伊達メガネで顔を覚えてもらうべきか?
本題の前に、今井さんは最近決めかねていることを打ち明けます。今井さんは自分の顔が人に覚えてもらいにくいと感じていて、人前に出るときに伊達メガネをかけるかどうか迷っているそうです。
今井さんによれば、先達を見ていると、髪の色や眼鏡の形などでビジュアルを決めている人が多いといいます。特徴の少ない顔の人にとって、眼鏡は1つの武器になるのではないかという考えです。
眼鏡ってのは、特徴のない顔の人間にとって1つ武器なのかなっていうふうに思ってて。
青木さんは子どもの頃から目が悪く、中学生ぐらいから眼鏡をかけてきました。20代はコンタクトの時期もありましたが、ルックスへの関心が薄れるとともに眼鏡に戻ったそうです。メディアに出るようになってからも、ビジュアルをぶらさない意識はまったくないと答えます。
ほんとだって(ビジュアルは)10年とかっていう時間軸で見たら、めちゃめちゃブレてるよ。
一方で青木さんは、金髪やロン毛、髭のように「やったらやめられない」変化は避けたいと話します。気に入ってしまうと印象が変わりすぎて戻せなくなり、何かが不自由になるのが嫌いだからです。今井さんはそれを「会社のロゴを変えるぐらいの」決断だとたとえ、青木さんも強くうなずきました。
まだ間に合うよ。俺はもう無理だけど、君ならできる。
「大変さがない楽しさなんて存在する?」という相談
本題は、京都府のリスナー・もずくさんからのお便りです。仕事も育児も抱えながら充実を感じている管理職が、部下の「癒されたい」という言葉に戸惑っています。
私は2歳の子供を育てながらフルタイムで管理職をしています。育休から復帰して1年、管理職にチャレンジして3ヶ月が経ちました。育児も仕事も大変だけど充実していると感じています。そんな中、部下から仕事がしんどいので辞めたい、もっと常に癒されながら働きたいと相談されました。
その時、大変さがない楽しさなんて存在するんだっけ?と私は思いました。でも同時に、自分がそう考えているからこそ、部下のしんどさに気づけていなかったのかもとも感じています。私は仕事も育児も投げ出したくなるような気持ちも含めて楽しんでいるのか、それともただ自己犠牲を重ねているだけなのか、よくわからない気持ちになります。お二人は楽しさと大変さのバランスをどう考えていますか?
今井さんはこの相談を受けて、今回のテーマを「大変さがない楽しさって存在する?」と設定しました。
アドバイスだけでは、なぜ達成感がないのか
今井さんはまず、相談者の感覚がわかると話します。外部の立場で企画やアドバイスだけをした仕事がうまくいっても、感謝はされるものの、達成感はまったくないそうです。
しかもまさにその外部のものとしてアドバイスだけして。で、なんかそれがすっごいいい形になった時とか、なんか全然達成感ない。
青木さんは、投資も似ているかもしれないと応じます。成否のわからない会社に少額を出し、その会社が大成功してお金が入っても、「やったー!」という感覚はあまりなさそうだというのです。ただし青木さん自身はそうした経験はないと断っています。
一方で宝くじは、当たればなぜか「やった」と感じるはずだと二人は首をかしげます。青木さんはそれを射幸心に近いものと見て、今井さんは「運が肯定された気がする」からではないかと考えました。
では、自分が達成感を覚えるのはどんなときか。今井さんは、自分のアイデアの面白さが、クライアントやチームではなく「届けるべき人」に届いたときだと答えます。この番組が多く聴かれるようになったことにも、同じ喜びを感じているそうです。
なんかそれはちょっとした存在証明っていうか。
青木さんも似た感覚だと話します。自分の中に仮説があり、周りから「うまくいかないんじゃない?」と思われていたことがうまくいったときに、「どうすか?」という気持ちになるといいます。
苦労がないと喜べない?鍵は物語と「喜んでいい範囲」
ここで青木さんは問いを投げかけます。仮説が当たる喜びには、苦しさや苦労が必要なのか。アドバイスしただけの成功が嬉しくないのは、大変ではなかったからなのか、という問いです。
今井さんの答えは「スパイスにはなるが、必要なものではない」というものでした。たとえば番組の方針を巡って青木さんと揉め、今井さんが押し切って成功したなら、達成感は増すかもしれません。けれど、それが不可欠かといえば別だといいます。
物語性が生じてくるからですね。
青木さんもこれに同意し、喜びの源は苦しさそのものではないと整理します。苦しいから嬉しいのではなく、そこに物語が生まれること、そして自分だけがわかっていたという希少性を実感できることが嬉しいのではないか、という見立てです。
さらに青木さんは、アドバイスだけでは喜べない理由として「自分のものではない」という意識を挙げます。成功には実行した人というオーサー(作り手)がいるので、自分のこととして喜んでいい範囲がどこかで設定されているのではないかという考えです。
今井さんは逆のケースも挙げます。アイデアは他人のものでも、作ったのが自分たちなら達成感はあり、だんだん自分のものになっていく感覚があるそうです。
成功しても達成感は薄い。成功は実行した人のものという感覚がある
アイデアが他人のものでも達成感がある。だんだん自分のものになっていく
「俺が言った」と喜べないのは呪いかもしれない
青木さんは、アドバイスした側が喜べない理由を、もう一歩掘り下げます。一言二言の方向づけが決定的だったとしても、成功後に「あれは俺が言った」と吹聴して回る人がいたら、周りはがっかりするはずだという指摘です。
嬉しくないというよりは、喜んではならないという、なんかね、なんか呪い的なものあると思うのよ。
青木さんは、逆の立場なら自分も絶対に嫌だと話します。どれほど良いアドバイスでも、成果は実行した人のものだという感覚があるからです。
本当はなんかちょっと嬉しいし、なんならちょっとこれなんですよって言いたい気持ちもあるけど、あまりそれが浅ましいってことがわかってるから、その回路がつながらなくなってるみたいなのもあるかもね。
青木さんによれば、「これは俺なんです」と平気で言える人なら、苦労しなくても喜べている可能性があるそうです。達成感は苦労の量だけで決まるのではなく、喜んでいい範囲をどこに引くかにも左右されるという見方です。
苦労の最中に「大変さはスパイス」と思えるか
相談への答えに戻ると、大変さが楽しさのスパイスになることはあると青木さんは認めます。ただし、苦労の最中で、報われる日が来ると想像できないタイミングでは、大変さをスパイスだとは思えないはずだといいます。
そうしたとき、成功の物語を自分に重ねるのは有効だと青木さんは話します。自分の体験でなくても、たとえば『ONE PIECE』を読んで「今はあのシーンのこういう時だ」と自分に降ろすような方法です。
苦労を乗り越えるテクニックとしてはわかるんだけど、楽しさは常に苦労とセットだは、まあちょっと間違ってるかもな。
とはいえ青木さんは、一般論として難しいことほどうまくいったときの実入りが大きく、期待リターンが大きいとも話します。苦労なく手に入るものは、みんながすでに取っているので価値が小さいことが多い、というわけです。
今井さんは「もずくさんと部下では、見てきた物語の数が違うのかもしれない」という仮説を出します。青木さんは、実際に頑張って報われた経験の数も違う可能性があると付け加え、今井さんはそれをレジリエンス ── 困難や逆境から立ち直る力、しなやかな回復力を指す心理学の言葉。ストレスへの耐性や適応力の文脈でよく使われますと呼ぶのかと問いかけました。
「癒されたい」は応援されたいのサインかもしれない
青木さんはレジリエンスを「どうやって希望を持つか」の話だと捉えます。経験が不十分な未成熟の人は他者からの応援を必要とし、成熟するにつれて自分の経験や他人の経験から自分を励ませるようになるという整理です。
癒されたいというよりは応援されたいのかもしれないね。
「最近の若い者は」という論調は昔からあると青木さんは続けます。青木さんの世代も言われてきたし、その前の世代は新人類 ── 1980年代に流行した言葉で、当時の若者を上の世代が「価値観が理解できない新しい人種」として呼んだものと呼ばれていました。
そのうえで青木さんは、部下の言葉を額面通りに受け取るからずれて感じるのではないかと指摘します。時代ごとに、自分の気持ちを表現する語彙が違うという考えです。
多分ね、時代時代で自分の気持ちを表現する語彙が違うのよ。
昔なら「癒されながら働きたい」と口にすること自体が許されなかったものの、今はその語彙が市民権を得て使えるようになったと青木さんは話します。語彙さえ一致すれば、もずくさんと部下は「わかるわかる」となる可能性があるといいます。
青木さんによれば、若い世代にとっては、上の世代に甘えに聞こえる言葉ほど「ありきたりではない切実な自分の言葉」で話せている感覚が得られます。そのため相手が受け取りやすい語彙ではなく、自分のリアリティにこだわった結果、衝突しやすい言葉を選んでしまうのではないかという見立てです。
今井さんは具体例として、「常に癒されながら」というなら在宅で猫と一緒ならいいのかと聞いたら「全然違う」となりそうだと話し、言葉と本心のずれに同意しました。
言葉をそのまま受け取ると、切実な問題ほど失敗する
青木さんは、人が報酬を感じるのは「見てくれている」という感覚だと話し、「癒されたい」は「ちゃんと見てほしい」という意味かもしれないと仮説を立てます。ただし「見てほしい」も相手への要求に聞こえるので、さらに言い換えられるはずだといいます。
癒されたい
上司にとっては意味がわかりにくい
ちゃんと見てほしい
相手への要求に聞こえ、「知らねえよ」となりやすい
方向が正しいかわからなくてつらい
相手に何も要求しない言葉になり、上司はアドバイスや励ましをしたくなる
青木さんによれば、最後の言い方にたどり着けば上司は励ましたくなり、結果として本人は癒されるはずだといいます。けれど本人は未成熟なのでそこまで表現できず、上司側も何もかもわかるわけではないので、簡単ではありません。
だから逆に言葉を言葉として受け取ると、大体の切実な問題は全部失敗するから。
青木さんは、上司が「仕事って大変なもんなんだよ」と返すのも、本当に言いたいこととは違うと指摘します。本当は「あなたの言うことがわからなくて不安」「自分だって大変だとわかってほしい」といった気持ちなのかもしれません。
本当に人間って本当に伝えたいことが何かを自分でもわからないし、ましてや相手が本当に伝えたいこともわからないっていうね。
その割に、人は自分も含めて「こう言ったじゃん」と言葉への信仰心が強いと青木さんは話します。
捨て台詞になる前に、モヤモヤの段階で話す
青木さんが気をつけているのは、最終的な捨て台詞を吐かれる状況にならないようコントロールすることです。「癒されたいんです」まで言われると関係はこじれ切っていて、言った本人もその言葉で自分を固定してしまうといいます。
そのため青木さんは、モヤモヤしている段階で声をかけ、一緒に言葉を探すことを大事にしています。「このまま行っていいのかな」「毎日疲弊していて意味があるのかな」という段階なら、共通の言葉で問題を表現し直せるからです。
今井さんは、早く強い言葉を出しがちな傾向はSNSでの言葉の共有が影響しているのではと問いかけます。青木さんはさらに、AIによる言語化に危機感を示しました。
みんなが言語化できるようになるのはいいことだけど、でもこれは分かり合いは非常に難しくなる。
青木さんによれば、AIと話して「確かに」と納得した言葉はアンカーになり、別の解釈が難しくなります。お互いが硬い言葉を持って対話の場に来るので、食い違ったときに調整しにくいというのです。AIは相手に合わせてくるので、「あなたはもっと癒されるべき」と言われて納得した状態で来る可能性もあると話します。
今井さんが「分断が広がるのか」と問うと、青木さんは、相手も自分もAIに吹き込まれた言葉にたどり着いているかもしれないと考えるメタ認知が必要だと答えます。それがないと対話ではなく、どちらが正しいかのディベートになり、禍根が残りやすくなるといいます。
物別れでも握手できる成熟は求められるか
今井さんは、思想家の東浩紀 ── 日本の批評家・思想家。哲学や現代社会論を扱い、出版やイベントを行う株式会社ゲンロンの創業者としても知られますさんの話を紹介します。東さんは、白熱した議論とは答えの出ない議論であり、主張をぶつけ合って物別れに終わるのがいい議論だと語っていたそうです。
青木さんは、物別れしてもその相手と握手できるような成熟が、AI時代には求められるのだろうと話します。ただ、青木さんを含めほとんどの人は物別れが怖いので、そこまで進むのは難しいとも認めます。
青木さんは、昔は権力勾配が強く、上位層は命令を下ろすだけで済んだと振り返ります。それは上にとって楽で、受け取る側も我慢や鈍感力が問われるだけで思考的な負荷は少なかったといいます。
権力勾配が強く、命令を下ろすだけ。部下は我慢と鈍感力で受け止める
対話が当然になったが、物別れは怖い。上司は恐る恐るボールを投げ、部下は強い言葉を遠慮なく投げやすい
青木さんによれば、今は部下側がAIなどでたどり着いた強めの言葉を遠慮なく投げてくる一方、上司側は返す強い言葉がなく、言いたくても言えないフラストレーションが生まれているそうです。
強い言葉ほど、検証せずに使っていないか
こうした場面で青木さんが肝に銘じているのは、単純化した強い言葉は普遍化できないということです。「喜びは大変さとともに」も慣用句のように言われてきたものの、個々人としては検証していない言葉だと指摘します。
今井さんが「石の上にも」と挙げると、青木さんは「三年もそうだよね」と応じます。こうした言葉は多くの人が言ってきた分、出すと強いカードになると青木さんは話します。
実は自分で本当かどうか確かめたことがないという意味においては弱いカード。で、現代においては意外とそれがね、その弱さが突かれやすいんだよね。
多くの人が言ってきたので、一定の信頼性があるとみんなが思っている
自分で確かめたことがなく、リアリティが問われる今は疑われやすい
上司から見ると「癒されたい」は激弱のカードで、慣用句で簡単にやっつけられそうに思えます。けれど今はやっつけると「怒られ」が発生するうえ、慣用句のカード自体ももう強くないと青木さんはいいます。
青木さんは、大きな喜びの多くは大変さの向こうにあるというのは、ほぼ間違っていないと考えています。ただし、そう思っていない人を納得させる説得力は、もう持たない言葉になっているとも話しました。
寄り添うより、対等な人間として向き合う
今井さんは、自分がしてはいけないこととして、部下を「採用ミス」と思ってしまうことを挙げます。本当に言いたいことが別にあるなら、その部下にも向上心はあるかもしれず、その想像力は持っておくべきだと話しました。
青木さんは、それでも「君の言うことを一旦意味不明だと感じる」と伝えてよいと考えています。相手が会社や仕事への思いを表明できるように、自分も対等な人間として感じたことを表明できるからです。
だからなんかね、寄り添うぞとは思ってない。常に対等だぞと。
青木さんは経営者として対価を払っているので、責任を果たしてほしいし、そのための要求をする権利はあると話します。会社として直すべき点があれば直したうえで、それでも応えられない要求なら、責めずに「私はこう捉えたけど、どう見える?」と聞くといいます。
そうすることで、部下は自分の言葉が立場の違う人にどう聞こえるかを知る機会を得られます。青木さんは、そのリスクを取って、感情や評価を交えずに話す語彙や話法を身につけることが、成熟した人間としての責任だと考えています。
「私はこう感じました」に「私は」で返したい
青木さんは、「みんなこう言ってます」という架空のみんなで強く言われるのは嫌だが、「私はこう感じました」と言われれば、全部納得はできなくても言ってくれたことはありがたいと話します。
私は癒されながら働きたいんですって言ってきたんだとしたら、こっちもぜひとも私はで返したいなと。
青木さん自身も、初手でカチンと来て「は?」と言ってしまうことはありそうだと認めます。そのうえで、一度落ち着いて仕切り直したいと話しました。
今井さんは、相手が「要求ではなく意見を言っているだけ」と受け取ってくれるかには、相手への期待値が関わるとリスクを指摘します。青木さんはだからこそ、上司も自分を守るために、うるさいぐらい但し書きをすることが現代では避けられないと答えます。30分の話し合いで意見を5回言うなら、5回とも「これは個人的な意見」と前置きするそうです。
だからね、ニュートークよ。
今井さんも先日、全社員と面談したとき、「普通こう」ではなく自分がどう思うかで話そうとして、すぐに疲れたと振り返ります。青木さんは、誤解されたかもしれないと思ったらすぐ訂正し、「君を責めているわけではない」としつこいぐらい言うことも、相手へのリスペクトの表現だと話しました。
青木さんによれば、今は世代間で合意形成された対話の仕方がまだ確立されておらず、前提が変わった最中なので、一時的にコミュニケーションコストが上がっているのだろうといいます。
最後に青木さんは、家庭と仕事のどちらも諦めないもずくさんのような人とは一緒に働きたいと話します。一方で、そういう人ほど、そうではない人を前にしたとき戸惑ってしまうのだろうと締めくくり、答えの出ないテーマとして今後も考えていくことにしました。
まとめ
大変さは楽しさのスパイスにはなるものの、必須ではないかもしれません。青木さんと今井さんは、達成感の源を物語や「喜んでいい範囲」に見いだし、「癒されたい」という言葉の奥にある本心を、対等な立場で一緒に探る対話の大切さを語りました。
- 達成感は苦労そのものより、物語性や「自分のものだ」という感覚から生まれるのかもしれない
- 「癒されたい」は、応援されたい、方向が正しいかわからないという本心の別表現かもしれない
- 時代によって気持ちを表す語彙は変わり、言葉を額面通りに受け取ると切実な問題ほどこじれやすい
- 慣用句やAIが出した強い言葉に頼らず、モヤモヤの段階で一緒に言葉を探すことが有効
- 寄り添うより対等な人間として、「私は」で返し、但し書きを重ねる新しい話し方が求められている




