シャンプー台から始まった「ダブル高木」の13年
美容業界のトップ美容室として知られるOCEAN TOKYOを、数年でその位置まで押し上げた代表の髙木琢也さん。ホストの高木晋平さんは、琢也さんがアシスタントだった頃から横で見てきた友人です。
晋平さんは、カリスマ美容師という肩書きでは見えない「根っこの熱い思い」や「まっすぐな気持ち」に魅力を感じているといい、この回はその部分を探る対談として始まります。
二人の出会いは、晋平さんが大学生、琢也さんが22か23歳のアシスタントだった頃です。当時の琢也さんは、カラーやパーマの要員として店から「シャンプーはやらないで」と言われるほどのポジションでした。
だからマジ(店から)シャンプー行くなって言われてたけど、行ったのよ。たまたま手が空いてたから。
フリーで来店した晋平さんとは、そのシャンプー台で仲良くなります。帰り際、晋平さんは「君がデビューしたら指名するよ」と告げたそうで、琢也さんはそれを「なんで上からやねん」と笑いながら振り返ります。
約1年後、スタイリストデビューした琢也さんのいる別店舗に、晋平さんは「高木の親戚です」と名乗って予約を入れました。フロントに「そんな人いるんですか」と聞かれた琢也さんは、面白そうだからと受け入れ、来たのが晋平さんだったといいます。
ロン毛・タメ口・ダボダボデニムの異端児はなぜ売れた?
琢也さんが当時勤めていた美容室は、中性的で小洒落た格好のスタッフが多い店でした。その中で琢也さんだけが、ダボダボのデニムに白Tシャツというストリートな装いだったと晋平さんは振り返ります。
雑だったんだよね、多分。ある種。(お客さんにも)タメ語で多分入ってるし。
ロン毛でワシャワシャの髪型、さらにSupreme ── ニューヨーク発のストリートファッションブランド。人気が高く、入手が難しいことで知られますが買えずに着ていた「スペルマ」と書かれたパロディTシャツ。晋平さんにとっては、その飾らない雑さがむしろ楽だったといいます。
そんな琢也さんは、デビュー後すぐに頭角を現します。晋平さんの「1年ぐらいで駆け上がった」という言葉に、琢也さん自身も「半年でもう売れたし、1年でもう1位になってた」と応じています。
琢也さんのキャリアを、書き起こしで語られた範囲で並べると次のようになります。
頼んでもいない店名「SUNNY」を持ってきた晋平さん
琢也さんの才能を見た晋平さんは、髪を切ってもらったり食事をしたりするたびに「独立した方がいいのに」と言い続けていました。琢也さんは、独立の一つのきっかけは晋平さんだったと話します。
だって勝手にさ、店の名前とコンセプト考えて資料持ってきてたよ。
晋平さんが最初に出した店名案は「ROOMS」、その後に出したのが「SUNNY」でした。琢也さんの記憶では、晋平さんは「お前は部屋に収まる感じじゃない、太陽っぽいからSUNNYだ」と話していたそうです。
ただ、当時の琢也さんには独立する気がまったくありませんでした。面白い案だとは思いつつ「店出さないのにな」と受け流していたといいます。
状況が変わったのは、ヘアショーの前日でした。琢也さんが「辞めるかもしれない」と晋平さんを食事に誘い、がっつり相談したのは、髪を切り始めて5、6年経ってそれが初めてだったそうです。
琢也さんはスタイリストとして4年、27歳で独立します。晋平さんの問いに、琢也さんもそれは一般的にかなり早いと認めています。
独立したら村八分、道を歩けばガンを飛ばされた
琢也さんの独立は、前の美容室から強い反発を受けました。まず、カラー剤やワックスなどを仕入れるディーラー ── 美容室に薬剤や商材を卸す業者。美容業界の裏方として、店の運営に欠かせない存在ですとの接点を断たれたといいます。
晋平さんは、裏から「あいつらには卸しちゃダメだ」と手を回される「村八分」のような状態だったと補足します。雑誌社も男女誌ともに、琢也さんを使うなら前の美容室は出ないという姿勢だったそうです。
お客さんにも伝えてはダメです。スタッフも連れて行かないでくださいみたいな。
表参道歩けばさ、店の奴らにも会うじゃん。普通にガン飛ばされてたからね、先輩とか。
琢也さんによれば、その会社は独立をNGとし、他社の美容師と食事することさえ禁じていました。独立した先輩がいなかったため、辞めることは「裏切り者」のように見られたといいます。晋平さんはこれを、一生同じファミリーの中にいる終身雇用の会社のようだと受け止めています。
リターン率98%でも断らざるを得なかった客
晋平さんが改めて独立を決めた理由を聞くと、琢也さんは「もう思ってることができないから」と答えます。その背景にあったのが、リターン率 ── 一度担当した客が次回も同じ美容師を指名して来店する割合。美容師の支持の高さを示す指標として使われますの数字でした。
琢也さんの説明では、毎月350人ほどを切る中でリターン率が80%を超えていれば、客数は増えていくという考え方が業界にあります。その中で琢也さんの数字は飛び抜けていました。
ところが、予約枠が埋まり、来たくても来られない客が出ていました。琢也さんは、会社の都合で指名を断らなければならなかったことに強い不満を抱えていたといいます。
(俺を指名してくれるってことは)その人にとっては一番うまいと思って指名してくれるわけじゃん。でも会社の都合で断んなきゃいけなかったわけ。
加えて、前の美容室には金髪禁止、綺麗な服装、敬語といったルールがありました。千葉の田舎出身の琢也さんは、敬語を使われると緊張してしまう側だったと話します。
俺なんか渋谷の駅で降りたらお祭りやってんかなと思ってたから。
だからこそ琢也さんは、サンダルでもジャージでも来られて、何でも言える美容室を作りたかったといいます。髪型が変われば人生が変わるということを、めちゃくちゃ喋りたいし、めちゃくちゃ切りたい。そのスタンスが前の店では「うるさい」「品がない」とされていました。
金髪禁止、綺麗な服装、敬語で話す。かっこつけて行く場所
サンダルやジャージでもいい。ラフに何でも言える、誰でも来られる場所
「どうですか?」と聞けば「いいです」しか返ってこない
独立前から自分なりの勝ち筋は見えていたのか。晋平さんのこの問いに、琢也さんは意外にも、自分は気遣いで緊張しいだと答えます。
だからどうですかって言われたら大丈夫ですしか言えないわけ。
琢也さんは、カラーが思っていた色と違っても「いいです」としか言えない客の気持ちがわかるといいます。だからこそ、言いやすくすることを、客を必ず満足させるための自分のルールにしていました。
「前髪どうですか?」と聞く。客は「いいです」としか言えない
「もうちょっと切る?」と聞く。客は「はい」と言える
晋平さんは、OCEAN TOKYO立ち上げ後に閉店後の店へよく顔を出していたそうです。そこで琢也さんがスタッフに「どうですかって聞いたら大体の人は大丈夫ですって言っちゃうだろ」と叱っているのを聞き、そこまでこだわるのかと驚いたといいます。
SNSがない時代に、紹介で客を増やすには?
琢也さんは自分を「器用じゃない」と言います。前の美容室では、どのスタイリストの客に入っても「俺だったらもうちょっとこうするのに」と感じていて、8割でOKという状態が嫌だったそうです。
当時はSNSがなく、客を増やす手段は限られていました。琢也さんが挙げたのは次の3つです。
- 雑誌に出る
- 来た客をリターンさせる
- 客の紹介で友達を増やしていく
しかし雑誌には先輩たちがいるため出られず、有名ではないのでフリーの客も来ません。残るのは、切った客が周りに「いいじゃん、お前も行ってくれば」と言われる状況を作ることでした。
そのために琢也さんがこだわったのが、髪型の再現性です。サークルの飲み会に行く客にはスプレーを多めに振り、家に帰って翌日も同じ髪型にできるよう、スタイリング方法を教えていたといいます。
晋平さんは、当時の自分の注文を「大喜利」のようだったと振り返ります。「ゴミみたいな髪型にして」「切ってないようなホームレスみたいな髪型に」と頼み、通常2時間半かかるカットパーマを1時間半で終えたいと求めていたそうです。琢也さんは、どうすれば最速で仕上がるかを当時から勝手に考えていたと笑います。
隣の席まで笑わせる接客が、周りを売れさせた
琢也さんは接客の範囲を、目の前の客だけに限っていませんでした。晋平さんを切りながらも、両隣の知らない客に「こいつらの会話面白いな」と思わせたかったといいます。
ある種それは先輩たちのお客さんはこっちに来た方がいいですよっていうパフォーマンスでもあるし、この美容室受けるなってさせたかった。
琢也さんによれば、この振る舞いは隣の美容師も売れさせます。こちらがふざけていれば、隣の美容師は「この人頭おかしいですね」と言うだけで客と会話が成り立つからです。
琢也さんは「一緒に働いた人は絶対売り上げが上がる」と話し、その理由をみんなが真似るからだと説明します。自分の店でこれを後輩の客にも広げれば客は勝手に増える、と独立前から見えていたといいます。
背景には、美容室を「敬語で綺麗にする場所」とする業界の空気への違和感がありました。「いらっしゃいませ」「どうされますか」から始まるスタイルを、琢也さんはエステや病院と同じだと捉え、美容室の常識を壊したいという願望を抱いていたそうです。
琢也さんは、OCEAN TOKYOの名前やコンセプト、キャッチワードを晋平さんと一緒に考えたことも明かします。晋平さんに「お前はもっと自由でいいんだよ」と言われ、この感じでいいんだと「調子に乗った部分もある」と振り返っています。
ガラケー派の美容師にTwitterを勧めた理由
SNS好きの晋平さんは、ITに疎い美容業界だからこそ、琢也さんに絶対やるべきだと勧めていました。ところが当時の琢也さんはガラケー派で、iPhoneにもまったく興味がなかったといいます。
慎平が何がどういいの?って言った時に、「滑らか、iPhoneは滑らかな」っていう、その言葉だけに誘われてiPhone買ったのよ。
晋平さんによると、勧め始めたのは2010年か2011年ごろです。雑誌に出られない琢也さんにとって、Twitterは実力を見せる唯一の場になりました。
自分の実力を見せるところがないわけじゃん。フォロワーなんて100人ぐらいしかいないわけさ。
琢也さんは、かっこいい髪型を投稿して「かっこいいと思ったらリツイートお願いします」と煽り続け、「それでオーシャンって売れた」と話します。店の壁も自分で塗るほど、何もないところからのスタートでした。
晋平さんからは、切り終わった直後のかっこいい瞬間を、OCEANのロゴが入った場所で撮って客が投稿しやすくするよう提案があったそうです。琢也さんは、今ではエステやネイルでも見られる「ここに来ました」写真の走りはOCEAN TOKYOで、それを作ったのは晋平さんだと語ります。
雑誌が出せと言いたくなる世論をどう作ったか
フォロワー100人から一気に売れていったことについて、琢也さんは「当然と思ってた」と答えます。一緒に働けばみんな売れる、という感覚が今もあるからだといいます。
締め出されていた雑誌にも、割とすぐ出られるようになりました。琢也さんの狙いは、雑誌社に頼むのではなく、一般の人が見たいものを作って世論を動かすことでした。
雑誌のカバーも飾り、独立から1年ほどでテレビの取材も来たといいます。当時は月1回ほどカフェでミーティングをしていて、琢也さんは晋平さんに「やってることは面白くない」と言われるたびに、どうすれば「おもろいやんそれ」と言わせられるかを考えていたそうです。
透明なトラックの中で髪を切りながら走る宣伝カーの案、全国を回る活動、WEGO ── 若者向けのファッション・古着を扱うアパレルブランドの店内に1日美容室を出す企画など、仕掛けの量は他の美容室を圧倒していたと晋平さんは話します。琢也さんも「種まきめっちゃしてた」と振り返ります。
「黒は面白くない」から生まれた赤髪
琢也さんのトレードマークである赤髪は、テレビ出演の前日に決まりました。閉店間際に来た晋平さんが、3時間かかるブリーチをしたいと言い出したのがきっかけです。
「いや、もう無理。明日テレビあるから」つって。
晋平さんに「何色にするの?」と聞かれた琢也さんが「黒髪でいいかな」と答えると、晋平さんは「黒は面白くないから赤がいいんじゃない」と返したそうです。二人はそれぞれ後輩に塗ってもらいながら並んで座りました。
「赤かぁ。でもまあ一生に一回しかテレビ出ないと思うから」
出演したのは山里さんの番組でした。放送後、みんなが赤髪をしたがるようになり、琢也さんは今も赤髪で8年目になるといいます。晋平さんの「黒で出ていたら次の出演はなかった」という言葉に、琢也さんも同意しています。
赤髪をきっかけに、琢也さんは衣装も赤にしていったそうです。琢也さんは「オーシャンの人生を変えたのは晋平だろうな」と語ります。
「OCEANS STAR」はなぜ「OCEAN TOKYO」になった?
店名も、最初から「OCEAN TOKYO」だったわけではありません。琢也さんは当初「OCEANS STAR」で出すつもりでしたが、晋平さんに「OCEANだけではSEO ── 検索エンジンで上位に表示されるための工夫。一般的な単語だけの名前は、検索結果で埋もれやすくなりますで引っかからない」と止められたといいます。
名前が決まるまでの流れを、琢也さんの話に沿って整理すると次のとおりです。
当初案
「OCEANS STAR」で出そうとしていた
指摘
晋平さんが「OCEANだけでは検索に引っかからない」と下に言葉を付けるよう助言
候補
「東京」か「スター」。ただ海と星は琢也さんの中で結びつかない
決定
五反田あたりのカフェで、考える時間が2週間しかない中「OCEAN TOKYO」に決める
琢也さんは当時SEOが何のことかわからず「何言ってんのこの人」と思ったそうですが、検索に引っかからないという意味だと理解して受け入れます。晋平さんのほうは、そのカフェでのやりとりを覚えていなかったといいます。
広告代理店的には、ら行を使って濁点入れた方が記憶残るんだよみたいな。いや、後で言うなよ。もう決めちゃったよみたいな。
前編はここまでで、後編では髙木琢也さんの今後の展望について語られることが予告されています。
まとめ
前編では、OCEAN TOKYOの成功が、髙木琢也さんの「指名してくれる人を断りたくない」という思いと、高木晋平さんとの13年にわたる掛け合いから生まれてきたことが語られました。村八分という逆境の中でも、接客の工夫とTwitterでの発信で道を開いた経緯がわかる回です。
- リターン率98%でも会社の都合で指名を断らざるを得なかったことが、27歳での独立につながった
- 「どうですか?」ではなく「もうちょっと切る?」と聞くなど、客が本音を言える聞き方を徹底した
- 雑誌に出られない中、フォロワー100人のTwitterでリツイートを煽り、世論から雑誌やテレビを動かした
- 赤髪も店名「OCEAN TOKYO」も、晋平さんの一言がきっかけで生まれた





