デザイナーではなく起業家?土屋さんの出発点
株式会社グッドパッチの土屋尚史さんは、自身のアイデンティティはデザイナーではなく起業家の側にあると話します。グッドパッチはデザイン会社のカテゴリに入りますが、土屋さん自身は肩書き上デザイナーとして働いた経験がないそうです。
僕の本当のアイデンティティっていうのは、どちらかというと起業家側にあるので。
土屋さんにとって起業もデザインも、ある意味では手段だといいます。起業家になりたかったというより、「22歳のときに起業家になると決めた」というのが土屋さん自身の表現です。
ただ、22歳当時の土屋さんは大学にほとんど通っていませんでした。大学1年の前期、必修の中国語のテストに向けて夜通し勉強した結果、目が覚めるとテストが終わっていたといいます。
故に寝坊をして、必修の中国語を1年生の上半期で落とすというですね。
この寝坊をきっかけに、土屋さんは2年生から大学へ行かなくなります。高木さんはそれを「わかりやすいつまずき」と笑いながら受け止めています。
伝説のバイトリーダーが21歳で直面した病
土屋さんの高校は進学校でアルバイトが禁止されていました。その反動もあって、大学に入ると土屋さんはアルバイトに打ち込みます。
働き先はカラオケチェーン「ジャンカラ」の新店のオープニングスタッフでした。ゼロから店を作っていく面白さに惹かれ、土屋さんは仕事を次々と巻き取り、新店オープンから3ヶ月で最速のバイトリーダーになります。
伝説のバイトリーダーと言われる感じの。
当時20歳の土屋さんは、大学を辞めてカラオケ店の社員になり、最年少でエリアマネージャーを目指すつもりで、店長にもそう伝えていました。
ところが、バイトに燃えていた土屋さんは体調を崩し、12月には目の中央が見えなくなります。眼底出血を起こしていたそうです。
土屋さんは同僚に頼まれて眼科へ行きますが、そこで「目の病気ではない」と告げられ、大きな病院での精密検査を勧められます。大きな病院ではそのまま即入院になりました。
これはもう終わったと。21で死ぬんだっていうので、結構絶望の淵に立たされて。
告げられたのは、誰もが「やばい」と感じる病名で、亡くなる人も少なくない病気だったといいます。医師からは半年ほどの入院が必要だと言われました。
幸いにも、当時すでに良い薬が開発されていて、土屋さんは2ヶ月半ほどで退院できました。ただし予断を許さない状態は続き、移植手術の可能性も残っていたと話しています。
退院後に人生を考え直した土屋さんは、やりたいことはまだ見えないものの、「とりあえずカラオケ屋じゃない」と感じたそうです。せっかく生き延びた人生をそこにつぎ込んでいいのか、という迷いでした。
高木さんはこの心境を、ジョブズを引き合いに「本当にこれをやりたいんだっけ」と問い直した瞬間だとまとめます。土屋さんはそれを命の期限が見えた経験だったと振り返ります。
たまたま取った授業で、孫さんに自分を重ねる
大学に戻った土屋さんは、起業に興味があったわけでもなく、たまたま「ベンチャー企業論」という授業を取ります。海外でいうアントレプレナーシップにあたる、起業家のケーススタディを学ぶ授業でした。
その授業で取り上げられたのが孫さんでした。土屋さんによると、孫さんも26歳で当時治らないとされたB型肝炎にかかり、良い医師に出会って手術が成功し、29歳ごろまで虎の門病院で入退院を繰り返していたといいます。
もちろん、彼らのようになれるかどうかはわからないけども、やっぱり今を生きてるなって思ったんです。
こうして土屋さんは22歳で起業家になると決めます。卒業まであと3年かかると聞くと、起業すると決めた以上は時間の無駄だと考え、大学を辞めました。
起業までの間に土屋さんは3社を経験しますが、在籍期間は1年、1年、2年半で、4年半ほどでした。高木さんが「経歴だけ見るとヤバめの人」と言うと、土屋さんも「履歴書でいうとかなりやばい」と笑って認めています。
祖母の550万円が背中を押したシリコンバレー行き
27歳のとき、土屋さんの元に「空からお金が降ってくる」出来事が起きます。土屋さん名義の郵便局の定期預金が満期になったという通知が届き、そこには550万円が入っていました。
この預金は、土屋さんの祖母が、親も知らないうちに、土屋さんが高校生だったころに口座を作り、10年定期で500万円を入れていたものでした。当時の利率は1%で、10年で10%増えていたそうです。
祖母の預金の金額を整理すると、次のようになります。
僕はその時にこれは完全にばあちゃんがやれって言ってるなみたいな。
500万円という額は多すぎず少なすぎず、稼げない期間があってもなんとかなる金額でした。30歳まではまだ3年ありましたが、土屋さんは今がそのときだと考え、会社に辞めると伝えます。
次に土屋さんが始めたのは、シリコンバレーにつながっている人探しでした。当時住んでいた大阪のIT系イベントのプレゼンコーナーで、何者でもない立場のまま「シリコンバレーにつながっている人はいませんか」と呼びかけたといいます。
そのイベントは、のちのチャットワーク社長の山本さんらが運営していた「大阪のIT飲み会」でした。山本さんは、シリコンバレーでなくサンフランシスコなら一度だけ食事をした社長がいると紹介してくれます。
紹介されたのがbtrax ── サンフランシスコを拠点とするデザイン会社。日本企業の海外展開支援やUX・ブランディングなどを手がけていますのブランドンさんで、日本人とアメリカ人のハーフで日本語が通じる人でした。面接の日程が決まり、土屋さんが日本を発ったのは2011年3月10日、東日本大震災の前日でした。
本当に1日行くの遅ければシリコンバレー行けなかったって感じですね。
なぜUIの領域に賭けると決めたのか
土屋さんは3月11日にbtraxの面接を受けます。英語はまったく話せませんでしたが、ブランドンさん向けに「こういうことをやった方がいい」という具体的な提案を持参し、採用されました。
2011年のサンフランシスコは、UberとInstagramがリリースから半年ほど経ったころでした。土屋さんによると、Instagramは10人ほど、Airbnbも30人ほどの規模で、スタートアップの超黎明期の雰囲気があったといいます。
街では毎日のようにスタートアップのイベントやピッチ大会が昼も夜も開かれ、どこへ行ってもピザが食べられる状況だったそうです。そうしたイベントに通う中で、土屋さんはある違いに気づきます。
僕は英語わかんなかったですけど、やっぱり彼らが作るプロダクトのクオリティみたいなのが全然違った。特にUIのレベルが全然違うなっていうのは思っていて。
アルファ版やベータ版のアプリやWebサービスでも、UIは日本で見るアプリとはレベルが違ったといいます。iPhoneを発売初日に並んで買うほどだった土屋さんにとって、その差は明らかでした。
土屋さんが感じた日米の違いは、次のように整理できます。
創業メンバーにデザイナーがいて、最初からデザインを重視。UI・UXデザイナーの求人が増え始めていた
ソーシャルゲームでエンジニアの求人は増えていたが、UI・UXはまだ重要視されていなかった
これは間違いなくこの領域は来るなっていうのを思って。明らかに日本で重要視されてない。
スタートラインの違いを目の当たりにした土屋さんは、UIの領域は重要視される未来しかないと確信し、ここで勝負すると決めました。
コワーキングスペースか、UIデザインか
帰国した土屋さんは、共同創業者の谷さんとグッドパッチを立ち上げます。当初は自宅が拠点で、谷さんはフリーランス経由の下請けの仕事を担当していました。
一方で土屋さんは、海外にあるコワーキングスペース「THE HUB」を日本に持ってくる「HUB東京」の準備も進めていました。ただ、同じ構想を持つ人が何人もいて、その人たちの方がオーナーシップが強かったといいます。
土屋さんは2つの事業を比べ、UIの仕事に絞る判断をします。比較の軸は収益化までの距離でした。
リアルな場所にお金がかかり、収益化までが遠い
手元資金で始められ、キャッシュフローを回しやすい
最初の資金は祖母の500万円で、家族も養わなければならない状況でした。土屋さんは、キャッシュフローが回るビジネスでなければいけないという「打算的なこと」も考えたと率直に話しています。
起業から半年ほどは思うようにいかず、共同創業者の谷さんとの間にも方向性や価値観の違いが出てきました。最終的に谷さんが抜け、土屋さんは一人でUIデザイン事業をスタートします。
最初の実績はGunosy。無償で引き受けた理由
一人になった土屋さんには、実力を証明する実績がありませんでした。そこで「ラッキーパンチ以外の何物でもない」と土屋さん自身が振り返るのが、最初に手がけたUIがGunosy ── ユーザーの興味に合わせてニュースを届けるサービス。東京大学の大学院生らが開発し、のちに株式会社Gunosyとして上場しましただったことです。
Gunosyを作った関くんは、土屋さんがサンフランシスコで知り合い、一緒にシリコンバレーを旅した東大の大学院生でした。グッドパッチ立ち上げの1ヶ月後、関くんから「Gunosyというサービスを作った」と連絡が届きます。
土屋さんはすぐにサインアップしてバグを報告し、「面白いけれどデザインがやばすぎる」と伝えて、東大の大学院の校舎まで出向きます。教室にはLayerXのフッキーさんを含むGunosyの創業者3人がいました。
当時そのGunosyのやった技術って枯れた技術だと言われてたんですけど、でもこれはなんか匂いが違うなっていうのはやっぱりあって。
思想はクールでチャンスがありそうなのに、デザインはイケていない。土屋さんはそこにグッドパッチの出番を見ます。学生3人で作っていてマネタイズもないため、お金は受け取らずにUIを丸ごと手伝うと申し出ました。
俺らでやるよと。でお金もどうせないだろうしもらわなくていいよって言って。
UIをリニューアルしたGunosyは大きく当たり、多くのメディアに取り上げられて、ユーザー数が毎日のように増えていきました。
土屋さんにとって、無償の仕事は友人の関くんを助けたい気持ちと同時に、「日本からGoogleのような会社が生まれるかもしれない」という期待を込めた、半分投資のようなものだったといいます。
その「投資」がどうグッドパッチの仕事につながったのかは、次の流れで整理できます。
無償でUIを担当
友人の関くんのサービスを、お金を受け取らずに丸ごと手伝う
Gunosyがヒット
メディアに取り上げられ、ユーザー数が急増する
フッターのクレジット
LPの末尾に「Designed by Goodpatch」とリンク付きで記載される
問い合わせが殺到
リンク先のグッドパッチのサイトに依頼が集まる
受ける仕事と受けない仕事、その線引きは?
Gunosyの経験から、土屋さんは一緒に仕事をする相手を選ぶことを重視するようになります。グッドパッチが関わった会社が成功すれば、それがそのまま成功事例になるからです。
土屋さんが成功するかどうかを見極める条件として最も重要視するのは、事業を引っ張るリーダー層の本気度とパッションです。プロダクトオーナーでも、創業者でも、役員でもかまわないといいます。
高木さんがなぜそれに最初から気づけたのかを尋ねると、土屋さんは「起業家が好きだから」と答えます。孫さんをはじめ成功者を見てきた中で、シリコンバレーでも成功のポイントはパッションや諦めないことでだいたい共通していたそうです。
そのため、「会社の予算が余っているので適当にやっておいてください」という仕事は、いくらお金を積まれても受けなかったといいます。
反対に、自分の時間をコミットして成功させたいという人であれば、起業家でも大企業の新規事業担当者でも一緒に仕事をしたと話しています。熱量の高い人は周囲を巻き込み、実際にビジネスを成功させることが多かったそうです。
土屋さんによると、グッドパッチが関わった会社のうち、8社か9社ほどが上場しています。上場まで手伝ったという実績こそが重要だと考え、当時はそれを基準に受ける仕事と受けない仕事を決めていたと語り、前編は終わります。
まとめ
前編では、土屋尚史さんが21歳での病をきっかけに命の期限を意識し、起業家を志して、シリコンバレーでUIの可能性に気づき、Gunosyの成功でグッドパッチ最初の実績をつかむまでが語られました。
- 土屋さんのアイデンティティはデザイナーではなく起業家で、その原点は21歳の病で「命の期限」を意識した経験にある
- 孫さんの闘病の話に自分を重ね、社会に「生きた爪痕」を残すために22歳で起業家になると決めた
- 祖母の550万円を元手にサンフランシスコへ渡り、スタートアップのUIのレベルの高さに、日本で来る領域だと確信した
- 無償で手がけたGunosyのヒットと、フッターのクレジットが、グッドパッチへの問い合わせにつながった
- 仕事を受ける基準は、事業を引っ張るリーダーの熱量とパッションがあるかどうか





