「違いが価値である」を事業にする会社とは?
この回のゲストは、知的障害のある作家とライセンス契約を結び、作品を軸にアートライフブランドを展開するヘラルボニーの創業者、松田崇弥さんと松田文登さんです。2人は一卵性の双子で、崇弥さんが弟、東京在住、文登さんは岩手在住です。
聞き手のタカギシンペイさんは、障害や、より広く「違い」という分野に強い関心があると話します。障害のある人を支援の対象としてかわいそうに扱うのではなく、尊敬される対象として、かっこいいアウトプットにする点にヘラルボニーの特徴を見ています。
ヘラルボニーの事業について、松田兄弟は、全国のアートに特化した福祉施設と契約し、作品データの著作権 ── 創作物を作った人に認められる権利。複製や利用を許諾する権限を含み、ライセンス契約はこの利用許諾を契約で定める仕組みですを管理して、さまざまなものや場所に落とし込んでいると説明します。
ただし松田兄弟によれば、ヘラルボニーの目的はIP事業そのものではありません。「障害」と聞いて欠落を連想するのではなく、違いや個性へと本気で脳が変換されるように、アートというフィルターを通じて障害のある人のイメージや概念を変えることを目指しているといいます。
タカギさんは、人生のテーマとして「違いが価値である」ことを何らかの形で証明したいと考えてきたと明かし、ヘラルボニーには一方的に嫉妬していたと笑います。そのうえで、創業直前ではなく、2人の人生そのものをさかのぼって聞いていきます。
銀行員の父と、母が育てた3兄弟
松田兄弟の父親は銀行員、母親は学校の事務員でした。堅い家系に聞こえますが、2人はそれほど堅い家庭ではなかったと振り返ります。ソフトボールで全国大会を目指したり、卓球に打ち込んだりと、やりたいことを止められることはなく、基本的に自由にさせてもらったそうです。
松田家は男3兄弟で、兄に障害があります。父親は約3年に1回の転勤で単身赴任が続き、双子が6〜7歳の頃からはほとんど一緒に暮らしていません。帰ってくるのは週に1回か2週間に1回ほどでした。
そのため母親には、ほぼ1人で3人を育てたという強い自負があるといいます。メディアが父親の話を聞きたいと取材に来ると、母親は「子育てに一切関与していないのに父親面するな」という勢いで嫌な顔をする、というエピソードも笑いを交えて語られました。
兄が自分たちと違うと気づいたのは、兄弟の一人の感覚では物心がついた3〜4歳頃だったといいます。ただ、その違いが世の中とどれくらい違うのかまでは、当時はわかっていなかったそうです。
働きながら男3人を育てる母親は、週末になると障害のある人たちの団体に3つか4つ参加していました。ピクニックや海の家に障害のある家族が集まって出かけるのが土日の恒例行事で、双子もそこへ連れて行かれていました。
松田兄弟にとって、最初にかわいがってくれた大人は福祉関係の人たちでした。小学4年生でソフトボールを始めるまでは、その世界がむしろ社会のマジョリティなのではないかと思っていたほど、どっぷり浸かっていたと振り返ります。
小学4年生の作文に込めた怒り
兄弟の一人は小学生の頃、障害のある兄のことを作文に書いていました。週末の活動には、自閉症のある人もダウン症のある人も、精神障害のある人もいて、それが当たり前の環境だったといいます。
ある日、兄やメンバーと一緒に買い物に行ったとき、同い年くらいの男の子たちが兄の集団を指さして笑っていました。その光景にとても腹が立ち、小学4年生のときに「普通に見てもらいたい」という思いを作文に書いたそうです。
いま振り返ると、自分たちにとって当たり前だった環境は社会から見れば特殊だったと松田兄弟は話します。障害のある人と同じ時間を過ごしたことがない人が51.9%にのぼるというデータにも触れ、当たり前ではない現状に憤っていたのだと考えています。
ただし、当時から世の中を変えたいと考えるような高尚な子どもだったわけではない、とも付け加えます。どこかで変だとは思っていたものの、ソフトボールの試合には兄も当たり前に応援に来て、排除される感じもなく楽しく過ごしていました。
兄とは鬼ごっこをしたり、お風呂で遊んだりと仲が良かったといいます。ただ、兄は知的には2〜3歳程度と診断されていて言葉でのやりとりが難しく、「兄」というより守る対象に近い、一般的な兄弟とは違う関係だったと説明されています。
兄の話を封印した中学時代
タカギさん自身も、母親が養護学校の先生で、身近にそうした環境がありました。だからこそ、思春期に入り格好をつけたくなると距離感が難しくなるのではないかと問いかけます。松田兄弟の答えは「思春期はガッツリ距離を取りまくり」でした。
転機は中学1年生です。5つの小学校が1つの中学校に集まった瞬間、上級生も含めて、障害をばかにする文化が突然現れたといいます。兄は近くの養護学校(現在の特別支援学校)に通っていて、同じ学校にいたわけではありませんでした。
中学校では、テストの点が悪い生徒に障害を指す蔑称を投げつけるような言葉が、「アホ」や「バカ」と同じ感覚で自然に飛び交っていました。兄を直接からかうものではなくても、松田兄弟は「この世界では兄の話を封印して生きなければ」と直感し、中学の間は双子とも兄のことを言わなかったそうです。
小学生時代。週末は福祉の団体で過ごし、障害のある人がいるのが当たり前。兄も試合の応援に来ていた
中学入学後。障害をばかにする言葉が日常的に飛び交い、双子は兄の話を封印した
上の図のように、環境の変化は2人のふるまいも変えました。眉毛を剃り、髪を染め、ピアスを開けるという、わかりやすい反抗期を過ごしたといいます。
不良グループには、迎合したという意識はないものの、所属していたと振り返ります。バイクに乗るなど「人間としてよろしくない時期」もあったが、当時は楽しいと思ってやっていたそうです。
一方で松田兄弟は、不良グループにいたことにも兄の存在が引き金になっていたと見ています。蔑称を積極的に使っていたのは不良グループの中心の人たちで、そのグループに入ることで、ばかにされる対象になるのを免れていた面があったと語っています。
双子そろって私立に落ち、卓球の村へ
高校受験で、松田兄弟は地方では滑り止めにあたる私立高校に双子そろって落ちました。ほとんど落ちる人がいない学校だったため、本人たちも驚いたといいます。内申点がかなり悪かったことなどが原因だったと振り返ります。
中学1年の最初の頃の成績はむしろ優秀で、一番最初のテストは478点だったことをいまでも覚えているそうです。しかし中学2年頃から学校にあまり行かなくなり、成績はジェットコースターのように下がっていきました。
そんな中でも、松田兄弟は卓球だけは中学2年まで懸命に続けていました。岩手代表として中国遠征に行くほどの実力で、何十年も連続でインターハイに出場している公立の大野高校に進むことになります。
大野高校は自宅から約100km離れた県北の村にあり、隣はもう青森という場所でした。人より牛のほうが多いと言われるほどの土地で、最初は寮に入り、のちに教職の母親が転勤願を出してその地へ移り、借家で一緒に暮らしたといいます。
大野高校のある地域は卓球で村おこしをする特殊な場所で、松田兄弟は3年間ひたすら卓球に打ち込みました。中学時代は人間として破綻していたと語る2人ですが、高校の3年間で考え方はかなり変わり、「いい日々だった」と振り返っています。
グラフィティとmixiが開いたデザインへの道
高校時代の松田兄弟には、卓球のほかにもう1つ熱中したものがありました。中学の頃から好きだったヒップホップカルチャーの影響で始めたグラフィティ ── スプレーなどで壁面に文字や絵を描くストリートアート。ヒップホップの4大要素の一つとされ、ボムやタギングといった描き方の種類がありますです。
崇弥さんは、夜中に文登さんと一緒に村の中でグラフィティを描いていました。見てくれる人はいなくても、作品をmixiにアップすると、全国のグラフィティライターが見つけて評価してくれたといいます。その経験から、崇弥さんはデザイナーの道を志すようになりました。
ところが村には美術の先生もいません。崇弥さんは村に移住してきていたイラストレーターの古屋さん古屋の家のポストに、デッサンを教えてほしいという手紙を投函しました。すぐに返事が来て、そこから毎週デッサンを教わったそうです。
進路を探す中で、崇弥さんは東北の芸術大学に、くまモンの生みの親である小山薫堂 ── 放送作家・脚本家。映画『おくりびと』の脚本や熊本県のキャラクター「くまモン」のプロデュースで知られますさんがつくった企画構想学科があることを知ります。薫堂さんの話を聞き、人生で初めて、仕事を生き生きと楽しそうにやっている人を見たと感じて、その学科へ進むことを決めました。
卓球を続けた文登さんが燃え尽きるまで
崇弥さんがデザインの道へ進んだ一方、文登さんは卓球を続け、東北で1、2番に強い大学に推薦で入学しました。どちらが強かったかをめぐっては、崇弥さんが「完全に僕のほうが強かった」と言い、文登さんが「後半は私も強かった」と応じるなど、兄弟らしい掛け合いが続きます。
グラフィティとデッサンを経て、芸術大学の企画構想学科へ進学
卓球を続け、東北屈指の強豪大学に推薦で入学
ところが文登さんは入学後、4年間を卓球に捧げたくないと感じます。プロになるわけでもなく、懸命に頑張った先に何が待っているのかと考え、気持ちの面では燃え尽きていたといいます。
文登さんは卓球漬けの高校時代にも、卒業の際に「障害のある人の個性に仕事がアジャストされる就労支援施設を自分で立ち上げたい」と書いていました。進学先の大学では、共生社会には経済性が伴わなければならないという考えの共生社会経済学科に在籍し、入ること自体には当時満足していたそうです。
しかし実際に入ってみると卓球は面白いと思えず、文登さんは大学在学中に自分の中で一度区切りをつけました。この時期の双子は、互いに干渉はしないものの、話はしている関係だったといいます。
何者でもない仲間で始めたブランド「MUKU」
松田兄弟が再び合流したのは24〜25歳、社会人になってからです。文登さんは地元のゼネコンに、崇弥さんは小山薫堂さんの会社であるオレンジアンドパートナーズに入社していました。
きっかけは、岩手県花巻市にあるるんびにい美術館るんびにい美術館です。障害のある人たちのアートを扱う美術館があると母親に教えられた崇弥さんは、お盆に初めて訪れて大きな衝撃を受けました。
崇弥さんは、この作品群でクオリティの高い面白いことができないかと考え、文登さんを含む当時の仲間たちに声をかけました。そのとき集まったメンバーの中には、いまもヘラルボニーで働く社員がいるそうです。
出会い
母親に教えられ、花巻の美術館で障害のある人たちのアートに衝撃を受ける
声かけ
文登さんやクリエイティブ業界の仲間に、一緒にやろうと呼びかける
副業で始動
それぞれ仕事を続けながら、ネクタイブランド「MUKU」を立ち上げる
MUKUは、2人とも会社を辞めずに副業として始めたブランドでした。色とりどりのネクタイを作って販売し、ドラマ『silent』の監督を務める大学の同級生や、スノーピークで働いていた友人なども参加しました。松田兄弟は、何者でもないみんなが集まってやる「お楽しみプロジェクト」だったと表現します。
当時は、いまのヘラルボニーの形は全く決まっていませんでした。起業して儲けようとも、大きくしようとも考えておらず、ライセンスやIPという発想もなかったといいます。作家の作品が本当にかっこいいのだから、かっこいい状態で世に届けたいという純粋な思いが原動力でした。
MUKUの活動は、ネクタイの販売にとどまりませんでした。ラッパーのゴメスさんゴメスに声をかけて「MUKU」という曲のPVを撮ったり、SANABAGUN.の高岩遼さんにネクタイを締めてモデルを務めてもらったフォトコレクションを出したりと、自分たちのクリエイティビティを世に発露させたいという感情で動いていたそうです。
タカギさんが「ギアが変わっていったのは何がきっかけだったのか」と問いかけたところで、前編は幕を閉じます。後編は次週配信予定です。
まとめ
前編では、ヘラルボニーの事業そのものより前にある、松田兄弟の人生がたどられました。障害が当たり前にある環境で育ち、思春期には兄の話を封印し、卓球とグラフィティで別々の道を歩んだ2人は、美術館での衝撃をきっかけに、何者でもない仲間とブランドを始めています。
- 幼少期の松田兄弟は、週末を障害のある人たちの団体で過ごし、その世界を社会の多数派だと感じていた
- 兄を指さして笑う子どもへの怒りを小学4年生の作文に書いた一方、中学では障害をばかにする文化の中で兄の話を封印した
- 高校卒業後、崇弥さんはグラフィティから企画構想学科へ、文登さんは卓球を続けたのちに燃え尽き、道が分かれた
- 社会人になって花巻の美術館で衝撃を受けたことをきっかけに、副業のネクタイブランド「MUKU」が生まれた
- MUKUの出発点は事業拡大ではなく、作家の作品をかっこいい状態で世に届けたいという純粋な思いだった





