ジュリアードは「監獄」──練習室の争奪戦とインプットの大切さ
ジュリアードでの学びは、楽器別に決められた完全なレッスン制でした。音楽史や音楽理論の授業もありますが、中心はオーケストラ、弦楽四重奏、個人レッスン、そしてリハーサルです。
夜12時まで練習室が開いてるんですけど、それでも取り合いなんです。学生証をピッとやったら空いてる部屋が出てくるシステムなんですけど、満杯の時は3秒ごとにやって、出てこないかってずっとみんなでやってるんです。
その貪欲さは、多くの学生がプロを前提に立っているからでした。ジュリアードは学生から「JAIL(監獄)」と自虐的に呼ばれるほど、練習中心の環境だったと話されています。
一方で、同じ門下の上手な男の子は、意外なことを語ったといいます。
どれぐらい練習してるの?って聞いたら、毎日必ずセントラルパークを歩くか、美術館に行くようにしてるんだよねって言うんですよ。8時間とか言うかと思いきや、そういうインプットを大事にしてるって言われて。
練習漬けになりやすい環境の中で、表現力の幅を広げるためにインプットを意識する姿勢が印象に残ったようです。学校はリンカーンセンターの中心にあり、オペラやニューヨークフィルなどが徒歩圏内で、学生チケットも安く手に入る恵まれた環境でした。
卒業とその後──フリーランスと自分の会社
卒業には合否ではなく、卒業リサイタルがありました。廣津留さんの代からは、ステージ上でのプレゼンが必須になったといいます。
なんでその日にそのプログラムを選んだのかとか、自分のストーリーを伝えることがいかに大事かみたいなのを結構言われるようになって。
袖から出てきて無言で演奏して帰る、というスタイルから、自分のストーリーを語る方向へ。ジュリアードは音楽業界のそうしたトレンドを早くに取り入れるタイプだったと話されています。
卒業後は、フルタイムでの就職ができないビザの事情もあり、ビザを延長したうえでフリーランスとして活動を始めます。さらに自分で会社を立ち上げました。
音楽ばっかりやってて、自分のマーケティングのやり方がわからない人も多いので、アーティストサポートみたいなのができたらいいなと。SNSの運用の仕方をアドバイスしたり、ゲーム音楽の作曲の依頼もいただいてたので、それを会社としてやっていました。
オーケストラを選ばなかった理由
多くのジュリアード生がオーケストラ入団を目標にする中、廣津留さんはそこに目標を置いていませんでした。近年は安定志向からオーケストラ志望が増えているといいます。
オーケストラの入団試験では、曲の一部の小節だけを繰り返し練習することになります。先生たちもそれに嫌気が差しているという話も出ました。
先生方も、またそこの引用かって。ちゃんとした曲を教えたいのに、引用の10小節をいろんなとこでやるんじゃなくてっていうのは、先生方の悩みとしてあるって。
廣津留さん自身は、人と揃えて弾くことがそれほど得意ではなく、我流のスタイルが合っていると感じていました。ソリストは狭き門でもありますが、オーケストラという選択肢は最初からなかったようです。
NYでの“遊びのような挑戦”
フリーで活動する中で、ニューヨークという場所ならではのコラボが次々と生まれました。アルゼンチンタンゴを始めたり、現地に住むアルゼンチン人やウルグアイ人とセッションしたりしたといいます。
ジュリアード時代のジャズ仲間とセッションしてYouTubeを撮ることもありました。仕事というより、楽しい遊びだったと振り返ります。
多様な人がいるニューヨークの環境が最高だったと語り、今も恋しく感じているそうです。ジュリアードには2年、卒業後は4年ニューヨークで過ごし、コロナ禍で帰国することになりました。
コロナ禍の帰国とリモート引っ越し
帰国のきっかけは、3月に予定されていた日本での公演でした。当時、JFK空港がクローズするかもしれないと言われていた頃です。とりあえず公演のために日本へ戻ったところ、ニューヨークに戻れなくなってしまいました。
家賃がもったいないため、リモートで引っ越しを進めることに。友達を雇い、ZOOMで室内を見ながら片づけを進めたといいます。
スプレッドシートを作って、これは必要なもの、これは箱に入れる、これはいらないから捨てるみたいなのを作って、友達を3、4人雇って、ZOOMで見ながら、それ箱、それゴミって。
帰国後はしばらく大分で過ごし、河川敷を散歩する日々に。仕事もなく、演奏動画を作ったり、スイッチを手に入れて「あつまれ どうぶつの森」に集中したりしていました。
スイッチをゲットして、ついに集中できる時が来て。
東京への拠点移しと活動の広がり
大分での生活に飽き、2021年の頭に当てもなく東京へ引っ越します。すると、東京にいることを知った人たちから仕事の声がかかるようになりました。
大学2つでの講義、コメンテーターの仕事、そして演奏の仕事が増えていきました。今の活動の動きは、コロナ以降に作られていったものだと話されています。
大学の仕事やコメンテーターの仕事は全然プランになかったんですけど、楽しそうだなと思ったらやってみるタイプなので、やってみたら合うと。
秋田の国際教養大学では、キャンパスもすべて英語という環境で、バイオリンアンサンブルと「マクロ音楽学」という座学を担当しています。
音楽かける教育、音楽かけるスポーツ、音楽かける脳とか、毎週違うトピックで音楽をいろんな分野を通してみるっていう科目です。
テレビ生放送で鍛えられたコメント力
コメンテーターの仕事は、テレビ朝日の「モーニングショー」で金曜レギュラーを4年間務めました。始まりはコロナ禍で、最初はスタジオに入れずブースからのリモート出演だったといいます。
当初は、翌日に話すことを箇条書きにして準備していました。しかし、他のコメンテーターが自由すぎて、その準備は意味がないと感じるようになります。
そこからはジャズの即興セッションみたいに、その時飛んできた球を自分の思ったことで返そうという風にシフトしてから、やりやすくなって。
生放送でカットできず、見ている人数も多い環境は、大きなトレーニングになったようです。野球をほとんど見たことがなくても、監督のリーダーシップなど、他の人が言わない角度からコメントする力が身についたと振り返ります。
弱点との向き合い方と、これからの課題
死角がなさそうに見える廣津留さんに、川邊さんが弱点を尋ねます。挙がったのは方向音痴、そしてもう一つ、苦手なことへの向き合い方でした。
いい意味で鈍感じゃないですけど、多分苦手なことは無視してると思うんです。あえて無視してきてるから。
弱点を気にせず、強みを活かす姿勢がうかがえます。一方で、活動を大きくするうえでの課題も語られました。全部自分でやりたくなってしまうことです。
人に任せるんですけど、やっぱり結局自分が引き取りたくなっちゃうっていうのはどうにかしたい。
去年は自分でレーベルを設立し、CDまで作って出したといいます。何でもできてしまうからこそ、人に頼りにくいという悩みでした。
これに対し川邊さんは、自分は「何もできない」から人に頼るしかないのだと語りつつ、人に任せることの喜びを伝えます。
人にやってもらって、人が自分よりうまくできた時の喜びはすごいんですよ。
9年のブランクを経て2009年にGYAOの経営に戻った時、赤字事業でYouTubeと対抗する困難な状況が、チームで動くことを必然にしたといいます。
まとめ
ジュリアードでの練習漬けの日々から、NYでのフリーランス活動、そしてコロナ禍の帰国を経て、廣津留すみれさんの活動はクラシックの枠を越えて広がっていきました。「遊びのような挑戦」と拠点移しが、次々と新しい縁につながっていった軌跡が語られました。
- ジュリアードは練習中心の環境だが、インプットを大切にする学生の姿勢も印象に残ったという
- オーケストラではなく、我流でフリーランスとして活動する道を選んだ
- NYでのタンゴやジャズの「遊び」が、即興で音楽を楽しめる力につながった
- コロナ禍の帰国と東京への拠点移しが、大学講義やコメンテーターなど新しい仕事を生んだ
- 何でも自分でやりたくなることが課題で、人に任せる喜びが川邊さんから語られた
