デジタル化できない紙とは何か?
サイエントークのこの回は、ペーパーレス化の話から始まります。レンさんは、電子書籍や申請書のデジタル化が進むなかでも、人が絶対に逃れられない紙があると切り出しました。
エマさんは、紙の手続きが残っていると少しイラッとすると共感しつつ、お金を挙げます。レンさんはお金もデジタル化が進んでいると返し、ヒントを重ねた末にエマさんが「トイレットペーパー」にたどり着きました。
あれ(トイレットペーパー)はさ、デジタルもくそもないじゃん。
レンさんによると、平均的な人はトイレットペーパーを年間2万枚ほど使っているそうです。ティッシュは水にちゃんと溶けないのに、トイレットペーパーは溶けるように工夫されている点に、科学が詰まっているとレンさんは考えています。
さらにレンさんは、トイレットペーパーはかなり現代的な製品で、それがなかった時代に人々がどうしていたのかが気になったといいます。以前の回でパピルスなど書くための紙は扱ったものの、トイレットペーパーはまだ話していなかったことも、この回のテーマになった理由です。
世界保健デーと「保健」企画
レンさんは、4月7日が世界保健デーであり、5年前のこの日が新型コロナで初めて緊急事態宣言が出た日でもあると紹介します。エマさんは「もう5年前か」と驚いていました。
この回は、科学系ポッドキャストが共通のテーマで配信する企画に参加したもので、今回のテーマは「保健」、ホストは腸内細菌相談室と佐々木亮の宇宙ばなしの2番組です。保健の話をするなら、ずっと話したかったトイレットペーパーにしようと考えたそうです。
トイレットペーパーの知識をみんなで得て、トイレットペーパーをありがたく使おうっていうとこに向かえればいいかなって。
レンさんによると、トイレットペーパーが生まれたのは1850年代で、今から200年弱前です。発明当初は「なぜお尻を拭くのにお金を払わなきゃいけないのか」という受け止められ方だったといいます。
紙がない時代、人は何でお尻を拭いたのか?
ここでレンさんは「お尻拭きクイズ」を出します。トイレットペーパーがない時代、人はどうしていたのかという問いに、エマさんは手で拭く、または再利用できる道具があったのではと答えました。
手で拭く文化について、レンさんは今もインドや中東の一部で、左手で拭き、右手で食事をする習慣があると説明します。宗教的な背景もあり、左手は「不浄の手」とも呼ばれるそうです。
エマさんはインドに行った際、左手で物を渡そうとした人に、ホテルのきちんとした女性スタッフが「右手で渡してください」と伝える場面を見たといいます。レンさんは、拭く手の区別がマナーとして根づいているのだろうと受け止めました。
道具については、エマさんの「木」という答えに、レンさんは昔の日本や中国で使われた木のヘラ「厨技」を挙げます。日本では戦国時代ぐらいまでこうした方法だったようです。
石、葉っぱ、トウモロコシの芯まで。世界の拭き方図鑑
レンさんは、水の使い方も国によって違うと話します。シンガポールでは水圧の強いシャワーで洗い流し、トイレがびしょびしょになりますが、それが清潔な状態とされているそうです。
石については、9世紀ごろのアラビア圏で小石で拭く文化があり、ムハンマド ── 7世紀にイスラム教を開いた預言者。その言行は後世の信徒の生活規範として伝えられていますに関わる記述として、奇数回拭くこと、必ず左手を使うことといったルールが残っているといいます。奇数の理由はレンさんにもわからないそうです。
葉っぱで拭いた地域もあり、「森で一番きれいな葉っぱはギザギザのヒイラギ。なぜならそれでお尻を拭く人はいないから」ということわざが残っている地域もあるとレンさんは紹介します。エマさんは「今そのことわざを言い出す人がいたら何?ってなる」と笑っていました。
ほかにも、中世イギリスの麻布、イヌイットの夏は苔・冬は雪、船乗りのロープ、ムール貝、アメリカで最もメジャーだったとされるトウモロコシの芯、フランスのガチョウの首まで、例は尽きません。
(ロープは)汚ね。そのロープ絶対使いたくないわ、もう一回。
レンさんがこれらを並べたのは、トイレットペーパー誕生前の人間が、さまざまな素材で「検討に検討を重ねてきた」ことを示すためでした。
紙でお尻を拭く文化は中国から始まった
レンさんによると、紙で拭く文化を生んだのは中国です。そもそも、植物などの繊維を崩して薄く平らにし、乾かしたものとしての紙を最初に作ったのも中国だといいます。
中国の紙は西暦100年ごろ、鏡を包む包装や地図を書く用途で作られました。当時ヨーロッパではパピルスや羊皮紙 ── 羊などの動物の皮をなめして薄く伸ばした書写材料。丈夫ですが手間がかかり高価でしたが使われていましたが、中国の紙は100分の1ほどの値段で作れたため、中国を訪れた人がヨーロッパに持ち帰ったそうです。
紙でお尻を拭いた最初の記録は500年代とされ、本の切れ端が使われていました。偉い人や聖人の名前が書かれた紙はトイレに使ってはいけない、というルールもあったといいます。
エマさんは、書き物を再利用していたなら、偉い人の名前がある紙を避けるのは理解できると受け止めていました。
1300年代の中国製トイレットペーパーはなぜ広まらなかったのか?
レンさんは、1300年ごろの中国にはすでに、トイレットペーパーを作る組織があったと話します。普通の紙より柔らかくしたもので、香り付きの紙をトイレットペーパーとして使う例もあったそうです。
エマさんが「1850年代に生まれたという話と何が違うのか」と尋ねると、レンさんは、中国で生まれたものは全然流行らなかったと答えました。
これ(中国のトイレットペーパー)はもう全然流行らなかったの。あの、もう時代が早すぎたんだね、きっと。
当時ヨーロッパから中国へ渡った人は、「中国の人々は紙で拭くだけで不潔だ」という記述を残しています。ヨーロッパでは水や布、羊の毛のほうが清潔だと考えられていました。
その人たちにとっては一番清潔だって思っちゃうのかもね。他のやり方聞いたら、え、汚いじゃんみたいな。
レンさんはこれを「常識の違い」と表現します。当時のイギリスでは、貴族のお尻を拭く「トイレ係」の召使いまでいたそうで、エマさんは「それなりたくないな」と反応していました。
スズメバチの巣が変えた紙づくり
レンさんによると、紙が大量に作られる時代は1700〜1800年代に来ます。1400年代に活版印刷ができて本の需要が高まったものの、紙は麻など特定の植物からしか作れないと思われていたため、原料不足が起きていました。
転機はフランスでの発明です。スズメバチが木材を噛み砕いて巣を作る様子を見た人が、木材から紙も作れるのではと論文を発表し、そこから木材を使った紙が一気に普及したといいます。
レンさんは、今使っている紙も大体は木材を一度バラバラにして平らにし直したもので、その方法が1800年ごろにできたと説明しました。
活版印刷の登場
1400年代、本の発行で紙の需要が増える
原料不足
麻など特定の植物に頼り、供給が追いつかない
木材パルプの発想
スズメバチの巣をヒントにフランスで論文が出る
大量生産
本やチラシ、新聞があふれる
トイレに吊るされた本
紙が大量に出回ると、余った本やチラシ、新聞がお尻拭きにちょうどよくなりました。レンさんによると、本の左上に穴を開け、トイレの壁のフックに引っ掛けておき、破って使う方法がヨーロッパ、特にイギリスやフランスで流行したそうです。
昔はそこ(ホルダーの場所)に穴が開いた本が置いてあって、この本破って使ってねみたいな。
エマさんは、1枚めくって使うだけなら使いやすそうで、意外と現代的だと感じたといいます。紙が貴重だった時代ならお尻拭きには使わなかったはずで、本が大量に出回り価値が下がったからではないかと考えました。
レンさんも同意し、文字を残すために作られた紙が、トイレで捨てられるという最も手軽な扱いをされるようになった点に、技術の発展を感じたと話しています。
痔に効く?1857年の「薬用ペーパー」騒動
トイレ専用の肌触りのいい紙を考えた人は何人かいましたが、本を使えば無料なので売れないと思われていたそうです。
1857年、アメリカ・ニューヨークでジョゼフ・ゲイエティさんが、痔の治療や予防に使える「薬用ペーパー」としてトイレットペーパーを売り出しました。エマさんは「賢い」と感心します。
ただし広告では、普通の紙のインクが痔の原因になる、痔が治ると断定的に書いていたため、医学界が反発しました。根拠はあるのかと、医学雑誌に批判記事が出たといいます。
それでも使い心地のよさから徐々に広まり、他社も参入して、みな痔が治ることを謳い文句にしたそうです。レンさんは、当時の人のお尻は結構ダメージを受けていたのではと推測しています。
なんか葉っぱとか本の切り端とかで拭くよりは絶対お尻によさそうで予防にはなりそうだけどね。
ちぎれる、2枚重ね、ロール。イギリスで進化した形
初期のトイレットペーパーは、今のように破りやすいものではなかったといいます。1800年代後半にノーザンティッシュという会社が「自由に切れる」トイレットペーパーを売り出し、ヒットしました。
1900年代に入ると2枚重ねのダブルが登場し、レンさんによるとそれができたのは1942年ごろです。真ん中に穴を開けたロール型は、アメリカでの登場から20年ほど後にイギリスで生まれたそうです。
レンさんは、切れる紙もダブルもイギリス発だとして、流れを次のようにまとめています。
日本では明治維新後、ホテルがトイレットペーパーを輸入したのが始まりで、歴史はかなり浅いとレンさんは話します。エマさんは、日本には最終形態が入ってきただけなのかもしれないと受け止めました。
トイレットペーパーは本当に「溶けて」いるのか?
エマさんは、トイレットペーパーが水に溶ける技術はどう発展したのかと尋ねます。レンさんはまず、トイレに紙を流すかどうか自体が文化によって違うと説明しました。
中国や台湾ではトイレに紙を流すのは非常識で、ゴミ箱に捨てるのが当たり前だそうです。配管が詰まりやすいなど、流せない事情もあるといいます。
そもそもトイレットペーパーは完全に溶けているわけではなく、液体として流れるほど繊維がバラバラになっているだけだとレンさんは話します。
繊維が長く、湿潤強力剤で繊維の結合を固定するため水でほぐれにくい
繊維が短く、増強剤を使わないため水に浸かるとバラバラになりやすい
ティッシュに使われる湿潤強力剤 ── 紙が濡れても強度を保つように加える薬剤。繊維同士の結合を補強し、水でほぐれにくくしますは、絡み合った繊維の間に入って結合を固定する働きをします。その有無のバランスで、溶けやすさが調整されているそうです。
「100秒以内にほぐれる」日本の規格
溶けやすいトイレットペーパーを特定の誰かが発明したわけではない、とレンさんは言います。針葉樹か広葉樹か、繊維をどれだけ細かくするかで強度が変わり、各社の試行錯誤で今のバランスに落ち着いたそうです。
一方で、自由に作ると下水道が詰まる問題が起きるため、一定以上溶けやすくないと売れないというルールができました。
日本の場合だと300ミリリットルの水が入ったビーカーにトイレットペーパーを入れて混ぜて、100秒以内にほぐれるっていう試験をクリアしないとトイレットペーパーって言っちゃいけない。
規格は国によって違い、アメリカのトイレットペーパーはとても大きく、ヨーロッパの規格は日本より幅が2センチ小さいそうです。イギリスに住んでいたエマさんは、見た目はほぼ同じだが確かに少し小さいかもしれないと話しました。
なぜ日本のトイレは詰まりにくいのか?
カナダとイギリスに住んだ経験のあるエマさんは、海外のほうが圧倒的にトイレが詰まりやすかったといいます。日本では人生で1回ほどですが、海外ではオフィスと自宅で3、4回あったそうです。
レンさんは、海外では湿気によるトイレットペーパーの劣化を防ぐため、あえて溶けにくい加工をした製品があると説明します。エマさんは、湿気は日本のほうが高いのに不思議だと首をかしげました。
レンさんは、日本ではちり紙や和紙を作る技術がもともと高く、そうしたメーカーがトイレットペーパーを作ったことが品質につながったのではと考えています。
さらに、針葉樹は繊維が長く細いので紙が強く、広葉樹は短く太いので弱くなるため、その配合バランスで質が決まります。土台にはセルロース ── 植物の細胞壁の主成分で、ブドウ糖が鎖のように連なった物質。紙や綿の繊維の正体です同士の水素結合がどれだけほぐれるかという化学があるそうです。
そこの調整具合をうまいことやってるから、トイレットペーパーちゃんと水に溶けて詰まらないし最高みたいな。
レンさんもエマさんも普段は一番安いものを買うそうですが、調べるうちに各社のこだわりが気になってきたと話していました。
トイレットペーパーの最終形態とは?
レンさんは、お尻に優しく使いやすい強度の紙という点で、トイレットペーパーは人類の歴史のなかで一種の到達点に来ていると感じています。エマさんも、1850年ごろから形が変わらず世界中で使われているのは最終形態と言えそうだと応じました。
レンさんはウォシュレットとの組み合わせが最強ではと話し、エマさんは泡が噴射される進化や、その泡を広げるのに適した紙が出てくるかもしれないと想像を広げます。
何もしなくてもお尻がきれいになるのが人間のトイレのゴールではないか、というレンさんの考えに、エマさんは「それって冒頭のペーパーレス化じゃん」と返しました。トイレットペーパーのペーパーレス化が、この回の話を冒頭へとつなげます。
ペーパーレスの未来はコストと市場次第?
エマさんは、そこまでトイレにお金をかけるならトイレットペーパーを使うと言いそうだと指摘します。レンさんは、巨大市場であることが、資本主義的にはトイレットペーパーをなくさない方向に働くかもしれないと話しました。
これに対しエマさんは、トイレットペーパーを超えるものが出れば需要はそちらに移るので、消える可能性はあると反論します。
携帯をさ、持つ前の人の考えみたいな感じでさ。今満足してると思ってるけど、新しい本当に便利なものが出てきたら、もうそれなしじゃいられない、戻れないってなるのかもしれない。
エマさん自身は、拭いた後に手を洗うので今のままで十分だと考えています。アイデアがあれば、サイエントークを聴く若い研究者が作ってくれるだろうと期待を込め、ヒットすればトイレ体験の根本を変えるとも話しました。
最後にレンさんは、紙の歴史を単純に語るよりトイレットペーパーのほうが面白いと考えたと振り返り、毎日使うものとして今一度考えてみてほしいと締めくくりました。4月12日に大阪で開かれる「ポッドキャストシンポジウム」の告知もありました。
まとめ
トイレットペーパーは、葉っぱや石、布など人類が試してきた多くの方法の先に、紙の大量生産と、溶けやすさを調整する技術、規格づくりが重なって生まれた製品です。毎日使う紙の背後に、文化の違いと科学の積み重ねがあることが見えてくる回でした。
- 紙以前は手、木のヘラ、小石、葉っぱ、布、トウモロコシの芯など、地域ごとに清潔の常識が異なっていた
- 紙は中国で生まれ、1300年ごろにはトイレ用の紙もあったが、普及は1857年のアメリカの薬用ペーパー以降
- ロール型やダブルなど今の形はイギリスで発展し、日本には明治維新後に入ってきた
- トイレットペーパーは繊維の短さと増強剤の有無で溶けやすさが決まり、日本では100秒以内にほぐれる規格がある
- 未来の姿として、トイレットペーパー自体がなくなる「ペーパーレス化」の可能性も語られた



