チームみらいをやり切った編集者が、いま抱えている「人生迷子」
番組冒頭、黒岩さんは開口一番「人生迷子すぎて」と切り出します。チームみらいで大きな成果を出したあとの相談回です。
ほんまにこの2、3年、怒涛の日々だったんじゃないですか。
いや、もう本当に人生迷子すぎて。マジで今日、悩み相談に。
黒岩さんは大学卒業後ずっと文芸、小説の編集をしてきた編集者です。2025年に夫の安野貴博さんとともにチームみらいを共同創設し、2026年3月まで事務本部長を務めました。
高木さんは、安野さんの都知事選のころから相談に乗っていた経緯を振り返ります。当時の安野さんはまだほとんど知られていない存在でした。
(安野は)もう誰も知らないから、本当に。何なんだろうみたいな。
その無名の状態から、応援演説で話題になり、国政政党にまでなった流れを、高木さんは想像の10倍先に行ったスタートアップと表現します。
確かにスタートアップ感はありましたね、そういう意味では。全てのカオスを引き受ける役割をしてましたけど。
兼業の限界で役を降りて、いま感じている寂しさ
いまはチームみらいの役を一旦降り、編集業と、文藝春秋のYouTubeメディア「文藝春秋プラス」でのMC業を中心に活動しています。高木さんは、期待値が高いなかで一線を退くのは難しかったのではと問いかけます。
黒岩さんは、自分にとってチームみらいは「ずっと編集者をやってみたいな感覚」だったと語ります。作家の思いをどう届けるかを考えるのと、安野さんの思いをどう政治のパッケージにするかを考えるのは、同じ仕事だったというのです。
気持ちとしては、ずっと編集者をやってるみたいな感覚なんですよ。
黒岩さんは、本作りの手順を政党づくりになぞらえて説明します。本というパッケージにするかを考え、タイトルを考えるように政党名を考える。担当作が映像化されるまでが一区切り、という感覚です。
作家の思いを、タイトル・帯・デザイン・マーケティングという本のパッケージにして届ける
安野さんの思いを、新党や政党名というパッケージにして、国政政党という形にして届ける
国政政党になり新しい仲間が増えたことで、黒岩さんは「映像化ぐらいまで終わったな」という感覚を持ったと言います。それは役割を一つ終えた清々しさでもありました。
ただ、本と違うのはチームがこれからも続くことです。今後どこまで関わるのか、サラリーマン編集者という仕事とどう両立するのか、そもそもどう生きたいのか。黒岩さんはまさにそこで悩んでいます。
高木さんは、清々しいのではと問いますが、黒岩さんの答えはそう単純ではありません。政党という大きなものを一度編集してしまったことが、次の迷いを生んでいます。
自分は何を社会的な意味で編集するべきなのかっていうのは、もうちょっと5年10年のスパンで考えていきたいところだなとは思ってはいる。
寂しさの正体について、黒岩さんは、自分の中に仕事が入ってこないというより、社会や作家側が自分を「編集者のプロ」として見てくれなくなったことだと分析します。
(作家さんに)チームみらいの思想とは違う思想なので、あなたに作品を預けられません、みたいに言われたりするわけですよ。
黒岩さんは、作家とはあくまで編集者としてのプロフェッショナリズムで向き合ってきたと言います。安野さんとも政策レベルでは違う価値観の部分があるのに、周囲からはスタンスまで一体だと見られてしまう。そこに悲しさがあります。
ある意味、編集者のプロとして見てくれなくなってしまったんだっていう、そこの悲しさみたいなのがあり。
高木さんも、自分がかつて選挙に関わった経験から、スキルで仕事をしているのにスタンス100%同意の人だと見られてしまう難しさに共感します。
いや、俺、違う人間だけどな、なんて思いながら。表に出るってこういうことだな、みたいな。
直木賞を出していないコンプレックスと、政党でも消えない引け目
黒岩さんは、自分のコンプレックスについても率直に語ります。編集者の箕輪厚介さんや設楽さんは、ヒットを出してメディアに出てきた人だという見方です。
黒岩さんは文藝春秋で直木賞の候補作は出しても、担当作が受賞したことはないと言います。編集者としての実力が認められて表に出てきた人間ではないという引け目が強くあるのです。
一方でチームみらいについても、安野さんが全てを作っているなかで「自分がやったわけではない」という逃げとコンプレックスが発動してしまうと言います。それでも、新しい政治をやりたいという共鳴は強くありました。
だから、あれをどういうふうに自分の中で消化し、次の活動につなげていくかっていうのは、めちゃくちゃ悩んでる状態ではありますね。
スタンスで見た「編集」の共通点。惹かれるのは傷から目を背けない人
高木さんは、スキル面では編集も政党も同じだとして、ではスタンスの面で文芸とチームみらいに共通するものは何かと尋ねます。文化と政治は水と油に見えるからこその問いです。
黒岩さんは共通点を2つ挙げます。1つは、小さいところから始めて頑張るスタートアップ的なものへの愛着です。
本ってある意味すごいスタートアップで。作家さん一人が書いたものから、もしかしたらそれが社会的なムーブメントになるかもしれない。
もう1つは、みんなが諦めている状態が嫌だ、という感覚です。ここで黒岩さんは、作家という人種の特異さを語ります。
中学生の時にあった嫌なことって、普通、忘れた方が人生ハッピーじゃないですか。でも作家さんって、めっちゃ覚えてるんですよ。
黒岩さんは作家を、傷を何度でもえぐれる人たち、塩を塗り続けているような人たちだと表現します。忘れた方が楽なのに、そこから目を背けない原理主義的なピュアさに惹かれるというのです。
ある種の原理主義的なところの人には、結構惹かれるんです。ある種のピュアさみたいなところかな。
そのピュアさは、好きな作家にも、そして安野さんにも共通してあると黒岩さんは言います。ただ、自分自身はそうではないと付け加えます。
選択肢が広がりすぎて「何に惹かれているか」が分からない
黒岩さんは、自分が文芸を選んだのは結果的に生っぽいものが好きだからだと振り返ります。編集はとても面白い仕事です。しかし、文芸編集者としては「一冊でも多く売ること」以上のことができないという限界も感じています。
それがなんか、一番自分がやりたかったこととも違うんだろうな。それで良いのだろうかっていう迷いは、今まさに起きている。
いま黒岩さんは、活字でなくてもいいのではと考え、映像のYouTubeもやっています。しかし、一度空っぽにした結果、自分が何に惹かれているのか分からなくなっているのかもしれない、と言います。
かつては本能的に「この作家と仕事したい」「安野を押し出したい」があった。ところが今は、何を編集するかを選べる贅沢な状態で、かえって途方に暮れているのです。
自分は果たして何に心惹かれて、何を編集したくて、何にときめいて、何が社会のお役に立てるのだろうか。変数が多すぎて、今途方に暮れてる。
チームみらいでやれることも無限にあり、編集者的な役割として議員になる、出馬するという選択肢さえある。それでも、それが本当に一番やりたいことなのかが分からない、と黒岩さんは言います。
高木新平が語る「抽出がうまい」という自己発見
ここで高木さんは、視点を引くために自分の話をします。編集的な仕事をする人には、新しい視点や才能を発掘して世に提示したい欲求があると言います。
高木さんは広告代理店に入ったものの、コピーやCMを極める職人にはなれないと感じたそうです。そのかわり気づいたのは、引き出したあとの加工ではなく、抽出自体がうまいということでした。
僕は引き出すのがうまいだけなんだっていうのがあって。この引き出した後の表現の加工じゃなくて、抽出自体がうまいんだって気づいて。
高木さんは、仕事の下流ほどお金が流れて分かりやすいと言います。それでも、起業家や政治家とダイレクトにやり、最初の抽出をギュッと作るときの方が、圧倒的に成果が出て自分も楽しいと語ります。
高木さんは、それが「得意と好きが重なるポイント」だと言います。なぜ得意なのかを問われ、傷を持つ人の気持ちが分かるうえに、自分は図々しいからだと答えます。
普通、傷がある人は優しくて共感性なんだけど、僕は傷にも踏み込めるっていうのが、多分自分の武器だと思ってて。
この「傷に踏み込める」という言葉に、黒岩さんは思わず涙を流します。人の傷と向き合っているのが自分も好きなのだと気づいたからです。
そこを浴びたいんだと思うんですよ。人の傷と向き合ってるのが、私も好きなんだと思うんですよ。
政治は無限の傷と向き合う場所。受け止めきれるかという葛藤
黒岩さんは、政治が無限の傷と向き合う場だと言います。しかも、その傷を無限のまま処理しなければならない。そこに耐えられなくなったのかもしれないと振り返ります。
高木さんも、政治は感情の調整部であり、経済合理では解決できない感情の渦を、再分配や法律で救いきれずにバックラッシュも起きる場所だと言います。そこに向き合う器は自分にはないと語ります。
僕は傷がある種、希望に転換されないと、ちょっと自分の中でやれないなっていう感じもあって。
高木さんは、傷を表現や事業に昇華できないと、ただ溜まるだけだと言います。だから政治家にはなれないし、政党に入るのもきついと気づいたのです。
一緒に傷を向き合って、最後、表現か何かに昇華できないと、ただ溜まるだけなんで。
黒岩さんは、政治の世界を垣間見て嫌だと感じたことを語ります。傷に向き合っているふりが上手くなっていく人がいる、というのです。防衛本能として感度が鈍っていく人もいると感じました。
安野貴博の「新しさ」と、傷を引き出す編集者の罪悪感
黒岩さんは、安野さんの政治家としての新しさを、傷を波動としてしか感じない共感性の低さだと表現します。飲み込まれない代わりに、解決策に強い興味を持つのだと言います。
(安野は)自分が2時間聞くよりAIインタビュー5時間した方がいいよね、その方が解像度が上がるよね、みたいな思想なので。
高木さんは、長く政治をやってきた人の顔のしわを「感情の傷」だと語ります。逆にピュアに自分の感情を言う人はつるっとしている、と言います。
墓場まで持ってかなきゃいけない傷の数だけ刻まれていくっていうのは、なんか人相でわかるなと思ってて。
話は、黒岩さんがずっと聞きたかった2つ目の問いに移ります。傷を見つけるのが得意な時、少し「騙している感覚」になることはないか、という問いです。
傷をパッケージしてる感覚みたいな感じなんですかね。「これが傷です」って。
演説がバズったあと、後から「騙されました」「本当のチームみらいは違いました」と言われることがあった、と黒岩さんは明かします。そのたびに、自分は向き合ったふりをしていたのではという罪悪感が襲ってくるのです。
一対一でやっていた、「あなたの傷、私は抱きしめられます」っていう、あれに嘘がなかったか、不安になってくる。
同じ熱量の人とやる。高木新平が失敗から出した答え
この問いに、高木さんは現時点での答えを返します。同じレベル感のエネルギーがある人とやらないとダメだというものです。
すごい良い問いだと思ってて。同じレベル感のエネルギーある人とやらないとダメだっていうのが、僕の今の一定の答えで。
高木さんは、若い人からビジョンを引き出すと、ほぼ自分が作った状態になり「洗脳できてしまう」と言います。あとで「信じてたのに」となる。だから起業家や経営者とだけ仕事をすると決めているのです。
それぐらいエネルギー量があって、バーンってぶつかり合って、傷をえぐっても、まあある意味立ってて、しかもそれをさらに表現とか事業とか何かに昇華できるっていう人じゃないと。
高木さんは、これはいろんな失敗の末に得たスタンスだと言います。射程を狭めている自覚もありますが、明治維新を起こしたのは0.1%の人だという整理で納得しているそうです。
明治維新を起こしたのは0.1%の人だっていう。だからその0.1%の人を変えるっていうことにフォーカスしよう。結果、社会を変えようっていう。
原点に戻ると、勝手に進化する。アウトプットを決めすぎない
高木さんは、自分がうまく動けることは勝手にやるものだと言います。自分自身、時間をかけて「起業家の魅力を引き出す」という原点に戻っていったそうです。
ただ原点に戻っても、政治の経験やメディアで語る経験など、他の人が持たない視点が掛け合わさり、勝手に進化していくと言います。
黒岩さんは、小説の編集を原点にすることも、政党運営を原点にすることも、どちらもありだと感じています。高木さんは、小説家か政治家かと決める必要はないのではと返します。
生のある種傷を持った人がどう表現するかっていうところの一番身近な場所にいて。それをまあ本なのか、わかんないけど。
ここで黒岩さんは、自分の悪癖に気づきます。表現のパッケージから考えてしまうというものです。政党か動画か小説か、という三択で悩んでいたのです。
そこのアウトプットはむしろ決め切らずに、次に浴びたい生っぽいものを探す旅に出た方が、いい気はするなとは思いました。
高木さんは、小説は最も個人的で凝縮された表現、政党は最も広く射程のあるパブリックな表現だと整理します。この振り子の両極をやってしまったから戸惑っている、という構図です。
成果は10年後。「デビューから墓場まで」という付き合い方
高木さんは、面白い起業家のビジョンを引き出しても、すぐに認知が上がるわけではないと言います。だから、自分の仕事の成果は10年後と決めているそうです。
今から当時を振り返った時に、「あの時が歴史の転換点だったよね」っていう仕事をしたいなっていう。
高木さんは、本が売れるかどうかと、その本を通じた仕事が作家の人生や表現活動に価値があったかは、別の話だと言います。黒岩さんも強く同意します。
この作家さんの中で、明らかにこの本がエポックメイキングだよねっていう本を作れるかどうかが、私にとってはすごく大事で。
黒岩さんは、賞を取ったか一番売れたかではなく、その作家の歴史や文芸業界の地場を変える瞬間を作れるかが大事だと言います。それは直木賞や最も売れた本とは往々にして違うのです。
文芸編集者はデビューから墓場まで作家と付き合う、とよく言われます。黒岩さんは、その中で最もドラスティックな変化を、一番濃いものをもらいたいという欲望があると語ります。
高木さんはサッカーの移籍金の例を挙げます。移籍金は前のクラブや高校にも分配される仕組みで、キャリアの全てが貢献しているのに、最後にお金を出したところだけが成果を持っていくのはおかしい、と言います。
最後の集大成、最後にお金出しちゃったところだけが持ってくって、なんかおかしいなっていうか。
どんな表現でも同じように世界を変えている
黒岩さんは、政党から小説までどのアウトプットでも同じ興奮を感じられると言います。政治の熱量を浴びると戻れない、ということは全くないと語ります。
いや、もう一回政党やってたら戻れない、というのは全くなくて。同じように世界を変えていると思ってるので。
黒岩さんは、美しい実を出すピアニストの藤田真央さんも、新しい制度を作る人も、渾身の一作を書く作家も、みんな同じように世界を変えていると考えています。
この美しい音を奏でるために自分は生きてるんだ、みたいなことを思ってる人なんですよ。
黒岩さんは、自意識のためでも広い利他性でもなく、好奇心ドリブンで、矢印が対象に向かっている人が好きだと言います。そういう人こそ世界を変えられるという確信です。
だから、そこに嘘がない人とこれからも仕事をしたい、というのが黒岩さんの結論に近づいていきます。
自分がメディアに出る意味は「共通媒体」になること
高木さんは、黒岩さんが表に出るメディア活動の意味づけを見つけたいと言います。ただスキルとして出られる、以上の意味です。
そして、今の話がそのままメッセージになると高木さんは言います。小説家も政治家も研究者も、それぞれの形で傷から何かを生み出し世の中を美しくしている。それを届ける共通媒体になれる、という立ち位置です。
それは等しくそれぞれの形で、ある意味、傷から何かを生み出し、世の中を美しくしたりとかしてる。それ自体を、自分が共通媒体になって届けるっていう立ち位置になれる。
黒岩さんは「これか」と手応えを感じます。高木さんは、大事なのはただの役回りでやらないことだと付け加えます。次に本当にタッグを組む人に出会うかもしれない、という気持ちが必要だと言います。
その出会うかもしれないっていう気持ちでやってないと、マジで虚しい。
高木さんは、この番組も、仕事になり、お世話になった人と話せて、自分がフックアップしたい人を出せる場だと決めていると言います。表現方法は数年で変わるので、フォーマットに固執しないのが強みだとも語ります。
共感より、受け取った人が動くもの。傷を癒すより、えぐるもの
高木さんの整理を受けて、黒岩さんはさらに自分の欲求を言語化します。傷への共感者を増やしたいわけではない、と気づいたのです。
自分がやりたいことは共感じゃないんだよなと思って。もうちょっとアクティブなものを、その受け取った人が持って帰るものが好きなんだな。
黒岩さんは、傷を癒す小説よりは傷をえぐる小説の方が好きだと言います。受け止める政治より変えていく政治が好きで、反発も含めて人が動いていくバトンのリレーに居合わせたいのです。
受け取った側も傷だらけになりながら動いていくっていう、そのバトンのリレーみたいなのが多分好きなんだと思うんですよね。
受け止める政治、傷を癒す小説。今のメディアやクリエイターに多いとされる方向
変えていく政治、傷をえぐる小説。受け取った側も動き出す、バトンのリレー型
高木さんは、表現は言い切ることであり、みんなを包み込むものではないと言います。だから、そのスタンスをもっと言ってもいいのではと促します。
黒岩さんは、安野さんに惹かれた原点も、ある意味血が流れても新しい政治をしようとする姿勢だったと振り返ります。自分はそういう感情を求めているのだと今日感じたと言います。
裏方と出役の二刀流はなぜ難しいのか
黒岩さんは、仕事を「こなす」ことへの不安を打ち明けます。器用な方ではなく、こなした仕事をやったことがないため、苦手なゾーンに突入しているのではと感じていたのです。
こなせる人だったら、あの演説してないですから。
高木さんは、だからこそ「りなくろ100%」でいくべきだと言います。全部そのスタンスでやれれば、仕事が全部つながるという考えです。
黒岩さんは、裏と表の両方をできると言われることに疑問を持ち、なぜ難しいのかを高木さんに尋ねます。高木さんは、出役はボケ、プロフェッショナル仕事はツッコミのようなものだと説明します。
その裏と表を両方できる人って、本当いないから。
高木さんは、成功者になるほど失敗できず、新しい媒体で試すことができなくなると言います。黒岩さんが本で分かりやすい成果を積み上げてから出たわけではないからこそ、出られたのだと指摘します。
うまく積み上がっていくと、成功者だから失敗できないんで、新しい媒体でなんかやってみるとか、基本できないと思うんですよ。
高木さんは、その二刀流を右手と左手でじゃんけんするようなものだと表現します。二刀流だからこそできる戦い方を模索するしかないのです。だからこそ、誰と仕事をするかの基準を自分の中で言語化しておくべきだと助言します。
編集者は常に不足している。世界を再定義する視点を持てた夜
高木さんは、黒岩さんは近いうちに違うアウトプットの編集を必ずやっていると予感します。それはご縁次第であり、編集は一人ではできず、誰を見つけてくるかの勝負だと二人は確認します。
そのうえで高木さんは、いま起きているゲームチェンジを指摘します。自分が能動的に発掘しに行くことと、表に出ることはセットだというのです。
自分がある種、能動的に発掘することをしに行くことと、表に出ることはセットだっていうことで。
高木さんは、メディアが広がり発信する人は増えたが、それをブレないものに昇華する編集者やプロデューサーは常に不足していると言います。
作家とかクリエイターは増えてるけど、編集者、プロデューサーは基本、常に不足してるなっていう。
発掘されるのを待っている才能はいろんなところに埋まっている。その人たちと一緒に世界を変えるのはワクワクするトライだ、と黒岩さんも応じます。
話は最後に、冒頭で黒岩さんが泣いた理由へ戻ります。傷を持つ人を見つけるという自分の核を、政治の領域にいる人が言うと「寒い」と思われかねないため、隠し茶化してきたのだと明かします。
自分自身のことを話してるのに、自分のことを言われたみたいになって、涙が出たって感覚。
黒岩さんは、サラリーマンとして「夫の政治活動を応援しているだけ」といったコーティングを重ねた2年間で、自分が何にワクワクしていたかの原点を忘れかけていたと振り返ります。
高木さんは、仕事を再定義できるのは、はみ出した人の特権だと言います。政治の世界にはみ出したからこそ、黒岩さんは編集を再定義する視点を持ったのです。
政治の世界にはみ出したから、編集を再定義する視点を持ったっていうこと。
まとめ
この回は、政党立ち上げをやり切った編集者・黒岩里奈さんが、次に何を編集すべきかの迷いを、同じ抽出型の仕事をする高木新平さんと解きほぐしていく相談回でした。話すうちに、悩みの中心が「表現のパッケージ」ではなく「誰と、どんな傷に向き合うか」だと見えていきます。
- 書籍編集も政党立ち上げも、思いをパッケージにして届ける同じ「編集」だった
- 黒岩さんは、傷から目を背けない原理主義的なピュアさを持つ人に惹かれ、その傷を浴びたいと気づいた
- 高木さんの答えは「同じ熱量の人とやる」。エネルギーがあり傷を昇華できる相手でないと関係が崩れる
- アウトプットの形を決めすぎず、次に浴びたい生っぽいものを探すことが、二人に共通するスタンス
- 発掘しに行くことと表に出ることはセットであり、不足している編集者・プロデューサーの役割にこそ意味がある





