前回の続き、孤独ってなんだろう
前回めとろさんが残した「人はどこまでも孤独だ」を受けて、今回は孤独そのものを掘り下げます。まずは辞書を引くところから対話が始まります。
浜中さん。そして今日はメトロさん。いらっしゃいます。前回ね、メトロさんが乗り込んできて、「漠然、言葉にしたら漠然になるのか」と。
お前ら漠然についてちゃんと話してんのかと。
かなり鼻息荒くいらっしゃったんですが、いろいろ話す中で、漠然はいろいろこぼれ落ちるものだと。理詰めでやっても、どこかでこぼれ落ちたものを漠然と言うんじゃないかと。それに対してメトロさん、「人はどこまでも孤独だ」と。
そうなんですよね。
ということでですね、孤独って何だろうねという話をしようと思ってて。メトロさん、その分厚い辞書で孤独を調べてみた感じですか?
ちょっと孤独っていう言葉が出たので、一旦辞書を引いてみようと思いまして。広辞苑の第七版がここにあります。
広辞苑には何て書いてあるのか、すごく僕は気になっている。
一番、みなしごと、老いて子なきものって書いてます。
最初から残酷だな。すごい。
二番は、仲間のないこと、一人ぼっちと書いてますね。なんか本当に言葉の定義を淡々と伝えてくださっているっていうところに留まってますかね。
前回言ってた言葉だとマジレスですね。いきなり見てしまった。
状態の孤独と、心の孤独
辞書的な定義から一歩進めて、二人は孤独に二つの種類があることを整理していきます。
WEBでも調べてみたら、状態としての孤独は、仲間、身寄りなどがなく一人ぼっちであること。広辞苑さんと同じことを言ってますね。で、心情としての孤独は、思っていることを語れる相手、心を通わせる相手がいないこと。状態としての孤独と、心の状態としての孤独が分かれて現代では使われているんじゃないかと。
状態としてっていうのは、本当に物理的に原っぱに一人でいる状態みたいなのが孤独であって。一方で心情としての孤独は、渋谷のスクランブル交差点で自分が一人立っていて、周りには人がいっぱいいるけど、心を通わせてないから孤独だっていうことを表すっていうことですよね。
そうですね。前回のメトロさんがおっしゃってたことは、伝えることができないっていうところの孤独。後者の方の孤独ですよね。
そうですね、心情的な。自分が思っていることを言葉にしても、絶対に伝わらない部分がどうしても残ってしまう。どんなに努力しても多分それは残るっていう点で、自分から出られないっていうか。
自分の中でしかそれを処理しなきゃいけない、ずっと持っておかなきゃいけない。誰とも分かち合えない部分があることに、孤独感があるなって、漠然の話を突き詰めた時に思ったんですけど。
孤独というよりか孤独感ですね。そんな孤独であることに関して、メトロさんは寂しいとか、もどかしいとか、そういうのはあるんですか?
もどかしさというか、あ、でも多分、怖いが近いと思いますね。自分から出られない、絶対に共有できない怖さ。自分の世界から出られない怖さみたいなものなのかな。
孤独の正体は「非対称性」
ここでハマナカさんが、議論の見通しをつけるために「自我とは何か」という視点を持ち込みます。
なんか議論の見通しをつけるために、世の中的な話を一個すると。この話は「自我とは何か」「他者から見られる自分とはどういうものか」みたいな議論なのかなと。両極の立場を言うと、一つは行動主義的な立場で、人の行動に表れたものしか存在しないとする立場。
もう一つは唯心論的な、心の中にすべてのものがあって、そのうちの一部しかコミュニケーションで表出できない、つまり心の中の方が大きいとする立場。今の議論は後者ですね。
後者ですね、心の中です。でも自分以外の人を捉える上では、表出しているものから汲み取るしかない。なんかそのギャップが孤独感を生んでいるって話になっていく感じですかね。
自分の言葉にした記号的なものと、内面ではこう考えてるっていう表出していないもののギャップ。相手が自分をどう捉えているかと、本当は自分こうなんだよなっていうもののギャップが埋められないことの恐怖を、孤独感の怖さって言っているような感じはしますね。
心の中にいろんな情報があって、それを全ては表出できないとする立場だと、絶対的に自己と他者に非対称性があるというか。自分は全てを知ってるけど、他者の心の中の全てを知ることはできない。そのコミュニケーションの原理的な難しさが、恐れに近いのかなと。
例えば記号的に、額面的に捉える立場に立っていれば、それは解決できるっていうことになるんですか?表出しているものに自分を委ねてしまう。内面的に考えていることはないものとして捉えれば、孤独感はなくなるんですかね。
孤独感はなくならない気がするかな、僕の場合は。割り切りはできるけど。逆に言うと、孤独だからそういう考えをするんじゃないの?って思いました、今。
だからそっちに振り切れる場合は、孤独が問題になってないはず。
相手のスイッチが分からない怖さ
自分が知られざる存在なのではなく、むしろ相手が正体不明であることが怖い。話は「怖さの矛先」へと移ります。
それって孤独を感じることが、まあ怖いとか寂しいっていう感情が伴っているわけですけど、それはどうやったら乗り越えられるんでしょうか。
なんでそれが怖いのかは結構興味がありますね。思惑通り伝わったって瞬間ってあるんですか?逆に。
それはありますね。波長が合うとか、ノリが合うとか、いい話できたねみたいな。それこそ漠然としていると思います。なんで馬が合ってるように感じるのか、共有できたなっていう感触が得られるのはどういう要因があるかは、めっちゃ漠然とした世界だと思いますね。
もしかしたら明日には浜中は僕を見限っているかもしれない。怖い。
そういうところに怖さがあるというか。
特に馬が合った人だったら余計にそうかもしれないですね。失いたくないとかもあると思うし。そっちの恐怖かもしれないですね。
本当に馬が合ってると思えば、孤独感は結構低い状態だと思います。見限られたとしても、この範疇だろうなとか、見限る範囲が想像できる。まあ万人はそうはいかないから。
どこがスイッチかわかんないですからね。
それが常に伴ってるっていうのは、怖さでもあるのかなっていうのが自分の考えですけど。
それを乗り越えるんだったら、やっぱり話すしかないなっていう。会話というか、対話というか。コミュニケーション取って向こうを知るしかないなっていう。
今の話って、自分の胸の内は分かっているが、相手のどの部分が泣き所なのか、どこが逆鱗なのかが全然わからないから、相手由来の怖さなんですよね。正体不明なものに対する怖さというか。
ってなると、自分にも認識できない、自分が認識してない自分がいるっていう怖さもあり得るってことですか?
それあるんじゃないですか?
うわぁ、それめっちゃ怖いわ。ない前提で確かに話してましたね。分かりきってる前提ですもんね、この議論って。
自我は流動する
自分の内面も実は分かっていない。そこから話は「そもそも本当の自分などいるのか」という自我論へ広がります。
自分の行動と自分の意識って、必ずしも一致してないというか。どついた時にどついちゃったみたいなのって、意識の中ではどつく気はあんまなくても、体が動いちゃったっていうのはある気がしていて。自分自身のことも、他者と同じぐらいわかってないのが多いんだろうなと思いますね。
僕も自分のことの方がわかんないんじゃないかなっていうのはありますね。
おー、そうすると孤独増しちゃいますね。自分の中においても自分が取り残されている気がするというか。自分のことも理解できていない、この漠然とした領域を常に伴っているっていう孤独感。ちょっと怖さ増してきたんですけど。
僕、前提として本当の自分はどこにもいないが、僕の考え方なんで。自分の中に自分ってないと思ってるんですよ。他人から見られた自分だったり、今メトロさんと喋ってて、あ、こういう面あるんだって気づいた自分こそ、新しく生まれた自分だなって思ったりとか。
それはつまり、外的な要因から自分が形成されているっていう世界観ですよね。内面的なものが先じゃなくて。
そうですね。だからよく言う自分探しの旅とかってあんまり意味ないなと思ってて。自分はどこにもいないから。旅の中でいいものを見て、インプットしたものを自分の一部だって認識できるなら、それは自分探しだと思うんですけど。
自分っていうものを、ある種固定化したものと考えるか、変動的なものと考えるかっていう捉え方だと思っていて。一つの自我があるっていうのは割と最近のもので、多重人格みたいな不安定な自我があるのは良くない状態だと思う風潮があるけど、実際には人間のリアルな体感とは違うような気がしていて。
原始時代でも狩りに行く時の心持ちと家族と団欒する時の心持ちは違っただろうし、現代でもドテライさんと話す時の私の自我と、家族と話す時の自我は全然違う。その都度ごとに新しい自我が生成されていくみたいなことの方が近いのかなと個人的には思いますね。
記号を使い分ける、多重人格気味の自分
ハマナカさんの流動する自我論を受けて、どてらいさんは自分がキャラクターを意識的に使い分けていることを語ります。
僕は結構、多重人格気味なんで。会う人に対してキャラクターを変えたりするタイプなんですよ。表面化するものをある程度僕は選んで使い分けるタイプなので。それじゃない人が入ってきた時に、新しい表面化した自分が生まれる。
額面をきっかけに内面が形成されているというか。
会った人によって影響受けやすいですしね、僕。ちょろいって言われます。だからあんまり額面的なものと内面がギャップがあるって考えたことはないんですよね。本当の自分こうなんだけどなっていうので悩んだことがあんまりない。ある意味ノーギャップかもしれない。
ドテライさんってこういう人だよね的なことを言われた場合、いやそうじゃないけどな、よりも前に、あ、それもその自分なんだって受け入れるのが先に来るってことですよね。
割と。あ、そう見られてたんだ、ぐらいな感じで考えるかもしれないな。ただ言葉とかはちょっと違ってて、それはそういうつもりで言ったんじゃないよっていうところは結構ありますね。
そのギャップが埋められないなみたいな葛藤、私の孤独感、怖さみたいなところとはあんまりつながってない感じですか。
そこは結構、分かり合えないものだな、人間はって割り切っちゃってるんで。そもそも孤独だ、伝わらないものだって思っているから、その中でどれぐらい近づいていけるかが人間関係って楽しいんじゃないの?って思ったりとか。人は皆孤独だ、その前提で考えると僕は楽なんですよ。
人間関係は期待値のゲーム
どてらいさんの「孤独を前提に近づく」という姿勢を、ハマナカさんは「期待値」という言葉で捉え直していきます。
自分が発した会話にどれぐらい相手のレスポンスが想定通り返ってくるのか、なんかその確率も関係しそうだなと思って。自分がこうだよねって言って、いい答えを出してくれる確率が高くなればなるほど、相手に期待する期待値も上がる。だから期待値が下がる部分があると知ると、それは怖いというか。
めっちゃいい表現だな、「期待値の調整」って思った、今。すごいしっくりきた。勝手に自分でも気づかず期待値が上がってる時ってありますもんね。
孤独を埋めるにはどうしたらいいんですか?練習しかない。反復をしていくってことしかないのかもしれない。試して試してみるしかないのかもしれない。
練習みたいな話だと、多分期待値を持っているっていうことを自覚するのが一つステップとしてあって。新しく会う人に、この人はこういう感じなんじゃないかっていうのを期待値、例えば三十パーセントぐらいで発してみて、それがどれぐらいの確率で返ってくるのかを検証するとか。
うっかり後から期待値に気づくっていうのを逆にした方がいいかもしれないですね。先に期待値を設定して接してみるだったらトレーニングになるかもしれない。人は往々にして相手に期待しすぎていたってことを気づかずに過ごしてしまうから、ギャップが生まれる。俺は孤独だ、共感できないになる。
「よし、今日は期待値、メトロさんに対して六十パーいっちゃおうかな」みたいなノリでいって、「うわ七十パー来た」だったらいいし。「あ、ごめん、四十パーだった。ごめんね」っていう。先に期待値設定するとチューニングはしやすいかもしれないですね。
恋愛なんかそうかもしれないですよね。どっちかがいきなりポンって燃え上がって、告白したら「私二十パーだった」みたいな。多分そのギャップがでっかいのが恋愛だと思うんですよね。期待値が上がりすぎるゲームなんで。
しかも制御できないじゃないですか、結構。感情というか身体的な。
うまい人はやっぱり期待値を読むのがうまいんでしょうね。どれぐらいの期待値が上がってるのか。
本当は見えてんじゃないですか?そういう人たちって。
たこ焼き酒場と、録音による自己修正
距離感のつかみ方は、どこで身についたのか。どてらいさんは、ワンオペのたこ焼き酒場での実体験を語ります。
僕、昔たこ焼き酒場でワンオペでカウンターだけのお店をやってたんで、いろんなお客さんが来るんですよ。すべからく全員とは仲良くできないが、それぞれにちょうどいい距離感は調整してた。一対多数なんで、向こうが何か期待を寄せてるっていうのがすごく多かったんですね。
私こういうもんですじゃなくて、このおじいちゃんに対しては息子の役をするとか、この女の子に対しては彼氏のふりをするとか、求められてるものを演じる。息子一丁みたいな感じでやってたんで。他人から寄せられてる期待値も意識したら面白いかもしれないですね。
それって店員とお客さんっていう間柄があるからこそ、どてらいさんの振る舞いが決めやすいじゃないですか。役割がわかりやすいから。だから自分の立場を明らかにしておく、チューニングを相手が合わせやすいようにする自己開示も必要になってくるって感じなんですかね。
俺してるかも。記号だらけの男ですね、僕は。たかみつけんたろう、みせかける古畑任八郎、いろいろあるんですけど。それこそ以前、浜中さんに古畑任八郎を見せた時に、強い拒否反応を示して。
取っつきにくかったんで。それはチューニングが合ってないっていうことになるんですよね。
ちなみにどてらいさんは、人とのコミュニケーションで、こういう自分はこう、ってキャラクタライズを無意識にしてるって感じですか?
いや、めちゃめちゃ意識してやってますよ。一人でたこ焼き酒場をやってた時、ものすごい大変だったんですよね。画一的な態度ではできないんですよ。「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございました」だけじゃ済まない。本当にお客さんに怒られるとか嫌われるとか、胸ぐら掴まれたりとか。
なんでだろうって思った時に、店の中の音声を全部録音して、後から聞いた時に、これはダメだと。ここでこの回答を選んだ俺バカって思ったり。自分の立ち振る舞いが見えた時に、修正していかなきゃなって思ったんですよ。
今はその時ほど考えなくても、ある程度それぞれの距離感を掴むことはできるし、ちょっと頑張ればもっと仲良くなることもできる。筋トレみたいなもんですよね。
いろんな人格を使い分けている中で、自分に対する孤独感、自分と離れていってしまっている感触、そういう怖さは伴わないって感じですか?
伴わなかったですね。なんなら「うまくいってる、やった」って思ってたし。いろんな自分持ってる、カードいっぱい持ってるって思って、テンション上がりましたね。全部自分だと思ってるんで。本当の自分なんてないって思ってるんで。
孤独は自分が引いた線だった
人格を使い分けても孤独感は増えない。その理由を、めとろさんとハマナカさんが「境界」という言葉で捉え直していきます。
自分っていう核があるっていう発想よりは、自分って思ったより大きくて、いろんな人格になる可能性を持ち合わせているっていう解釈に持っていけば、自分の孤独に対する怖さっていうのは減っていくかもしれないですね。理解されない領域があるよねっていうのも自分として受け入れるぐらい広く捉えるというか。
全部を知ろうとする人と一緒にいるのは逆に辛いなって思うんですよ。恋愛でもあるじゃないですか、彼氏のことを全部知りたいみたいな。でもそれ言った方が嫌われるでしょみたいな考え方なんで。
あげなくてもいい音ってあるわけじゃないですか、お互いに。あげなきゃいけない音は共有しましょう、でもあげなくていい音は別にいいでしょっていう考え方なんですよ。その範疇で何でも言い合いましょうの方が僕は健康的なんじゃないかなって。
音合わせができなかったらもうバンドはめちゃくちゃですよ。これはもう音楽性の違いなので解散です。
聞いていて思ったのは、孤独を感じるっていう概念は、自分っていう領域の周りがすごくくっきりしてるというか、自分と他者がすごく分かれていて、切り離されてる感覚がすごく強い状態なのかなと思って。それを解消するのは多分認知的な仕方によるのかなと。
自分と他者との境界はくっきりしていないんだって認知すること自体が、孤独というものをキャンセルするんじゃないかなと思ったんですよ。自分の概念を広く保っておいて、ゆるく薄くかもしれないけど繋がってるって捉えるのは、孤独感の対処法じゃないですけど。
だから自分が勝手に線を引いて孤独になってたっていう。
チューニングするっていうのは、境界を曖昧にする作業とも言えますよね。それこそ漠然と捉えると、確かに孤独の線を引いてたかもしれない。孤独の線を引いてたのかもしれないってことになりますね。
未知を面白がる、そして自分こそ漠然
最後に話は「未知への恐怖」へと移り、線を引いていたのは自分だったという気づきへ収束していきます。
もう一つは未知への恐怖みたいなものもあると思いますよね。私は知らないものはあんまり怖いと思わなくて、とりあえずやってみたくなっちゃう。自分の中に知らない部分があっても、ちょっと掘っちゃおうみたいな。掘ってすごい怖いもの出てきたけど、まあいっかみたいな。
見えない部分、未知の領域は解明できないっていう前提を勝手に持ってしまっているけど、そこを掘っていくことも、立ち向かっていくことも全然できるし、見えないまま面白がることもできるかもしれない。
そこら辺は宇宙を知るとかに近い気がしてて。宇宙の起源、ビッグバンについて考えると、ビッグバンの前何だったの?みたいな、すごい恐ろしい問いが生まれてきますけど、いろいろ訓練して深淵な問いに問えるようになっていくと、わからないものをわからないまま、でも頑張って分かろうとするみたいな、心の訓練ができる気がしますね。
その先に行った孤独っていうものも、確かにそういうものだったけど、理解しようとすることはできますもんね。ここは理解しなくていいっていう判断もしていいと思うし。勝手に線を引いて勝手に怖がっていた可能性が全然あるってことですよね。
実は自分が線を引いていたっていうね。
僕、たこ焼き酒場の時は、相手の領地に半歩踏み込むぐらいまでの図々しさを持ちに行ってましたね。「この子タメ口効いても大丈夫かな、期待値、期待値」って。チャレンジしないとわかんなかったですね。怒られても殺されることはなかったんで。相手のおおらかさに任せよう、飛び込もうってなってから結構楽でした。
孤独感がだいぶなんか。受け入れられるような気がしてきました。
孤独の線、薄くなってきました。すごいメトロさんが覚醒してきてますね。
自分で線を引いてたっていうのは、すごい気づきとしてあると思います。自分から孤独になりに行っていたというか、孤独になるような思考回路であったというか。もっと流動的なのか、曖昧にしていい部分っていうのはすごい気づきですよね。
霧の中に飛び込んでいくしかないですよ。なんてお後がよろしい。
だからあれですね、漠然としたものって自分だったんやっていうことになってきましたね。
自分こそ漠然としているのである。というところで、1時間超えの大長編になりましたので、この辺で。では今日はこの辺でお相手はドテライと。
浜中と。メトロでした。
それでは皆さん、また近いうちに。バイバイ。
まとめ
孤独を辞書から掘り下げた三人の対話は、物理的な孤独と心の孤独の区別から始まり、内面と表出のあいだにある非対称性へと進みました。怖いのは自分ではなく、スイッチの見えない相手であること。人間関係は期待値のチューニングであり、その距離感はたこ焼き酒場のような実践で鍛えられること。そして最後に、孤独の線を引いていたのは自分自身だったという気づきへとたどり着きます。自分と他者の境界を広く曖昧に保つことで、孤独は薄くなっていく、という結論でした。
- 孤独には物理的な孤独と心の孤独があり、掘り下げるべきは後者の孤独感
- 孤独の恐怖の正体は、自分の内面が全部は伝わらない非対称性にある
- 怖いのは自分ではなく、泣きどころや逆鱗が見えない相手である
- 人間関係は期待値のチューニングで、距離感は録音や実践で鍛えられる
- 孤独の線を引いていたのは自分であり、境界を広く保つと孤独は薄くなる
