なぜ「仕組みを変えれば世界はもっと良くなる」なのか
ラクスル株式会社のビジョンは「仕組みを変えれば世界はもっと良くなる」です。松本恭攝さんは、古い産業にインターネットを中心としたテクノロジーを入れ、産業のあり方そのものを変えていくという意味だと説明します。
松本さんの問題意識は、日本の産業の多くが明治維新後や戦後、つまり150年前や75年前に作られた体制のまま続いていることにありました。松本さんはこれを「制度疲労」と表現し、産業のあり方を再定義しなければ経済が持たないと考えたといいます。
古い体制
明治維新後・戦後に作られた産業の仕組みがそのまま続いている
制度疲労
効率化されず、経済が持たなくなる懸念
テクノロジー導入
インターネットを中心に、産業のあり方を再定義する
世の中を良くする
先人の仕組みをアップデートしていく
高木さんは、2008年ごろはデジタル庁やDXのような議論がまだなかったはずだと問いかけます。松本さんによると、会社を作ってビジョンを掲げたのは2009年で、きっかけは学生時代に読んだフラット化する世界 ── ジャーナリストのトーマス・フリードマンによる著書。インターネットなどの技術によって、世界中の人が同じ条件で競争・協働できるようになった変化を描いた本ですだったそうです。
松本さんは大学時代、mixiなどのSNSを通じてインターネットの可能性を強く感じていました。2006年にはバンクーバーに半年留学したあと、3ヶ月ほどベイエリアに滞在し、Facebookや、今でいうメタバースに近いセカンドライフ ── 2003年に始まった3D仮想空間サービス。アバターで交流したり、仮想空間内で経済活動ができたりすることで、2000年代後半に話題になりましたなどに触れたといいます。
一方、帰国してコンサルティング会社に就職した松本さんが見たのは、リーマンショック後のコスト削減に追われる大企業の姿でした。調達の現場には全くテクノロジーが入っておらず、昔からの仕組みが効率化されないまま残っていたといいます。
シリコンバレーでの体験と、コンサルティング会社で見た日本の大企業の景色。松本さんはこのギャップに大きなチャンスを感じ、解消する会社を探しましたが見つからず、自分で作るしかないと起業を決めたと語っています。
シリコンバレーは「進んだ未来」ではなく「違う惑星」
高木さんが、日本も含めて世界がそうなっていくと予想していたのかと尋ねると、松本さんは「世界がどう動いていくかはよくわからなかった」と答えます。松本さんにとって大きかったのは、ベイエリアのほうが居心地がいいという感覚でした。
ベイエリアでは、ジーンズとTシャツ姿の起業家が新しいことを作ろうとしていて、投資家もたくさんいました。松本さんは、新しいことにチャレンジして未来を作っている空気を「いいな」と感じたといいます。
対して日本社会の多くは、新しいものを生み出すのではなく、今あるものを効率よく回すことに終始しているように松本さんには見えました。そのため松本さんは、シリコンバレーが未来で日本が遅れているというより、「違う惑星のような感覚」だったと振り返ります。
ジーンズとTシャツで、ガレージで新しいものを作る。起業家も投資家も多い
スーツで毎日高層ビルに通い、今あるものを効率よく回す
松本さんは、スーツを着て高層ビルに通うより、ジーンズとTシャツでガレージで何かを作っているほうが楽しいと感じたそうです。働き方そのものへの共感が、のちの起業につながっていきます。
富山の「グレー」を塗り替えた大学サークルの原体験
高木さんは、自分と同じ富山出身の松本さんに、保守的な土地柄のなかでどう感じていたかを聞きます。松本さんの答えは「富山の時は本当に記憶がないぐらい、色でいうとグレー」で、全然楽しくなかったという記憶しかないといいます。
松本さんは富山に18年いたあと、慶應義塾大学に進学し、複数の大学の学生が集まるインカレの国際イベントサークルに入りました。日中韓合同の国際イベントを開こうというサークルでしたが、メンバーは誰も中国語も韓国語も話せず、英語すら怪しかったそうです。
それでも松本さんたちが中国に渡って北京大学や清華大学を訪ねると、気づけば現地に支部ができ、日本より大きくなっていました。韓国でもソウル大学を中心に延世大学などで立ち上がり、1年で中国・韓国のほうが日本より大きな組織になったといいます。
ビジョンを掲げる
語学もできないまま、日中韓の国際イベントを開こうと集まる
現地に飛び込む
北京大学、清華大学、ソウル大学などを訪問
支部が広がる
1年で中国・韓国の支部が日本より大きくなる
形になる
約300人規模のイベントを開催し、約1000万円の協賛金を集める
1年後には中国と韓国から人が集まり、日本で300人ほどのイベントを開催し、大企業から1000万円ほどの協賛金も集まりました。何もない状態から、アイデアとビジョンだけで人が巻き込まれ、形になっていく過程を、松本さんは19歳で体験したことになります。
この体験から松本さんは、人の可能性は能力ではなく想像力であり、想像できることは実現できるのだと考えるようになったと語ります。松本さんは、これが一番大きな原体験かもしれないと話しています。
このサークルは今も続いているそうです。そこから好奇心が湧いた松本さんは、大学時代にバックパッカーとしてインドのスタートアップで働いたり、シリコンバレーを見て回ったりしました。ビジョンとアイデアで何かを作ろうとする人がたくさんいるのを見て、歯車を回すより新しいものを生み出すほうが人生は楽しいと思うようになったといいます。
高木さんが「世界はグレーからカラフルになった」とまとめると、松本さんは「そうそうそうそう」と応じています。松本さんは、こうした刺激によって自分が「洗脳されていった」部分があると表現しています。
ジョブズに「洗脳」され、新卒コンサルを1年半で辞めるまで
松本さんの就職活動は、外資系企業だったため大学3年生ごろに早めに終わりました。英語がまったく話せなかったため、松本さんは英語を身につけようとバンクーバーへ半年間留学します。
留学中、松本さんはスティーブ・ジョブズのスタンフォードでの講演 ── 2005年にスタンフォード大学の卒業式で行われたスピーチ。「Stay Hungry, Stay Foolish」の言葉で締めくくられ、今も広く視聴されていますをYouTubeで何度も聞き、シャドーイングしていました。その結果、松本さんは「ああいうふうに生きるのがいい生き方なんだ」と自分を洗脳してしまったと笑います。
高木さんは、そこまで覚醒して帰国すれば日本で就職すること自体を疑いそうだと問いかけます。しかし松本さんには起業したい思いは全くなく、そもそも就職するために海外に行ったので、戻ってそのまま就職したそうです。
ただ、コンサルティング会社の仕事は面白くなかったと松本さんは言い、在籍は1年半でした。当時はリーマンショック直後で、プロジェクトの多くが企業のコスト削減でした。そのなかで、削減率が最も高いコストが印刷だったといいます。
コンサルタントが1件1件、人の手で発注の効率化を行う
仕組みとして提供すれば、コンサルティングより効率よく届けられる
人の手で発注を効率化していたものを、仕組みとして提供できれば、コンサルティングより効率よく届けられるのではないか。松本さんはそう考えてそのような事業を行う会社を探しましたが見つからず、「転職しようとしたけど転職先がなかったので起業した」と振り返っています。
ベンチャーキャピタルは「ナウシカの巨神兵」だった時代
起業当時の環境について、松本さんは「スタートアップ」という言葉自体が日本になかったと話します。リーマンショック後で、松本さんにとってベンチャーキャピタルは幻の存在でした。
松本さんはベンチャーキャピタルを、『風の谷のナウシカ』の巨神兵にたとえ、「昔いたらしい」という存在だったと表現します。リスクマネーは当たり前になく、アイデアの良し悪し以前に、起業する人自体がいなかったといいます。
理解されにくい環境でどう事業を前に進めたのかという高木さんの問いに、松本さんはまず「ビジョンを作った」ことがよかったと答えます。創業時に最初にやったのが、ビジョンの言葉を作ることでした。
松本さんがビジョンを重視した背景には、大学時代のサークル「OVAL」での経験があります。松本さんは、ボランティアなのに人が特定の誰かではなくビジョンを信じて集まり、多くの人が巻き込まれていく様子を見たといいます。
松本さんは、ビジョンや大義名分、いわば錦の御旗には大きな求心力があり、モチベーションの源泉になると考えました。言葉そのものは昔から思っていたことをそぎ落としてまとめたもので、それに共感する人が集まってきたことが最初のスタートになったそうです。
大学時代の友人に、現在バンドで活動する真田アンリさんがいました。松本さんがコンサル会社を辞めると電話で伝えたとき、ほとんどの人に止められたなかで、その友人だけが「おめでとう」と言ってくれたといいます。景気がどん底で、起業自体が一般的でなかった時期のエピソードです。
1日500円生活でも「楽しかった」創業期
高木晋平さん自身も2010年に会社に入り、2011年に辞めてシェアハウスを作り、住人同士で起業を手伝う生活をしていたと話します。高木さんは、手伝っていたワンキャリア ── 就職・転職のクチコミや選考情報を扱うサービスを運営する企業。高木さんの話では、最近上場した会社として紹介されていますの宮下さんが、最初の2〜3年はフルタイムで一人きりだったことを例に、心が折れそうにならなかったかを松本さんに尋ねます。
松本さんの答えは意外にも、振り返ればあのころが一番楽しかったというものでした。松本さんは資本金200万円で会社を始め、家賃も食費もその資本金から出し、1日500円で暮らしていたといいます。
具体的には、ローソンストア100で昼に200円の弁当を買い、夜は冷凍食品で済ませる生活が半年ほど続きました。松本さんは「一番というとちょっと言い過ぎかもしれない」と言い直しつつも、すごく楽しかったと語っています。
松本さんがその楽しさの理由に挙げたのは、自分のアイデアを形にしていくプロセスです。会社員時代は全体像が見えないまま一部の仕事をこなし、何のためにやっているのかわからないことが多かったのに対し、創業後は自分の作りたいものや顧客の求めるものを自分のアイデアで作れるようになったといいます。
最初の半年は売上がなく、松本さんは今でいうPOC ── Proof of Conceptの略で「概念実証」のこと。新しいアイデアや技術が実際に機能するかを、小さく試して確かめる工程を指しますのように、ビジネスモデルやサービスをいろいろ試していました。松本さんは、その時期の楽しさを「学園祭準備みたいな」感覚だったと表現しています。
30人の壁と、売上7倍・退職率42%の組織崩壊
順調に見えた松本さんの会社がぶつかった壁は、組織の拡大でした。マネジメント経験が一度もないまま、社員が20人から30人ほどになった2012年ごろ、いわゆる「30人の壁」で組織崩壊が起きたといいます。
創業から3年前後でベンチャーキャピタルが復活し、松本さんの会社はシリーズAで2.3億円ほどを調達しました。それまでの価格比較サイトから、本当にやりたかった印刷のEコマースへピボット ── 事業の方向性を大きく転換すること。スタートアップで、検証結果をもとに主力事業を切り替える際によく使われる言葉ですし、人を増やし始めたところでマネジメントの問題が表面化します。
目標設定、チームを機能させること、評価の仕組みなど、当時の松本さんはマネジメントを学んだことがありませんでした。社内から不平不満が出ても対処する術を知らず、Eコマースを始めてからPMF ── Product Market Fitの略。製品やサービスが市場のニーズにしっかり合い、顧客に求められる状態に達したことを指しますまでの半年から1年は売上も立たず、つらい時期だったといいます。
PMF後の1年で松本さんの会社は15億円を調達し、売上は月次で1.5倍ずつ伸びるほどの勢いでした。年間の売上は1億円から7億円、7億円から24億円へと伸びています。
それでも社内は「どんより」していたと松本さんは話します。松本さんは「売上が全てを癒すって、あれ嘘じゃん」と感じたそうです。
若いメンバーだけで事業を伸ばすことに精一杯になり、チームを作ることも機能させることもできなかった結果、2014年ごろの退職率は42%に達しました。当時の規模は正社員15人、パートを含めて40〜50人ほどで、松本さんはこれが一番つらかった壁だったと振り返ります。
ビジョンを語らず、経営会議が数字だらけになった
組織崩壊の時期、松本さんの会社では一体感が失われていました。松本さんによると、当時はビジョンを語ることをしておらず、「みんなそんなことわかってるじゃん」「書いてあるじゃん」という感覚だったといいます。
経営会議は数字だらけになり、何のためにやっているのかという目的、今でいうパーパスを共有することをしていませんでした。ビジョンに共感して入社した社員にとっては、「全然ビジョンのことなんて考えてないじゃん」と映るようになっていったそうです。
高木さんは、数字に厳しい松本さんと、意義やパッションを大事にする松本さんの2人がいて、前者がプレッシャーから強く出てきたのかと尋ねます。松本さんの答えは、そもそもチームを機能させることやマネジメントを考えたことがなかった、というものでした。
松本さんは当時の考え方を「人は頑張るものである」と表現しています。事業が伸びているなかで勝手になんとかなるだろうという、マネジメント不在の状態だったと松本さんは認めています。
物理的な社長室で、自分と会社の距離を変える
やり方を変えるきっかけについて、松本さんは「つらかったんですよね」と率直に語ります。売上が伸びているのに会社を辞めようかと思うほどで、そのつらさから逃れるために、いい会社とチームを作るしかないと考えたといいます。
当時の松本さんの会社は「文鎮型」で、松本さんがビジネスもプロダクトもサプライチェーンもカスタマーサポートも見る、社長がすべてを決めるワンマン体制でした。松本さんはそこから、任せられる人を採用し、自分が見なくてもいい領域を増やす方針に切り替えます。
その時期に、現CFOの長見さんや、ノバセル ── ラクスルが展開する、テレビCMなどの広告効果を可視化・運用するマーケティング事業を担うCMOの多部さんらが役員として参画し、松本さんは彼らに仕事をどんどん任せていきました。
文鎮型。社長がすべての領域を見て、席を並べてフラットに話す
役員に任せきり、社長室にこもってミーティングでだけ話す
象徴的なのが、物理的に社長室を作ったことです。松本さんはもともと、社長はフラットに社員と机を並べるほうがいいと考えて社長室を嫌っていました。しかし机を並べると仕事の話になり、突然詰め始めてしまうため、構造的に関われないようにしたほうがいいと判断したそうです。
社長室を作った松本さんは、話すのはミーティングだけにし、任せた人には任せきり、その人とだけ話すようにしました。一人飛ばしてメンバーに直接話す「バイパスコミュニケーション」もしないと決めたといいます。
このころ松本さんは独学で本を読みながらマネジメントを学び、事業を伸ばすことより、組織を機能させることで事業を伸ばすスタイルに変えていきました。松本さんは、自分の精神を保ち、崩壊しかけた会社を立て直すためにはそれしかなかったと振り返っています。
課題には散歩とメタ認知で向き合い、性格は変えない
こうした課題にどう向き合うのかと高木さんが尋ねると、松本さんは「散歩ですね」と答えます。歩きながら、この問題はなぜ構造的に発生しているのかとメタ認知をひたすら続けるのだそうです。
松本さんの考え方の軸にあるのは、「性格を変えるのは無理だし、あまりやらないほうがいい」という認識です。頑張るとか、いい人になるといったことより、環境から受ける性格の変化のほうがはるかに大きいので、性格を変えたいなら環境を変えるのが一番いいといいます。
物理的な環境、社員の構成、コミュニケーションのあり方
話すときの内容や、ひと呼吸置くといった自分の性格
松本さんは、物理的なものや社員構成、コミュニケーションのあり方は設計できるので変えられる一方、話す内容や「ひと呼吸置こう」といった振る舞いは「そんなのやってたら起業家なんてやってない」と笑います。だからこそ松本さんは、自分は基本的に変えず、自分と会社の関わり方を変えると決めたといいます。
高木さんがそれもビジョンの通りだと指摘すると、松本さんは「仕組みですよね」と応じ、「仕組みを変えて会社を平和にする」と表現しました。産業の仕組みを変えるというラクスルのビジョンと、社長自身の組織運営の考え方が重なる場面です。
朝会を「Why」を語る場に変え、経営者は常に学び続ける
高木さんは、社内で話す内容も変わったのかを尋ねます。松本さんは、コミュニケーションにすごく気をつけるようになり、毎回ビジョンの話をするようになったと答えます。
松本さんの会社の朝会は、以前は先週の数字や部門ごとの課題、振り返りと今週のアクションを話すミーティング然としたものでした。それ以降は、今やっていることがビジョンにどうつながるのか、その意味を説明する場に変わったといいます。
先週の数字、部門の課題、振り返りと今週のアクション
今の取り組みがビジョンにどうつながるかという「Why」を、繰り返し語る
松本さんは、「僕たちはこう仕組みを変えて世界を良くしてきた。次はこの仕組みを変えたい。だからこのプロジェクトを始める」という形で説明するようになりました。サイモン・シネック ── アメリカの作家・講演家。TEDトーク「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」で、「Why(なぜ)」から語る重要性を説いたことで知られますの「Whyから始めよ」のように、Whyをたくさん話すようになったと松本さんは説明します。
あわせて松本さんは、同じことを何度も話すようになりました。前提にしているのは、コミュニケーションは基本的に伝わらないという考え方で、持ってほしいメッセージをひたすら伝える、スピーチに近い朝会になったかもしれないと話しています。
こうした組み立ては自分のメタ認知だけで作ったのか、と高木さんが聞くと、松本さんは「両方ある」と答えます。松本さんによれば、経営は勉強すると答えがたくさん落ちていて、経営者は一番勉強しなければいけない職種だといいます。
自分の感覚だけで経営すると自分がアップデートされない、と松本さんは考えています。そのため松本さんは、次のような複数の方法で学び続けているそうです。
- いろいろな本を読み、事例を見る
- TEDトークなどを聞く
- 先輩経営者に経営のやり方を聞く
- 同じステージの経営者と課題を話し合う
学びと並行して、今の課題はどこにあるのかを客観視するメタ認知を続け、変化を作り続けていく。松本さんの経営スタイルはその繰り返しだと語られて、前編は締めくくられます。後編では、松本さんの好奇心の源泉や、世界と未来の見方に迫るとされています。
まとめ
前編では、松本恭攝さんがシリコンバレーと日本の落差から「仕組みを変えれば世界はもっと良くなる」というビジョンを掲げて起業し、急成長の裏で起きた組織崩壊を、自分の性格ではなく会社との関わり方を設計し直すことで乗り越えた過程が語られました。
- 原点は、19歳のときにビジョンだけで人が集まり国際イベントが実現した大学サークルでの体験だった
- 起業の動機は、シリコンバレーの体験とコンサル時代に見た大企業のギャップで、転職先がなかったことが最後のひと押しになった
- 売上が年7倍に伸びた時期に退職率は42%に達し、「売上が全てを癒す」は嘘だと実感した
- 性格は変えず、社長室の設置や任せる体制づくりなど、自分と会社の関わり方という仕組みを変えた
- 朝会ではWhyとビジョンを何度も語り、経営者として本や対話から学び続けている





