就活生が面接で企業に営業? 関西で始まった最初の商売
ワンキャリア代表の宮下尚之さんと、NewPeaceの高木新平さんは、ワンキャリア創業前からの付き合いです。高木さんは、宮下さんがまだ会社員だった頃に宮下さんの家へ居候し、「一緒に会社辞めようぜ」と声をかけていたといいます。
二人が出会ったのは、関西のマーケティング職や広告・メディア代理店の若手が集まるコミュニティでした。宮下さんによると、社会人になると仕事の関係で仲が悪くなりがちなので、その前に同世代で仲良くなろうという集まりだったそうです。
宮下さんは学生時代から、制作会社に出入りしてプロモーションや制作の仕事をしていました。宮下さんが大阪で就活生だった時期はリーマン ── 2008年のリーマン・ショックのこと。米国の投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに世界的な金融危機が起き、日本でも企業の採用抑制が広がりましたの直後で、企業が「採用止めます」と関西での説明会を取りやめていく状況だったといいます。
そこで宮下さんたちは、自分たちで学生を集める活動を始めます。その始め方は、かなり型破りなものでした。
自分たちが面接受けに行って、そういえば来年から関西説明会しないらしいですねみたいな。僕らがいい学生集めるから来ましょうよつって、面接受けに行ったのに営業してるみたいな。
面接の場で企業に営業をかける学生たちを、ユニリーバで取締役を務めた島田さんのような大人たちが面白がってくれたといいます。宮下さんは、当時「こいつらアホだな」と言っていた人たちが、今ではみんな偉くなっていると笑います。
「長く続くものをお前は作れない」はなぜ楔になったのか
高木さんは、学生時代に起業的な活動をしていた宮下さんが、なぜ一度外資系のマーケティング職に就いたのかを尋ねます。宮下さんの答えは、現在Heyの代表を務める佐藤裕介さんの存在でした。
佐藤裕介さんは、宮下さんの幼馴染の1つ上の先輩で、大学1〜2年の頃に出会いました。Googleが創業10年にも満たない2006〜2007年頃に、Googleの面白さやコンテンツビジネスについて語る佐藤さんの話は、周りの誰も言っていない内容で面白かったといいます。
その佐藤さんから、宮下さんは当時の活動をことごとく批判されました。宮下さんが作っていたものは刹那的で、続かなかったからです。
長く続くものをお前は作れないぞって言われたのが一番衝撃的で。それはね、今でも覚えてる。本人は何も覚えてないって言ってる。
宮下さんはこの言葉をきっかけに、200年続くブランドのように、製品が変わっても必要とされ続けるものがどう作られるのかに興味を持ちます。起業しながらでも学べるとは思いつつ、一度就職してその仕組みを見たいと考えたそうです。
ただ、宮下さんは入社1年目ですぐに「干された」といいます。ロジックで「なんでこんなことをやっているのか」と詰め寄り、初めて日本人になった社長にも食ってかかっていたため、生意気だと言われたそうです。
マーケティングとか1ミリも興味なかった、正直。しかも入ってさ、俺干されたじゃん。すぐ。
それでも宮下さんの中では、どうすれば本当に長く続くものが作れるのかという問いが、佐藤さんの言葉とともに楔として残り続けていました。
居候生活から生まれた「人にフォーカスする」ブログはなぜ失敗した?
高木さんは東日本大震災のあとに博報堂を辞めると決め、恵比寿のマンションを解約して、宮下さんの家に居候し始めます。宮下さんによると、二人がよく話すようになったのはこの同居生活からでした。
高木さんは同居中、学生時代の商売があるならそれをやればいいと、宮下さんに会社を辞めるよう勧めていたといいます。宮下さん側にも、後輩に譲った学生時代の事業が潰れかけていたため戻ったという事情がありました。結果的に、宮下さんのほうが先に会社を辞めています。
同居中の二人は、就活市場をどう変えるかを議論していました。宮下さんによると、出発点は「働くことについての情報が少ない」という問題意識です。人の生き方が「どこどこの会社の何々さん」として企業の傘の中に収まっていくことに対し、高木さんは「もっと人にフォーカスしたほうがいい」と話していたそうです。
そこで作ったのが、会社に就職した面白い人たちがブログ形式でキャリアの選択を語っていくメディアでした。しかしこのブログについて、宮下さんは即座に「大失敗した」と振り返ります。
作った。大失敗した。
宮下さんによると、ビジネスモデルを考えずにとりあえず出したメディアでした。島田さんのように自ら動いてくれる人はごく一部で、多くの企業からは「なんでお金を出さなきゃいけないの?」という反応だったといいます。2012年の二人は、ユーザーの価値を企業側の動きにつなげられないというビジネスの壁にぶつかっていました。
上場までで一番大変だった時期とは? 年1回しか回らない就活のサイクル
やがて高木さんは六本木でシェアハウス「夜ひぶつ」を始め、そちらに夢中になります。宮下さんと高木さん、そして現在高木さんと共に経営している明雄さんの3人で進めていた事業から、高木さんたちが抜けると言い出しました。
会社を上場させるまでの全ての出来事の中で、あの時が一番大変だったかもしれない。
高木さんは「出ていく方は自分勝手だから楽だよね」と応じます。一方で宮下さんは、根本の課題は佐藤さんに言われた「長く続くものを作れない」と同じだったと話します。ユーザーにとって良いものでも、企業に受け入れてもらうことが当時は難しかったからです。
高木さんが離れた理由として挙げたのは、就活のサイクルの長さでした。日本の新卒採用は新卒一括採用 ── 企業が卒業予定の学生を毎年まとめて採用し、卒業後すぐ一斉に入社させる日本特有の慣行。採用活動の時期が年単位で固定されやすい仕組みですが慣習で、試せるチャンスが年に1回しかありません。
(シェアハウスで)日々いろんなことが起きるから、いろんな企業の人たちもいたりとかしたりする中で、なんかこれまた一年後か、次トライできるの?みたいな。
その後、宮下さんは2012年の終わりから2014年頃まで、小野さんとアルバイトのメンバーだけで事業を続けることになります。
「HRに関する全データを集める」で何が決まったのか
宮下さんが「これは明確にいける」と思えたのは2013年でした。2013年1月3日、宮下さんは再び佐藤裕介さんのもとを訪れ、HRに関する全てのデータを集める会社にしたいとプレゼンします。
(佐藤裕介さんは)ずっと黙って聞いてて、最後に「やろう」って言われて。
高木さんが「本人がやるわけじゃないけど」と突っ込むと、宮下さんは、佐藤さんがこのやり取りも覚えていないと明かします。それでも宮下さんにとっては、この時に使命が定まったことが決定的でした。
現在のワンキャリアのミッションは、高木さんと一緒に作った「人の数だけキャリアを作る」です。宮下さんによると、当時はまだビジョンやミッションという言葉はなかったものの、データを集めることが使命に定まった瞬間に、プロダクトもビジネスモデルも全部決まったといいます。
高木さんはこの転換を、就活生と企業という課題感の異なる二者をつなぐパズルが解けた瞬間として整理します。就職活動のデータを集めることが就活生の意思決定を支え、同じデータが企業の採用活動にも生きる、という道筋です。
データを集める
就職活動にまつわるデータを蓄積する
就活生の意思決定
データが就活生の判断材料になり、人が集まる
企業が集まる
人が集まる場所に企業も集まってくる
お金が生まれる
企業が集まることで事業として収益が成り立つ
宮下さんは、最初から就活に絞ろうとしていたわけではないと話します。人が最も時間を投じるのは仕事であり、その入り口である仕事選びを押さえれば長く続けられる。その最初の入り口が大学生の就職活動だった、という順番です。
そこにフォーカスしたっていうだけで、あんまね、就活っていうビジネスをやってるつもりはないんだよね、今でも。
「時間が経てば経つほど勝てるモデル」とマッチング業者への違和感
高木さんは、年に1回しかない就活のサイクルを数年間やり続けたことこそが参入障壁になったと見ています。大企業にとっては時間がかかりすぎ、若い人は自分が就活生のときだけ当事者意識を持っても続かないからです。
データっていうけどさ、そんな綺麗にさ、そうやってGoogleみたいにクロールで取れるわけじゃないから。(データは)年一回の中で地道に集めていく。
宮下さんも、意識してきたことをこう語ります。
宮下さんがこの考え方の対極に置くのが、マッチング中心の人材ビジネスです。宮下さんによると、エージェントは年収1000万円の人を紹介すると30〜35%、つまり300万〜350万円のフィーをほぼ原価なしで得られるため、業界はマッチングにしか興味を持たなくなるといいます。
HRの人たちの言葉で俺すごい嫌いなのが送り込むとか、その会社に入れるとか、何様だみたいな。
宮下さんは、人生で何本かに入る大事な意思決定を「送り込む」と扱うビジネスは、一時的に収益性が高くても長続きせず、いずれ壊れると考えています。だからこそワンキャリアは、データを貯めて人の意思決定を支え、そこに人と企業が集まるモデルを選んだと話されています。
リクナビ・マイナビの時代に、なぜ「絶対無理」を押し切れたのか
高木さんは、当時はリクナビやマイナビが圧倒的に強く、誰もが微妙な不満を抱えつつも「変わらない」と思っていたと振り返ります。そのうえで、宮下さんにどんな勝ち筋が見えていたのかを尋ねます。
宮下さんは当初、データを貯めて公開すればいいと考え、リクルートやエン・ジャパン、インテリジェンスなどHR業界の人たち30人ほどに話を聞きに行きました。今のワンキャリアのように、ぐるなびから食べログへの移行に近い形でさまざまな情報が見えるようにする構想です。
三十人ぐらい話聞いて、全員に絶対無理って言われたね。
それでも宮下さんは、「では食べログはなぜうまくいっているのか」と聞き返しました。しかし誰も答えられず、返ってくるのは「HRは無理なんだよ」という言葉だけだったといいます。
おかしいじゃん、絶対みんな思考停止してるだけだわと思って。やっぱね、俺、そういう風に無理だって言われるとやりたくなっちゃうんだよね。
宮下さんは自ら検証を始めます。たとえば、トヨタに年間何人が採用され、どの大学の人が入り、その人たちがどこへ転職しているかといったレポートを作ると、情報感度の高い人が欲しがって会員登録したそうです。
高木さんが補足するように、それまでの就活情報は企業が「こういう人を募集しています」と発信するものが中心でした。宮下さんは、求職者が発信する情報のほうが価値が高いと考えて公開に踏み切っています。
募集要項など、企業側がその都度出す情報。従来の就活情報の中心
採用人数や出身大学、選考や転職先など。宮下さんがより価値が高いと考えた情報
半分はクレームだった公開が、なぜ「うちはオープンにしていいよ」に変わったのか
ただし、企業情報を載せることは最初は難しかったといいます。宮下さんによると、ユーザーからは「めっちゃいい」と言われる一方で、企業からの連絡は半分ほどがクレームだったそうです。
高木さんは、当時の口コミ情報は雑多な印象があり、企業にとってはあまり関わりたくない種類の情報だったと振り返ります。それに対して宮下さんは、学生たちは当時登場したLINEなどですでに選考の情報を共有しており、公開しても実態は同じだと考えていました。
時代が味方したと思うんだけど、やっぱりその選考プロセスを公開できない会社って怪しいって思うんだよね、みんな。
ワンキャリアは、守秘義務に抵触するような内容は差し止めながら、情報が出たほうがお互いにとってプラスになると企業に説明していきました。すると島田さんのような人たちが共感し、「うちは全部オープンにしていいよ」と言ってくれるようになります。
それがね、やっぱ早かったのが、業界のトップ一、二、三みたいな会社はどうぞみたいな。うちはどこにもやましいことないし、誇れる採用やってるからどうぞ公開してくださいっていう人たちが増えて。
宮下さんによると、そこから一気に広がったのが2015〜2017年頃です。さらに本格的に大きく伸びたのは、高木さんたちNewPeaceのメンバーが関わってからだったといいます。
既存の仕組みのオルタナティブへ。なぜ「変な人の考え」が必要だった?
高木さんはNewPeaceでさまざまな会社のビジョンづくりやキャンペーンを手がけながら、ワンキャリアの成長を見ていました。話してみると、宮下さんはリクナビやマイナビといった既存の仕組みに対するオルタナティブになろうとしていたといいます。
2018年頃、宮下さんは高木さんに相談を持ちかけます。1人ずつ地道にユーザーを増やすやり方から、もっと空中戦的に広げていく必要があると考えていたからです。順当な成長はしていたものの、ドライブをかけたかったと宮下さんは話します。
そういう時にはさ、新平みたいなさ、ちょっとあの変な人の考えが入らないと。うちみんな真面目だからさ。
高木さんが「どうだった?」と聞くと、宮下さんは仕事はまずめちゃくちゃ良かったと答えます。そのうえで、高木さんに出会うまでは、ビジョンやミッションを「仕事ができない人が言う言葉」だと思っていたと打ち明けます。
そもそも多分新平と出会うまで、俺はビジョンとかミッションとかもうクソくらえみたいな。どうでもいいよみたいな。
ミッションが決まったことで全てが決まったと語る宮下さんが、かつてはビジョンを軽んじていたという告白で、前編は締めくくられます。続きは後編で語られます。
まとめ
宮下尚之さんの歩みは、佐藤裕介さんの「長く続くものをお前は作れない」という一言を起点に、データを集めるという使命を見つけ、時間が経つほど強くなる事業を地道に積み上げてきた過程として語られました。業界から無理だと言われた透明性の追求が、企業側の共感を得て既存の仕組みのオルタナティブへ育っていった前編です。
- 学生時代は面接の場で企業に関西説明会を営業するなど、型破りな形で就活生を集めていた
- 佐藤裕介さんの一言が楔となり、「長く続くもの」の作り方が宮下さんの一貫したテーマになった
- 2013年に「HRに関する全データを集める」と使命が定まり、プロダクトもビジネスモデルも決まった
- マッチングで高い手数料を得るモデルではなく、時間が経つほど勝てるデータ蓄積型のモデルに投資してきた
- 業界30人に「絶対無理」と言われた情報公開は、半分クレームから始まり、トップ企業の「オープンにしていいよ」で一気に広がった





