5〜6億人の農家が相手、Degasはガーナで何をしている?
牧浦土雅さんは現在ガーナに住み、農家に融資をするDegas株式会社を経営しています。融資するのはお金そのものではなく、肥料や種子といった農業に必要なものです。
牧浦さんが市場として見ているのは、北アフリカの10カ国弱を除いたサブサハラアフリカ ── サハラ砂漠より南のアフリカ地域の総称。数十カ国が含まれ、世界でも特に人口増加が著しい地域とされていますです。この地域の人口は約12億人で、労働人口の7〜8割が農家だといいます。
正確に言うと、日本の戦後の小作人みたいな人たちばっかりで、1ヘクタールとかしか耕してませんみたいな。
サブサハラアフリカの農家は、ヘクタール当たりの収穫量が世界平均の3分の1から4分の1ほどにとどまります。Degasはその生産性を上げるために、肥料や種子を融資しているという説明です。
上の図のとおり、牧浦さんは低めに見積もっても5〜6億人が対象だと話します。ただしガーナ1国だけでも500万〜700万人の小規模農家がいるとされ、今はガーナで十分で、その先に横展開を考えているそうです。
Degasの創業は2018年11月で、収録時点で約4年が経ち、従業員は全体で130人ほどです。そのうち110人ほどがガーナにいて、その8割ほどがガーナ人、マネージャー以上にはフィリピン人やフランス人、オランダ人もいるといいます。
高木さんが牧浦さんの「スケールの大きさ」の理由を尋ねると、牧浦さんはアフリカという市場そのものの大きさを挙げました。1日1.9ドル以下で暮らす貧困層の87%がアフリカにいて、過去30年でアフリカだけが貧困層の数を減らせなかったといいます。
誰も何もやってこなかったんだけれども、みんなそこ(アフリカ)にオポチュニティがあるのは分かってたっていう。
人口の伸びについても、牧浦さんは2023年2月のナイジェリア大統領選挙を例に挙げます。ナイジェリアの人口は2.2億人で日本の1.2億人を上回るのに、18歳以下の若者が多いため有権者数は日本より少ないそうです。2050年にはナイジェリアが3.7億人、日本は1億人前後となり、差は開く一方だといいます。
なぜアフリカだったのか、恩師の一言と画商の家
高木さんが「なぜアフリカで始めたのか」と聞くと、牧浦さんはまず冗談めかしてこう答えました。
牧浦さんのアフリカとの最初の接点は2011年、東アフリカのルワンダ ── アフリカ中東部の内陸国。1994年の大虐殺の後、急速な復興と経済成長を遂げたことで知られますです。当時イギリスにいた牧浦さんは、大学入学前にギャップイヤー ── 高校卒業後から大学入学までなどに設ける猶予期間。旅行やボランティア、インターンなどで社会経験を積むのに使われますを取り、行き先に迷っていました。
そのとき相談したのが、中学時代の校長だった藤原藤原一洋先生です。藤原先生から「ルワンダで仲のいい人がやっているから紹介してやる」と言われたのが、牧浦さんがルワンダへ行った始まりでした。
高校生、17の時に初めてルワンダ降り立ってますから。そう考えるともう長いですね。
収録時点の牧浦さんは29歳です。ルワンダの頃は「ほんと趣味の延長線みたいな感じ」だったといいますが、そこから10年以上アフリカと関わり続けてきたことになります。
牧浦さんは日本生まれ日本育ちで、中学2年からイギリスに渡りました。きっかけは、父親が留学のパンフレットを持ってきて「留学に行け」と勧めたことです。
牧浦さんの父親は海外でMBAを取得し、外資系の投資銀行に長く勤めた人です。母親は画商で、麻布十番でギャラリーを営んでおり、母方の親族はほぼ全員が銀座やニューヨーク、山梨などで美術商やギャラリストをしているそうです。
幼い頃相当絵描くのとか好きじゃない限り美術館とかだるいじゃないですか。小学校とかルーブルとか言われても、モナリザすげえみたいな。
牧浦さんは、泣きながら美術館に連れて行かれた子ども時代を振り返りつつ、それで感性が養われたのかもしれないと話します。高木さんは「養われてると思う、絶対」と返していました。
公立中学と超富裕層の寮、両極端を見た少年時代
牧浦さんはイギリスで、イングランドとスコットランドのボーディングスクールにそれぞれ数年ずつ通いました。当時の友人とは今でも一番仲がよく、結婚式にもよく出かけるそうです。
牧浦さんは、イギリスのボーディングスクール ── 生徒が寮で共同生活を送る全寮制の学校。イギリスでは伝統ある私立校に多く、世界中から富裕層の子女が集まりますの特徴を「縦と横のダイバーシティ」と表現します。横は国籍の多様さ、縦は所得の多様さです。
牧浦さんによると、生徒の半分ほどがイギリス出身、それ以外にイギリス在住のインド系などの生徒、さらに中国やスペイン、韓国、日本から純粋に留学してきた生徒がいました。寄付金で成り立つ奨学金制度が充実していて、裕福ではないが成績優秀な地元の生徒も通っていたそうです。
一方で、王族や大統領の息子のような生徒も「めっちゃいます」と牧浦さんは言います。スコットランドは北海油田があるため中東とつながりのある家庭も多く、ドバイ系の生徒は寮の部屋に大量のお菓子を持ち、週末にはドバイへ行くような暮らしぶりでした。
(東京の私立の子が)軽井沢の別荘に行くとか、箱根行くみたいな。でもそれでも俺もうこんな小さいうちからこんな恵まれたことしてんの?みたいなショック受けてたけど、今の話聞くとまたちょっとスケールが何段階か違うレベルで。
牧浦さんにとって大きかったのは、その前に日本の公立中学を経験していたことです。小学校は学習院でしたが、中学は杉並区立の和田中学校に進みました。リクルート出身で初めて民間から公立校長になった藤原先生が改革を進めていた学校です。
週末はクーポンを使って安いところへ遊びに行くような、いわばマジョリティの暮らし
王族や大統領の息子もいる、世界トップクラスの超富裕層が集まる環境
この対比があったからこそ、牧浦さんは超富裕層の世界を「世界は広い」と感じつつも、それがマジョリティではないと最初からわかっていたといいます。親のお金をあたかも自分のもののように扱う生徒も見ており、そちらにどっぷり浸からずに済んでよかったと振り返ります。
牧浦さんは自身の子ども時代を「やんちゃでした」と認めます。学習院時代には傘でチャンバラをして友達の前歯を折ったり、下校中にランドセルを振り回したりしていたそうです。
ダメとか言われたらやりたいみたいな、単純に。
高木さんが「自分なら挫折しそう」と言うと、牧浦さんはボーディングスクールでの日々はずっと楽しかったと答えます。高校から留学すると日本人や中国人だけで固まりがちだが、中学2年の頭だったので「いい意味でスポンジ状態だった」のではないか、というのが牧浦さんの見立てです。
インドのスラムで見た、学びたい子どもたち
牧浦さんは、超富裕層の環境がマジョリティではないことを「ファクトとして」わかっていました。地理の授業で、同世代の子どもが朝ごはんも満足に食べられずに働いていると聞き、それを自分の目で見てみたいと思ったそうです。
ボーディングスクールでは、高校1〜2年生から大学の願書に向けて夏休みのプログラムが用意されます。学校が信頼できるNPOと提携し、フィリピンで1カ月働くものなどがある中で、牧浦さんが選んだのはインドのスラム街で1カ月英語教師を務めるプログラムでした。
高校2年の夏、牧浦さんはインドでボトム・オブ・ピラミッド ── 世界の所得ピラミッドの最下層にいる人々を指す言葉。BOPとも呼ばれ、途上国ビジネスの文脈でよく使われますの暮らしを目の当たりにします。13〜17歳の子ども20人ほどが1つの部屋で学び、教科書は2〜3人で1冊、教室が使えるのは午後だけで、午前中は物乞いをしている子もいました。
それが衝撃的だった。それがいわゆる原体験ってやつです。
それでもスラムの子どもたちは、とても幸せそうで楽しそうだったといいます。「これわかる人」と聞けば全員が手を挙げる教室でした。
教科書も足りず午後しか使えないが、子どもたちは楽しそうに全員手を挙げる
学費が非常に高く教育も用意されているのに、生徒は「授業を聞きたくない」と言う
牧浦さんはこの対照を「いわゆるパラドックス」と呼び、途上国へ引き込まれていった一番の原体験だと話します。自分の目で見たときの感覚は、衝撃というより「ボーディングスクールって何?お金って何?」という問いに近かったそうです。
単純にこういうやる気ある人たち、当時はスラムでしたけどに、いい環境を与えればめちゃくちゃ勉強すんじゃね?みたいな。
牧浦さんは、高校生がよく抱く「アフリカを支援したい」という思いをボーディングスクールの仲間に広めることには、正直まったく興味がなかったといいます。関心はあくまで、途上国の底上げを実際に進めることにありました。
チャリティショーで集めた4000ポンドと「自己満」
最初に何をしたのかと高木さんが聞くと、牧浦さんは学校の「マフティーデー」の話をしました。生徒が赤十字やユニセフなどに2ポンドほど寄付すると、私服で登校できる日です。マフティーは私服を意味する言葉だそうです。
寄付が誰かの生活を変える仕組みが身近にあった牧浦さんは、学校でタレントショーを企画しました。歌やダンス、コメディなど校内の才能を集め、入場料を1人5ポンドほどにし、スポンサーも募って、収益をインドで働いたNPOに寄付したといいます。
牧浦さんの狙いは、ボーディングスクールの仲間に現状を伝えることよりも、お金を集めて物理的に支援することでした。4000ポンドほどあれば、ないよりはずっといいと考え、最後の1年はそうした活動を続けたそうです。
ところが、その活動を通して見えてきたものを聞かれた牧浦さんの答えは厳しいものでした。
高木さんは「すごく感謝されるでしょ」と返しますが、牧浦さんはサンキューレターやメールは来ても、自分が現地で手渡したわけではなく、実感もリターンも見えなかったと話します。だからこそ別のやり方をしなければならないと考えたといいます。
インドのスラムで原体験
やる気のある子どもに環境があれば伸びると感じる
タレントショーで寄付
約4000ポンドを集め、インドのNPOに寄付する
手応えのなさ
感謝はされても実感やリターンが見えない
別のやり方を模索
「焼け石に水」「自己満」と感じ、方法を変えようと考える
国連でもJICAでもなく、ソーシャルビジネスへ
牧浦さんは、国連やJICAに行こうとは一切思わなかったといいます。インドで国連やJICAの職員と話すうちに、結局は組織に縛られることしかできないと感じたからです。
その配属されたところがスリランカのヘルスケアだったら、まあそれはこの病院の支援しかできない。いきなり本当は農業の支援の方が喫緊性高いのにできないんで。
ちょうどその頃、ソーシャルビジネスの波が来ていたと牧浦さんは振り返ります。日本では駒崎さん、海外ではマイクロファイナンス ── 貧困層向けに少額の融資や貯蓄などの金融サービスを提供する仕組み。担保を持たない人でも事業を始められるようにする狙いがありますを広めたモハメド・ユヌスのような存在です。
牧浦さんはそうした本を読んで「これだ」と感じ、ビジネスという自由な立場から社会課題の解決に取り組むという方向へ進んでいきます。ソーシャルビジネスをやろうとまでは思わなかったものの、組織に縛られない立場であることが大事だったようです。
高校3年のとき、牧浦さんは東日本大震災の復興に関わりたいと考え、恩師の藤原先生に相談しに行きました。返ってきたのは厳しい言葉でした。
藤原先生のところに相談しに行ったら、なんか知恵も金もねえお前が何できんだみたいな感じになって。それで確かにそうなんですよ。
で、じゃあ何したいんですか?って言われたら、逆に目立つところに行けみたいな。それがルワンダ。
こうして牧浦さんは、17歳でルワンダへ向かうことになります。インドで見た両極端の世界、寄付活動で味わった手応えのなさ、そして恩師の後押しが、今のアフリカでの挑戦につながっていきました。
まとめ
前編では、牧浦土雅さんがサブサハラアフリカの5〜6億人の農家を対象に事業を展開するに至った原点が語られました。公立中学と超富裕層の寮という両極端を知ったうえで、インドのスラムで「学びたい子どもたち」に出会ったことが、牧浦さんを途上国へ向かわせた原体験です。
- Degasはガーナを拠点に、生産性の低い小規模農家へ肥料や種子を融資している
- 杉並区立の公立中学とイギリスのボーディングスクールの両方を経験し、超富裕層の世界がマジョリティではないと知っていた
- インドのスラムで見た子どもたちと高額な学費の授業を嫌がる生徒の対比が、途上国に向かう原体験になった
- 寄付活動を「焼け石に水」「自己満」と感じ、国連やJICAではなくビジネスの立場で課題解決を目指した
- 恩師の藤原先生の「目立つところに行け」という言葉が、17歳でのルワンダ行きにつながった



