恵比寿で過ごした自然豊かな少年時代
渋谷区恵比寿生まれと聞くと、都会的で洗練された環境を想像する人が多いかもしれません。しかし川邊さんが語る幼少期の風景は、意外にも「自然の中で育った」というものでした。
幼稚園は広尾の有栖川公園東京都港区南麻布にある都立公園。緑豊かで池や渓流があり、都心の貴重な自然空間として知られる。の目の前にあり、放課後も公園で遊び続ける日々。父親に連れられて行った東京湾の釣りも、当時はまだ芦原だったお台場周辺が舞台でした。
恵比寿という街自体も、今とはまったく違う表情をしていました。現在の恵比寿ガーデンプレイス1994年に開業した複合商業施設。サッポロビール恵比寿工場跡地に建設された。が建つ場所は、かつてサッポロビールの工場。夕方になるとホップの香りが街に漂い、東口には屋台が並び、仕事を終えた工場労働者が酔っ払っているという、現在の「大人な街」とはかけ離れた風景がそこにありました。
ビールのホップ臭さと屋台と酔っ払っているおじさんたちみたいな印象が、なんか幼少の頃はあって。
祖父が持ち帰った一台のパソコン
川邊家は事業家の家系でした。父親はバス会社の経営者、母方の祖父は自動車学校・タクシー会社・不動産業を営む経営者で、母親もその事業を継いでいます。同じ敷地内に住んでいた母方の祖父からの影響は、特に強かったと言います。
小学校3年生か4年生の頃、その祖父が会社からPC-8001NECが1979年に発売した8ビットパソコン。日本のパーソナルコンピューター黎明期を代表する機種で、多くのユーザーが最初に触れた一台となった。を持ち帰ってきました。OA化の時代、会社にコンピューターを一台入れようという流れの中で生まれた偶然です。
使いこなせなければ宝の持ち腐れになる──そう考えた祖父は、フジテレビが主催していた小学生向けのコンピューターキャンプに孫を送り込みます。プログラミングへの興味が先にあったわけではなく、突然パソコンが目の前に現れた、というのが正しい順番でした。
プログラミング自体は特別面白いとは思わなかったものの、その後もなんとなくパソコンを触り続けたのは、祖父のこの言葉が頭に残っていたからだと川邊さんは振り返ります。モータリゼーションで成功した経営者が、次の時代の波を孫に託した瞬間でした。
親友・清水君との時間とゲーム漬けの日々
釣り、昆虫採集、仲間と徒党を組んで遊ぶ──幼少期の川邊少年が好きだったものは、今の姿とそう変わらないと本人は言います。そんな中で出会ったのが、後に電脳隊川邊健太郎が大学時代に立ち上げたインターネット関連企業。後にヤフー(現LINEヤフー)と関わる重要な出発点となる。の創業を支えることになる親友・清水君でした。
小学校3年生から中学1年生まで同じクラス。スポーツ(ラグビー)も勉強もでき、理系の素養を持っていた清水君は、パソコンへの取り組みでも川邊さんの一歩先を行っていました。
PC-8001、PC-8801mkⅡあたりで止まっている。プログラミングも触る程度。
PC-9801に移行済み。プログラミングもこなし、シミュレーションゲームもプレイ。
新宿の大きな地主の息子だった清水君の家には、当時最新鋭のPC-9801がありました。川邊少年は「信長の野望コーエー(現コーエーテクモゲームス)が1983年から展開する歴史シミュレーションゲームシリーズ。戦国時代を舞台に大名となって天下統一を目指す。をやりに行こう」と通い続け、その関係性はそのまま大学生時代、そして起業の時期まで続いていきます。
なんか唯一悪いことをしなくて、ずっと仲良かった友達って感じです。
電脳隊立ち上げの軍資金は、川邊さん自身が出したお金と、清水君の母親が出してくれたお金から始まりました。少年時代のゲーム仲間が、そのまま事業の最初の出資者へと続いていく。物語の伏線は、すでにこの時期から張られていたわけです。
麻布十番で出会ったサンバの熱
1980年代後半から90年代前半、青学の下からの学生たちには定番のイベントがいくつかありました。代官山のハロウィン仮装行列、青学内のクリスマス点火祭、そして麻布十番の納涼大会です。
大学2年生で結成した「青山サンバ隊」は、5〜60人規模の大所帯。なぜサンバにそこまで惹かれたのか。その答えは、一緒に参加した1学年下の女の子の一言に集約されていました。
そしてサンバ隊の運営を通して、川邊さんは別の重要な経験も積んでいました。それが「プロデュースの面白さと、その手練手管」。後の事業家としての素地が、ここで育まれていきます。
1995年、リアリティが揺らいだ年
大学2年生から3年生になる節目の1995年。日本を揺るがす2つの大事件が、わずか2ヶ月の間に立て続けに起こります。
地震当日、川邊さんは厚木の大学で試験を受けていました。帰路、上り線から見た下り線は、自衛隊車両を含む緊急車両が大移動する異様な光景。家に帰ってテレビをつけて、初めて事態の深刻さを知ります。
学生たちはこぞってボランティアに向かいました。川邊さん自身もVネット(ボランティアネット)の存在を知り、行かなければと感じていたものの、当時アルバイトをしていた恵比寿ガーデンプレイスの蔦屋TSUTAYA。当時の蔦屋恵比寿ガーデンプレイス店では、商品知識をつけるためにスタッフは無料でビデオを借りることができた。を優先してしまい、結局現地には行かなかった、と振り返ります。
そして2ヶ月後の3月20日、地下鉄サリン事件。映画を見て寝ていた川邊さんは、ヘリコプターの音で目を覚まします。テレビに映ったのは、霞が関で大勢の人が倒れる映像。野次馬根性で恵比寿駅まで見に行くと、防護服を着た人々が日比谷線の地下へ続々と入っていく光景がそこにありました。
価値観の半分はフジテレビ、半分は少年ジャンプ。やってることはファミコン。テレビが報道する世界が「現実」だった。
日々のニュースと目の前の日常のギャップがありすぎて、リアリティが喪失。「死」が初めて身近になり、「何かしなきゃ」と強く感じるようになる。
インターネットとアンダーグラウンドの交差点
当時、世の中の情報源はまだテレビが圧倒的でした。一方で新聞には「インターネット」という言葉が頻出するようになっていきます。川邊さん自身は、清水君のお兄さんがSFC(湘南藤沢キャンパス)の大学院でインターネットを使い放題と聞いて触り始め、メールやパソコン通信のニフティサーブを少々使う程度でした。
そんな中、インターネットを「実用的に使われているもの」として強く意識した経験が2つありました。
①Vネット
阪神大震災のボランティア募集を、SFCが立ち上げたインターネットサービスで管理。「インターネットが何かやってんな」と初めて実感する経験。
②オウム真理教のウェブサイト
資金源として安価なDOS/Vパソコン「マハーポーシャ」を販売、自分たちの正当性をウェブで主張。アンダーグラウンドとしてのインターネット。
パソコンを買おうとしてマハーポーシャに足を運んだ川邊さんは、店内に流れる宗教音楽の不気味さを感じ取り、結局、秋葉原のラオックスコンピューター館秋葉原電気街にあった、パソコン専門のラオックス。1990年代のパソコン購入の代表的な場所だった。でDellマイケル・デルが創業したパソコンメーカー。電話やインターネットでの直販モデルで間接費を抑え、後に世界最大級のパソコンメーカーに成長した。のパソコンを購入します。
当時の川邊さんの目に映っていたのは、テレビが報道する「メジャーな世界」と、インターネット・コンピューター・オウム・震災といった「アンダーグラウンドな世界」が並列で存在する風景でした。
あれからまさに30年経って完全に逆転しましたよね。SNSみたいなアンダーグラウンドっぽいものが摂取する主な材料になって、マスメディアのファクトが確定した情報っていうのは、今やもうマイノリティになりつつある。
1995年当時はアンダーグラウンドだったインターネット文化が、30年後にメインストリームに躍り出る。その地殻変動の最初の震源を、川邊さんは大学生として恵比寿の自室で、そして秋葉原の電気街で目撃していたわけです。
まとめ
恵比寿の自然と工場、祖父が持ち帰った一台のパソコン、麻布十番で出会ったサンバ、そして1995年に揺らいだリアリティ──それぞれは別々の出来事のようでありながら、すべてが後の川邊健太郎を形作る要素として連なっています。
「血が騒ぐ」サンバの熱と、祖父が指し示した「お前の時代はこれ」というインターネットの予感。この2つの熱に当てられた大学生時代を経て、川邊さんはやがて電脳隊の起業へと向かっていきます。次回の特別編もお楽しみに。
- 川邊健太郎の幼少期は、恵比寿という都心ながらも有栖川公園や東京湾の釣り、サッポロビール工場のホップの香りに囲まれた、自然と昭和の労働文化が共存する環境だった
- 小学校3〜4年生の頃、経営者だった祖父がPC-8001を持ち帰り「お前の時代はこれ」と告げたことが、その後パソコンを触り続ける原動力となった
- 親友・清水君との関係は小学校時代のゲーム仲間から始まり、後の電脳隊創業時の出資へと続いていく
- 麻布十番納涼祭りで出会ったサンバの熱が「血が騒ぐ」原体験となり、青山サンバ隊の運営を通じてプロデュースの面白さを学んだ
- 1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件によってリアリティが揺らぎ、「何かしなきゃ」という強い感覚を持つようになった
- 当時アンダーグラウンドだったインターネット・コンピューター文化が、30年後にメインストリームに逆転するという地殻変動の最初の震源を、学生時代に目撃していた
