原子論は2000年のバトンリレー!哲学からドルトンの化学式まで
サイエントークのレンさんとエマさんが、「世界は何でできているのか?」という人類最古の問いに挑んだ科学者たちの物語を紹介しました。紀元前の哲学者デモクリトスから始まり、宗教との対立を経て、学校の先生だったジョン・ドルトンが化学の言語を作り上げるまでの壮大なリレーを追います。その内容をまとめます。
世界は何からできている?──知らないことへの恐怖
科学者たちは昔から「世界の真理を知りたい」というモチベーションで研究に取り組んできたと言われます。レンさんはここに一つの仮説を加えます。人間は知っているものは怖くないけれど、知らないものは怖い。だからこそ「世界が何でできているのか」を知ろうとしてきたのではないか、という考えです。
究極、世界が何からできてるかっていうのを知らないと、世界が怖いっていう感じなのかなと思って。
死後の世界を誰も知らないから恐怖が生まれ、迷信や宗教の教えに頼るようになる。その延長線上に、物質の最小単位を探る「原子論世界がそれ以上分割できない微小な粒子(原子)からできているとする考え方。紀元前5世紀の古代ギリシャに端を発する。」の歴史が始まります。「原子のようなちっちゃい粒からできている」という説明は、今でこそ当たり前ですが、かつては異端とされた時代もあったのです。
原子論の始まり──デモクリトスとエピクロス
紀元前5世紀、哲学者たちは「リンゴを半分に切って、さらに半分にして……を永遠に続けたら最終的にどうなるのか」という思考実験に取り組んでいました。当時の主流派は「物質は無限に分割できる」と考えていましたが、デモクリトス紀元前460年頃〜紀元前370年頃の古代ギリシャの哲学者。物質の最小単位「アトモス」を提唱し、原子論の祖とされる。はこれに異を唱えます。
無限に分割できるなら最終的に「無」になってしまう。だから物質には最小単位があるはずだ──彼はこの最小単位を「アトモス」と呼びました。しかも、アトモスにはいろんな種類があり、形が変わると組み合わさってできる物質も変わるとまで主張していたそうです。証拠は一切ありませんが、驚くほど現代の原子の考え方に近い内容でした。
それから約200年後、エピクロス紀元前341年〜紀元前270年の古代ギリシャの哲学者。快楽主義で知られ、原子に「揺らぎ」があるとする独自の原子論を展開した。という哲学者が登場します。エピクロスはデモクリトスの原子論を発展させ、ある問題に取り組みました。「もし世界が完全に機械的に動く粒でできているなら、人間の意志や精神はどう説明するのか?」という問いです。
エピクロスの答えは、原子の運動には「揺らぎ(偏差)」があるというものでした。完全な必然ではなく偶然性の余地があると考えることで、自由意志や精神の存在を矛盾なく説明しようとしたのです。レンさんは、これが量子力学の確率的な世界観にどこか近い発想だと指摘します。
なんかあんまり理解できはしないというか……私たちの感情が原子のブレから来てるわけではないことを知ってるから。
まあでも量子とかって、0と1の間ですみたいな、ああいうものにちょっと近しい考え方なのかなっていう感じ。
さらにエピクロスは「死は感覚の消失であり、苦痛もないから恐れる必要はない」とも語りました。死への恐怖を取り除き、人々の心を楽にしようとする快楽主義エピクロスの哲学体系。「快楽」といっても享楽を意味するのではなく、心の平穏(アタラクシア)を最高善とする思想。の持ち主でもあったのです。
その後、ルクレティウス紀元前99年頃〜紀元前55年頃の古代ローマの詩人・哲学者。長編叙事詩『物の本質について(De rerum natura)』でエピクロスの原子論をわかりやすく伝えた。という人物が現れ、エピクロスの哲学を詩として一般の人々に伝えました。レンさんいわく「今で言うサイエンスコミュニケーター的な存在」。自然現象は神の意志ではなく原子の運動で説明できるのだから、過度に恐れる必要はない──そうやすらぎを与える内容だったそうです。
原子論の冬の時代と宗教との折り合い
しかし、原子論には大きな壁がありました。原子が神の意志と無関係に存在するなら、宗教の世界観と矛盾してしまうのです。「この世界は神が作ったのだから、原子なんてものは嘘だ」──そう退けられ、原子論はおよそ1600年もの間停滞することになります。
この長い沈黙を破ったのが、1600年代前半のフランスの哲学者・ガッサンディピエール・ガッサンディ(1592〜1655年)。フランスの哲学者・数学者・天文学者。古代の原子論をキリスト教と調和させる形で復活させた。です。彼の戦略はとてもスマートでした。
エマさんが「神様が原子を作ったって説明すればよかったのに」と言うと、レンさんが「それがまさに次に出てくる人」と返す場面がありましたが、まさにガッサンディがその人でした。
エマさんはカナダ留学中に教会で出会った物理学者の牧師の話を紹介します。その牧師は「地球にこれだけ条件が揃って生命があること自体が奇跡的で、だから神が作ったとしか考えられない」と語っていたそうです。物理現象は科学で説明するけれど、その大元を作ったのは神──現代でも科学と信仰を共存させている人は少なくないようです。
ニュートンから機械論的世界観へ
ガッサンディが整えた土壌の上に、あのアイザック・ニュートン1642〜1727年。イギリスの物理学者・数学者。万有引力の法則や運動の三法則で知られる。著書『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』は近代科学の金字塔。が登場します。ニュートンは原子論に対して肯定的で、「物質は非常に小さな固体の粒子(コーパスキュルラテン語で「小さな粒」を意味する微粒子のこと。17世紀の自然哲学で原子に近い概念として使われた。)からできている」と述べました。その粒子同士が引力などの相互作用をすることで、物質の性質や変化が生まれるという考え方です。
ただし、ニュートンは粒子を「固体」としか考えておらず、気体が原子でできているという発想はまだありませんでした。エマさんが「原子レベルまでいったら固体とか液体とかないよね?」と指摘する通り、この時代には気体の正体すら十分にわかっていなかったのです。
重要なのは、ニュートンの時代になると宗教的な抑圧が弱まり、科学が純粋な研究として進められるようになったこと。1500年代のガリレオはまだ宗教と科学の中間で苦しんでいましたが、1600年代後半以降は実験事実の蓄積によって、この流れを止められなくなっていきました。
ドルトン──化学の言語を作った天才教師
ニュートンのバトンを受け取ったのが、ジョン・ドルトン1766〜1844年。イギリスの化学者・物理学者。近代原子論を提唱し、元素ごとに原子量が異なることを示した。原子量の単位「ダルトン(Da)」の名前の由来でもある。(1766〜1844年)でした。ニュートンの約100年後に生まれた彼は、10代で『プリンキピア』ニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊)。万有引力の法則や運動の三法則を体系化した近代科学の記念碑的著作。を読んで感動した天才ですが、その職業は意外にも学校の先生でした。
12歳から? やばすぎでしょ。小学生が小学生に教えてるみたいな。
イングランドのカンバーランド州──イギリスで最も雨が多い地域に住んでいたドルトンは、12歳で教壇に立ち、15歳の兄と一緒に学校を運営していたと言われています。規則正しい生活を送り、午後5時にお茶、夜9時に肉とジャガイモの夕食。学校がない時間はほとんど研究に捧げていました。
ドルトンは非国教徒国が公認する教会(イングランド国教会)に属さない宗派の信者。大学入学など社会的な不利益を受けることがあった。だったため大学に入学できず、医者などの道も閉ざされていました。結局、最後はマンチェスターに移り住み、マンチェスター・アカデミー非国教徒のための教育機関。現在のハリス・マンチェスター・カレッジ(オックスフォード大学所属)の前身。で教師を続けながら研究をしたそうです。
雨が多い土地が生んだ着想
原子に興味を持ったきっかけは、カンバーランドの湿った空気でした。気体の種類によって水への溶け方が違う──この現象を、原子の大きさが種類によって異なるからだと考えたのです。レンさんはこれを「二つの奇跡」と呼びます。雨の多い土地に住んでいたことと、ニュートンの微粒子理論を学んでいたこと。この二つが組み合わさって、ドルトンの研究は始まりました。
元素と原子をつなげた実験
ドルトン以前、「元素」と「原子」はつながっていませんでした。元素はあくまで「性質」を指す言葉であり、それが粒子でできているとは考えられていなかったのです。ラボアジエアントワーヌ・ラボアジエ(1743〜1794年)。フランスの化学者。質量保存の法則を確立し、「近代化学の父」と呼ばれる。元素を研究したが原子論には懐疑的だったとされる。のように元素を散々調べた人でさえ、「粒子からできてるわけがない」と考えていたそうです。
ドルトンはここで大胆な仮定を立てます。銅も酸素も原子でできていると仮定し、1対1で結合するなら、反応する重さの比率から原子の相対的な重さがわかるはずだ、と考えたのです。
銅4グラム + 酸素1グラム → 酸化銅
銅と酸素が原子レベルで1対1で結合するなら……
銅の原子は酸素の原子の4倍重い
重さの比率から原子の相対質量がわかる!
このアプローチで窒素と酸素の化合物(NOとNO₂)なども調べ、反応する元素の重さが常に整数比になることを示しました。これが倍数比例の法則2つの元素AとBが複数の化合物を作るとき、Aの一定量に対してBの質量比が簡単な整数比になるという法則。ドルトンの法則とも呼ばれる。です。
さらに重要なのは、この考え方が化学反応式の基礎になったことです。H₂ + O₂ → H₂O(正確には 2H₂ + O₂ → 2H₂O)という表記は、物質を原子の数で数えられることを前提としています。つまり、ドルトンは化学の「言語」を作ったのです。
ドルトンが最終的にまとめた原子論の要点は以下の通りです。
興味深いのは、この偉大な理論が著書『化学哲学の新体系ドルトンの主著『A New System of Chemical Philosophy』(1808〜1827年刊)。全3巻、916ページ以上に及ぶ大著だが、原子論の核心部分はわずか5ページに記されている。』のなかでたった5ページしか割かれていなかったということ。全体で916ページ×3巻の大著のなかの、わずかな記述。しかしその5ページが、2000年以上誰もできなかったことを一気に前進させたと言われています。
エマさんは「初めに考えることが大事なんだね」と語ります。分析機器で原子を見るためにも、まず理論がなければ機器を設計する発想すら生まれない。定性的な理解を先に積み上げ、そこから定量化していくという科学のプロセスは、会社の目標設定やリスクアセスメントにも通じる普遍的な流れだと二人は気づきました。
今「元素っぽいことしか考えてねえな」と思ったら、それを原子論にする発想。
まとめ
「世界は何でできているのか?」──この壮大な問いは、紀元前5世紀のデモクリトスの哲学的直感に始まり、エピクロスの揺らぎ、ルクレティウスの詩、ガッサンディの宗教との調停、ニュートンの機械論を経て、1800年代のドルトンの実験へと受け継がれました。
2000年以上かかったこのバトンリレーの中で、ドルトンが果たした役割は決定的です。「元素は原子でできている」「原子には種類ごとに固有の重さがある」という考えを実験で裏付け、化学反応式という共通言語の基盤を作り上げました。しかもそれを成し遂げたのは、大学にも入れなかった12歳から教壇に立つ学校の先生でした。
レンさんはこのエピソードをシリーズの第一歩と位置づけており、今後は陽子・中性子・電子の発見や、量子、レントゲンなど、さらに原子の正体に迫る話が続くとのことです。
- 原子論は紀元前5世紀のデモクリトスに始まり、約2000年かけて科学的理論に発展した
- エピクロスは原子に「揺らぎ」を加え、機械的な世界観に自由意志の余地を残した
- 宗教との対立で約1600年停滞したが、ガッサンディが「原子は神の創造物」として調和させた
- ニュートン以降、科学は宗教的抑圧から解放され、実験に基づく研究が進むようになった
- ドルトンは「元素は原子でできている」ことを実験で示し、化学反応式の基礎=化学の言語を作った
- ドルトンの著書で原子論に触れたのはわずか5ページだが、それが化学を根本から変えた
- 定性的な理解から定量化へという流れは、科学に限らず多くの分野に共通するプロセスである

