証券会社、mixi、メルカリ、鹿島。4足のわらじはどうできた?
小泉文明さんは1980年に山梨で生まれ、高校まで地元で過ごしたあと、早稲田大学に進みました。卒業後は大和証券SMBCでIPOのアドバイザーを務め、そのアドバイザー先だったmixiに移って取締役CFOになります。
小泉さんはmixiを31歳で退任し、1年半から2年ほど何もしない期間を経て、33歳でメルカリに参画しました。収録時点で42歳です。
小泉さんの経歴を時期ごとに並べると、次のようになります。
小泉さんは現在、自らを「4足のわらじ」と表現します。メルカリの取締役会長、鹿島アントラーズの代表取締役社長、Jリーグの理事、そして街づくりの会社KXの代表です。
メルカリでの小泉さんの役割は、創業社長の山田さんと2人だけの社内取締役として、取締役会の対応や対外的なコミュニケーションを担うことです。政府関係者とのロビイングや広報など、メルカリを外にどう見せ、ミッションに近づけるかが仕事だといいます。
ホストの高木さんは、鹿島の街づくりで小泉さんと一緒に仕事をしており、小泉さんの見ている世界は大きく、ニッチではない「ボールド」なものだと感じています。そのうえで、小泉さんにはいわゆるインターネット起業家らしい「オタク感」がないことに注目し、その成り立ちを聞いていきます。
人口5,000人の村で「小泉先生の孫」と呼ばれた少年
小泉さんが育ったのは、山梨県の明野村です。人口は5,000人に満たず、小学校まで歩いて45分、同級生は20人ほどという田舎でした。
少年時代の小泉さんは野球少年で、勉強も運動もできるクラスの目立つ存在でした。小学生ながらバレンタインチョコも「もらってたかな」と振り返り、自分でも人気者だったと話しています。
まあ小学生だから。でももらってたかな。でもとりあえず超自分でも人気者ですよ。
小泉さんの親はサラリーマンでしたが、同居していた祖父は学校の先生や政治家を務めた地元の名士でした。小泉家の長男だった小泉さんは「小泉先生のところの長男の孫」として、地域から見守られ、期待される存在だったといいます。
基本的にはなんか地元だと小泉先生の孫っていうだけで大体みんなわかる。
小学校を終えた小泉さんは、地元の名門私立高校が新しく作った中学校を受験し、一期生として入学します。先輩がいない環境で、先生たちも中学生を教えた経験がなく、宿題の量は異常に多かったそうです。
本当に中学校、中学生扱ったことないから、宿題の量とかいろんなものが手抜きがないんですよ。
先生たちは年々宿題を減らしていったそうで、中学生には無理だったと気づいたからだと、今も小泉さんに謝るといいます。
80人中65位の挫折と、成績に関係ないMacの時間
中学1年の最初のテストで、小泉さんは同級生80人中65位でした。それまで神童のように扱われてきた小泉さんにとって、これは大きな挫折でした。
でも中学校入って一発のテスト65位で。うわ、やば、もうこれ勉強勝てねえなみたいな思って。
その進学校では、どんな小テストでも平均点以上の生徒の名前と点数が毎回張り出されました。小泉さんの名前は、たまに載る程度でほとんど載らなかったといいます。
一方で小泉さんの中学校には、数学の先生でもあった校長の方針で、当時100万円ほどするMacが20台置かれたコンピュータルームがありました。中1からコンピュータの授業があり、グラフィックを描き、中3の頃には簡単なクイズゲームを作っていたそうです。
Windows95が出たのは小泉さんが高1の年で、それより前からMacで遊んでいたことになります。小泉さんにとって、Macで遊ぶ時間は成績の順位と関係なく過ごせる場所でした。
なんで僕的にはなんかMACを使ってゲームとかやってる時って成績の順位関係ないじゃないですか。そういう観点で評価されないから。
ただし小泉さんは、いわゆるオタクではありませんでした。部活のキャプテンでクラスの人気者でもあり、「明るくて元気なんだけど、勉強できないからパソコンをやっている」という、当時としては謎な立ち位置だったと振り返っています。
定価1万5千円のエアマックスが18万円に。高校生のせどり
小泉さんが勉強からの「もう一つの逃げ場」にしていたのが、ファッションと音楽でした。中学の授業が終わると毎日のように本屋に行き、ファッション誌や音楽誌を読みふけっていたといいます。
小泉さんが中3のとき、ナイキのエアマックス95が発売されます。かっこいいと思って定価で買ったスニーカーが、1〜2年後のエアマックスブームで大きく値上がりしました。
エアマックス以外にも、小泉さんが「いい」と思って買ったものが軒並み値上がりしていきました。この体験に面白さを感じた小泉さんは、高3の頃から東京で服を買い、ネット上のファッション好きのコミュニティで売る、いわゆるせどりを始めます。
せどりの舞台は、テキストベースの掲示板、BBS ── 電子掲示板(Bulletin Board System)の略。利用者が文字で書き込みを残し、話題ごとにやり取りするネット上の場で、1990年代のネット文化の中心でしたでした。小泉さんはそこで自分をブランディングし、物を売っていたといいます。高木さんに「原体験か」と聞かれ、小泉さんは「めっちゃ原体験ありますね」と答えています。
小泉さんがネットのコミュニティに入った理由は、ファッションのコアな情報がそこにあったことと、学校では話の合う相手が少なかったことでした。
そのコミュニティの方でなんかハンドルネームでやってると、なんか心地いい。なんか自分より詳しい人いるみたいな。好きな人いるみたいな。
高木さんも、当時のストリートファッションは地方ではまだマイノリティで、好きな人だけが勝手にやっているものだったと振り返ります。
医学部志望から一転、希望者1人の指定校推薦へ
理系だった小泉さんは、高2まで医学部に進むことが決まっていたといいます。理由は特になく、進学校で周りが医学部を目指していたからでした。
高3になる頃、小泉さんは「別に医者になりたくない」とふと思います。エアマックスの体験が強烈だったことと、英語ができたことから、貿易をやろうと考えました。
なんか世界中を英語でコミュニケーションして交渉して、いいもの仕入れてきて、日本でそれをなんかこう、高い値段で売るみたいな、そういう、なんかあれやりたいなみたいな感じで。
小泉さんはビジネス系の学部を目指して文転し、早稲田大学商学部に進みます。ただし進学は、本人いわく「外ではあまり言っていない」指定校推薦でした。
小泉さんの学校で評点が足りている生徒は女子が多く、多くが早稲田や慶應の文学部の指定校枠を選んでいました。高校生にとってビジネスはイメージが湧きにくく、商学部の希望者は小泉さん1人だったそうです。
で、商学部って全然人気なくて、ぶっちゃけね、俺ね、1人だったのよ。
文転したうえに指定校推薦で決まったことには、周りから「急に指定校かよ」という批判も受けたと、小泉さんは笑いながら話しています。
原宿で仕入れ、280人のテニサー代表へ。「リア充の権化」の大学時代
早稲田に入った小泉さんは、週に3〜4日は原宿に通い、買う物がなくてもとりあえず足を運んでいました。買うときは買い、それをまた転売する生活で、アルバイトはほとんどしたことがないといいます。
小泉さんは原宿のショップ店員と仲良くなり、発売日を教えてもらったり、事前に商品を回してもらったりしていました。冬はコートなど単価の高い商品があり、かなり稼げたそうです。販売には掲示板とヤフオク ── Yahoo! JAPANが運営するネットオークションサービス「ヤフオク!」の略称。個人同士で物を売り買いでき、2000年前後から広く使われましたの両方を使い、日本全国に発送していました。
高木さん自身も当時は地方の中学生で、発売日もわからないまま夜行バスで東京のショップに行き、空振りした経験があると話します。小泉さんは、そうした客にとって自分から買うほうが確実だったと説明しています。
だから僕らはそういう意味で交通費払うぐらいだったらそのお金ちょうだいよっていう。感じですね。確実に手に入れれるからみたいな。
小泉さんの大学生活のもう一つの柱が、テニスサークルでした。3年生のときには名簿で280人ほどいるサークルの代表を務め、飲み会を開けば100人が平気で集まるほどだったといいます。
高田馬場を歩くと居酒屋の店長たちから声をかけられ、テニスの連盟も仕切っていた小泉さん。高木さんに「典型的なクソ早稲田生」「リア充の権化」と言われ、小泉さんも「完成形だと思う」と認めています。
小泉さんは、代表やキャプテンといった役割を昔から比較的引き受けてきたと振り返ります。
コンサルか投資銀行か。IPOを新卒でやるために大和を選んだ理由
就職活動を前に、小泉さんは自分で事業をやりたい気持ちもありながら、特にネタがなく、せどりも長続きしないと考えていました。そこで、学べる場所として経営コンサルと投資銀行の2つに絞って就活をします。
小泉さんが大学2〜3年の頃はネットバブル崩壊の直後でした。周りは「起業なんてリスクだ」という空気で、就活も氷河期、日経平均は1万円を割っていたといいます。それでも小泉さんは「なければ自分で稼げばいい」と、少し余裕を持って臨んでいました。
僕はなんか経営学びたいっていう、もうそれだけですね。絶対自分は将来経営やるからっていう。
ただ、コンサルと投資銀行はほとんどが外資系で、選考が進むと英語の面接になりました。大学で英語を勉強していなかった小泉さんは、「普通に受からん」と感じたそうです。日系で若いうちにたくさんの案件をやるほうがいい、という助言も受けます。
その頃、小泉さんの中ではIPOをたくさん手がけたいという気持ちが強くなっていました。新卒でIPOに関われる証券会社はほとんどなく、業界最大手との違いが判断の決め手になります。
3年間リテールを経験しないと投資銀行部門に行けない仕組みで、小泉さんはその3年を無駄だと感じていた
最初から投資銀行でIPOに関われる。ほぼ第一希望で入社し、IPOの部署に配属された
小泉さんは大和証券SMBCに入り、希望通りIPOの部署に配属されました。本人は「逆算してその通りになった」と表現しています。
「健全な勘違い」と、マスを震えさせたいという欲求
高木さんは、小泉さんの強い目的意識がどこから来たのかを尋ねます。小泉さんの答えは、根拠のはっきりしない自信でした。大学のサークルが大きく成功し、学内でも有名になったことも、その自信を支えていたといいます。
小泉さんがこの感覚を持つようになったのは、エアマックス95以降のことです。自分がいいと思ったものが当たり、自分が関わる組織が成功するのを見て、自分には人を喜ばせる力や、流行るものを見抜く力があるのではないかと早くに気づいたと話しています。
小泉さんは、mixiもメルカリも多くの人が使うサービスであり、自分はマスの感情がどう動くかを比較的客観的に見るほうだと語ります。だからこそ、オタクやテック系にはなりたくないといいます。
本当に普通の人がどういう生活してるのかとか、どういうのが好きなのかとか、テレビとかもちゃんと見るようにしてたりとか、
なんかそういう、その、あの、先端にいすぎないっていうことを意識してます。
業界の最先端にいれば、テクノロジーの情報は自然と入ってきます。小泉さんは、どこかに「そうではない自分」を置いておかないと、社会とのギャップが生まれると意識しているそうです。
小泉さんは、テクノロジーを進化させたい気持ちは全くないと言い切り、自分は人を驚かせたり楽しくさせたりしたい側の人間だと語ります。高木さんが「エンタメ的な発想」と表すと、小泉さんもその傾向が強いと認めています。
小泉さんがパートナーに選んできたのは、メルカリなら山田進太郎さん、mixiなら笠原健治さんといった、プロダクトを作ることが好きなテック寄りの経営者でした。彼らのビジョンと、社会のマスとの結節点を作ることが自分の役割で、そこにPRやマーケティング、資金調達で関わってきたといいます。
「経営者もただの人間だ」。DeNAのIPOとmixiへの提案書
大和証券SMBCに入った小泉さんは、まず「20代のうちに出ないと、30代になったらこの環境が心地よくなる」と考えていました。
小泉さんは担当案件に恵まれ、多くの会社のIPOが実現しました。準備しても上場できない会社が多い中で、小泉さんの担当先はほとんどが上場できたといいます。一方で、仕事で接する経営陣を見て、「ぶっちゃけ大したことない」と思うこともあったそうです。
なんかこれ別に何か特別な人たちじゃないなと。なんで自分にもできる可能性あるんじゃないかなっていうのをなんか2年目ぐらいから思い始めて。
小泉さんにそう気づかせたのは、DeNAのIPOを担当したときに接した南場智子さんでした。南場さんは非常に優秀でありながらチャーミングで、苦手なこともあり、チームで経営している会社の姿が良い事例になったといいます。小泉さんは、ファイナンスの面をメインで担当していました。
DeNAのIPOを終えて時間ができた小泉さんは、次のインターネットがどうなるかを考えます。ガラケー中心になり、誰もが情報を発信できる環境になっていく。海外ではブログやSNSが出始めている。そう見た小泉さんは、2004年の春、まだユーザーが10万人に届かない頃のmixiに提案書を持っていきます。
もう僕は必ずインターネットのプラットフォームにSNSはなると。で、絶対インターネットに1人1人がSNSのアカウントを持って、そのSNSの上でいろんなサービスをみんなが楽しむから、
その上に乗るサービスをM&Aで買うための資金を得るためにIPOをしましょうっていう提案を持ってったんですね。
当時のmixiの運営会社は株式会社イー・マーキュリーで、利益の出ている人材サイト「FINDJOB」を持っていました。他の証券会社からは、SNSは出会い系のように見えてIPOの妨げになるため、やめてほしいと言われていたそうです。小泉さんは逆に、SNSのmixiを主軸に上場しようと真反対の提案をしました。
笠原健治さんは、SNSの可能性にここまで賭ける人は初めてだと驚き、主幹事証券を変えてくれたといいます。小泉さんはそれ以降、週に3〜4日mixiに通うようになります。
小泉さんは、目論見書や審査資料のように決まったフォーマットを埋める仕事にはあまり面白さを感じませんでした。証券会社の価値は、相手の企業価値を上げ、時価総額と調達額を大きくし、手数料を最大化することだと考え、組織や営業まであらゆる相談に乗っていたといいます。
確かに言われてみれば、VCの今やってることをやってましたね。ただ出口がIPOなんで。
25歳で口説かれても、上場までは証券マンとして
mixiのサービスはどんどん大きくなり、小泉さんは早くから「来てほしい」と誘われていました。それでも小泉さんは、お世話になった証券会社を途中で辞めるのは申し訳ないと考え、mixiを上場させるまでは自分の証券会社での仕事だと決めていました。当時は入社3年目、25歳でした。
mixiは2006年9月に、1000億円以上の評価で上場しました。その後、上場でメディアの注目が一気に高まり、いくつかの事件で叩かれます。上場後は小泉さんの仕事の範囲外でしたが、週に何度も電話がかかり、作戦会議に呼ばれていたそうです。
で、やっぱり来て助けてほしいみたいな話になったし、上場させちゃった責任もあるかってので、
小泉さんは11月の頭に辞表を出し、12月の途中からmixiに入社します。最初の役職は、1人だけの社長室長でした。
その後、小泉さんはコーポレート系すべてを見る担当取締役になります。笠原さんがものづくり系の経営者だったため、実際にはそれ以外のこともすべて見ていたといい、取締役になったのは27歳の頃でした。
若くして取締役になっても、ほかの役員とは上場準備の時代から一緒に戦ってきた間柄でした。小泉さんは、自分は創業メンバーの飲み会に唯一いる「ほぼ創業メンバー」のようなノリだったと話しています。会社の規模は倍々に大きくなり、その後の約4年間は貴重な経験になったといいます。
最高益のタイミングで、なぜmixiを辞めたのか
小泉さんがmixiを退任したのは、SNSが主軸だった頃のmixiが最高益を出したタイミングでした。高木さんは「辞める理由がなさそう」と問いかけます。
小泉さんは30歳のとき、一度「退任させてくれ」と申し出ています。会社が大きくなり優秀な社員が次々に入る中で、自分でなくても会社は回ると感じ、意思決定だけをしている自分が嫌になってきたといいます。
なんか別にみんなから上がってきた優秀なプランをいくつか見て、ふむふむって言って、
いやなんかすげえ仕事簡単だなと思って。なんかこれをこの年齢でやってちゃまずいな
小泉さんの決断には、28〜29歳の頃の出来事も影響していました。mixiの創業に近いメンバーで人事のヘッドを務めていた仲間が、がんで急に亡くなったのです。気づいたときには末期で、3か月後に亡くなったといいます。
なんかこう生かされてる身として、なんかあいつの分まで俺はなんか一生懸命生きてるのかなみたいなことを思っちゃうと、
小泉さんは、今の環境のままでチャレンジしても「下駄を履いている」ような恵まれすぎた状態になると感じていました。独身で若かったことも、捨てやすかった理由だといいます。
申し出からすぐには辞められず、1年の準備期間を経て、小泉さんは31歳でmixiを退任しました。
ちやほや期と「社会から抹殺される」2年目
小泉さんはmixiを辞めたとき、次を決めていませんでした。人生をかけるほどコミットしたいものが見つからなかったからです。そこから、メルカリに参画するまで1年半から2年ほどの期間が続きます。
小泉さんは、この何もしない期間を、1年目と2年目で全く違うものだったと振り返ります。
引く手あまたで、暇だと知られて飲み会やランチに次々誘われる。旅行にも行き、インプットを続けた
「あいつは社会に戻ってこれないらしい」と思われ、誘いも仕事の声もぱったりなくなる
で、2年目になるとマジで、マジで社会から抹殺される。
この期間、小泉さんはラクスルやアカツキなどの社外取締役を報酬ゼロで引き受け、月に1回ほどオフィスに顔を出していました。それでも時間は余っていたといいます。
小泉さんは今振り返ると、20代の働き方とプレッシャーで燃え尽き症候群のようになっていたと話します。次にやるならmixiを超えるものでなければ20代の自分に負けると、自分でハードルを上げてしまい、やる気も出ない状態でした。
ただなんかどっかで次やるんだったらまた死ぬほど働くから、それまで俺は休ませてくれ、ごめんみたいな、
自分は責任感が強いタイプだと自覚している小泉さんは、やりたくないことを始めれば責任感でやってしまうと考えていました。だから、本当にやりたいことが見つかるまではコミットしないと決めていたといいます。
スタバで口説かれ、2週間で決めたメルカリ参画
メルカリのサービスが始まったのは2013年7月です。そのローンチの直前、小泉さんはドリコムの内藤さんと飲んでいて、友人の山田進太郎さんを誘いました。家でソースコードを見るという山田さんの家に、2人で押しかけたそうです。
何やんの?それフリマアプリだよみたいな。へーマジで頑張るねみたいな。なんかそのぐらい気楽にプランとか聞いてて。
メルカリのローンチ後、山田さんから「お茶に行こう」と連絡があり、スターバックスで会います。小泉さんが自分のやりたいサービスの話をすると、山田さんは「それはメルカリでできるから、一緒にやろう」と誘ったといいます。
小泉さんには、自分がせどりをしていた経験がありました。先行していたフリマアプリ「フリル」も良いサービスだと見ていて、この市場ではどこか1社が勝ち残って大きくなる可能性があると、ピンと来たそうです。
ピンと来たっていうのも大きいですね。あ、これ行くな、絶対に大きくできるなっていうのはなんか自信があったっていう。
小泉さんは翌週に残りの創業メンバー2人と会い、山田さんに声をかけられてから2週間ほどで参画を決めました。当時のメルカリは会社というより、アプリを作るプロジェクトチームに近く、ローンチから約5か月の開発フェーズだったといいます。
14億円を調達し、5億円をCMに。メルカリ初期の3つの仕事
山田さんはプロダクトが好きなタイプで、笠原さんに近い専門性を持っていました。そのため小泉さんは、それ以外をすべて自分がやればいいとすぐにイメージできたといいます。小泉さんが参画直後に取り組んだのは、次の3つでした。
資金調達は難航しました。売上はまだゼロで社員も少ない会社に高いバリュエーションを付けたため、ほとんどの投資家から「高い」と言われ、先行するフリルにどう勝つのかとも問われたそうです。小泉さんはそれを押し切り、最終的に14億円を集めました。
それまでメルカリはオンライン広告だけで集客し、獲得したユーザーのリテンションのデータを見ながら手応えを確かめていました。オンラインだけではスピードが出ないと考え、アクセルを踏むためにCMを選んだといいます。
山田さんはコロプラ ── スマートフォン向けゲームなどを手がける日本の企業。創業者は馬場功淳さんで、テレビCMを使ったアプリの集客で知られましたの馬場さんから、一定のダウンロード数に達すれば認知が広がり、CMの効果が出やすいと聞いていました。メルカリもその水準に近づいていたため、ゲームほど反応するかはわからないまま、やってみることにします。
資金調達のミーティングの次にCMのクリエイティブのミーティングを入れ、「調達ができたら発注します」と進めていたそうです。そして調達した14億円のうち5億円を、2週間でCMに投じました。
跳ね方尋常じゃなく跳ねた。
CMの効果は想像以上でした。それまでいくつもあったフリマアプリの中で、メルカリは一気に「フリマアプリといえばメルカリ」という社会の認識を取り、メディアの扱いもメルカリに集中していったといいます。
CMにはテラスハウスの出演者2人を起用しました。小泉さんの狙いは、あえて20〜30代、特に女性のトレンドセッター層だけに刺すことでした。
僕、20、30代の特に女性のトレンドセッターって言われてる層が動いたら絶対に勝てるなって思いがあって。
ターゲットは細く絞りながら、投じる金額は大きい。小泉さん自身、これを「逆説的な張り方」と表現しています。
mixiの後悔から生まれたメルカリのミッション・バリュー
事業を伸ばすのと並行して、小泉さんは会社の軸づくりにも取り組みます。メルカリのミッションとバリューは、1月に議論を重ね、2月に社員へ発表されました。社員が15〜20人いるかいないかの頃だったといいます。
小泉さんがミッション・バリューを重視したのは、mixiでの強い反省からでした。小泉さんが退任したあと、SNSのmixiはサービスとして落ち込み、のちにモンスターストライクでV字回復します。ただ、下がっていく過程で社員はとても苦しんだといいます。
その時にすごい会社がバラバラになっていくのを外で見てたけど、どうにもできない、もう辞めてるから。
小泉さんは、会社がバラバラになった理由を、サービスの求心力に甘えていたことだと考えました。サービスの状況に左右されるなら、それはプロジェクトチームと変わらない。上場企業として長く続けるには、別の軸で会社を束ねる必要があったといいます。
mixiにも良いミッション・バリューはありました。ただ、小泉さんはそれを社員に共有せず、評価制度にも入れていなかったといいます。
これはじゃあダメですよ。標語としてあるだけ。魂が入ってない。
mixiとメルカリでのミッション・バリューの扱いの違いは、次のように整理できます。
mixi: 良いミッション・バリューはあったが、社員に浸透させず評価制度にも入れていない。標語にとどまり、サービスの求心力に頼っていた
メルカリ: ミッション・バリューを作り、浸透させ、評価制度にも組み込む。どんなサービスでも会社が一枚岩であることを目指す
小泉さんは、次に自分が経営するときは必ずミッション・バリューを作り、浸透させ、どんなサービスでも未来永劫一枚岩である会社にしたいと考えていたと話しています。
振り返ると、働く人のモチベーションが営利から社会へのポジティブなインパクトへ移り始めたタイミングと、メルカリのミッションづくりが重なっていたといいます。ただし小泉さんは、その潮流を読んだのではなく、あくまで自分の反省から作ったものだと強調しています。
8か月の断酒。しゃがんだ2年があったから走れた
メルカリの初期を、小泉さんは入社から8か月ほどお酒を飲まずに走り抜けました。1年半から2年は十分に遊んだので、勝ち切るまでは酒を断つと自分にコミットし、毎日朝方まで働いていたといいます。
ある意味僕はその1年半、2年しゃがんだので、
その分メルカリの初期を思いっきり走れたっていうのはあるので。
同じ頃、小泉さんは後の「らくらくメルカリ便」につながるヤマト運輸への提案や、仙台に100人規模のカスタマーサポート拠点を作る仕事も、ほぼ1人で手がけていました。それができたのは休んだからだとして、小泉さんは「休むことも重要だ」と語っています。
収録後、高木さんは小泉さんについて、あっけらかんと明るく、自然体でどんどん進んでいく人だと振り返ります。人生の話では挫折やネガティブな原体験が語られることが多い中で、小泉さんの原体験はまっすぐなものだったと話しています。
高木さんは、小泉さんが評価の定まる前の新しい領域に自分を送り込み続けてきたことに注目します。周りの目を気にせず、「自分はできる」と思って新しいことをやっていく大切さを感じたと締めくくりました。
まとめ
小泉文明さんの42年間は、エアマックス95の体験から育った「健全な勘違い」に支えられてきました。マスの感覚を手放さない姿勢、最高益のmixiを捨てた決断、何もしなかった約2年、そしてmixiの後悔から生まれたミッション・バリューが、メルカリの急成長につながっています。
- 勉強で挫折した少年時代、成績と関係のないMacとファッションが居場所になり、せどりの原体験につながった
- 小泉さんは「自分はできる」という健全な勘違いを持ちつつ、マスの感覚を保つため先端にいすぎないことを意識している
- 2004年、ユーザー10万人未満のmixiにSNS主軸の上場を提案し、上場後に入社して27歳で取締役になった
- メルカリでは14億円を調達し、5億円を2週間でCMに投じ、20〜30代の女性トレンドセッターに絞って刺した
- メルカリのミッション・バリューは、サービスの求心力に頼ったmixiでの反省から、評価制度まで含めて浸透させる形で作られた




