「遊び」の会社アソビューは何をしているのか?
高木真平さんは、各界のリーダーが年1回集まって語り合う合宿「G1アンダー40」で山野智久さんと出会い、のちに一緒に旅もした間柄です。高木さんは、起業家でありながら政治や社会にも深くコミットする山野さんのパッションがどこから来るのかが気になっていたといいます。
山野さんは普段メディア出演を断ることも多いそうですが、今回は特別に出演が実現しました。高木さんは、すでに多くのインタビューに出ている山野さんに、あえて人生の最初から話を聞きたいと考えたそうです。
山野さんの会社アソビューは、「遊び」の領域でDXを支援する会社です。よく知られているのは消費者向けの遊びの予約サイト「アソビュー」ですが、もう1つの大きな柱として、観光施設・レジャー施設・文化施設向けの業務支援SaaS ── Software as a Serviceの略。ソフトウェアをインターネット経由で提供し、利用料を受け取る形態のサービスです「裏方シリーズ」を展開しています。
山野さんによれば、アソビューの2つの事業は、消費者向けと施設向けで役割が分かれています。
遊びの予約サイト「アソビュー」。遊びのデジタルマーケットプレイス
観光・レジャー・文化施設の業務管理SaaS「裏方シリーズ」
この2つの事業で生まれた流通データを活かし、アソビューは自治体向けのコンサルティングにも取り組んでいます。多くの会員がいることから、遊びを予約するだけでなくプレゼントできる「アソビューギフト」にも事業を広げています。
なぜ遊びの領域を選んだのかについて、山野さんは「どちらかというとロジックで考えた」と答えます。リクルート時代に人材採用を手伝うなかで、成長産業には求人ニーズがあふれる一方、斜陽産業では素晴らしい経営者に可愛がってもらっても求人の発注がなかったという経験がありました。
テレビの画素数を上げたいとか、車の馬力を何万馬力にしたいとかっていうニーズというよりかは、好きな人と素敵な時間を過ごしているとか、思い出を作れるとか、家族とか友人との絆みたいなところがこれから重要視されていくよね、と。
山野さんは、モノ消費からコト消費 ── 商品を所有することより、体験や時間、思い出などに価値を見出してお金を使う消費のあり方を指す言葉ですへ移るなかで、余暇の領域が社会で重要になるという仮説を立てました。起業はすでに決めていて、その仮説に沿って成長産業を探したことが、遊びの領域を選んだ思考回路だったと説明しています。
ガキ大将で神童、ヤンキーにも可愛がられた少年時代
高木さんは、山野さんについて「パッションあふれる話し方なのに、考え方はロジカル」と指摘します。山野さん自身も、パッションの人に見られがちだが、かなり論理思考で考えているところが多いと認めています。
山野さんは千葉県松戸市の出身で、男3兄弟の末っ子です。2人の兄が何で怒られるかを、一番下なりにずっと見て育ったといいます。
5人家族の中でも、家族の空気が悪い時に、こういう感じで言ったら家族が和むかなとかっていうのを幼いながらに気にしながら、逆に言うとそれが楽しくて生きてきた。
高木さんが「観察力高めだった」と返すと、山野さんは、兄たちの失敗を見ていたからこそ、何をしてはいけないか、どんな表情をすればいい雰囲気になるかが幼少期からわかっていたと振り返ります。
小中学校時代の山野さんは、本人いわく「ガキ大将」でした。サッカー部のキャプテン、応援団長、リレーや駅伝の選手、学級委員、児童会長と、「長」がつくものはほぼすべて経験したそうです。
モテまくりじゃないですかそれ。え、賢かったんですよね、しかも。
まあちょっとですね、その学がどうだったかっていうのは置いといて、井の中の蛙って観点では賢かったですね。
山野さんは学内では「神童」と呼ばれていたといいます。一方で、ただの優等生でもありませんでした。当時の松戸にはまだヤンキーがいて、入学当初は「眼つけてんじゃねえよ」と絡まれたものの、爽やかに笑顔で挨拶すると可愛がられるようになったそうです。
山野さんは、ヤンキーの先輩の集会に呼ばれると、塾があるので一瞬だけ顔を出して帰っていたといいます。高木さんは、真面目な側ともヤンキーとも付き合えたこの中学時代が、今の山野さんの「政治力」の原点だと受け止めています。
順風満帆の神童は、大学受験でどう崩れたのか?
何でもうまくいっていた山野さんが最初に挫折したのは、大学受験でした。現役時は早稲田大学法学部を第一志望にしましたが、余裕で落ちて浪人することになります。
山野さんの高校は私服の自由な校風で、「青春だからもう1年ぐらい追加してもいい」という空気がありました。山野さんはサッカー部のキャプテンとして仲間に朝練への参加を呼びかけ、自分も最後の大会までやり切ったうえで、明るく浪人を選びました。
山野さんの代のサッカー部では、浪人がむしろ多数派だったといいます。
しかし山野さんの家庭は事情が違いました。中小企業に勤める父の収入だけで、母は専業主婦、兄も2人いたため、大学は現役で行くよう言われていたのです。
明るく元気に浪人したら、ことのほか親と兄2人からめちゃくちゃ怒られて。もうふざけんなと。絶対費用なんか出さないし、お前なんかうちの子じゃないぐらいに言われて。
この経験から山野さんが最初に気づいたのは、自分が「井の中の蛙」だったということです。勉強せずに受けた受験では偏差値が40台から上がらず、全部落ちたことで、同じ土俵にはもっとすごい人たちがたくさんいると実感したといいます。
同時に山野さんは、絶縁されるほど家族に怒られるとは思っておらず、普通にへこみ、悲しかったとも率直に語っています。
つらい浪人生活は、なぜ大学1年での起業につながったのか?
浪人生活はかなりつらく、偏差値は挽回したものの、山野さんは志望校には受からず、明治大学法学部に進みます。浪人中は家庭内別居のような状態で、父は味方してくれたものの、兄からは「浪人しやがって」と階段から突き落とされそうになり、母からは毎日のように「お金を出さないからね」と言われていたそうです。
楽しいという感情というよりかは、頑張らなければいけないみたいな1年間を過ごしてたから、ちょっと大学で社会人になる時に同じミスはしたくないなと思って。
山野さんは、浪人の1年間で「大学生活は社会人になる準備をしよう」と考えられたことが、結果的にすごく良かったと振り返ります。大学1年の4月から12月ごろまではサークル、海外短期留学、アルバイトを経験し、その後は社会勉強のためにインターンを探しました。
ところが当時のインターンは、会社説明会の延長のようなものが多く、ワクワクするものはありませんでした。唯一縁があったのは、ある新聞社の学生記者の募集でした。
その新聞社の編集会議では、学生たちが「俺たち誰でも取材できるよね」と話していました。山野さんは、それは自分たちの実力ではなく新聞社の名前で取材できるだけだと感じてしらけてしまい、自分でやらないと本当に力はつかないと考えたといいます。
高木さんは、大学1年で大手新聞社の名前で仕事ができればドヤりたくなりそうなものだと、山野さんの冷静さに驚きます。山野さんはその理由を、浪人時代に「井の中の蛙」を強烈に意識したことだと説明します。
結局何が一番の実力で何が成果なんだろうみたいなところは向き合ったんですよね。
山野さんには学歴コンプレックスもあり、インターン先で出会う偏差値の高い人たちと勝負するには、経歴ではなく自分自身の実力をつけなければいけないと思っていたそうです。
起業のきっかけは、アルバイトへの行き道にできた古道具屋のような店でした。とりあえず古いものを集めて高く売っているという店主の話を聞いて「めっちゃ面白い」と感じ、自分も何かやらなければと思ったといいます。
山野さんはもともとサブカルやファッションが好きで、フリーペーパーをよく読んでいました。アルバイト先の千葉県柏市は商業地として面白い町だったのに、フリーペーパーがありませんでした。そこで、柏の町でフリーペーパーを作るというアイデアが生まれ、大学1年の終わりごろに起業したのです。
スマトラ沖地震の現地取材も。柏のフリーペーパーで何を作ったのか
山野さんが柏のフリーペーパーで手がけたのは、社会派から遊び心のある企画まで幅広い記事でした。発刊中にスマトラ沖地震が起き、現場がどうなっているのかを見るためにタイのプーケットへ飛んだといいます。
山野さんはプーケットで遺体と対面し、遺族に英語でインタビューして記事にしました。最終的にはJTB柏支店と組み、一部の収益を寄付する復興支援ツアーのパッケージも作っています。
一方で山野さんは、スケートボーダーに密着取材し、「スケボーは社会公害と言われているけれど、実際どうなのか」を探る記事も書きました。夜な夜な50人で街中のタバコの吸い殻を全部拾い、何本あったかを報告する企画もあったそうです。
今だったら100倍YouTuberになってますね。
フリーペーパーにはファンがつき、お便りも多く届くようになりました。発行部数は累計35万部に達し、柏で面白いことをしている学生として全国紙にも取り上げられたといいます。
それでも山野さんは、卒業後に就職を選びます。柏の街を歩けば店の人から「enzの山野」と声をかけられるローカルヒーローでしたが、自分の世界の狭さもわかっていたからです。
千葉の柏の次は松戸で、次流山で、次我孫子で、いつ江戸川越えられるんだろうみたいなのがイメージ湧かなかったんですよ。
山野さんは、組織を大きくする方法もわからず、収益もアルバイト代の延長程度で、自信がなかったと振り返ります。お世話になった人たちのためにも事業を続けたいという責任感はありましたが、もっと大きな仕掛けをするにはどこかで学ぶ必要があると考え、フリーペーパーは後輩に無償で譲りました。ただ、後輩に譲ったあとの事業は続かなかったそうです。
「僕は起業家だ」と決めて選んだリクルートの飛び込み営業
山野さんは就職を選んだ時点で、すでに自分の生き方を決めていました。柏という小さな社会で、そこにないものを生み出し、店にも読者にも喜ばれた体験が、生きがいとして残っていたのです。
フリーペーパーには毎号お便りが届き、スタッフ募集にも多くの問い合わせが来ました。山野さんにとって、それだけファンがいてくれたことが大きな励みになったといいます。
就職はするけれど、それはスケールのさせ方がわからないからであり、起業家として生きることは決めている。だからこそ山野さんは、起業家になるための最短の準備ができる場所として、当時「起業家輩出集団」と言われていたリクルートを選びました。
リクルートでの1年目、山野さんは花形とされる人材領域の新規営業を自ら懇願しました。担当は東京都台東区で、雑居ビルに片っ端から飛び込む営業から始まったといいます。
高木さんは「山野さんならいけそう」と言いますが、山野さん本人は、飛び込み営業を通して自分が意外とナイーブだと気づいたそうです。
厨房にわざわざ戻られて、塩をつかまれて二度と来んなって言われたりとか。名刺わざわざ受け取っていただいて、目の前で8等分ぐらいにちぎられて、来んなって言われたりとか。
山野さんは、呼ばれていない場所に行けばそうなるとも理解していました。大変な経験でしたが、数を追いかけてCVR ── Conversion Rateの略。接触した相手のうち、成約など目的の行動に至った割合を示す指標ですを改善していくという営業の基礎は、最初の半年間で学んだと語っています。
2年のはずが3年に。リクルート退職からアソビュー誕生まで
山野さんはリクルートで最後の1年に新規事業の立ち上げを担当し、その後退職します。もともとは在籍期間を2年と決めていたそうです。
最初の半年は絶望的だった仕事も、その後は成果が出てやりがいを感じるようになりました。まだ起業のテーマも自信もなかったことから、山野さんは途中で予定を3年に修正します。
2年って決めてたからこそ、3年では絶対に自分で次の道をちゃんと見つけなきゃいけないっていう切迫感すごいありました。
激務のなか事業を考える余裕がなかった山野さんは、「辞めてから考えよう」と決めて退職しました。起業すること自体は決めており、先輩の会社で業務委託を手伝いながら日銭を稼ぎ、半年ほどかけてアイデアを練ったといいます。
それでも半年間、起業のアイデアはまったく出てきませんでした。そこで山野さんは、自分のケイパビリティである人材領域の知識を活かし、過去の取引先から仕事を受けて採用コンサルティングを始めます。
起業から2年目ごろ、山野さんは同い年のRetty ── 実名型のグルメサービス。創業者の武田和也さんは、山野さんと同世代の起業家として知られていますの創業者が3000万円を調達したというニュースを見て、「すごいな、いつか会いたいな」と思っていたそうです。今では友人ですが、当時はその規模の調達がニュースになるほどで、山野さんは資金調達の方法もわかりませんでした。
山野さんは、売上と利益をあげ、その利益でサービスを作るしかないと考えていました。山野さんが語った創業初期の流れは、次のように整理できます。
山野さんは自分を「遅咲き」と表現します。前編の最後で、高木さんは人材コンサルティングを続けながらアソビューを始めると決めた決め手を尋ね、話は後編へと続きます。
まとめ
山野智久さんの起業家としての原点は、浪人で「井の中の蛙」だと気づいた挫折と、柏のフリーペーパーで「ないものを作って喜んでもらう」体験にありました。その生き方を決めたうえで、山野さんは足りないスケールの力を学ぶためにリクルートへ進み、3年間で営業と新規事業を経験してアソビュー創業へ向かいました。
- 家族の空気を読む末っ子の観察力と、ヤンキーとも付き合えた中学時代が、山野さんの対人力の原点とされている
- 浪人と家族からの猛反発を経て、山野さんは肩書きではなく自分の実力と成果に向き合うようになった
- 大学1年で始めた柏のフリーペーパーは累計35万部に達し、「僕は起業家だ」と決める実体験になった
- リクルートは起業の準備の場として選ばれ、飛び込み営業で営業の基礎を身につけた
- 辞めてから考えたアイデアはすぐには出ず、採用コンサルティングで売上を立てながら、2012年7月にアソビューを始めた





