テレビ全盛期に飛び込んだ新人時代、あだ名と逆さ言葉の洗礼
1976年に日本テレビへ入社した小杉さんは、当時のテレビを「全盛期」と振り返ります。歌のベストテンやトップテン、フジテレビの夜のヒットスタジオなど、音楽番組が大ヒットしていた時代でした。
小杉さんが配属されたのは、華やかな音楽番組やドラマではなく、30分のクイズゲーム番組でした。さらにドッキリカメラも任され、番組を3つほど掛け持ちしていたといいます。
入社してまず驚いたのは、社員がみんなあだ名で呼び合う制作現場の文化でした。本名では通じないため、業務部長からあだ名を教え込まれたそうです。
要するにあだ名を知らないと、「おい、これ、新人にとか持ってけ」とか、こうやって言うわけですよ。誰に渡していいのかわかんない。本名って言わないから。
当時の音楽班には、ピアノがプロ級、バンド経験、A級ライセンス保持など、特技を持った猛者が揃っていました。小杉さんは、そうした環境に大卒で放り込まれた自分を「ちゃちな経歴」と表現します。
あだ名の付け方にも、この業界らしいウィットがあったといいます。小杉さんが一番感心したのは「ローレン」というあだ名でした。
これなんでローレンなのかっていうと、この人の名字がソフィエっていう名前なんですよ。ソフィエ、ソフィア・ローレン。それでローレンって。
さらに、バラエティー番組で聞くような逆さ言葉も日常だったと語ります。ただ闇雲に逆さにするのではなく、センスのよさが問われたそうです。
雨がこう土砂降りっていう状況の時に、メイヤーがシャドリブっつうんです。ちょっとかっこいいじゃないですか。
社会心理学を学んで入ってきた小杉さんは、この現場を「郷に入れば郷に従え」と捉え、いかに入り込むかを考えたと話します。
下ネタ研修と部活ノリ。「不適切にも程がある」新人現場
当時のテレビ現場のノリは、今の基準では考えられないものでした。小杉さんは「噂のチャンネル」という番組に1週間の研修で入った際の話を挙げます。
(先輩ディレクターに)明日まで下の毛を剃って持ってこいと。嫌だったらいいよと。その代わり、嫌だって言った人はみんな押さえつけられて剃られたんだぞと。
新人の小杉さんは、これは受け入れるしかないと判断して剃ったものの、見栄えを気にして同級生の毛まで加えたといいます。それを和紙に包み「毛命」と書いて持っていったところ、10年後にそのディレクターから「まだ持っている」と言われたそうです。
(10年後にそのディレクターが)小杉、お前覚えてるか?と。あの時のこれ、俺まだ持ってんだと。もうこいつ変態じゃないかと思いましたけどね。
ドッキリカメラの現場では、ロケに向かうスタッフ自身がトラップだらけの状況に置かれました。マイクロバスの中で軟式ボールのノックをしたり、クーラーが効いていないと外にバレないよう真夏に窓を閉めきったりと、大の大人が体調を崩すほどだったといいます。
北海道行きの飛行機では、タバコをやめていたのに最前列に座らされ、寝ている間に頭を灰皿代わりにされたこともあったそうです。小杉さんはこの時代を「不適切にも程がありまくった」と笑います。
こうした環境で、小杉さんはADの一番下っ端から叩き上げでキャリアを始めました。TBSが「将校」と呼ばれたのに対し、自分たちは「怪兵隊」だと言われていたと振り返ります。
24時間テレビ復活の裏側。「チャリティーに興味ない人にこそ見てもらう」
小杉さんが「自分にとって一番大きかった」と語る転機が、24時間テレビのリニューアルです。番組は下火になり、初回に世帯平均15.6%あった視聴率が7%まで落ちていました。
当時の編成部長から呼ばれた小杉さんは、それまでの10倍以上、数億円規模の番組を作らないかと打診されます。しかし、対象が24時間テレビだと聞いて動揺したといいます。
チャリティーなんか俺、全然知らないし、興味ないし、やったこともない。バカな番組ばっかり作ってたんですから。
条件は「チャリティーさえ変えなければ何でもいい」というものでした。小杉さんは同期の渡辺さんと組み、まず番組の顔となるキャスティングから手をつけます。
選んだのはダウンタウンでした。当時まだアナーキーで危ない発言もする存在に、あえて黄色いTシャツを着せることで強いインパクトを狙ったのです。ポスターのキャッチコピーは「チャリティーやで」でした。
ここで小杉さんは、自身の番組作りの根本にある考えを語ります。
しかし社内では、ダウンタウンではなくウッチャンナンチャンにすべきだという反対が最も強かったといいます。危険性が少ない、という理由でした。それでも小杉さんはダウンタウンでなければ意味がないと確信していました。
スポンサーやネット局の反対も抱える中、小杉さんは自身のキャリアで最も真剣に考えたというプレゼンに臨みます。まず一番高い山であるスポンサーから当てました。
今までの24時間テレビは電車を想像してくださいと。「席を譲りましょう」というポスターが貼ってあり、車内アナウンスもずっと流れている。
今年はこのポスターを貼りません。車内アナウンスもやりません。でも向こうの方で不良少年が二人、黙って老人に席を譲ってます。この二人がダウンタウンなんですと。
この訳の分からないプレゼンが妙に刺さり、形勢は一気に逆転しました。最後に小杉さんは「エンディングで松本人志を泣かせます」と言い切ったといいます。
さらに間寛平さんのマネージャーからは「24時間そのまま走らせましょう」という提案が出ました。エンディングで合唱する「サライ」も24時間で作曲されました。こうして現在の24時間テレビの型ができあがったと小杉さんは語ります。
一度に多く集めたい募金には、独特のジレンマもありました。設備は数年で老朽化するため、支援は一度きりでは終わらず、続けなければ「補給路を止めるとみんな終わってしまう」構造だったといいます。だからこそ数字を取り続ける必要がありました。
小杉さんは、この番組には今も変わらないシンプルな「憲法」があると語ります。何と言われようが続けること、そしてチャリティーに興味がない人にこそ見てもらうことです。
営業と編成でわかった「数字がお金にならない番組」の存在
24時間テレビのあと、小杉さんは編成へ異動になります。番組を作れなくなり「もう一つの自分は終わったのかな」と感じたそうです。編成はタイムテーブルを決める、権限を持つ部署でした。
その後は営業へ。今度は「稼げ」と言われ、制作時代とは全く違う視点に触れます。是としてきたことが、営業ではダメ出しの対象になるものがいくつもあったといいます。
象徴的だったのが、警察密着型の番組でした。ゲリラ的に強い番組の裏に置くと数字を取れるため、戦法としては必要なコンテンツです。しかし血が出たりダーティな印象があるため、その番組ではスポンサーが一度出稿を休む、というケースがあったといいます。
視聴率取ってもスポンサーは喜ばない番組があるとか(営業に行って)知るわけですよ。
小杉さんは、お金がついてくる数字を取らなければ意味がないという感覚を営業時代に叩き込まれ、編成に戻った後にそれをメンバーへ伝えていったと話します。
偉くなりたくなかった男が社長になれた理由
ADから叩き上げで、制作現場一筋だった人物が最終的に社長になるのは珍しいことです。高木さんは、広告代理店でクリエイティブ職がトップになりにくいことと重ねて、その理由を尋ねます。
なんで社長になれたんですか。順調に行ったんですか。
高木新平 さんからの質問
小杉さんは「偉くなりたいという欲はなかった」と答えます。求めていたのは肩書きではなく発言力でした。「小杉が言うならやらせてやろう」という存在になりたかったのだといいます。
その発言力は、面白い番組を作り数字を取ってきた結果として、制作のチーフプロデューサー時代に手に入れたものでした。
ジョブローテーションの際に書くキャリアデザインの希望欄にも、小杉さんは一貫した態度を取っていました。
僕は必ず「行けと言われればどこへでも」しか書かない。入社以来、一回も(希望を)書いたことない。
その理由は、新しい環境が単純に面白いからでした。食わず嫌いをせず、あらゆる場所で吸収してきたことが、結果的にキャリアを開いていったといえそうです。
子会社への転籍。「小杉は終わった」と思われた最大の転機
小杉さんが「サラリーマン人生で一番大きい」と語るのが、日テレアックスオンの社長として本体から出た時期です。編成局長・執行役員を経て子会社社長になり、その後取締役として本体に戻っています。
当時のトップと反りが合わなかったのかもしれない、と小杉さんは推測します。周囲からは「小杉は終わった」と思われた人も多かったといいます。
その変化は電話の声のトーンでわかったそうです。少し前まで部下だった相手の態度が明確に変わったのです。番組の不体裁を編成に謝りに行った際には、足を組んだ元部下から見下すように対応されました。
(元部下が足を組んで)「気を付けてもらわないと困りますね」みたいな。この野郎、俺が戻ってきたら絶対お前飛ばすって。
執行役員は当時、任期1年ごとの役員扱いで、転籍という形でした。入構証も社外スタッフと同じ色になり、健康保険証も使えなくなったといいます。子供たちからは「お父さん社長って喜んでいいの?」と聞かれ、答えに困ったそうです。
しかし小杉さんは、このアックスオン時代に感謝したいことがいっぱいあると語ります。特に力を入れたのが、日本テレビとアックスオンの関係を言葉で定義することでした。
みんな、アックスオンは日本テレビに使われてると思ってないかと。そうじゃないよと。日テレはアックスオンにとって最大かつ一番大切なお客様なんだと。
使われていると思えば言われるがままになる。しかしお客様だと捉え直せば「こうやった方がよろしいんじゃないですか」と提案できる、という発想の転換でした。新年式典でこれを語ったところ、当時のトップである会長がわざわざ壇上に上がって同調してくれたといいます。
小杉さんは、この時期を振り返って「旅をさせてくれたのかな」と表現します。左遷とも見える異動を、成長の機会として受け止めているようです。
本体復帰と三冠奪還。「この会社は」と冷めた社員たち
小杉さんは2011年、東日本大震災の年に取締役として本体へ戻ります。アックスオンにいた頃、日テレを訪れると気になることがあったと語ります。
(社員が)みんな「この会社は」っていうやつが多かった。普通「うち」とか言わねえかと。えらい冷めた、客観的な感じなんですよ。
戻った小杉さんは、担当する編成やスポーツ、情報、制作のメンバーを全員集め、率直な問いを投げかけました。
今の日本テレビを好きなやつは手を挙げろって言ったの。そしたら4割ぐらいしか上がらなかった。
さらに小杉さんは全員に目をつぶらせて同じ質問をしました。すると手を挙げた人は3割に減ったといいます。小杉さんはそれを「本当の数字」と受け止め、来年は5割、再来年は8割にしようと呼びかけました。
この問いかけは社内で話題になり、他部署のメンバーも見学に来るほどだったそうです。失敗を恐れる雰囲気を変えていく試みでもありました。
復帰と同じタイミングで、読売新聞出身の大久保社長が就任します。報道出身の大久保さんと、制作・営業・編成を経験した小杉さんは得意分野が被らず、うまく連携できたといいます。
そして2011年、日テレは8年ぶりに三冠を奪還します。全日・ゴールデン・プライムの3つの時間帯で視聴率トップを取ることでした。長くフジテレビに勝つことが最大のミッションだったと小杉さんは語ります。
翌年は二冠、その次は一冠に後退します。奮起のために小杉さんが導入したのは、応援団の結成という原始的な方法でした。学ラン姿のメンバーで活を入れ、来年の漢字一文字を書道で書くイベントは異常に盛り上がったといいます。さらに東郷神社への参拝も、今に続く恒例行事になったそうです。
小杉さんは2019年に社長、その後副会長を3年務め、2022年から顧問という立場になっています。
72歳、「夢がない」という虚無。名刺を失う怖さ
ここから話は未来へ移ります。役員会にも局長会にも出ない今、これからどうしていくのかを高木さんが尋ねると、小杉さんは意外な答えを返します。
これはね、逆に僕が聞きたいくらい。夢がないんですよ。夢を自分の中で作らないといけないんですよ。
きっかけは同窓会でした。川越で観光ガイドをやり、地域社会に貢献し、周囲から頼りにされている同級生を見て、小杉さんは「俺、何やってんだろう」と感じたといいます。人から認められ、社会の役に立つことは幸せの大事な要素だと語ります。
今の小杉さんは、パソコン教室でWordやExcel、PowerPointの基礎から学び直しているそうです。すべて人にやってもらっていたため、ベーシックなことが抜け落ちているのだといいます。
高木さんは、こうした状況は終身雇用をやりきって組織を出た人に多いのではないかと指摘します。特に誰もが知る会社の社長まで務めた小杉さんの心境を尋ねると、名刺の話が出てきました。
名刺がなくなることって、サラリーマンやってきた人にとっては、多分すごく名刺交換っていう儀式が(大きい)。
高木さんは、日テレ顧問という肩書きの名刺を失う前に、別の名前の名刺を作ってしまうことが解決策になるのではないかと投げかけます。
「面白いことはすぐ見つける」男が、日常で企てを止めた理由
高木さんは、小杉さんが達成談よりも日常の些細な失敗エピソードを大切にしている点に注目します。小杉さんも「すぐに面白いことを見つけちゃう性格」だと認めます。
いい企画って、そこにたくらみが潜んでるわけですよ。たくらみって、我々の商売では非常に大事で。
その一例として、24時間テレビでは「チャリティーに造詣が深い人」を画面から意図的に外したという裏話を明かします。この人が出てくるとチャリティーだと思わせる人は、武道館に呼ばなかったのです。
一方で、小杉さんはその「たくらみ」を日常生活では発揮できていないと語ります。今のところ面白いことが出てこず、パソコン教室や週1の筋トレでピースを埋めようとしている状態だといいます。
高木さんは、小杉さんが未来より過去を何度も面白がりたい傾向があるのではないかと分析します。今も家族と昔の失敗談で笑い合うのが好きな小杉さんに、その仮説は響いたようです。
これ(失敗談)をわざと作りに行けないんですよ。その時は自分自身も驚き、なんて俺はバカなんだと思い、そういうものの方がいいわけですよ。
失敗のエピソードは、周囲が気を使い、立場ができたことで年々減っていました。高木さんは、面白い話が増えないことこそが問題なのかもしれないと指摘します。
立山連峰に凝縮された哲学。「高きことだけが尊きにあらず」
高木さんが「最もありありと思い浮かぶ輝いた瞬間」を尋ねると、小杉さんはリーダー論を語り始めます。優秀よりもチャーミングであれ、というのが持論でした。
僕が考えるリーダーの条件は、笑える失敗をしでかすっていう。これが僕の一つの物差しなんですね。
その例として、現社長の福田さんとのゴルフのエピソードを挙げます。小杉さんが待ち合わせをすっぽかしてハムエッグを食べていた一方、福田さんは間に合わせようと走り、記念写真の端にギリギリ写り込んだといいます。今も語り草になっている失敗談です。
小杉さん自身の失敗談もあります。さんまさんに誘われてオーストラリアに行こうとした際、直前でビザが必要なことに気づき、大使館の関係者にまで連絡したものの間に合わず。それでも頼んでいたJALのお土産のコアラチョコレートだけが届いた、という顛末を家族と涙を流しながら笑い合ったそうです。
高木さんは、小杉さんが劇的な達成よりも日常の特定のシーンを大切に保管している点に、その人柄の核を見出します。
そこで小杉さんは、自分の哲学が凝縮されているという立山連峰の話を語ります。主峰である雄山は、実は連峰の最高峰ではありません。
子供の時に(剣岳を)3003メートルって教えられてきたのが、測り直したら2999メートルだった。ものすごい大きなブランド価値がなくなったみたいに僕は思ったわけ。
その悔しさを室堂の登山ガイドに話したところ、返ってきた一言が小杉さんの胸に刺さりました。
小杉さんはこの言葉に、自身のリーダー像を重ねます。カリスマが単独で引っ張るのではなく、複数のエンジンの出力をうまく引き出しながら一緒に上がっていく。それが自分のチームの作り方であり、経営のスタイルだったといいます。
1つの強力なエンジンで、周りをぶら下げて引っ張っていく
メインエンジンの横に複数のエンジンを配し、出力を引き出しながら一緒に上がる
さんまとの新婚旅行と失敗談。「これこそ夢のような話」への布石
小杉さんの話は次々とエピソードへ広がります。さんまさん、志の輔さんと一緒にイタリアワールドカップの時期に旅行へ行った話もその一つです。
現地でさんまさんと志の輔さんが、夜のイベント選びで揉めていました。サッカーのレジェンド対決を見たいさんまさんと、カラカラ大浴場での三大テノールのオペラを見たい志の輔さん。頼まれてもいないのに割って入った小杉さんは、三大テノールを強く推しました。
(さんまさんに)100対ゼロで三大テノールですと。カラカラ大浴場であるなんてないですよと。
ところが小杉さんは開始5分もしないうちに爆睡。さんまさんに「あんた、ええ加減にせえよ」と言われ、それ以来「ええ加減なやつ」というキャラになったといいます。
高木さんは、こうした失敗談が現在進行形で増えているのかを尋ねます。小杉さんは「増えてる」と答え、妻と大笑いしながら語り合うのが好きだと認めます。
高木さんは、これらの失敗談は昔の方が多く、日本自体がやんちゃだった時代の産物でもあると整理します。今は周囲が気を使い、同じ間違いを繰り返さないため、面白話が生まれにくくなっているのだと分析します。
もう一度「新人」になる。落語家への挑戦という夢の発見
高木さんは、小杉さんが最も面白いのは無茶ぶりを受けて必死にこなす新人時代だったのではないかと提案します。だからこそ、もう一度どこかで新人になった方がいいのではないか、と。
ただし、小杉さんだとわかると周囲が新人として扱えません。そこで高木さんが出したキーワードが「改名」でした。裏方だった小杉さんは意外と身バレしていないため、別の名前で第二の人生を始められるのではないか、という発想です。
さらに高木さんは、小杉さんの人生を「番組の企画書」として考えることを提案します。習い事が続かないのは、そこに小杉さんの言う「たくらみ」がないからだと二人は気づいていきます。
番組の企画書を作るつもりで自分の人生を考えてみると。自分をどう変化させていくか。あるいは何かを引き算していくか。
ここで、小杉さんの大学時代の落語経験が浮かび上がります。学生時代に落研で活動しており、今も鈴本の落語家たちと付き合いがあるといいます。幼なじみが立川志の輔であることも、必然性を後押ししました。
大学時代、落語やってたわけですよ。だから本当はね、高座名をもう一回、挑戦して落語をやるっていうのは(あるかもしれない)。
落語であれば、日テレ時代の話を「枕」として活かせます。学生時代の高座名は「連れ込み亭良寛」でしたが、時代に合わないため、新しい高座名を考えるところから始めることになりました。
高木さんは、この挑戦の本当の目的は落語のうまさそのものではないと整理します。本気で新人からやり直す中で生まれる失敗や面白話こそが目的であり、それは本気で向かわなければ生まれない、という点で二人の意見は一致します。
「志の輔の前座をやる」。すべての伏線が回収された着地点
対話は具体的な目標へと収束していきます。小杉さんの口から、シンプルで力強い夢が出てきました。
目標はあれだ。志の輔の前座をやる。
幼なじみであり、落語界の頂点にいる立川志の輔さんの前座を、地元の富山・新湊で務める。高木さんは「必然ですね」と応じます。同じ同級生が一周回って志の輔さんの前座をするという、あらゆる伏線が回収される着地でした。
理屈的にはめちゃくちゃ合ってるね。全部が腹に落ちるね。いや、ありがとうございました。
小杉さんは、この夢について「これこそ夢のような話だ」と繰り返します。厳しい志の輔さんの前座というハードルの高さも含めて、本気で向かうべき目標になったといえます。
改名というアイデアが起点になった点も、小杉さんの印象に残ったようです。役所への届け出などとは関係なく、アイデア一つで始められる第二の人生の入り口でした。
改名って言われて、それで高座名がちょっとね(浮かんで)。で、落語家になり。慣れてる話だしね。
収録後、高木さんは今回の対話を振り返り、レジェンドの夢を見つけるという難しいテーマが、最後にあらゆる伏線が回収される形で着地したことを喜びます。
高木さんは、これ自体がテレビの企画になると語ります。「72歳、元テレビ局社長が落語家になれるのか」というテーマで、目指すのは立川志の輔の前座、というわけです。
最初、いや、うつだな、本当にもう話せることないんだよなって言ってたのが、生き生きした顔になって帰った。名前考えるの楽しいなとか言いながら。
まとめ
テレビ全盛期の狂気じみた現場から、24時間テレビの復活、社長就任までを駆け抜けた小杉さんが、肩書きを手放した先で直面したのは「夢がない」という虚無でした。対話を通じて、もう一度新人になること、そして落語家として志の輔さんの前座を務めるという夢へたどり着く過程は、会社員人生の先を考える多くの人にヒントを与えてくれます。
- テレビ全盛期の日テレは、あだ名・逆さ言葉・部活ノリの「不適切にも程がある」現場だった
- 24時間テレビの復活は「チャリティーに興味がない人にこそ見てもらう」という発想の転換から生まれた
- 子会社への転籍という一見の左遷を、小杉さんは「旅をさせてくれた」成長の機会として受け止めた
- 肩書きや名刺を失うことへの不安は、終身雇用をやりきった多くの人に共通する
- もう一度「新人」になり、本気で向かう中で生まれる失敗や面白話こそが、第二の人生の企てになる




