ゴミ拾いSNS「ピリカ」は何を解決しようとしているのか
ピリカは、ゴミ拾いをテーマにしたSNSから始まった会社です。ホストの高木新平さんは、2011年から地道に取り組みを続け、これまでに3億個のゴミが拾われてきたと紹介しています。
高木さんによれば、ピリカの取り組みはゴミ拾いだけではありません。ゴミがどれくらい落ちているかを画像解析で可視化し、インターネットの力を使って解決につなげようとしています。
小嶌不二夫さんは富山県富山市の出身で、高木さんと同郷です。6歳まで富山で育ったあと神戸市に引っ越し、高校までを神戸で過ごしました。大学は大阪、大学院は京都に進み、海外放浪を経てピリカを立ち上げ、現在は東京で事業を営んでいます。
小嶌さんはピリカを「科学技術の力であらゆる環境問題を克服する」ことをコンセプトにした会社だと説明し、今は特にゴミの問題に集中しているといいます。
小嶌さんが問題にしているのは、ゴミの流出です。多くの人はゴミをきちんとゴミ箱に捨てますが、一部のポイ捨てや、製品が削れることなどで、ゴミが自然界へ流れ出してしまいます。小嶌さんによれば、このゴミの流出がいま地球規模の大きな問題になっています。
そこでピリカは、ゴミを拾うこと、流出の実態を調査すること、そして流出源を止めるアクションを取ることを事業にしています。
7歳で読んだ本は、なぜ一生のテーマになったのか
小嶌さんが環境問題に最初に興味を持ったのは、小学2年生、7歳のときでした。学校の図書室に、大気汚染、水質、ゴミ、核の問題などを1冊ずつ扱った「地球の環境問題シリーズ」という7冊ほどの本が置いてあったといいます。
小嶌さんにとって、その本に描かれた環境問題はビジュアルでとても深刻そうに見えました。そして「これは面白いし、解決できたらかっこいい」と感じたそうです。
当時の小嶌さんは、こんな面白い問題を他の人に解かれたら悔しいと考えました。ライバルを減らすために、その本をできるだけ自分が借りっぱなしにして、他の人に見せないようにしていたといいます。本人はこれを「当時の僕のせめてもの抵抗」と笑って振り返っています。
小嶌さんの好奇心が一過性で終わらなかった理由の一つは、富山と神戸の環境のギャップです。富山の家の周りで一番高い建物は4階建てでしたが、神戸では40階建てのビルがあり、空気にも排気ガスの多さを感じたといいます。
もう一つのきっかけは、小学3年生ごろに読んだドリトル先生 ── イギリスの作家ヒュー・ロフティングによる児童文学シリーズ。動物と話せる医師ドリトル先生が、動物たちと冒険する物語ですです。小嶌さんは、人間と動物が対等に話すこの本を通じて、人間だけが特別に偉いという感覚が薄れたと話しています。
小嶌さんの考えでは、戦争や貧困は人間にとっての問題です。一方で環境問題は、いろいろな生物を含めたさらに大きなスケールの問題であり、「一番解いたらカッコいいのはこれじゃないか」と思うようになったといいます。
環境問題を解決する仕事として小嶌さんが具体的に思い描けたのは、小学5、6年生のころです。鳥取大学の先生が、紙おむつに使われるポリマーを砂に混ぜて水を保ち、砂丘や砂漠で木を育てる研究をしていると知り、大学の研究こそそういう世界なのだと初めて理解したそうです。
小嶌さんの環境問題への関心は、次のような順番で具体的な目標へと育っていきました。
テニスで知った「世界一になれない」悔しさ
中学・高校時代の小嶌さんは、塾に通うこともなく、授業をのんびり真面目に受けるタイプだったといいます。近所には灘中・灘高がありましたが、過去問を見ただけで諦めたそうです。
中高時代の小嶌さんが一番時間と情熱を注いだのはテニスでした。ただ本人いわく「死ぬほど才能がなかった」ため、努力に対して成果が出ず、この道で世界一は厳しいと感じたといいます。
高木さんが「世界一になりたかったのか」と尋ねると、小嶌さんは不思議な感覚だと前置きしつつ、「世界一じゃないとおかしいだろ」という感覚があったと答えています。
小嶌さんはその感覚の背景として、男3兄弟の真ん中で育ったことを挙げます。3人とも自分が一番だと思っているような兄弟で、競争心や「一番でないと許せない」感覚が強かったそうです。一方で、勉強でもスポーツでも一番になれないギャップを、今でも覚えているといいます。
中学時代には軽いいじめもあり、小嶌さんは「生き残るのに必死だった」と振り返ります。テニスを引退し、プロを目指すわけでもないと気づいたとき、今からでも一番になれるものを探すと、環境問題しか残っていなかったそうです。
憧れの研究生活は、なぜ「つまらなかった」のか
小嶌さんは大阪大学に落ち、大阪府立大学に進学しました。高校3年生まで部活ばかりで宿題も出さないと宣言していたため、成績を巻き返しきれなかったといいます。大学では機械や環境分野の工学を学びつつ、3年生までは部活でテニスを続けました。
大学4年生で研究室に配属された小嶌さんは、ノーベル賞級の研究が始まるのではとワクワクしていました。しかし実際は、先生が用意したテーマから選ぶ研究で、問題解決につながっている実感がなく、研究室でずっとパソコンに向かう生活も性に合わなかったといいます。
小嶌さんは研究を「一言でつまんなかった」と表現しています。当時はリーマンショック ── 2008年に米投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻したことをきっかけに広がった世界的な金融危機。日本でもその後、企業の採用が急激に冷え込みましたが日本に来る直前の就職好況期で、気づいたときには周囲の就活はほぼ終わっていました。
考え直す時間を稼ぐため、小嶌さんは大学院進学を選びます。学費の安い国公立、関西圏だが実家から離れて一人暮らしできる場所、テーマや予算が豊富で教授の干渉を受けにくいことなど、条件を重ねて選んだのが京都大学のエネルギー科学研究科でした。
京大の大学院は、小嶌さんにとって研究の「ラストチャンス」でした。しかし別の環境でも研究の面白さは感じられず、研究者ではない道としてビジネスや事業を考えるようになります。
ところが小嶌さんは、インターン先でも上司によく怒られました。数字上の成績は一番だったものの、上司の指示通りに動くタイプではなく、振り返れば大学の先生ともよく揉めていたといいます。こうして、組織に入るより自分で始めたほうがよいと考えるようになりました。
小嶌さんが起業へ向かうまでの流れを整理すると、次のようになります。
大学の研究室
用意されたテーマの研究に面白さを感じられない
京大大学院
研究のラストチャンスとして進学するが、憧れが打ち砕かれる
インターン
成績は一番でも上司と揉め、組織が合わないと気づく
海外放浪
自分で始める種を探しに、現場に近い場所を見て回る
撮るだけのアプリが「ゴミ拾い」に変わった瞬間
海外放浪から帰国する飛行機の中で、小嶌さんは「見つからなかった」と落胆したといいます。アイデアをメモ帳に書き留めてはいたものの、これだと思えるものはなく、時間とお金を無駄にしたと感じていました。
それでも休学の期限があったため、小嶌さんはいくつかのアイデアを組み合わせて構想を立てました。ウェブ地図上に一般ユーザーが環境問題の情報を投稿し、それを見た自治体やNPOが、本当に汚れている場所で清掃活動をする、という仕組みです。
小嶌さんが友人と作り始めて実際に道を歩いてみると、見つかる問題の9割5分はゴミでした。落書きや大気汚染、水の汚れと比べて、タバコなどの落ちているゴミのほうが圧倒的に多かったため、ゴミに特化することにしたといいます。
当初のピリカは、ゴミの写真を位置情報と一緒に投稿するだけのサービスでした。そこへ「そんな近くまで行っているなら拾ってもらったほうがいい」という指摘があり、小嶌さんは最初「拾うわけないだろ」と受け流したそうです。
ところが2週間ほどして、小嶌さんは「拾うかもしれない」と不安になり、きれいにした後の写真も撮れる機能を追加しました。ビフォーアフターで、ゴミが片付いたことを見せられる仕組みです。
ゴミの写真を位置情報と一緒に投稿し、解決は別の人に任せる
ユーザー自身が拾い、きれいにした後の写真も投稿できる
機能を加えた結果、拾ってくれた人は200人中10人ほど、約5%でした。小嶌さんにとっては、見ず知らずのアプリでゴミを拾う人が5%もいることが衝撃だったといいます。
小嶌さんは、この見た目も悪いアプリで5%なら、改良すれば10%、20%、30%も狙えるのではと考えました。無理だろうという気持ちとの間で揺れながらも、最後は研究者マインドが勝ったと振り返っています。失敗しても「このアプローチはうまくいかない」という記録が残るなら、時間をかける価値があると考えたそうです。
ただ、ピリカの広がりは順調ではありませんでした。ゴミ拾いに関心を持つ人の母数が小さく、注目を集めるのが大変だったといいます。
そこで小嶌さんたちは、日本人は「海外で使われている」に弱いのでは、と考えました。2011年3月ごろ、卒業旅行中の友人たちに連絡し、ブラジルなど滞在先でゴミを拾った写真を送ってもらいます。リリース時点で「世界10カ国でゴミが拾われているサービス」となり、メディアにも取り上げられたそうです。
一方で小嶌さんは、「でもほんと地道ですよ」とも語ります。各地のゴミ拾い団体に挨拶回りをし、長く続けられてきた彼らの活動を尊いものだと感じていたといいます。
祖父への後悔と、母に抱きしめられた記憶
小嶌さんが尊敬する人として挙げたのは祖父です。祖父は貧しい農家の育ちで、特攻隊に選ばれながら、出撃2週間前に終戦を迎えて命をつないだ人でした。
小嶌さんの祖父は家庭の事情で小学校を中退しながらも、当時は合法だったヒロポン ── 戦中・戦後の日本で販売されていた覚醒剤(メタンフェタミン)の商品名。眠気覚ましなどに使われましたが、依存が社会問題となり1951年に規制されましたを打ちながら夜通し勉強し、司法試験に合格したといいます。小嶌さんは、その型破りな生き方をかっこいいと感じ、大学院まで行った自分を「なんてかっこ悪いんだ」と思ったそうです。
ピリカを始めるとき、小嶌さんは一族で一番自分に甘い祖父のもとへ資金を借りに行きました。祖父は事業の説明にぽかんとしながらも、「僕がやることならば」と約束してくれたといいます。
しかしアプリを世に出したあと、出来が悪く誰も使っていなかったため、小嶌さんは報告をもう少し先にしようと考えました。その5日後に祖父は亡くなり、小嶌さんは今でもその5日間を後悔していると話しています。せめてお礼は言いたかったそうです。
祖父に資金を借りに行ったことは、親族の間で大問題になりました。それでも小嶌さんの父は、自分には理解できないが見どころのあるやつだから応援してほしい、と言ってくれたといいます。多くの起業家が親族の反対から始まる中で、小嶌さんは逆に背中を押されたと感じています。
高木さんが、小嶌さんの自己肯定感の高さはどこから来たのかと尋ねると、小嶌さんは中学時代のいじめを挙げました。いじめで自己肯定感がゼロになったあと、ぼんやり部屋から外を見ていたとき、母が後ろから抱きしめてくれたそうです。
母に抱きしめられたことに言葉はなかったものの、小嶌さんにとっては、自分が価値ある存在だと信じられる印象的な出来事になりました。すぐに元気になったわけではないものの、その瞬間から「無敵だと思う」と語っています。
2040年までにゴミの流出と回収を逆転できるか
ピリカの今後について、小嶌さんはゴミの問題があと20〜30年ほどで本格的に深刻化すると見ています。人口が増え、一人あたりが豊かになることでゴミの量が激増し、流出量も増えていくためです。
そこで小嶌さんは、2040年までに流出するゴミの量と回収量を逆転させることを目標に掲げています。そのためには、日本国内だけでなく、グローバルに事業を広げる必要があるといいます。
具体的には、ゴミの調査をその年にベトナムで始め、地球全体を俯瞰して、どこに問題がありどこで解決策が生まれているかを計測できる状態を作ろうとしています。地域ごとに別の解決策を見つけ、回収を増やしたり流出を止めたりしながら、特に大きな問題から集中的に攻めていく考えです。
ただ小嶌さん自身は、その道筋について「本当にわからない。もう模索してます」とも話しています。
高木さんは収録の終わりに、7歳で環境問題の本を読んだ小嶌さんが、十数年にわたり事業として続けていることに触れました。そして、ピュアな好奇心を大事にする科学の人は時間軸がぶっ飛んでいて、不確実性の高い時代にはそうした思考が強い、と改めて感じたと語っています。
まとめ
小嶌不二夫さんの歩みは、7歳で抱いた環境問題への憧れを、挫折や遠回りを重ねながら手放さなかった物語です。研究には失望しても研究者マインドは残り、5%の手応えを実験として検証し続けたことが、ゴミ拾いSNS「ピリカ」の土台になりました。
- ピリカはゴミ拾いSNSから始まり、ゴミの流出を調査・可視化して流出源を止めることを事業にしている
- 7歳で読んだ本とドリトル先生が、生物全体に関わる環境問題を「一番かっこいい問題」と感じるきっかけになった
- テニスや研究で一番になれなかった経験を経て、組織に合わない自分は起業する道を選んだ
- 撮るだけのアプリに拾う機能を足し、5%が拾うという結果を「改良すれば伸びる」と捉えた
- 2040年までにゴミの流出量と回収量を逆転させることを目標に、グローバルな展開を模索している





