあるといいます。
締めくくりに速水さんは、『サトシ・ナカモトはだれだ?』の訳者である小林啓倫さんにも触れます。小林さんは『テトリス・エフェクト』などテクノロジー関連の良書を多く訳しており、速水さんが新刊を一番チェックしている翻訳者だそうです。
まとめ
速水健朗さんは、サトシ・ナカモトの匿名性を入り口に、ピンチョン作品と映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』に共通する暗号・反体制・ネットワークのモチーフをたどりました。最後は、パスワードなしでは暮らせない現代社会の危うさへと話が着地します。
- サトシ・ナカモトが姿を消したことは、中心のない通貨であるビットコインの普及にとって「出来すぎた」ほど都合がよかった
- 映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』は『ヴァインランド』の翻案で、主人公の16年の潜伏にはピンチョンの沈黙期間が重なると速水さんは見ている
- 『競売ナンバー49の叫び』の地下郵便は、映画の組織フレンチ75のようなネットワーク型反政府組織の原型と考えられる
- 暗号通貨の背景には暗号無政府主義の理想論があり、秘密鍵と映画の合言葉の場面には共通点がある
- パスワードやパスキーを失うことは、現代では人生が詰むほどのリスクになりうる



