地方でフロンティアを切り拓く起業家はどこから来たのか
高木新平さんが山中大介さんに初めて会ったのはコロナ前でした。そのとき高木さんは、地方にこれほど熱量を持って世の中を変えようとする起業家がいるのかと驚いたといいます。
山中さんの会社が手がけるのは、水田テラスというホテルを起点に、教育施設や農業など、地域の泥臭い課題を事業機会に変えていく取り組みです。高木さんは、山中さんを「地域や地方」というくくりに収まる人ではないと見ており、そのエネルギーの源を知りたくてゲストに招いたと話します。
山中さんの自己紹介によると、ヤマガタデザインは2014年設立の街づくりの会社で、現在の従業員は150名ほどです。ホテル、農業、人材紹介などを通じて、地域の課題を解決するビジネスを作り続け、地方から世の中に価値を生むことを目指しています。
高木さんに「真面目ですね」と言われた山中さんは、以前出演したNewsPicksで最初に砕けすぎた反省からだと笑って返していました。
主人公ではなく「エース」。大学の卒論に込めた反骨
高木さんが「なぜ山中さんには主人公感があるのか」と尋ねると、山中さんは少し意外な答えを返します。スポーツでは主将を一度も務めたことがなく、人生でキャプテンをやったことがないというのです。
代わりに山中さんが挙げたのが「エース」という言葉でした。足が速く球技もこなせた山中さんは、大学の卒業論文で「エース論」を書いて卒業しています。
当時在籍していた慶応のSFC ── 慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスの通称。総合政策学部・環境情報学部などがあり、起業志向の学生が多いことで知られていますでは、アントレプレナーシップ論やリーダーシップ論の授業がよく開かれていました。山中さんはどれも面白いと感じつつ、綺麗事ばかりで刺さらなかったといいます。
山中さんには、起業家精神やリーダーシップは学問として再現可能な形に収められるものではない、という直感的な違和感がありました。「SFC生なら起業しなきゃ」という風潮もむしろ嫌いだったそうで、エース論はそうした大学の空気へのアンチの意味を込めた論文でした。
組織をどう率い、どうマネジメントするかを、再現可能な学問として整理しようとする
局面ごとに相手に絶対的に勝つ「個」がチームにいることこそが、強いチームづくりに欠かせないと考える
山中さんの考えの土台にはサッカーやアメリカンフットボールの経験があります。全体としては組織で戦っても、局面ごとには個の勝負になる、という見方です。
そのため大学時代の山中さんは、組織のマネジメントなど考えたこともなく、自分だけは何があっても負けてはいけないという姿勢を「一番の正義」だと思っていたと振り返ります。ワンピースのキャラクターでもエースが一番好きだそうです。
起業は「意識高い系」。4社だけを受けた就職活動
SFC時代に起業を考えていたかと問われた山中さんは、まったく思っていなかったと答えます。当時の山中さんにとって、起業は「意識高い系」のもので、自分が起業することは1ミリも考えていませんでした。
大学時代の山中さんは、目の前のアメリカンフットボールを思いきりやりたい、やりきれば何か残るだろう、という感覚で過ごしていたといいます。
就職活動も流れのまま始まりました。内定をいくつも集めたり、OB訪問を重ねたりする就活を「超ダサい」と感じていた山中さんは、本当に行きたいと思える会社だけを受け、ダメなら就職留年 ── 卒業時期を遅らせて、翌年度に改めて就職活動をすること。新卒一括採用が中心の日本でとられる選択肢の1つですをすると決めました。
受けたのは三井不動産、三菱商事、三井物産、そして滑り止めのリクルートの4社です。基準は「自分一人では絶対に成し得ない、どでかいことができる会社」で、商社やデベロッパーを選んだのはわかりやすくミーハーだったからだと本人は話します。
さらに山中さんは「一番最初に内定をくれた会社に行く」と言い続けていました。最初に内定を出したのが三井不動産だったため、そのまま入社を決めています。
一方、三菱商事の一次面接では、山中さんは「丸の内が嫌いです」と口にしました。高い容積率 ── 敷地面積に対する建物の延べ床面積の割合。高いほど大きなビルを建てられ、都心の再開発で重視される指標ですで高層ビルを建てるより、自然と共生する開発がしたいという意図だったといいます。
その三菱商事の面接は15分の予定が5分で終わり、残りの10分ほどは諭されて、「もっと受けた方がいい」と言われたうえで落ちたそうです。山中さんは、丸の内が本当に嫌いなわけではなく言葉足らずだったと認めつつ、迎合するテクニックより、自分を出して受け入れてくれる会社を選びたかったと語ります。
山中さんは後に読売新聞の「就活音」という就活生向け新聞の表紙を飾った際、三菱商事に一次面接で落とされたことだけは必ず書いてほしいと頼んだといいます。今はその会社が好きだと笑いながら、心の狭い仕返しだったと振り返っていました。
なぜそこまで割り切れるのかと問われると、山中さんは「考えてもわからないから」と答えます。学生の立場でどれだけ企業を調べてもリアリティがなく、わからないことの方が多いのなら、シンプルな自分のルールを決め、起きることを受け入れて進む方がいい、という考え方です。
リスクは「一番悲しいシナリオ」を受け入れれば消える
高木さんが「自信があるからできるのでは」と水を向けると、山中さんはリスクについての考えを語り始めます。山中さんによれば、物事はすべてリスクの幅であり、一番悲しいシナリオを受け入れられれば、それはもはやリスクではないといいます。
就職活動の場合、最悪の事態は就職留年でした。そのときは親に謝り、社会人になってからお金を返せばいい、と山中さんは考えていたそうです。
山中さんは、就職留年にもポジティブな面があると話します。大学4年の就活は時間が限られる一方、留年すれば時間が生まれ、より良い会社に行ける確率が上がるからです。実際に先輩を見ていても、就職留年した人の方が良い会社に行っていたといいます。
この考え方は、就活の時点ではまだおぼろげなものだったそうです。高木さんは、「今就活しないとやばい」「たくさん受けないといけない」という常識を疑うマインドが山中さんにはあると受け止めていました。
山中さんは、不安を感じたときの自分なりの向き合い方も紹介しています。その手順を整理すると次のようになります。
山中さんによれば、こうして本質まで突き詰めると、不安の正体は実は大したことがない場合も多いといいます。
三井不動産を辞めてベンチャーへ向かった理由
三井不動産を辞めた理由について、山中さんはまず、同社には街づくりや不動産が本当に好きな人が集まっていたと話します。山中さん自身はそこまでではなく、社会人として「社会とは何か」「仕事とは何か」を学ぶこと、より大きな仕事を通じて広い世界を見ることが目的でした。
そのため山中さんは、最初から三井不動産にずっといるつもりはありませんでした。社会人2年目で結婚した際も、妻に「ずっと三井不動産にはいないけどいいかい」と伝えたうえで結婚したといいます。
入社当初から山中さんは、同僚に「少子高齢化の日本でビジネスがしたい」と話していました。日本から社会的に大きなインパクトを生む事業に挑戦したいという思いが、ベンチャーへの関心につながります。
山中さんがベンチャーを選んだのは、大企業は仕組みが出来上がりすぎていて変われないと感じたからです。日本の可能性はベンチャーや中小企業、オーナー企業にあると考え、振り返ればミーハーだったかもしれないと言いながらも、選択肢として選びました。
声をかけてくれたベンチャーは3社ほどあり、そのうちの1社が、山形県鶴岡市でクモの糸を作るスパイバーでした。山中さんは社会人6年間を経て、今の自分がどう選ぶかを改めて考えたうえで、鶴岡への移住を決めています。
鶴岡で2カ月、未利用地の相談からヤマガタデザインへ
縁もゆかりもない鶴岡・庄内に引っ越した山中さんですが、スパイバーには2カ月しか在籍しませんでした。喧嘩別れではなく、今もスパイバーとはとても仲がいいといいます。
当時のスパイバーは、素材産業の構造を変えるためにR&D ── 研究開発(Research and Development)の略。新しい技術や製品を生み出すための研究活動や、そのための投資を指します投資を重ねる研究開発中心のフェーズでした。事業開発を担うはずが、売るべきクモの糸がまだほとんどなく、山中さんにはやることがなくなってしまったそうです。
山中さんは、三井不動産時代は激務で十分なリサーチができず、「この人たちはいい」と人を信じて飛び込んだと話します。ただで給料をもらうのも悪いと思っていたところ、関山さんや冨田さんから、鶴岡市がサイエンスパークの未利用地の開発計画を考えているので相談に乗ってはどうかと勧められました。これが2014年のことです。
山中さんは当初、スパイバーの業務を会社として請け負い、最低限の食い扶持を確保しながら鶴岡市の相談に乗っていました。しかし、スパイバーがIPO ── 新規株式公開のこと。未上場企業が株式を証券取引所に上場し、広く投資家から資金を調達できるようにすることですを含めた戦略をステークホルダーに示す段階で、ヤマガタデザインとは手を切るよう求める話が入り、関係が急に切られることになります。
未利用地の開発は、行政単独で負担するには大変だったため、民間開発に舵を切りました。山中さんは資金調達を始め、やってきたら「いつの間にかこうなった」と言います。その成果が水田テラスやソラといった施設です。
三井不動産
社会人として約6年、ビジネスと社会を学ぶ
スパイバーへ
鶴岡に移住するが、R&Dフェーズでやることがなくなる
未利用地の相談
鶴岡市のサイエンスパーク隣接地の開発計画に関わる
独立
スパイバーとの関係が切られ、ヤマガタデザインとして民間開発に舵を切る
事業化
資金調達を進め、ホテルなどの施設が生まれる
ホテル事業がいけると思っていたのかと聞かれると、山中さんは「思っていない」と答えます。ホテルのマーケット調査会社を入れても、まったく評価されなかったそうです。
それでも山中さんは、自分の運や縁を信じ、この場所でやることになったからにはやりきると最初に決めていました。そのうえで、どうすれば成功確率を高め、面白くできるかを考えたといい、「為せば成る」という言葉で当時を表しています。
高木さんは最後に、そこから教育、農業、人材と多岐にわたる事業へどう広がったのかを尋ね、話は後編へと続いていきます。
まとめ
山中大介さんの前半生には、大学時代の「エース論」から鶴岡での起業まで、自分のルールを決め、起きたことを受け入れてやりきるという一貫した姿勢がありました。地方の起業家という枠に収まらないエネルギーは、こうした個としての勝負観とリスクの捉え方から生まれていると考えられます。
- 山中さんは主将経験がなく、組織に必要なのは圧倒的な個だとする「エース論」を卒論に書いた
- 就活では4社だけを受け、最初に内定をくれた三井不動産に入社するというルールで臨んだ
- リスクは最悪のシナリオを受け入れれば消え、不安は「何を恐れているか」を突き詰めると小さくなるという考え方を持つ
- スパイバー入社2カ月で鶴岡市の未利用地開発に関わり、関係が切られたことでヤマガタデザインとして事業化へ進んだ
- ホテルの市場評価が低くても、運と縁を信じてやりきると決めたことが事業の出発点になった





