ビジネスとNPOの垣根を溶かす会社とは?
ボーダレス・ジャパンは、社会課題を事業で解決するソーシャルビジネス ── 社会課題の解決を目的に、商品やサービスの販売などビジネスの手法で収益を上げながら活動を続ける事業のことを専門にする会社です。ホストのタカギさんは冒頭で、貧困や環境問題に取り組む事業を世界で展開し、2023年度の売上が86億円を超えると紹介しています。
田口一成さん自身は、ボーダレス・ジャパンを「社会のために立ち上がりたい起業家たちが集まる社会起業家集団」と説明しました。収録時点で世界13カ国に51社があり、今期の売上は86億円ぐらいだと話しています。
タカギさんは、社会課題に取り組むのはNPOの仕事で、ビジネスにはなりにくいという垣根があったと指摘し、その境界線を溶かしている秘訣を尋ねました。
ビジネスもNPOも結局手段みたいな感じで、一番大切なのはこの課題っていうものをどういう形でタッチしていけるのか、実際に解決できるのかっていう社会としてのソリューション作りっていうのがベースにあるので。
田口さんの考えでは、事業の形は課題の解き方で決まります。経済性を伴うスキームがよい場合はビジネスに、購入者ではなく賛同者として人に関わってもらうほうがよい場合はNPOになる、という整理です。
経済性をしっかり伴ったスキームにしたほうが課題を解決しやすい場合に選ぶ
商品やサービスの購入ではなく、賛同者として人に入ってもらうほうがよい場合に選ぶ
株式会社に特化する考えは特に持っていなかったものの、結果として51社のうち50社が株式会社で、NPOは1社だけだといいます。今の形が見えてきたのは10年ほど前からだそうです。
「一畳男」と呼ばれた少年は、なぜ早稲田に進んだのか
田口さんは福岡県福岡市の生まれです。母親は保育士として働く公務員で、父親は福岡の町の不動産屋だったといいます。
幼い頃の田口さんは「一畳男」と呼ばれていたそうです。一畳さえあればいいというほど動かない子どもで、人見知りで引っ込み思案、気が弱い性格だったと振り返っています。
小学校に入る頃から少しずつ物事がわかるようになり、動き始めたといいます。成績はあまり良くなく、塾にも行かず、野球に明け暮れる日々でした。
僕はもうすごい単細胞なんで、野球やってた時はもうプロ野球選手になりたいってなるんですよ。シンプルに。
田口さんの単細胞ぶりは、練習の仕方にも表れていました。素振りは手の皮が剥けるまでやらないと気が済まず、バットでタイヤを打って皮が剥けると「今日もやったぜ」という気分になったと話しています。
進学先の早稲田大学を選んだのは、担任の先生が早稲田出身の面白い人だったからです。指定校推薦で選ばれると聞いていましたが、高校3年の夏、一部の先生の反対で突然取り消され、担任から受験で行くよう言われました。塾にも行かず勉強もほとんどしていなかった田口さんは、そこから受験勉強を始めることになります。
アフリカの映像が決めた、人生の使い道
大学に入った田口さんは、初めて「何も考えてこなかった自分」に気づいたといいます。周りの友達が宅建などの資格の勉強を始めるなかで、田口さんはそうしたことにどうしても興味を持てませんでした。
転機は、たまたま見たテレビのドキュメンタリーでした。アフリカの子どもが栄養失調でお腹を膨らませている映像を見て、田口さんは「これだ」と思ったといいます。
福岡からやってきて、毎日酒だけ朝まで飲んで、学校も行かずにずっとブラブラしてる俺のようなやつがいて、一方で同じ時代に生まれたこういう子たちがアフリカにいて、食うや食わずの世界になってる。
これどう考えても不公平だよなと思うと同時に、なんか自分が、いや神様いるんじゃない?ってふと思ったんですよ。
田口さんは、自分も相手も生まれる場所を選んだわけではないと考えました。もし神様がいるなら、自分を日本に生まれさせて、こういう人たちのために何かやれと言っているのではないか。そう考えると腹落ちし、そのために人生を使おうと決めたのが、大学1年生の18〜19歳の頃でした。
田口さんはまず、現地で一緒に活動したいと考え、東京に事務所があるNGOを訪ねて話を聞いて回りました。そこで、あるNGOのおじさんから、20年前の話としてこんな言葉をかけられます。
NGOのおじさんによると、貧困問題を本気でどうにかしたいなら、よりダイナミックかつ継続的に活動を続ける必要があり、そのためにはお金をコントロールできなければならない。助成金や寄付金に頼る活動は、出し手の意向で現場の活動が修正されたり、もっとやりたいことができなかったりする、という話でした。
この話を聞いた田口さんは、素晴らしい活動をしている人たちがお金で困っているなら、自分はお金を稼いでくる側の人になればいいと考えました。19歳ぐらいのとき、ビジネスで稼いで活動に寄付するための仕事をしようと決めたといいます。
映像との出会い
アフリカの子どもが栄養失調に苦しむドキュメンタリーを見て「不公平だ」と感じる
人生の決意
こういう人たちのために自分の人生を使おうと決める
NGO訪問
活動を続けるにはお金のコントロールが必要だという話を聞く
ビジネスへ
自分はお金を稼いで寄付する側になろうと決める
シアトルのお茶屋で見つけた事業の種
ビジネスといえばアメリカだと考えた田口さんは、大学を1年休学し、主に社会人が参加するビジネス留学プログラムでシアトルのワシントン大学 ── アメリカ・ワシントン州シアトルに本部を置く州立大学。研究型の総合大学として知られていますに渡りました。20歳ぐらいのときです。
ところが英語がちんぷんかんぷんで、経営学や経済学の本を辞書を引きながら読む宿題に、途中で馬鹿らしくなったといいます。田口さんは学校に行くのをやめ、図書館にこもって自分でビジネスプランを書き始めました。
当時のシアトルは、スターバックスやタリーズが日本に来たばかりの頃で、街はカフェだらけでした。田口さんはお茶の農家が貧しいという話を聞いていたことと、自分がコーヒーを飲めなかったことから、ハーブティーや緑茶、紅茶をもっと楽しめる店ができないかと考えます。
田口さんは書き上げたプランを持ってシアトルのお茶屋を回り、修業させてほしいと頼みました。紹介されたのは、輸入から製造、卸、レストランやショップまで全部手がける「ブルーウィローティーBlue Willow Tea」という店です。田口さんはそこで意気投合し、そのままお茶屋で働き、「ワールドピース」というお茶のレシピを自分で作るなどの経験を積みました。
帰国した田口さんは留学でお金を使い果たしていたため、当時はまだ珍しかったベンチャーキャピタルを学生ながら訪ね歩きました。あるベンチャーキャピタルが出資を決めてくれましたが、やり方をめぐって意見が分かれます。
貧しいお茶農家を救うのが一番の意義。最初から茶葉の生産農家と直接取引したい
社会貢献は儲かってからやるべき。まずは商社から品質のいい茶葉を安く仕入れ、事業を軌道に乗せる
田口さんは今振り返ると、キャピタリストの助言はとても適切だったと話しています。ただ、そういうことのために事業をやるのではないという思いが強く、出資はいったん断りました。そのうえで、ビジネスのスキルを身につけたほうがより大きなインパクトを出せると考え、3年だけ就職して経営を学んでから起業するというのが学生時代の結論でした。
行動力の源は、人見知りの「どうにでもなれ」
タカギさんは、田口さんの行動力が元々のものなのかと尋ねました。田口さん自身は、すごく人見知りで誰とでも雑談できるタイプではなく、社交性は苦手だと答えています。
田口さんは、自分のことは基本どうでもいいと思っているので、恥ずかしさもなく「どうにでもなれ」と思っているといいます。浅いコミュニケーションができる人は多くても、自分をさらけ出して一歩踏み込むリスクを取れる人は少なく、起業とはその一歩目だと話しました。
異国の地での行動について、田口さんは「ただ英語になっているだけ」だと受け止めています。最近1週間ほどインドに行った際も、相手の英語も自分の英語も全然通じなかったのに、結果としてすごく仲良くなり、一緒にいろいろやろうという話になったそうです。
自分がね、悶々としてた時間が長かったからもあるかもしれないですね。1年ぐらい本当に自分何やろうかなってすごい思ってたし、それでついに見つけたっていう、そこに乗らないわけにはいかないみたいな。
ミスミに「3年で辞める」と宣言して入社した理由
田口さんの就職先はミスミでした。経営のプロとして知られる三枝匡三枝匡さんが社長に就任したばかりで、主に中途採用だったミスミが新卒採用を始めた1期目が田口さんたちの代だったといいます。新聞広告で「経営者を志す者、名乗りを上げよ」と呼びかけていたのを見て、ここなら3年で修業できると考えました。
その時に必ずミスミ出身って僕は言い続けるから、絶対僕を取った方がいいっていうことと、いる間は誰よりも稼ぐっていうことを約束するから、その代わり3年で辞めますと。
田口さんのこの宣言を、ミスミは面白がってくれたそうです。タカギさんがその自信の出どころを尋ねると、田口さんは「自信とかいつもないけど」と答え、ハッタリを言う癖があるのかもしれないと話しました。複数の選択肢にまたがらず、ここと決めたら勝負をかける性格で、就職活動もミスミ一本だったといいます。
田口さんがミスミを選んだ理由は、社会的事業を作っていく人間として、物流、コールセンター、商品開発、マーケティングまで一通り経験したかったからです。小さいチームで事業全体を回す「一気通貫」のやり方が、3年で経営の経験値を得るにはここしかないと思わせました。
田口さんは1年目から新規事業系を志望し、週末にカフェにこもって担当チームの事業戦略を勝手に書き、事業部長に発表しました。担当は動物病院向けに、カテーテルや注射針などの医療材料をカタログ通販で届ける事業です。
課題
どこにでも売っている商品を扱っているため、価格や納期だけの比較になってしまう
現場の発見
動物病院の医師たちは、必要な薬や医療用品を海外から個人輸入していた
打ち手
日本に足りていない良い商品を海外から持ってくる
田口さんは結局2年でミスミを辞めることになります。辞める際には、取引のあったベルギーの製薬会社やドイツのメーカーの社長がわざわざ成田まで来て、日本法人を作るから社長をやってくれないかと声をかけてくれたそうです。25歳のときでした。
「単細胞だから」決めたら突き進む
ミスミを2年で辞めた理由について、田口さんは、働くなかで2年でいけると感じたからだと話します。なるべく早く自分のやりたかったことに戻りたかった田口さんは、入社半年後の研修のタイミングで人事に「3年と言ったが2年で辞めます」と先に伝え、約束どおり2年で退職しました。
タカギさんは、状況に流されたのではなく、先に宣言してやり遂げている点に驚きます。一方の田口さんは「考えてないんですよ、僕は本当に」と繰り返しました。
そういう意味では欲がないかもしれないです。自分の人生に対して、一旦決めたんだけど、もっといいのがあったらどうしようっていうよりかは、もうシンプルに決めたら突き進もうみたいな感じの。
目の前のものしか見えないし、本当に深く考えてないです。でも目の前はっきり見えたことに対して、もうベストを尽くそうみたいな。そんな感じで。行き当たりばったりですよ。
タカギさんは、田口さんの姿勢を行き当たりばったりではなく、狙いを定めて全力を注ぐやり方だと受け止めています。前編はここで終わり、続きは後編で語られます。
まとめ
田口一成さんの前半生は、18歳で決めた「貧困のために人生を使う」という想いを捨てず、その実現のためにビジネスという手段を選び取っていく過程でした。自信はなくても、目的が定まれば一本に決めて突き進むという姿勢が、ソーシャルビジネスの原点になっています。
- 田口さんにとってビジネスとNPOはどちらも手段で、課題の解き方によって形を選ぶ
- 大学1年生のときにアフリカの子どもの映像を見て、貧困問題に人生を使うと決めた
- NGOで聞いた「活動を続けるにはお金のコントロールが必要」という話から、稼ぐ側に回る道を選んだ
- シアトルでのお茶屋修業やベンチャーキャピタルとのやり取りを経て、まず経営を学ぶためにミスミに就職した
- 「3年で辞める」と宣言して入社し、実際には2年で辞めるなど、決めたら迷わず突き進む





