理科の教科書はどうやって作られる?東京書籍の編集長が語る舞台裏
サイエントークのレンとエマが、東京書籍1909年(明治42年)創業の教科書出版社。小学校から高校まで幅広い教科の教科書を発行しており、教科書シェアは国内トップクラス。の小学校理科編集長・森田雄介さんをゲストに迎え、教科書づくりの裏側を深掘りしました。制作のサイクルや検定の仕組みから、理科離れやジェンダーバイアスの課題、AI時代の教科書のあり方まで、リスナーからの質問に答える形で幅広く語られています。その内容をまとめます。
東京書籍と教科書づくりの仕組み
東京書籍は1909年(明治42年)に創業した老舗の教科書出版社です。もともとは印刷会社として、戦前の国定教科書戦前の日本では国が教科書の内容を定め、民間の印刷会社がそれを印刷・製造する仕組みだった。戦後に教科書の自由発行制度へと移行した。を印刷する役割を担っていました。戦後に教科書の出版が民間に開放されたことで、自ら教科書を作る出版社へと転身した歴史があります。
小学校から高校まで、芸術系以外のほぼ全教科の教科書を出しており、中学英語の「ニューホライズン東京書籍が発行する中学校英語の教科書シリーズ。多くの学校で採用されており、知名度が高い。」をはじめ、小中学校の教科書には「新しい〇〇」というシリーズ名が付いています。この「新しい」というネーミングは戦後に始まったものだそうです。
教科書の制作サイクルは4年に1回。森田さんいわく「オリンピックイヤー」と呼ぶほど、作る年は猛烈に忙しいとのこと。出版の約2年前に文部科学省へ提出し、半年ほどかけて専門家による検定が行われます。チェックを担当する研究者は公平性のために一切公表されず、論文の査読に近い仕組みだといいます。
ちなみに理科はあまり数値の更新がないのに対し、社会科の教科書は統計データの差し替えが2年ごとに必要で、出版直前にデータを入れ替えることもあるそうです。教科ごとに苦労のポイントがまったく異なるのも興味深いところです。
理科編集部の組織と求められる人物像
リスナーから「小学理科編集の部署にはどのような人が多いのか」という質問が寄せられました。森田さんによると、理科編集部には小学校・中学校・高校の各編集チームがあり、小中はそれぞれ4〜5人程度の少数精鋭。高校は物理・化学・生物・地学と教科数が多いぶん、もう少し人数がいるとのことです。
理学部・農学部出身で修士課程まで専門的な研究をしていた人が多い。森田さん自身も農学部出身。
教育学部出身で教員免許を持ち、先生になろうと考えていた人たち。小学校理科では従来こちらが多かった。
現在は両者がほぼ半々の割合だそうです。なかには哲学出身の編集者もいるとのこと。性格面では「真面目でまっすぐ、子供や先生のためにいい本を作りたいという純粋さがある人が多い」と森田さんは語ります。
知り合いで教科書作ってますっていう人に会ったことないもんな
一般的な理系の就職先としてはあまり想像されにくい教科書編集ですが、科学記者やサイエンスライターと近い感性の持ち主が向いているかもしれない、と森田さんは話していました。好奇心が強く、かつ地道にコツコツ積み上げられるタイプの人に向いている仕事だそうです。
正確性と平易さのバランス
教科書は子供が「書いてあることは正しい」と信じて読むもの。だからこそ間違いは許されません。しかし、すべてを科学的に厳密に書こうとすると、難しくなりすぎてしまいます。森田さんが挙げたのは「など」「主に」といった言葉の多用。たとえば「鉄、アルミニウム、銅などを金属と言います」のように、一般書なら省略してもよい「など」が教科書では不可欠なのだそうです。
原子のイラストって太陽系っぽく描かれてるけど、本当はそういう形じゃないですよね。正確性を求めたら全然違う絵になる
このバランス感覚が教科書編集のもっとも難しいポイントの一つです。そして、子供たちの鋭い目がその精度を試すこともあります。過去には中学校の教科書に掲載されたタコの写真について、中学生の"タコ博士"から「これはスナダコではなく別の種類です」と指摘が入ったことがあったそうです。専門家の目をくぐり抜けた間違いを中学生が発見したというエピソードです。
現場に寄り添う教科書づくり
「他社と比較して工夫していることは?」というリスナーの質問に対し、森田さんは写真の美しさと、問題解決の過程理科では「問題発見→予想→計画→実験→考察」という一連の流れを重視する。この過程を子供が自ら体験することで、科学的思考力を育むことが目指されている。のわかりやすさを挙げました。実験の手順がパッと見てわかるデザイン、視覚的に「今何をすればいいか」が伝わる紙面づくりにこだわっているとのことです。
もう一つのこだわりは、制作前の現場調査です。授業見学や教員へのインタビューを重ね、使い勝手やニーズを丁寧にすくい取ります。学習指導要領文部科学省が定める教育課程の基準。各教科で何を教えるかの大枠が示されているが、具体的な題材や表現方法は教科書会社に委ねられている。は大枠を示すものであり、具体的な題材や紙面表現は教科書会社の裁量。だからこそ「上から降りてくるものだけでなく、現場=地上に寄り添いたい」と森田さんは強調していました。
子供の発言から得るヒントも大きいといいます。授業参観のように後ろで見ていると「そこでこう来るんだ」「先生困ってるな、どうするんだろう」と新しい発見があるとのこと。社内には実験室もあり、教科書に載っている実験を編集チームで再現したり、近所の公園で虫採りをしたりすることもあるそうです。
また、意外なエピソードとして、8月31日に「宿題が終わらない」と小学生から直接電話がかかってくることがあるそうです。現行の教科書には編集部の電話番号が記載されており、保護者からテストの採点に関する問い合わせが来ることも。今後は問い合わせ窓口を一本化する予定とのことでした。
小学校理科における地球科学と「観察」の原則
「地学は教科書でどう扱われているのか?」というリスナーの質問に対し、森田さんは理科の4つの系統を紹介しました。学習指導要領では「エネルギー(物理)」「粒子(化学)」「生命(生物)」「地球(地学)」の4本柱で整理されており、地球科学はさらに「地球の内部と地表面の変動」「大気と水の循環」「天体の運動」に細分化されています。
ここで非常に興味深い話が出ました。小学校理科の大原則は「観察できるものを対象にする」こと。観察した結果に基づいて考えるという姿勢が徹底されています。たとえば月の満ち欠けは「地上から見てどう見えるか」をベースに学びます。宇宙からの視点(地動説的な理解)は中学校以降に初めて登場するのだそうです。
アリストテレスだ、これ
この方針には「最初から宇宙の視点でやるべきだ」という批判もあるそうですが、観察と実験を大切にすることで「理科がどんどん離れていってしまう」のを防ぐ狙いがあると考えられています。裏を返せば、中学校に進んだ瞬間に原子や遺伝子など理論的な内容が一気に増えるため、「中1ギャップ小学校から中学校への進学時に、学習内容の急激な高度化や環境変化によって生じる学力・意欲の低下現象。理科では特に抽象的な理論の登場が大きなハードルとなる。」と呼ばれる課題が生まれてしまいます。エマさん自身も「中学校で化学が始まった時に全然わからなくなった」と振り返っていました。
女子生徒の理系への苦手意識とジェンダーバイアス
「女子生徒のSTEM科目への苦手意識は小学校高学年から始まるという報告がある。教育システムにできることは?」というリスナーの質問に、森田さんは「これは個人としての見解」と前置きしたうえで回答しました。
TIMSS国際数学・理科教育動向調査。IEA(国際教育到達度評価学会)が4年ごとに実施する国際的な学力調査で、小学4年生と中学2年生を対象に数学・理科の学力を測定する。などの国際調査でも「女子の方が理系は苦手だ」という思い込みが明確にデータとして現れているそうです。文科省の担当者が「学校現場にあるアンコンシャスバイアス無意識の偏見・思い込み。自覚なく持っている固定観念のことで、「女子は理数が苦手」「男子は文系が苦手」といったステレオタイプも含まれる。が子供の意識に影響している可能性がある」と述べた記事にも触れつつ、森田さんは「理科の授業の中だけでどうにかするのではなく、きちんとしたジェンダー教育が必要」と語りました。
教員養成課程からジェンダー教育を充実させ、教える側のバイアスを解きほぐせるような先生を育てること。そして学校組織そのものの構造も見直していくこと。「長い時間をかけて下地を作って克服できるような問題」だと森田さんは考えているとのことです。レンも「教科書メーカーだけ、先生だけの問題じゃなく、みんなでやっていかないといけない」と締めくくっていました。
AIと教科書の未来、そして理科離れの現状
「教科書はAIと連動する形になるのでは?」という質問に対し、森田さんは東京書籍がすでにリリースしている「教科書AIわかる」というサービスを紹介しました。教科書に沿った学習の進め方を提示し、ポイント解説や問いかけをしてくれるAIアシスタントです。
一方で、AIに宿題を丸投げしてしまうリスクも当然あります。森田さんは「AIで答えられないような問題、使うにしてもすごく考えなきゃいけない問題の出し方になっていく」と予想しつつ、「実験で自分の手を動かしてうまくいかない体験は、AIや動画では得られない」と実体験の重要性を強調しました。
理科離れは本当に起きているのか?
「理科離れ」についても質問が寄せられました。森田さんによると、小学生のレベルでは理科は「ずっと好き」と言われ続けている教科。実験があること、ずっと座っていなくてよいこと、実物が変化するワクワク感など、教科としての強みがあるからです。ただし、中学校に進学すると理科が苦手になる子が増えてしまう「中1ギャップ」の問題は依然として大きいとのこと。
加えて、「理科が暮らしとつながっている」「社会で役に立つ」という実感が薄れているというデータもあるそうです。レンは「全部理科なのに、もったいない」と悔しそうに話し、森田さんも「この世界は全部理科だし」と深く同意していました。
現在出版されている「新しい理科」の裏表紙には「未知との向き合い方を学ぶ」というコンセプトが掲げられています。この教科書はちょうどコロナ禍のまっただ中、2020年の緊急事態宣言下で制作がスタートしました。「何を信じていいかわからない」という状況のなかで「理科ってまさにそういう未知を解明していくプロセスだ。めちゃくちゃ大事じゃないか」と実感し、チーム全体でこのコンセプトを形にしたのだそうです。
番組の最後には、東京書籍の新ポッドキャスト番組「聴く新しい理科」が紹介されました。小学校理科の教科書をもとに、様々なポッドキャスターが週替わりで登場してトピックを語るリレー形式の番組です。初回ゲストはサイエントークで、「月がもしなかったら世界はどうなるか」をテーマにエピソードを制作したとのこと。森田さん自身もポッドキャスト好きで、東京書籍では既に「おしゃべりな理科」という番組を約1年半前から配信しています。
まとめ
教科書は「上から降りてくる」学習指導要領だけでなく、現場の先生や子供たちの声を丁寧にすくい取りながら作られています。4年に1回のサイクル、厳格な検定プロセス、正確さとわかりやすさのぎりぎりの両立──その裏側には少数精鋭の編集チームの地道な積み重ねがありました。
中1ギャップやジェンダーバイアス、AI時代の学びのあり方など、教育をめぐる課題は山積みです。しかし、「未知との向き合い方を学ぶ」という理科の本質は、むしろ不確実な時代だからこそ重要性が増しています。森田さんの言葉や姿勢からは、教科書づくりに真剣に向き合う人たちの熱量が伝わってきました。
- 東京書籍は1909年創業。もとは国定教科書の印刷会社で、戦後に出版社へ転身した
- 教科書は4年に1回制作され、出版2年前に文科省へ提出。約半年間の検定を経て合格が必要
- 理科編集部は「理系ガチ勢」と「教育学系」の2系統がほぼ半々の少数精鋭チーム
- 小学校理科の大原則は「観察できるもの」が対象。地動説の視点は中学校からで、中1ギャップが課題
- 女子生徒の理系への苦手意識はアンコンシャスバイアスの影響が大きく、教員養成段階からのジェンダー教育が必要
- 東京書籍はAIアシスタント「教科書AIわかる」をリリース済み。ただし実験や観察の体験はテクノロジーでは代替できない
- 新ポッドキャスト「聴く新しい理科」が始動。初回ゲストはサイエントーク

