天才と紹介された上野山さんは、どんな少年だったのか
ホストの高木真平さんは、PKSHA Technology代表取締役の上野山勝也さんを「一言で言うと天才」と紹介して回を始めます。東京大学で機械学習の博士課程まで進み、アルゴリズムを使うAI企業を創業した人物として、高木さんは上野山さんを「DXの未来を作っている会社の代表」と位置づけました。
高木さんと上野山さんは、PKSHA Technologyのビジョンづくりやコーポレートブランドづくりを一緒に手がけた間柄です。高木さんはその仕事を通じて、上野山さんの考えていることが「めっちゃ面白い」と感じ、ライフスタイルとは別の領域のカルチャーに触れられそうだとして今回のゲストに招いたと話しています。
上山さん(上野山さん)の頭の中を聞いていきたいなというのが今日のお誘いした狙いです。
真平さんなんかちょっと硬くないですか。
まず高木さんが気になっていたのは、上野山さんの少年時代です。上野山さん自身は、自分を「レゴで育ったような、めっちゃ理系」で、体育会系ではなく明らかに文化系の少年だったと振り返ります。
上野山さんは、中学・高校時代は私立の中高一貫校の枠の外にほとんど出ていなかったといいます。上野山さんの話では、少年時代に特別な武勇伝があったわけではなく、転機はその後に訪れました。
シリコンバレーの3泊4日で、20人の学生に何が起きたのか
上野山さんにとっての最初の転機は大学時代です。一人暮らしを始めて急に自由な環境に置かれ、上野山さんは「やりたい」という熱を持て余していたといいます。
やりたいみたいな熱みたいなのは結構大学時代はめっちゃあって、熱を持て余してる感が多分研究室の中でも満載だったんですよ。
そんな上野山さんに、研究室の先輩が「一回シリコンバレー行ってこいよ」と声をかけます。先輩がどこまで考えて言ったのかは、上野山さん自身にもわからないそうです。
実際に上野山さんが参加したのは、『ウェブ進化論 ── 梅田望夫さんが2006年に出版した本。インターネットがもたらす社会の変化を論じ、当時の日本でベストセラーになりました』で知られる梅田望夫さんの企画でした。梅田さんのサイトで、小論文を送った学生のうち20人だけをシリコンバレーに招待するという募集があり、選考は20倍ほどの倍率だったといいます。
2004年ごろ、選ばれた20人の学生は全員初対面のまま、サンフランシスコのApple Storeの1階に集合しました。学生たちは3泊4日ほどの間、シリコンバレーで働く日本人と議論を重ねます。
議論の相手には、Appleの社員やGoogleのエンジニア、元ライブドアのCTOなどがいました。3日3晩飲み明かして議論するなかで、上野山さんは「俺やりたいのこれじゃん」と、初めて興味のあるものに出会った感覚を得たといいます。
まさにこれがインターネットのパワートゥーザピープルの空気感にいきなりドーンと当たったみたいな。
上野山さんが特に刺さったと話すのは、シリコンバレーで働く人たちの多様さです。インターネットが伸びる時期に働いていた人たちは、それぞれ自分の好きなことをしていて、学生に向かって語る働き方の話も全員バラバラでした。
(働くとは)こういうことだみたいな。学生に20人に向かって言いまくるわけですよ。でも全員違うこと言ってるんですね。なのに全員楽しそうみたいな。
上野山さんによれば、参加した20人の学生は「その3日間で人生変わってる」そうです。現在は上野山さんの会社の社員やシリコンバレーで働く人もいて、基本的に全員がインターネット産業やスタートアップに近い領域にいるといいます。
日本の就活に感じた違和感は、どこから来ていたのか
シリコンバレーの空気が上野山さんに強く刺さった理由として、上野山さんは当時の日本の就活に感じていた違和感を挙げます。山手線に乗って大学に通いながら、「俺こんな感じになるのかな」と直感的な違和感を抱いていたそうです。
日本の就活って同じ服を着て、なんかある種個性を殺して喋るみたいな、ちょっとよくわからんフォーマットにその頃少なくともなってて。
上野山さんは、日本の就活を大量生産・大量消費のものづくりのフォーマットに近いものと捉えています。一方で、インターネットやデジタルの世界は、人と人との違いが価値になる世界だと話します。
同じ服を着て個性を抑えて話す、大量生産・大量消費のものづくりに近いフォーマット
人と人との違いが価値になる、未来型社会の価値観
上野山さんの言葉では、2つの世界は「根本的にゲームとかパラダイム違いすぎて」いました。偶然訪れたシリコンバレーは未来型社会の価値観に覆われていて、それが学生だった上野山さんに刺さったといいます。
ただ、シリコンバレーから帰国した直後の上野山さんは、衝撃をうまく言語化できなかったそうです。「なんでこんなやばいんだろう」と全員が興奮しながらも、その正体はまだつかめていませんでした。
帰国時点で上野山さんはすでに就活を終え、コンサルティング会社から内定をもらっていました。それでも上野山さんは、ソフトウェアやデジタルの世界が体に染みついていると感じ、入社の2〜3か月前になって内定を辞退しようと決めます。
当然ながら人事からは強く引き止められ、「うちの会社もデジタルできます」と説得されたといいます。上野山さんは半信半疑のまま入社しますが、実際に3年ほどデジタルの仕事に携われたそうです。
その会社が、外資系コンサルティングファームのボストン コンサルティング グループ ── アメリカ発祥の大手戦略コンサルティングファーム。BCGと略され、日本では「ボスコン」とも呼ばれますでした。上野山さんは、BCGでのデジタルの仕事は「めちゃくちゃ面白い」ものだったと振り返ります。
BCとか(BCG)に頼むネット企業なんて日本にめっちゃでかいとこしかないわけですよ。
上野山さんによると、BCGでの仕事は大企業のDXのようなものではなく、2005〜2006年ごろのインターネット企業の真ん中にいる経営者と仕事をするものでした。
面白かった仕事のなかで、なぜ辞めると確信したのか
BCGに入って3年ほどデジタルの仕事を続けたあと、上野山さんは一度、自分の希望を出さずにプロジェクトのアサインに身を委ねてみることにします。そこでアサインされたのが、大阪の有名な製造業のプロジェクトでした。
これ(製造業のプロジェクト)にアサインされて、あ、辞めようって確信するっていう。
上野山さんは、それまでの仕事が面白かったのはインターネット産業の仕事だったからだと気づきます。デジタルのゲームと、デジタルがなかった時代の製造業のゲームはまったく異なり、議論のプロトコルも時間軸もダイナミズムも違ったといいます。
イメージと違う星だなこれってぐらい議論のプロトコルも違うし、時間軸も違うし、ダイナミズムも全然違うし。
製造業のプロジェクトを通じて、上野山さんはあらゆるものがソフトウェアに飲み込まれていくという体感を得ました。当時26歳ほどだった上野山さんは、自分のやりたいことであり、今後すべての原動力がそちらに乗っていくデジタル・ソフトウェアの側にオールインしない理由はないと考えます。
上野山さんは、会社にいると意外と馴染んでいってしまう感覚も認めています。それでも辞める決断ができたのは、入社前に見た「突き抜けるような青い空のシリコンバレー」の映像記憶があったからで、その記憶は今もまったく消えていないといいます。
昇進した直後に、なぜ外資コンサルを辞めたのか
上野山さんは、BCGで昇進した直後に会社を辞めています。昇進前の上野山さんは、昇進するか辞めるかが迫られるアップオアアウト ── 一定期間内に昇進できなければ退職を求められる人事制度。外資系コンサルティングファームで広く知られていますのゲームにセットされていたと話します。
そのゲーム負けたくないっていう、本来自分がやりたいことと違うモメンタムが駆動してて。無意識レベルで。
上野山さんは、アップオアアウトの途中で自分から離脱することに、受験のパラダイムと似た抵抗を感じていたようです。昇進した瞬間に、4年前に確信したことを4年経っても思い続けていると気づき、ようやく方向転換できたといいます。
こんなにやりたいことがわかってるのに、なんで意識ってしないの?っていうことぐらいまで意識化しないとハンドル切れなかったんですよ。
高木さんはこの話を、進学校に通うような優秀な人が「エリートレース」にセットされ、自分だけの点を見つけに行けなくなる状態だと受け止めます。上野山さんも「マジでそうで」と同意しました。
上野山さんは、同じような進学校や大学に進んだ人との差を作ったタイミングは、シリコンバレーに行ったときと、4年ほど働いたあとに自分の中のドグマから方向転換したときの2つぐらいだと考えています。
BCGのアップオアアウトの厳しさについても、上野山さんは具体的に語ります。昇進すると年収が2倍になる一方で、上野山さんの同期は15人ほどで、リーマン・ショックの時期だったこともあり半分ほどが辞めていったそうです。上野山さんは、今はそうではないと思うと補足しています。
上野山さんの場合、昇進で年収が2倍になった次の日に会社を辞めたため、翌日には年収がなくなったといいます。
会社を辞めた26歳は、なぜ「生まれ落ちた」と感じたのか
BCGを辞めた上野山さんは、転職するのではなく、元いた研究室に戻って博士課程に進みます。どこかに勤めると会社の制約で時間を取られるため、デジタルに100%オールインするための選択だったといいます。
高木さんが「今の人なら起業を考えるのでは」と尋ねると、上野山さんは当時は起業する志は特になかったと答えます。上野山さんが26歳で決めたのは、あくまでソフトウェアの進化とともに生きていくことでした。
会社に行かなくなった最初の月曜日の朝について、上野山さんは鮮明に覚えています。鳥の声だけが聞こえるなかで、「俺これ会社行かなくていいんだな」と感じ、起業はしていないものの、雇用契約がなくなったある種の独立だったと振り返ります。
不安というより、なんかね、リアリティがめちゃくちゃ増してきたみたいな。日々の日常とかに。
高木さんは、上野山さんが私立の中高一貫校の頃からレールにセットされていたことも関係しているのではないかと指摘します。上野山さんは、嫌々やっていた記憶はないものの、引かれたレールの上で負けないというゲームが、無意識のうちに自分のメンタルモデルの根底を動かしていたと認めています。
引かれたレールの上で、ゲームに負けないことが無意識に自分を動かしていた
デジタルで生きると決め、自分で選んでいる感覚が強くなり、日常のリアリティが増した
上野山さんにとっては、26歳からの4年間はふわふわした時期ではありません。むしろ26歳までのほうがふわふわしていて、26歳からは自分で選んでいる感覚がとても強かったといいます。
この4年間、上野山さんは朝カフェでTEDを見たり、コードや論文を書いたりして過ごしました。自宅のホワイトボードにやりたいことの論点を書き出し、数年でできそうなことと十何年やっても届かないことを整理しながら、実際に作ってみることもしていたそうです。
そのジャンル(家にホワイトボードがある人)知らないです。
博士課程の間に、上野山さんは1年半ほどシリコンバレーにも滞在しています。GREEのアメリカ法人の立ち上げに社員として参画し、GREEが買収したOpenFeint ── スマートフォン向けゲームのソーシャル機能を提供していたアメリカの企業。2011年にグリーが買収しましたの社長の横で、アナリティクスシステムの統合などに携わったといいます。
上野山さんによると、そのOpenFeintの社長はのちにDiscordを創業した人物でした。仲が良かった社長はグループの方針で突然退任することになり、その後に作ったサービスが「今や1兆円企業」になったと上野山さんは話しています。
高木さんは、経歴だけを見るとハイキャリアに見える上野山さんが、実はピュアな思いで道なき道を進んでいたと知り、急に親近感が湧いたと語っています。
認知度1%の機械学習で、何を売ったのか
上野山さんがPKSHA Technologyを創業したのは30歳、2012年のことです。上野山さんは、起業を「崖から身を投げ出す」体験として想像する人が多いのではないかとしたうえで、自分の場合は違ったと話します。
やりたい方向にめっちゃいろいろやってたら、ふわっと飛行機が離陸したみたいな瞬間が30歳。
創業時の上野山さんたちは、ソフトウェア技術であればどの切り口でもいいくらいの考えでした。得意で自分たちのバックグラウンドと重なり、ソフトウェアで立ち上げやすい領域として選んだのが機械学習です。
ただし2012年当時、機械学習という言葉の認知度は、上野山さんの感覚では「1パーって余裕で切ってる」ほど低かったといいます。そのため上野山さんたちは、お客さんの前では「機械学習」という言葉を使わなかったそうです。
いや、だからその技術は説明しないんですよ。それ(機械学習)で使ったサービスを売りに行くんですよ。
最初に売ったのは、ソーシャルメディア広告の配信エンジンでした。Twitterのつぶやきを言語処理のアルゴリズムで解析し、ユーザーの属性や住んでいる場所をプロファイリングしてターゲティング広告を打つというもので、上野山さん自身は「謎プロダクト」と呼んでいます。
このプロダクトは意外にもいきなり売れ、まず電通が月50万〜100万円ほどで導入したといいます。NHKなどにも売れましたが、上野山さんたちはやがて、こうした製品を買う会社が日本に5社ほどしかないことに気づきました。
上野山さんは、大きなマーケットでやれという先人の知恵は本当だったと、創業から1年ほどで実感したそうです。そこで、プロダクト一本でいきたいというこだわりをやめ、幅広くいろいろなものを作るようになると、引き合いが増えて世界が変わっていったといいます。
上野山さんは、起業した当時の自分のビジネススキルは「むちゃくちゃ低い」ものだったと話します。最初の受注では、お客さんから見積書を求められても意味がわからず、リクルートの友人に「お前それ受注してるよ」と教えられたそうです。
(見積書を)そのリクルート(の友人)に送ってもらって、そのまま送ったらめっちゃ怒られて、それカスタマイズしたやつ送り、みたいなところからのスタートです。
上野山さんは、自社のビジョンにある「共進化」は、PKSHA Technology自身にも当てはまると話します。お客さんや社会と共進化しながら形を変え、案件をこなすなかでチームの能力が上がってきたため、最初から計画するのは無理だと考えているそうです。上野山さんはこれを「かっこよく言うとeffectuation ── 熟達した起業家の意思決定を研究して生まれた理論。目標から逆算するのではなく、手持ちの資源や偶然の出会いを生かして進むやり方を指します」と表現しました。
組織崩壊から上場まで、なぜ似た会社は現れなかったのか
創業から3〜4年目、PKSHA Technologyはまずまず伸びていましたが、外部資本は入っていませんでした。上場を目指すシナリオと、キャッシュを生み出しながらエンジニアが好きなものを作る形のどちらを選ぶか、上野山さんは迷っていたといいます。
その時期にPKSHA Technologyは一度組織崩壊を経験しています。社員15人ほどのうち、上野山さん以外のビジネスメンバーは2人だけで、顧客接点を持っていたその2人が同時に辞めるという出来事が起きました。
「どうしたいの?」という議論のなかで、残ったメンバーは会社を大きくしたい、上場したいと言い始めます。上野山さんは上場を手段の一つと考え、腹決めしていなかったものの、そのシナリオに乗ってアクセルを踏み始めると会社がブーストしたといいます。
同じ頃、機械学習のニーズが加速度的に増え、世の中で「AI」という言葉が使われ始めたことで引き合いも増えました。上野山さんたちは、似たモデルの会社はいくらでも出てくると思っていましたが、一向に現れなかったそうです。
上野山さんは、似た会社が出てこなかった理由を、自分たちの中に3つの要素が同時にあったからではないかと考えています。上野山さんの見立てでは、3つは「水と油」のように離れたところにあるものでした。
上野山さんは、この3つは自分のたどってきた道そのものだと話します。BCGの4年間で得た構造的に企業を見る視点、シリコンバレーの原体験から来るプロダクト志向、そして研究室で培った数学的なソフトウェアの領域です。この3つを統合的にできる存在がほとんどなかったといいます。
引き合いが増えるなかでも、上野山さんたちはプロダクトを作りたいと言い続け、セミカスタムの開発事業とプロダクト事業をハイブリッドで伸ばしました。そうしてPKSHA Technologyは2017年に上場します。
上場しても、個人としての上野山さんはなぜ変わらないのか
上場して何が変わったかと問われた上野山さんは、会社として挑戦できる規模やインパクトの「桁感」が圧倒的に変わったと答えます。一方で、個人としての上野山さんは「いかに変わらないか頑張る」ようにしているといいます。
上野山さんによれば、経営者としての自分と個人としての自分は違うから大変だ、という通説が尊敬する先輩経営者の間でもよく語られるそうです。ただ、上野山さん自身にはその感覚があまりなく、無意識のうちに両者を分離させていなかったと話します。
昔からなんか日本の会社のホームページとか、そのビジョンとか見た時に、なんかあんまピンとこないの多くなかったですか?
上野山さんが分離にこだわる背景には、日本企業のビジョンが総花的になり、創業者の尖りが見えなくなっていく感覚への違和感があります。高木さんがホンダやSONYのように創業者の思想がそのまま表れた会社を挙げると、上野山さんはそうした会社への憧れがあるのかもしれないと応じました。
本格的に苦しくなった経験はないかと聞かれると、上野山さんは少し考えたうえで「本格的にやばいみたいなのはない」と答えます。理由ははっきりしないものの、もともとプラスの方向に着目する癖があるそうです。
高木さんは、ビジネスとプライベートを割り切っている経営者は問題ないとしたうえで、クリエイター気質の経営者ほど、組織が大きくなり役割としての経営者像が強まると苦しくなる傾向があると話します。上野山さんも友人を見ていてそう感じると同意し、自分と事業を重ねたまま拡大し、外の世界への付加価値も大きくするゲームをどう時間軸でデザインするかが経営のど真ん中だと語りました。
上野山さんは、自分たちの場合はゲームの設定として恵まれていると考えています。PKSHA Technologyは情報技術の進化に軸足を置き、それをさまざまなものと組み合わせて多くの業界に展開するというフォーマットの会社だからです。
技術軸足掛け算で社会実装。これ展開無限パターンなんですよ。
上野山さんの「好き」は、パワー・トゥ・ザ・ピープルの情報技術に根ざしています。そのため事業を隣接領域へ広げても共通項は好きなことのままで、社会のニーズとも合うフォーマットは、今は情報技術しかないのではないかと上野山さんは話します。高木さんがソニーなどの電子工業の例を挙げると、上野山さんは需要が爆発する瞬間にものづくりの技術のコアがあった点が似ていると応じました。
個人のナラティブは、会社の中で消えていくのか
高木さんは、自身が手がける「ビジョニング」の仕事でも、経営者個人の思いを大事にしていると話します。数字や経営の話が強くなると、個人のナラティブは「創設者が主観的に思っているだけ」と扱われがちだからです。
高木さんは、経営者の考えを引き出し、言葉や表現で会社や市場と接続させることを仕事にしています。PKSHA Technologyの仕事では、上野山さんから「それ今会社の話と関係あります?」と言われながらも、上野山さんが考える未来を聞き出し、「人とソフトウェアの共進化」というビジョンの言葉にたどり着いたといいます。
あそこまでマイクロに表現見る人はなかなかいないんで。
高木さんは、上野山さんを完全なクリエイター気質だと評し、個人の構想と会社の進む道がシンクロすることが大事だと感じたと話します。これに対して上野山さんは、個人のナラティブがシステムに絡め取られて消えていくのは一昔前までの話で、今はむしろ逆向きになっているのではないかと問いかけました。
むしろ今逆向きになってません?むしろむしろ個人のナラティブに人が集まり。
上野山さんは、個人のナラティブに人が集まる小集団が無数に立ち上がる時代に入っていると見ています。高木さんはインフルエンサーやYouTuberを例に挙げ、上野山さんはDAO ── ブロックチェーン上のルールで運営される分散型の自律組織。特定の管理者を置かずに参加者が意思決定に関わる仕組みですもそうしたものになりうると応じました。
「でかい会社が偉い」は本当か?
高木さんが、組織が大きくなると最大公約数的になっていくと話すと、上野山さんは、会社や事業には本来その事業なりのサイズがあるはずだと語り始めます。上場企業の社長が言っていいかわからないと前置きしたうえでの発言でした。
上野山さんによると、スケールメリットが効く製造業なら大きい会社が有利になりますが、インターネットビジネスはそうとは限りません。資本市場のゲームが大きくすることを前提にしているため、あたかもでかい会社が偉いかのような錯覚にみんなが陥っているだけだと上野山さんは話します。
高木さんもこの見方に同意し、買収時に数名だったというInstagramや、4人ほどの規模で広告業界に大きなインパクトを与えた日本の会社タグボートを例に挙げます。高木さんは、デジタルのクリエイティブはゲームチェンジしているのに、世の中の認識が追いついていないと指摘しました。
一方で高木さんは、上場企業になると年配の株主など社会の常識が問われる側面もあるのではないかと尋ねます。上野山さんはまず、PKSHA Technologyはまだ大きい・小さいを語るサイズにすら達していない小さな会社だと答えました。
そのうえで上野山さんは、会社が成長し続けることは実は重要だと話します。PKSHA Technologyには、自分の能力を拡張してクリエイティブな仕事をしたい人が多く集まるため、会社の成長が止まると一人ひとりの機会も止まってしまうからです。
会社の成長
資本市場が求める成長率も、適切なプレッシャーとして働く
機会の増加
一人当たりのクリエイションの機会が増え続ける
個人の成長
メンバーが仕事を通じて能力を拡張し、才能が発現する
人が集まる
面白い人が集まり、上野山さん自身も面白くあり続けられる
実はそのメンバーとか僕らが成長するために会社が成長しなきゃいけないので、実は主従逆転してるみたいな感覚も実はあって。
上野山さんは、資本市場が求める成長率のモニタリングも、自分たちがやりたいことを続けるための仕組みとして機能していると話します。高木さんはこれを「適切なプレッシャー」と言い換え、前編はここで締めくくられました。後編では、上野山さんが考えている未来の形が語られる予定です。
まとめ
前編では、上野山勝也さんがシリコンバレーの3日間で受けた衝撃を起点に、BCG退職、博士課程、PKSHA Technology創業、上場へと進んだ道のりが語られました。一貫しているのは、自分がやりたいことと仕事を切り離さず、会社の成長を個人の成長のための仕組みとして捉える姿勢です。
- 2004年ごろのシリコンバレー訪問で、人と人との違いが価値になる世界に出会ったことが上野山さんの原体験になった
- BCGで昇進した直後に辞め、26歳でソフトウェアにオールインしたことで「生まれ落ちた感覚」を得たと話している
- 2012年、認知度の低かった機械学習で創業し、見積書もわからない状態から顧客と「共進化」しながら成長した
- 上野山さんは、経営者としての自分と個人としての自分を同心円に乗せることこそが経営だと考えている
- 「でかい会社が偉い」は錯覚だとしつつ、メンバーの機会を増やすために会社は成長し続ける必要があると語った





