「北欧、暮らしの道具店」の青木耕平さんはどんな経営者か
インサイドビジョンは、価値観を仕事にする起業家をゲストに迎え、ゲストが何者でもなかった頃から現在までの人生をひもとく番組です。ホストは、クリエイティブディレクターでニューピースニューピースCEOの高木晋平さんです。
今回のゲストは、株式会社クラシコム代表取締役社長の青木耕平さんです。高木さんは「北欧、暮らしの道具店」について、現代で最もうまくブランドを作っている例の一つで、しかもいやらしさがなく素敵な世界観になっていると話し、その神髄を聞きたいと語ります。
青木さんは2006年に実の妹である佐藤さんと2人でクラシコムを設立しました。最初は「謎の変なビジネス」を始めてうまくいかず、2007年に「北欧、暮らしの道具店」を開始したといいます。
青木さんによれば、北欧、暮らしの道具店は16年ほど続いており、会社としては収録時点で18期を迎えています。
番組冒頭では、青木さんの「成功の瞬間にしか学びがない」という言葉も紹介されます。青木さんは、何度も転んで学べという考え方を「すごく間違っている」と話し、小さな成功をどう見つけるかが重要だと語っています。
本ばかり読む「氷モンスター」の少年時代
高木さんは、北欧、暮らしの道具店には人間らしい自然なプロセスから来る体温があると感じ、青木さんがもともと感受性の豊かな少年だったのかと尋ねます。
高木さんの問いに対し、青木さんは「そんなことない」と否定します。自分はすごくドライで、いわゆる「氷モンスター」のようだったと振り返ります。ただし、観察はするとも認めています。
小学生の頃の青木さんは、周囲から強く疎外されてはいないものの、まったく馴染んでおらず、物語っぽい小説を大量に読みふけっていたといいます。役に立つ本というより、青木さん自身の表現では「ラノベに毛が生えたような」小説だったそうです。
高木さんがクラシコムの映画『青葉家のテーブル ── クラシコムが制作に関わった作品で、北欧、暮らしの道具店のドラマシリーズから映画化されました。母と息子の家族の暮らしが描かれます』の少年のようだと言うと、青木さんは「あんな才能はない」としつつ、近い感覚だと答えます。友達が多い人気者の妹と、変わり者の兄という組み合わせだったそうです。
青木さんの実家は埼玉県三郷市です。父は日系大手情報通信企業で新卒から定年まで勤め上げた会社員、母は専業主婦で、青木さんは自分の家庭を「ザ昭和家庭」「当時の標準フォーマット」と表現しています。
大学に行かず28歳まで子供部屋にいた理由
青木さんは高校卒業後、大学に進学せず、28歳ごろまで実家の子供部屋にいたといいます。毎日働き始めたのも、その頃からだそうです。
大学に行かなかった理由について、青木さんは「面倒くさい」からではないと説明します。自分にとってこれはこういう位置づけだ、という勘が立たないまま動くことが苦手で、それは今も変わらないといいます。
青木さんは、自分なりの軸にはまらないことはやりたくないと語ります。そのうえで、格好いい決断というより、あわあわしているうちに時間が経ち、気づいたらそうなっていたと振り返ります。
青木さんの高校はほぼ全員が大学に進むような学校で、親族にも公務員や大企業勤めが多かったといいます。親戚の間では、ファッション好きだった青木さんについて「フランスに行ったらしい」という噂まで流れたそうですが、実際は埼玉の子供部屋にいたと笑います。
それでも青木さんが焦らなかったのは、「本気を出したらどうにかなる」と常に思っていたからだといいます。青木さん自身は、これを「一番ダメな感じ」と表現しています。
資生堂の実演販売で「満たされていた」日々
若い頃の青木さんは、化粧品の実演販売の仕事をしていました。事務所に所属する個人事業主として、資生堂から「このデパートで催事をやってほしい」という発注があると、現場に派遣される形だったといいます。
青木さんによれば、実演販売の仕事は月の半分ほどで、同い年の会社員と同じか、それ以上の収入を得られたそうです。SNSのない時代に毎日のように違う売り場へ行くため、人との出会いも非常に多かったといいます。
実家暮らしでお金にも困らず、出会いも多い。青木さんは、そういう状態では意欲は湧かないと振り返り、高木さんも「満たされていますね」と応じます。
当時の青木さんは、将来を悲観していたわけでもありませんでした。趣味の音楽で曲を作って録音し、インターネットに出したり、CDを焼いて売ったりもしていたそうです。
彼女の一言と、応募書類がすべて戻らなかった挫折
青木さんの生活が変わるきっかけは、当時付き合っていた彼女の言葉でした。「耕平くん、おじいちゃんになってもそういう生き方するの?」と、ふわっと何度か言われたといいます。
青木さんは彼女の言葉に反発するのではなく、「確かに」と受け止めました。そこで、まだ「本気を出せばどうにかなる」と思っていた青木さんは、いろいろな会社に中途採用の応募書類を郵送で送りつけます。
青木さんの応募書類は、「御社はこうした方がいい」という斜め上からの提案を盛り込んだものでした。今振り返るとぞっとする、絶対に採用しない内容だと青木さんは笑います。
結果として、どの会社からも返事はありませんでした。青木さんは、本気を出したのに通じなかったこの経験が、すごく大きな挫折だったのではないかと振り返っています。
途方に暮れた青木さんが向かったのは、人材派遣会社でした。当時は人材に関わる規制緩和が進み、派遣会社には社内も派遣社員ばかりという会社があって、すぐに入れたといいます。前の週まで面接にもたどり着けなかった人が、翌週には面接を受けている。青木さんはこれを「ゲームチェンジの瞬間」と表現します。
青木さんが派遣会社を選んだのは、会社というものを知らなさすぎると気づいたからでした。相手を知らずに長文のラブレターを送り続けても仕方がない。だから、相手が何を求めているかという情報が集まる場所に身を置こうと考えたのです。
派遣会社で求人票を見た青木さんは、学歴、経験年数、資格など、自分が満たす条件が1つもないことを知ります。どこに応募しても採用されないと、そのとき初めて理解し、「詰んでるじゃん」と感じたといいます。
精神論しか書いていない求人票が開いた入口
行き詰まった青木さんにとって幸運だったのは、ちょうどインターネットが勃興し始めたことでした。派遣会社の求人票に、今でいうインターネットベンチャーの求人が混じり始めたのです。
インターネットベンチャーは経験者がいないビジネスだったため、求人票には精神論しか書かれていないものがあったといいます。「自分で学べる」「教えられないから自分でやることを探してほしい」といった文言を見て、青木さんは「俺の時代が来たんじゃないか」と感じたそうです。
青木さんは、ある会社の求人票を見つけると、派遣会社の支店長と営業に話を持ちかけました。自分を特別に教育したスーパースタッフとして売り込んでくれれば、現場で活躍して取引を広げてみせる、という提案です。
支店長、営業、青木さんの3人で話がまとまり、まだ取引のなかったその会社に、青木さんは最初の派遣社員として入ります。仕事自体は末端の業務でしたが、中にいることでさまざまなことがわかり、ITのリテラシーも上がったといいます。27〜28歳の頃のことです。
高木さんは、ほとんど働いた経験がないのにそうした座組みを作れた理由を尋ねます。青木さんは、それは最初からあったものだとしつつ、言われたことをやってこなかったから考えることを止める訓練をしていない、と答えます。
青木さんの見立てでは、学校教育などを通じて多くの人は考えをオフにする練習を重ねています。言われた通りにやって効率を上げる訓練をしてきたため、オンに戻すには「アンラーン」が必要な人が多いといいます。
子どもの頃はオンだったが、勉強や仕事の成果のためにオフにして、一時的に機械のようになる訓練を重ねてきた
オフにする訓練に失敗して途中でドロップアウトしたため、考えるスイッチがオンのまま残った
青木さんは、公園で何人か集まって「どうする?」とあれこれ話すノリは、仕事でも結局変わらないと語ります。自分は「公園のノリで働いていた」というのが、青木さんの表現です。
『金持ち父さん貧乏父さん』で見えた、もう1つの道
同じ頃、青木さんは『金持ち父さん貧乏父さん ── ロバート・キヨサキによるお金と働き方についての本。会社員として働くことと、事業や投資で資産を築くことの違いを説き、世界的なベストセラーになりました』に出会います。可愛い表紙のビジネス書は当時ほとんどなく、可愛いから買ってしまったといいます。
当時は、今のように「スタートアップ」や「起業家」という言葉は一般的でなく、若くして事業を起こす人は「青年実業家」と呼ばれる胡散臭い存在だったと青木さんは振り返ります。高木さんも、サイバーエージェントやホリエモンが出てくる少し前の時代だと応じます。
青木さんによれば、『金持ち父さん貧乏父さん』の主張は、一番いいのは投資家になることで、そのためにはまずビジネスオーナーになりなさい、というものです。従業員や専門家として頑張っても投資家にはつながらない、という考え方です。
従業員として出世する見込みがゼロだった青木さんは、この本を「めっちゃ自分に都合のいい話」と受け止めます。雇われる側の一員になるのは不可能でも、雇う側にはなれるかもしれない。そう考え、「また俺の時代が来た」と感じたそうです。
高木さんは「逆転があるということですね」と言いますが、青木さんは逆転というより、見えていなかった道があったということだと言い直します。派遣会社で翌週に面接を受けられたことと同じ構造だといいます。
青木さんには、特にやりたいビジネスがあったわけではありません。むしろ「事業をやりたい」と言う人をキモいと思っていたほどで、周りは音楽やカルチャー寄りの仲間が多かったといいます。それでも、軸が決まると、その方向に向かって動き始めるのが青木さんのやり方でした。
経営に近づくために選んだエレベーターのメンテナンス業
青木さんは、経営的なことができる自分になるため、できるだけ経営に近いところで働き、それ以外のことはすべて我慢しようと決めます。エリートが行きそうにないが経営に近いポジションを探すなかで、エレベーターのメンテナンス業に出会いました。
青木さんが入った会社は技術者が主体で、ブルーカラー寄りのトーンの会社だったといいます。そのうえで青木さんは、メンテナンス業は構造的に非常に儲かるビジネスだと見抜いていました。
在庫がいらない
商品を仕入れて抱える必要がない
人だけで回る
必要なのは基本的に人材
継続課金
[[サブスクリプション::定期的に料金を受け取り続ける課金の形。単発の売り切りではなく、契約が続く限り収益が積み上がる点が特徴です]]型の料金で収益が続く
儲かる
構造的に利益が出やすく、経歴の弱い青木さんでも前に進める余地がある
当時、その会社には、今でいうDXを進めたいという課題感を持つ元起業家の人物が入っていました。外から来た立場で手足となる人を求めていたところに、青木さんがたまたま応募したといいます。
その元起業家の人物は、青木さんに「いろいろできそうなわりに経歴が悪くていい」「俺のところだと逃げられないだろう」と言って採用したそうです。青木さんは「マジで逃げられないです」と応じたと振り返ります。
エレベーターのメンテナンス業を見つけたきっかけは、雑誌に「エレベーターはなくならない」と書かれていたことでした。青木さんにとってこの仕事はとても面白く、その上司と2人で転職したり、一緒にエレベーターのメンテナンス会社を作ったりもしたといいます。
34歳で抜けて起業、最初は誰も使わないサービスだった
青木さんは、起業は「ずっとやりたかった」と語ります。ただ、何をやればいいかだけが常に謎だったといいます。
資金調達という概念を知らなかった青木さんは、結婚後も爪に火を灯すような生活を続け、27歳頃から年収の半分ほどを貯金していました。起業までに1000万円ほど貯めていたのではないかと話します。
34歳のとき、青木さんは電車の中で「これだ」と思うアイデアを思いつきます。今振り返ると「クソのアイデア」で、作り方もわからなかったものの、思いついた以上やるしかないと考え、会社を抜けてクラシコムを作りました。
最初のサービスについて、青木さんは大失敗というより、誰も使わないサービスを作ってそっと閉じただけだったと語ります。それでも、蓄えていたお金のほぼすべてがなくなったといいます。
この時期、妹の佐藤さんは副業的に少し手伝う程度の関わりで、役員として名前を貸してもいたそうです。当時は会社の設立に3人の役員が必要な時代だったといいます。
高木さんは「北欧、暮らしの道具店になっていく道筋がまだ見えない」と言い、青木さんも「見えないですよね」と応じます。誰も使わなかった最初のサービスから、どのように北欧、暮らしの道具店が生まれたのかは、後編で語られます。
まとめ
前編で描かれたのは、大学に行かず実家で過ごしていた青木耕平さんが、応募書類が1通も戻らない挫折を経て、派遣社員、エレベーターのメンテナンス業へと一歩ずつ経営に近づいていく姿でした。自分の軸に腹落ちしないと動かない一方で、軸が決まれば迷わず進む姿勢が、のちのクラシコムにつながっていきます。
- 青木さんは、自分なりの位置づけが腹落ちしないと動けない性格で、大学に行かず28歳頃まで実家にいた
- 斜め上の提案を書いた応募書類がどこからも戻らなかった経験が、青木さんにとって大きな挫折になった
- 規制緩和やインターネットの勃興で「見えていなかった道」が開き、派遣社員として会社の内側に入った
- 考えるスイッチをオフにする訓練をしてこなかったことが、座組みを作る力につながったと青木さんは語る
- 34歳で独立して作った最初のサービスは誰にも使われず、貯金のほぼすべてを失った



