ユニークすぎる社名「Alpaca」はどこから来たのか
最初の話題は社名の由来です。Alpacaはアメリカを主戦場にした卸の証券会社で、他の証券会社に向けて証券機能を提供するビジネスだと横川さんは説明します。
横川さんによると、Fintechという領域は金融もTechも数字ばかりで色がないイメージだったため、あえてそれとは真逆の名前をつけようと考えていました。動物やフルーツのような、地毛のある生き物がいいと思っていたそうです。
なんか地毛があるやつ、動物とか、フルーツがいいなと思ってて。
名前が決まったのは、共同創業者の原田さんと車を運転していたときでした。孫泰蔵さんがシリコンバレーで家を買ったというニュースを見て、その家を見に行ったときに事件は起きます。
隣の家に何か30匹ぐらいアルパカ、ペットでいたんですよ。
金持ちがシリコンバレーで成功したら金の使い道なさすぎてアルパカをペットにするんやと思って。これ成功のシンボルやなと思ってアルパカにしました。
さらに、アルパカの「パ」の音にも理由があると横川さんは言います。商品名にパ行が入るとヒットするという統計を友人から聞いていたそうです。
パ行が入るとやっぱヒットするらしいんですよ。アルパカのパ入ってるな。
大阪・兵庫での幼少期と「中学受験被害者の会」
話は横川さんの生まれ育ちに移ります。生まれは大阪の南で、幼稚園の終わり頃に兵庫県の西宮に引っ越しました。両親はともに医者で、家にほとんどいなかったといいます。
親はほとんど家にいなかったですね。だからおじいちゃん、ばあちゃん、ひいばあちゃんに育ててもらったみたいな感じですね。
祖父が毎日ご飯を作ってくれる家庭で育ちました。公立の小学校に通いながら、塾で中学受験の勉強をしていたと横川さんは振り返ります。
その中学受験について、横川さんは自ら「中学受験被害者の会会長」を名乗るほど否定的です。子ども本人には受験するかどうかの選択肢がなく、親の意向で当然のように受験へと進んだといいます。
どんだけ子供にPTSDを与えるかって、僕ほんと良くないと思うんですよね。中学受験、あれは。
受験のために、それまでやっていたサッカーやラグビーなどの習い事はすべてやめて塾一本にしました。それでも、第一志望の甲陽には1点差で落ちたそうです。
甲陽を受けて一応1点差で落ちたんですけど、これ自慢なんですけど、1点差まで近づいたっていう。でも落ちたんで。
男子校が嫌でアメリカへ。高校で味わったカルチャーショック
滑り止めの私立、滝川に進学した横川さんですが、そこは男子校でした。横川さんが一番つらかったと語るのが、この男子校という環境です。
なんで男と女が存在するのに、なぜ分けるんだろうっていうのが子供ながらよくわからなくて。
この違和感が、高校での3年間のアメリカ留学につながります。家族は全員日本語しか話せず、横川さん自身も飛行機に一度しか乗ったことがないような状態でした。とにかくそこではないどこかに逃げたかったというのが動機だったといいます。
交換留学で最初に配属されたのは、ルイジアナ州の公立高校でした。そこで横川さんが目にした光景は、想像を超えるものでした。
入学する門にメタルディテクターがあって、横にカゴがあって武器バンバンバンバン、ナイフとかが。
トイレでは薬物をやっている生徒がいて、用も足せない状態だったといいます。横川さんは1ヶ月ほどで限界を感じ、コーディネーターに頼んで近くの私立校へ移りました。ところが、その学校もまた男子校だったそうです。
そしたらそこがまた男子校だったんですけど。
英語は最初ほとんど話せませんでしたが、私立校では授業後に先生のところへ残って質問を重ねる作戦で成績を上げていきました。その結果、成績はすべてAになったといいます。
日本人としての自覚と、外交官という将来像
高校2年からはニュージャージー州の寮制の学校に移りました。共学で、朝から夜まで勉強と部活が詰まったハードな生活だったと横川さんは語ります。宿題が終わらず、消灯後に布団の中で懐中電灯を照らしながら課題をこなすこともあったそうです。
海外での生活を通じて、横川さんは自分のアイデンティティを強く意識するようになりました。
ちょうどその時海外にいるから、あ、俺は日本人だみたいな感じになって、アイデンティティに目覚め始めるみたいな。
この頃、将来の目標として外交官になりたいと考えるようになります。親から渡された司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいたことも、その思いを後押ししました。
留学のきっかけの一つには、通学電車でいつも英語の本を読んでいた女性への憧れもあったと横川さんは打ち明けます。その人がインターナショナルスクールに通っていたと知り、いなくなった後に「アメリカの大学に行ったのだろう」と想像していたそうです。
慶應SFCでのフェミニズムと国際関係、そしてバックパッカー
高校卒業後、横川さんは日本に帰国し、慶應のSFCに入学しました。英語ばかりの生活で日本語が変になってきたことを親から指摘されたのが、帰国の理由の一つだったといいます。
SFCでは、東アジアの安全保障を扱う国際関係のゼミと、フェミニズム研究のゼミに所属していました。日米安保、台湾海峡、北朝鮮問題などに興味を持っていたそうです。
この国際関係への興味は、今の仕事にも直結していると横川さんは語ります。50ほどある金融機関のクライアントと向き合ううえで、歴史や国際関係の理解が礎になっているといいます。
国によって日本がどう見られているかも結構違ってくるじゃないですか。だからどのタイミングで日本人さを出すのか、アメリカという会社を出すのか、自分を消すのか使うのか、めっちゃ意識しますね。
大学時代のもう一つの柱がバックパッカーでした。一番長く滞在したのはメキシコで、1泊3ドルほどの宿を探しながら中米を数ヶ月かけて旅したそうです。
当時はスマホもなく、ロンリープラネットの分厚い本と方位磁石だけが頼りでした。横川さんは、この「やることがない時間」に大きな価値があったと振り返ります。
このバックパックはほんまにやることがなくて、考えることしか。なんかそこの思考回路みたいなのはできた気がするなと思いますね。
外交官の道を諦め、リーマン・ブラザーズへ
外交官を志していた横川さんですが、実際に大使まで務めた人物の話を聞き、縦社会を上っていくスピード感に自分の忍耐力では無理だと感じて諦めたといいます。
その代わりに知ったのが外資系金融でした。鍛えられてお金ももらえると聞き、MBAに行く代わりのような感覚で外資金融を志望します。最初に内定をくれたリーマン・ブラザーズに、2005年入社で決めました。
リーマンでの仕事は証券化商品の組成でした。クレジットカード債権や住宅ローンなどの債権を集め、金融商品に変えるという業務です。
外資系でありながら、日本の大手金融機関を担当する部門では、日本人以上に日本的な振る舞いが求められたと横川さんは語ります。若手が年上の顧客を担当するため、より一層厳しい体育会的な環境だったそうです。
外資屋やからこそ日本人っぽくしないといけない。しかも若い人たちがカバーしてるんで、おっさんよりもよりおっさんっぽくならないといけないみたいな。
リーマンショック当日。当事者が見た「あの日」
リーマンショックの兆候は、社内にもあったと横川さんは振り返ります。バブルが弾けると分かっていても、走り続けなければならない状況だったといいます。
何か来るってわかってても、踊り続けないといけないことって多々あると思うんですよ。
この経験から横川さんが得た一番の学びは、大手金融機関でも潰れるという事実でした。スタートアップも大企業もフェアに見なければならないと考えるようになったそうです。
破綻を知ったのは、3連休のさなかでした。休日にもかかわらず私服でオフィスに集まっていた社員たちは、ニュースモニターで会社の破綻を知ります。
みんな結構私服で来てて、「どうするんやろう」みたいな。
意外にも、その場に悲壮感はなかったと横川さんは語ります。「次どうなるんかな」という興味のほうが勝っていたそうです。長期的にこの仕事を続けるわけではないという確信が、どこかで終わりを望む感覚につながっていたといいます。
その後、ヨーロッパとアジアを野村証券が、アメリカをバークレイズが買収しました。横川さんのチームは残ることになり、尊敬する上司とともに1年だけ働くことを決めます。
野村を辞め、祖母の介護をしながらデイトレーダーに
横川さんは、リーマンショックの前から金融業界を長く続けられないという確信を持っていました。ヘッドハンターからの誘いも断り、一旦業界を辞めることを選びます。
野村を辞めた後は実家に戻りました。一人暮らしの祖母が認知症になりかけ、体力も落ちていたため、世話をするためです。ご飯を作りながらデイトレードをする生活を始めました。
組織なくなった時に自分は何ができるんだろうみたいな。金融の人ってデイトレやってるイメージがあるから、デイトレやってみようみたいな。
デイトレはFXが中心で、パフォーマンスは生活費がぎりぎり出るかどうかという程度だったと横川さんは正直に語ります。元手がないと厳しいと痛感したそうです。
祖母の介護は次第に難しくなり、身内への当たりも強くなっていきました。横川さんは「肉親では無理だ」と感じ、ヘルパーを手配して介護を託します。ちょうど付き合い始めた今の奥さんがシカゴにいたため、シカゴへ移ることにしました。
シカゴでの受託開発から、画像認識AIへの挑戦
シカゴに移った横川さんは、しばらくデイトレを続けた後、友人とシステム開発の受託会社を始めます。全員リモートで、横川さんの役割はビズデブや営業、プロジェクトマネジメントでした。
受託の過程で「プロダクトを作ったほうがいい」という話になり、当時流行していたディープラーニングを使った画像認識のプロダクトを開発します。それがLabellioでした。
画像を何個も入れていったら、そのAIが勝手に学んでいって。シリコンバレーのドラマのホットドッグがホットドッグじゃないかっていうの覚えてます?あの時代ですよ。
コードが書けなくても、画像をドラッグ&ドロップしていくだけでAIが判別できるようになるウェブサービスでした。このプロダクトは京セラグループに買収されます。
ただ、横川さんは画像認識への興味を持てず、やる気を失っていったといいます。なんでこれ僕がやってるのかよくわからなくなってたという状態でした。
金融とAIの融合、そしてAlpacaという名前の誕生
画像認識のプロダクトを売却した後、横川さんは自分のバックグラウンドである金融を思い出します。デイトレで市場を見続けた経験から、ディープラーニングで短期の価格予測ができないかと考えました。
この市場予測サービスは、金融機関から需要がありビジネスになりました。ただ、カスタマイズが多くコンサル事業に近い形だったといいます。このサービスもマネジメントバイアウトで売却します。
Alpacaという社名が生まれたのは、この市場予測の事業のときでした。そして売却後、この事業で得たものを元に、今の卸の証券会社の原型となるAPI特化の証券会社をアメリカで始めます。
共同創業者の原田さんはSFC時代からの親友で、一緒にキューバをバックパックしたり銭湯に行ったりする間柄でした。横川さんが渡米する後押しには、原田さんの言葉がありました。
お前テックでグローバルやるんやったら、シリコンバレーに行ってない理由がないというか、なんでシリコンバレーでやらないの?
渡米のタイミングでは、抽選のダイバーシティビザ(グリーンカード)が2回目で当たるという幸運もありました。無料で顔写真とパスポート番号をアップロードするだけで応募できるものだったといいます。
Y Combinatorがキャリアの転機に
横川さんは、プロダクトのスケールなどを本当に理解し始めたのは、Y Combinatorに行った頃からだと語ります。
APIの証券会社として、2019年の春にアメリカでシードラウンドを行い、6ミリオンを調達しました。ここで学んだのが「投資家とは何か」という根本的な部分でした。
リードしたのはSparkCapitalというトップティアのVCで、eToroやPlaidといったAPI・金融系の企業を支援してきた実績がありました。
投資家とはなんぞやとか、投資家に対するエクスペクテーションはなんぞや、どこまで頼れるべきなのかっていうのは、そこですごい学びました。
YCへの応募は6、7回落ちたそうです。それでも横川さんが入りたかったのには明確な理由がありました。
自分はGoogle、Facebookで働いたこともなければ、スタンフォードMBAでもないから、YCに行けばその人たちより一気に上に行けるわっていうのが分かったんで。
1ビリオンの調達でも変わらない。米国の資金調達のリアル
Alpacaは、シードから毎年のようにシリーズを重ねていきました。売上を過去3年で毎年2倍にしながら成長していると横川さんは語ります。
収益源は3つあると横川さんは説明します。取引に応じた手数料、信託に溜まった現金や証券から生まれる金利、そしてプラットフォームフィーです。取引額は毎日1〜2ビリオンドルにのぼるといいます。
毎日1ビリオン強、1から2ビリオンみたいな感じだと思いますね。
シリーズBでは50ミリオンを調達しましたが、当時は金利がほぼゼロのバブル期で、モネタイズは誰も考えていなかったと横川さんは振り返ります。ファイナンスの前面に立ったのは横川さん自身でした。
バリュエーションの交渉では、あえて自分では値を決めない戦略を取ったといいます。
あなたプロだからあなたが決めて。僕はマーケットにかけてるから。なんかそういうので言ってたら、向こうが上げてくれるみたいな。
この進め方はシリーズAに入ったカナダのVC、Portageから学んだものでした。ティアリングを分けてストーリーを作り、デッドラインを設けて構造化して進めるやり方だったといいます。
去年末に実施したシリーズDで、Alpacaは評価額1ビリオンのユニコーンに到達しました。これは既存投資家と相談し、あえて1ビリオンを超えようとプッシュした結果だったそうです。
プリマニーでちゃんと1ビリオン超えようっていうのは、既存投資家と話して、そこまではプッシュしようぜみたいな感じでプッシュしましたね。
一方で横川さんは、1ビリオンのラウンドでもシードと雰囲気は変わらないと語ります。デューデリジェンスが一番厳しかったのは、額の大きなDではなくシリーズCだったといいます。
日米の投資家はここが違う。リキャップで見えた投資家の役割
横川さんが日米の投資家の違いを痛感したのが、シードの前に行ったリキャップでした。
MBOで事業を分けた際、外部株主の構成をそろえていたため、リキャップで既存の日本の投資家が大きく希薄化することになりました。横川さんが提示したのは「希薄化されるか、ゼロか」という選択肢でした。
結局ゼロよりあった方がマシかなって僕はなるという理解なんですけど。まあそうとは限らない人たちもちょこちょこ出てきたり。
一部の株主が交渉でゴネたことに、横川さんは驚いたといいます。プライドではなく、冷静に何が最善かを一緒に考えるべきだという考えです。
必死にソリューションを持ってきてるんだから、一緒に冷静にどうしたらいいかを考えよう。それにも関わらずゴネるのはやめてほしいなっていうのが一番びっくりポイントでしたね。
対照的に、アメリカの投資家であるSparkのサンさんは、リードした責任として次の資金調達や会社の生存にコミットするという姿勢を明確に持っていたといいます。
俺が初めて入る本当のプロフェッショナルインベスターだからって、バーンってはっきり言われて。
横川さんは、リード投資には次のラウンドへつなげ、生き残らせる責任が伴うという考え方が、日本ではまだ当たり前になっていないと感じています。この違いこそが、日本の投資家に対して思うところだといいます。
300人から150人へ。2度にわたる大規模レイオフ
金利がゼロのバブル期には、売上を気にせず人を増やすことが求められた時代でした。Alpacaの従業員は一時、300人近くにまで膨れ上がったといいます。
採用のプロセスは整っておらず、横川さん自身が面談していない社員が大勢いる状態でした。会社の人数すら正確には把握できていなかったそうです。
フィンテックのバブルの時のもうやっとええや、なんやみたいな感じで、気づいたらまたなんか増えてたみたいな。
金利が戻りバブルが弾けると、Alpacaは2度の大規模レイオフを実施します。250人ほどから150人ほどへ、さらに一度戻った人数を再び150人前後へと削減しました。
リモートのため、レイオフは一人ひとり個別のミーティングで行われました。読み上げる文章を事前に決め、タイムスケジュールに沿って進め、終わると同時にメールやSlackのアクセスをすべて遮断する徹底ぶりだったといいます。
リモートなんで一人一人ミーティングしますね。手分けするんですよ、HRも含めて。
横川さんは、恨まれるのは当然だと語ります。それでも、会社が何を持って生き残るのかに優先順位を置くのが自分の仕事だと考えています。
何を持って生き残るのか。それが僕の仕事だと思ってるんで、そこに優先順位を置いてやりますけど。人でなしになっても。
一方で、この苦境がAlpacaを筋肉質にしました。この時期にプライシングを見直し、フォーキャストの精度を高めたことで、投資家から驚かれるほど正確なプロセスができたといいます。
起業の原動力は「場所が違うだけで使えない」苛立ち
横川さんは、長く続けられる事業には頭ではなく腹の底から感じる感情が必要だと語ります。Alpacaの原動力になっているのは、一つの苛立ちでした。
日米を行き来する中で、アメリカでは簡単に使える金融商品やサービスが、住んでいる場所が違うだけで使えないことに強い苛立ちを感じていたといいます。
なんでこの場所違うだけで、インターネットとか言ってグローバルとか言って全然あかんやんみたいな。その苛立ちがこの根源なんですよ。
Alpacaのミッションは、地球上のすべての人に金融サービスへのアクセスを開放することだと横川さんは語ります。崇高な意識じゃなくて、腹立つのを直したいだけだからこそ、長く続けられるといいます。
そのために作っているのが、証券のミッドオフィス・バックオフィス機能をまるごとAPI化したインフラです。トレードのクリアリングやセトルメント、エグゼキューション、資産のカストディなどを担っています。
たとえば日本の証券会社でアメリカ株を買うとき、その裏側にはアメリカ株を信託できるライセンスを持つ証券会社が存在します。Alpacaはその「卸」の役割を担っているのです。
エンドユーザー
証券アプリなどで株を売買する個人
インターフェース証券
SBI証券などユーザーが直接触れる証券会社
クリアリング証券(Alpaca)
決済・信託・カストディなどバックオフィス機能を担う
このライセンスや機構への加盟は非常に大変で、DTCCのメンバーシップまで到達するには早くても5、6年かかると横川さんは語ります。すべてを内製化することで、APIのデベロッパーエクスペリエンスを自社でコントロールできるのが強みです。
日本人とアメリカ人を使い分けるグローバル戦略
Alpacaのクライアントは50ほどの金融機関にのぼり、世界中に散らばっています。横川さんによると、営業でプッシュするのではなく、ほとんどがインバウンドで向こうから来るのだといいます。
各国の規制や慣習といった情報も、クライアント側から提供されると横川さんは説明します。向こうがやりたいから来ているため、ライセンスや棲み分けの事情を教えてくれるそうです。
営業でプッシュして売るプロダクトじゃないんで、もう基本みんなインバウンドなんですね。向こうが教えてくれるんですよ、すごく。
どの国に行くかも、マクロな流行だけでは判断しないといいます。何度も声がかかる相手に対して、ローカライゼーションが必要なら証券会社を立ち上げるという進め方です。
横川さんが強く意識しているのが、国によって日本人性とアメリカ性を使い分けることです。アメリカにいるときは完全にアメリカで押し、東南アジアやトルコ、中東では日本人であることを前面に出すといいます。
アジアとか、トルコとか中東とかは、日本人であることを結構好んでくれる感覚があるので、あえて日本的な所作を出すとかっていうのはやりますね。
その象徴として横川さんが挙げたのがトルコです。名刺交換や乾杯の礼儀が日本にとても近く、驚いたといいます。その背景には、長く続いた軍事政権の歴史があると横川さんは分析します。
トルコもオスマントルコで600年ぐらい軍事政権が続いてる。ミリタリーなんで縦関係がめっちゃしっかりしてないとダメじゃないですか。
横川さんは、国を訪れる前に必ず歴史に関する本を3冊読むといいます。歴史を知ると、その国の商習慣の背景まで見えてくるからです。かつて志した国際関係への興味が、今の仕事で満たされていると語ります。
「スタートアップのキラキラ感は危険」横川さんが伝えたいリアル
日本の若手起業家に伝えたいこととして、横川さんが挙げたのがスタートアップという言葉の「キラキラ感」への警鐘でした。
スタートアップっていう言葉のキラキラ感が、僕は常に危険だなと思ってて。キラキラしてないじゃないですか、全然。本当は。
横川さんによると、実態は泥臭く体育会的で、ただの商売です。YCで感じたのは、ゼロから始める以上、ブラック企業よりブラックなことをしないと勝てないという現実でした。
スタートアップの聖地と言われるところがそういう風にやってるってことは、ちゃんとそれをみんな理解しないと痛い目にあうよっていうのは、みんなもっと知った方がいいんじゃないかな。
これに対しホスト側は、憧れがなければ誰も入ってこないという見方を示します。サッカー選手の試合はかっこよくても、日々の練習は地道だという例えです。横川さんもプロセスへの憧れ自体は否定しませんが、プロセスまでキラキラに演出されることには違和感を持っています。
ホスト側からは、日本ではむしろスタートアップへの憧れそのものが薄れつつあるという現状も語られました。YouTubeやTikTok、ゲーム実況など、成り上がる角度が分散したことが背景にあるといいます。
横川さんは、自分でやること自体はどの形でも良いことだと受け止めつつ、社会へのインパクトは組織のほうが大きいと指摘します。京都のレストランシーンを引き合いに、成功した象徴が次の世代の憧れを生む循環の大切さを語りました。
ボードメンバーとの向き合い方、そして残してきた伝説
横川さんは、対照的な2人のボードメンバーから多くを学んだといいます。SparkのサンさんとPortageのアダムさんです。
サンさんはエンジニアリングマネージャー出身でストラクチャーを重視しないタイプ、アダムさんは金融系出身できっちりしたタイプで、ボードで意見が一致するのを見たことがないほど対照的だったといいます。
二人とも極端すぎて。でも二人ともめちゃめちゃ成功してる。だからこのどっちかに振る。真ん中らへんやったら別にいいやみたいな。だからその自由があるなっていうのを感じましたね。
投資家はオプションを出してくれる存在で、意思決定はあくまでオペレーターの責任だと横川さんは考えています。だからこそ「だから言っただろう」というやり取りは生まれないといいます。
番組の締めとして、横川さんが「残してきた伝説」に挙げたのは、華やかな成功ではなく2度の大規模レイオフでした。
別にいい話では全くないんですけど、数百人をレイオフせざるを得なかった。それを実行しないといけなかったっていうことが一番あれですかね。
最大のターニングポイントについて横川さんは、コロナ禍で外部ベンダーに払う資金がなく、自分たちで内製すると腹をくくったことだと語りました。それが今の強みになっているといいます。
いややるしかないわ、これ作るしかないわって思ってやったのが、一番のターニングポイントでしたね。
まとめ
男子校が嫌でアメリカへ渡った少年は、リーマンショックやデイトレーダー生活、複数の事業売却を経て、金融のバックオフィスをAPI化するAlpacaにたどり着きました。その原動力は「場所が違うだけでサービスが使えない」苛立ちであり、彼が伝えたいのはスタートアップの泥臭いリアルでした。
- Alpacaという社名は、シリコンバレーで成功者がアルパカを飼っていた光景を「成功のシンボル」と捉えたことに由来する
- リーマンショックから得た学びは「大手金融機関でも潰れる」という事実で、大企業もスタートアップもフェアに見る姿勢につながった
- リキャップでの日本の投資家との交渉を通じ、リード投資には次のラウンドと生存にコミットする責任が伴うという日米の違いを痛感した
- バブル崩壊後の2度の大規模レイオフとプライシング見直しが、会社を筋肉質にする転機になった
- コロナ禍で資金がない中「自分たちで内製する」と決めたことが、今の強みと1ビリオン到達につながった



