起業の理由は「彼氏と結婚するため」
3時間編で初の女性経営者ゲストとして登場した玉置さん。まず語られたのは、20歳での学生起業の意外な動機でした。
当時付き合っていた彼氏と結婚したかったからなんです。
相手は起業しかできない体質で、就職してもクビになってしまう人だったといいます。会社さえ作れば彼が事業に専念でき、結婚できると考えたそうです。
彼を起業させれば結婚できると思ったんです。
代表取締役には玉置さん自身が就きました。広告費がないなか、東大生の女子大生社長という肩書きが取材で有利に働くという判断からでした。
ダイヤルQ2を活用した音声情報サービス
事業に選んだのは、当時日本で始まろうとしていたダイヤルQ2を使った音声情報サービスでした。
NTTの回線は最初100回線しかなく、抽選制でした。企業の申し込みは1社1つですが、玉置さんたちは学生を何百人も集めて個人名義で応募しました。
学生を何百人も集めて、申し込んだんですよ。そしたら抽選ですごい比率当たっちゃったんですよ。
結果として大手としてスタートし、初年度で年商10億に達したといいます。情報系のほか、複数人で話せる「Partyline」というコミュニティサービスもヒットしました。
自ら「美人女子大生社長」とプレスリリースに書き、記者会見まで開いたと振り返ります。まだスタートアップという言葉もない1989年頃の話です。
NTTの規制による売上激減と借金地獄
順調だったのは1年ほどでした。ダイヤルQ2がアダルトや出会い系に使われ社会問題化すると、NTTが規制をかけます。
古い交換機からは一切使えなくする措置で、売上の6割が消えました。同時に入金が2ヶ月後から4ヶ月後に変更され、資金繰りが詰まります。
さらに、共同で会社をやっていた元彼氏が湾岸戦争を機に会社の資金で金の先物取引に手を出し、追証が必要になったことも重なりました。
会社は徳間グループに営業権を売却。ただ売却資金は債権者への返済に充てられ、負債だけが残りました。
つい2、3年前に東京に出てきたばっかりで、借金を返さなきゃいけないって思い込んでたんですよ。
自己破産という選択肢も知らず、玉置さんは借金返済生活に入ります。徳間グループの新会社には、最下層の総務として入りました。
あんたいくつや?って言われて、21です。勉強しなはれって言われて。
2億円をありとあらゆる仕事で返済
総務の仕事は、朝一番でふきんを漂白し、机を拭き、お湯を沸かすところから始まる庶務でした。当然、それだけでは借金は返せません。
返した金額は実質的に2億円ほど。BS上の負債は7億ほどあったといいます。当時はメディアに密着取材やグラビアまで出て、露出が売上に直結していました。
相談できる大人はほとんどおらず、銀行の支店長から心ない言葉をかけられたこともあったと明かします。玉置さんは腹立ちまぎれにその通りの面接に行き、給与額を一筆もらって持参したそうです。
もし私が転職したらいくら払ってくれますか?ってお給料を、ちょっと一筆書いてくださいってお願いして。
Macの中古で請負仕事をこなす日々のなか、周囲からの助けもありました。日雇い業務をシステム化していた大西さんは、200万円の仕事に2000万円を振り込んでくれたといいます。
いやいや、2000万で発注したよって言ってくださったり。
SYN、リョーマと日本のスタートアップの原点
借金返済生活の前、玉置さんは大学時代から学生ビジネスの世界に足を踏み入れていました。早稲田でもらった2枚のチラシがきっかけでした。
1枚がBICというサークル、もう1枚が東洋専科というコンパニオン等の会社。玉置さんはタバコ配りのバイトに登録し、同社の新規事業として立ち上がった学生マーケティング会社「SYN」に加わります。
SYNには、後のDeNA創業者の南場智子ではなく川田氏、インテリジェンス創業メンバーの高橋氏らがいました。高橋氏は渋谷で玉置さんをナンパしたことでSYNに連れて行かれた人だといいます。
高橋(宏斗)はたまたま渋谷で私をナンパしたばっかりにSYNに連れて行かれた人なんですね。
学生向けサークル情報誌「オモログ」を、東京のSYNと大阪の学生ベンチャー「リョーマ」が共同で作りました。この2社の人脈が、後のインターネット業界の起業家たちの原点になっていきます。
何者かになる、なってやろうみたいなのがすごくこう、上昇気流としてあった気がしますね。
熊谷正寿からのオファーと「3つの約束」
借金返済の残額が5000万になった頃、GMO創業者の熊谷正寿さんと出会います。玉置さんが講演をブッチした代役を務めた加藤ポールさん経由の縁でした。
熊谷さんは、玉置さんが新聞に載った切り抜きを持ち、20歳の女の子にできるなら自分にもできると起業した人だったといいます。
残りの残額5000万ほどを貸すので一緒に仕事をしてくれませんかっていうオファーをいただいて。
仕事を始めるにあたり、熊谷さんは3つの約束を求めました。
最初に取り組んだのは、赤字10億円の化粧品会社の再建でした。世界的ブランドの日本法人をレブロングループから買収し、玉置さんが実質責任者を任されます。
当時24歳。買った会社の平均年齢は40歳近く、全員女性でした。真っ赤な口紅をつけて腕組みをする40人ほどの前で、玉置さんは責任者として立ちました。
全員が、さすが化粧品会社ですよね、真っ赤な口紅をつけて腕組みをして座ってるんですよ。
玉置さんは全国の百貨店カウンターに自ら立ち、現場を理解しようとする姿勢を示しました。少しずつ信頼を得て、通販導入などで利益率を改善し、1年で赤字はなくなったといいます。
インターネットの衝撃とインターQの誕生
化粧品会社の再建中に、インターネットが到来します。玉置さんが初めてインターネットに触れた日の衝撃は大きなものでした。
当時、パソコンはワープロの延長でしかありませんでした。しかしアメリカの研究室のコーヒーポットが、遅いパソコン越しに見えたのです。
電卓の向こうにアメリカがあったんですよ。
玉置さんはコンテンツに惹かれましたが、熊谷さんは「インフラだ」と判断します。ゴールドラッシュなら鉄道を引く発想で、ISP事業から始めることになりました。
自分たちの体験として、インターネット接続は難しく不安なものでした。そこでダイヤルQ2回線を使い、電話すればすぐ繋がるインターネット「インターQ」が生まれます。
いかに簡単に使えるのかっていう、誰にでもっていう。本当に最初からの思想がそうですね。
この思想は、GMOの「すべての人にインターネット」という現在の理念にそのまま受け継がれています。契約者数では圧倒的に世界一だったといいます。
インターQ株式会社はそのまま社名を変え、グローバルメディアオンライン、つまりGMOになりました。玉置さんは副社長として実務を担いました。
上場直前の退任と20代後半のセミリタイア
玉置さんは、GMOの上場直前期に退任します。和歌山の父ががんになったことがきっかけでした。父は1年も経たず亡くなり、玉置さんは仕事もやることもない状態になります。
GMOの株を持っていたため、一生食うには困らない状態になったのが20代後半でした。しばらくは芸能人のいる店で毎晩飲む生活を送ったといいます。
やってやったぞ私ジャニーズと飲んでるぞみたいな。
しかし1年もすると飽き、片手間で仕事を始めます。当時のインターネット市場は爆伸びしており、ホームページ制作やレンタルサーバー代理店など、何をやってもそこそこうまくいったといいます。
動画配信サイトにも挑戦しました。ただ回線が遅く、モザイクを大きくして滑らかに再生する工夫をしても、肌色の四角しか映らなかったと振り返ります。
もう見てるといろんなグラデーションの肌色の四角しか映ってないんですよ。
ハイパーネットの伝説とiモード立ち上げの裏側
この時期、玉置さんはiモードやKDDI系のサービス立ち上げにも関わっていました。その背景には、ハイパーネットという伝説的な会社がありました。
ハイパーネットにいた夏野さんがドコモに移り、iモードを立ち上げます。玉置さんはダイヤルQ2の負のイメージを払拭する社内説明会や、iモードのデモ作成を手伝いました。
KDDI系のプラットフォームでもコンテンツプロバイダとして関わり、そこで電脳隊とも出会います。iモード立ち上げ期のドコモには、後にさまざまな企業で活躍する人材がいました。
ザッパラス設立の動機と社名の由来
玉置さんが自分の会社を作った動機は、アダルトコンテンツのエンコードを真面目に続けるアルバイトたちのためでした。
この子たちがちゃんとその働ける会社作ってあげたいなと思って作ったのがザッパラスなんです。
社名は社内公募と投票で決まりました。もともとは「ザッパラ」で決まり、微妙な空気のなか誰かが「スをつけませんか」と提案してザッパラスになったといいます。由来は特にないそうです。
玉置さんがザッパラスを作った根底には、熊谷さんへの尊敬と、自分は別の道を行くという自覚がありました。倒産しかけた板倉さんに熊谷さんが即答した場面が象徴的です。
「わかった。俺ができることは何でもするから」って励ましたら、「じゃあ金貸してくれ」って言ったんですよ。そしたら「それはできない」って即答したんですね。
情で考えてしまう自分は一流の経営者にはなれない。玉置さんはそう感じ、純粋に利益だけを追わなくても社会に必要とされる会社を作れないかと考えました。
そうではない成功の形もあってもいいんじゃないかなっていうのがあって作ったんですね。
ザッパラスは「プロジェクトドライブ制」を採用しました。事業をプロジェクトとして扱い、目的を達成すれば消滅する仕組みです。既得権益が変化を阻む問題を避けるためでした。
いつか消えるもんだ、いつか終わるもんだっていう概念にしたかったんですね。
占い事業への着目と業界の健全化
iモードのコンテンツで何をやるか。玉置さんは待ち受けや着メロを面白くないと感じ、お客さんのニーズを満たせるものを探しました。行き着いたのが占いでした。
もともと占いは嫌いだったという玉置さんですが、占い師に話を聞くうちに考えが変わります。
占い師さんって朝から晩まで人の嫌な話をずっと聞いてるんですよ。で、ニコニコして、翌日もそれやるんですよ。
日本にカウンセリング文化がないなか、占いはメンタルのセーフティーネットとして機能している。それなのに占い師は蔑まれている。玉置さんはその地位を向上させたいと考えました。
月額300円の占いコンテンツを作ることで、高額課金をさせる詐欺的な占い師を淘汰し、業界を健全化する狙いもありました。占い師が上場企業と継続取引を持つことで、クレジットカードや住宅ローンも組めるようになったといいます。
占いのメニューは細かく、「彼が私に連絡をしない理由」といった粒度で何百も用意されました。ザッパラスは占いを中心とした会社になり、ほぼ占いだけで2006年頃に上場します。
上場後の退任と主婦生活の奮闘
本来ザッパラスは上場する予定ではありませんでした。しかし競合他社が上場していくなか、役員や社員の意向もあり、玉置さんは1票として賛成して上場に至ります。
上場直後に、玉置さんは一度代表を退任します。離婚と再婚のゴタゴタもあり、専業主婦になろうとしました。ただ、これがうまくいきませんでした。
静かな専業主婦がしたかったから違うみたいな。
料理を研究しすぎてカリスマ主婦のオファーが来たり、習い事のベリーダンスで月2回舞台に立ったり。何でも頑張りすぎてしまい、静かな主婦生活は成り立たなかったといいます。
その後、株主や役員から呼び戻され、別の人を代表に立てる形で取締役として復帰。しかしうまくいかず、結局もう一度代表取締役に戻りました。社長、主婦、社長という異例のキャリアです。
夫はもともとザッパラスのインターンでした。エティック経由で来た、七分丈のスーツに坊主頭の人物だったといいます。
高卒なのに、慶応大学の学生のふりして家庭教師を派遣する事業とかやってて。
インターンのまま結婚を発表し、社内はほぼ悲鳴だったそうです。夫はその後起業し、上場しています。玉置さんの周囲では、妹と結婚した相手も含め、多くが起業して上場していきました。
うちの母は東京に行ったらみんな起業して上場するんだと思ってます。
顔を出さない理由とドーパミンへの姿勢
玉置さんはメディアやSNSに一切顔を出してきませんでした。20歳の頃の写真以来、露出を避けています。
女性経営者が少ない時代、偏見やめんどうなことが多かったといいます。経営者として取材を受けても、女子大生キャラとして扱われることが多かったそうです。
写真を撮る時に上目遣いにしてくださいとか、唇を舐めてくださいとか本当に言われるんですよ。
SNSもやりません。作り手として見た瞬間に、時間を搾取される仕組みだと感じたからです。
SNSって人生浪費するなと思ったんで。
玉置さんは、ドーパミンを刺激するサービスは人類にとってよくないと考え、自ら手がけないと決めているといいます。占いサービスでもリミッターを設け、高額課金をさせない仕組みを作っていました。
AI時代における「無知の強み」
今のスタートアップ環境について、玉置さんは「別世界」だと語ります。エコシステムが整い、若い起業家たちはちゃんとしていて賢いと感じるといいます。
私たちがやっていたことが野蛮すぎて、なんかちょっと恥ずかしい。
一方で、何もないところで強いタイプが伸びた時代だとも振り返ります。知りすぎると慎重になり、飛び込めなくなるという指摘です。
もし当時AIあってAIと壁打ちしてたら飛び込まなかったんじゃないかって思うこと結構ありますよね。
確率論では低い橋をいくつも渡ってきた。合理的でないものをたまたま生き延びたから今がある。玉置さんはそう捉えています。
4社目の起業「ヒトハタ」に込めた思い
起業したいと思ったことはないと言いながら、玉置さんは4社目となるキャリア逆転スクール「ヒトハタ」を始めました。
年収の高い層には手厚い転職サービスがある一方、年収300万から400万の層は転職市場のメインプレーヤーに面倒を見てもらえない。玉置さんはそこに課題を見出します。
不登校や受験失敗などでスタートが思わしくなかった人が逆転するチャンスは少ない。そうした人に、3ヶ月伴走して仕事の基礎を教え、キャリアアップ転職まで支えるサービスです。
教えるのはロジカルシンキング、タスクマネジメント、コミュニケーション、AIの4科目。完璧にできれば年収1000万も可能だが、ほとんどの人が教わっていないといいます。
この事業を選んだ背景には、ザッパラスで未経験者を育て、彼らがピカピカの企業へ転職していった経験がありました。
もっと出世してくれと。私の教材の価値が上がるから。
4社目で、あえてAIに乗らず難しい教育事業に挑む理由も語られました。
もう四回目なので、社会に恩返ししていける仕事がしたいなと思っていて。
ただし、この事業は難しいと玉置さんは言います。本人がニーズに気づいておらず、コツコツ3ヶ月やる価値を伝えていく必要があるからです。
「女性」で括られることへの抵抗
玉置さんは、女性で括られることをずっと拒んできました。女性経営者の集まりには一切行かなかったといいます。
括ること自体がやめた方がいいなと思ってる派なんですよ。
30歳でメイクをやめ、10年間しなかったのも、女性として見られる面倒くささを避けるためでした。TシャツにリーバイスでいるとⅠ女性という枠から外れて見てもらえたそうです。
当時は世の中を変える方法がないと諦め、自分たちで対処してきました。もっと発信していれば今の女性起業家にとってマシな世の中になっていたかもしれない、と若干の罪悪感も口にします。
仲間内では男扱いで、キャバクラでは男気じゃんけんに参加させられ、高額を払うこともあるといいます。女性扱いしないことが、玉置さんにとってはむしろ心地よいのです。
話を盛る起業家たちと三木谷・孫との逸話
当時の起業家たちについて、玉置さんは「ビッグマウス勝ち」だったと語ります。皆が自分の都合よく歴史を歪曲するため、事実と本の内容がずれてしまうといいます。
あの芸風だと思ってください、あの世代の。平均で2、3割盛ってる。
三木谷浩史さんはザッパラスの個人株主でした。渋谷に用事があった三木谷さんが会社に立ち寄った際、コピー機から第三者割当のご案内が印刷されているのを見たのがきっかけです。
第三者割当やるの?って言ったんで、いくらまでだったら出していい?って言われて。
当時ザッパラスは上場する予定がなく、応援してくれる人を募る第三者割当でした。上場しないと伝えても三木谷さんは出資し、後に上場して恩返しができたといいます。
玉置さんが見た三木谷さんは、繊細で仲間思いの人でした。楽天の料率変更で出店者が離れた時、深く傷ついていたと振り返ります。
時にやっぱりものすごくやっぱ傷ついてたんですよね。
孫正義さんとの接点は、パソナ創業者宅のホームパーティーで一度すれ違っただけ。誰かわからないまま丁寧に挨拶を交わした相手が孫さんだったといいます。
起業家の性分と「面白いと思ってやったことは全部伝説」
玉置さんは、目標を決めないタイプだと言います。何かを達成したいと思ったこともなく、目の前のことを一生懸命やってきただけだといいます。
遠くを見なくていいと思うんですよ。目の前のことだけ考えてればいいと思います。
自分をフォレストガンプのような存在だと語ります。真面目に目の前のことをやっていたら、たまたま歴史的な場面に出くわしてきたという感覚です。
最初の会社の失敗、GMOの退任、ザッパラスの退任騒動。玉置さんは失敗を避けない方がいいと考えています。徳間グループで最下層から働いた1年が、その後の人生を支えたといいます。
初めて経験するシチュエーションで初めての難題を解くのってむちゃくちゃ面白いんですよ。
ゼロやマイナスをたくさん経験してきたから、失うことが怖くない。怖くなければ、あとは楽しいだけだと玉置さんは言います。
最後に、作ってきた伝説を問われた玉置さんの答えは、彼女の性分そのものでした。
面白いと思わなければやらないし、面白くなくなったらやめてしまう。数字より、ピュアな関心が先に立つタイプだと自認します。だからこそ、ブレーキ役の存在も大切にしてきました。
面白ドリブンだけだとダメだから、ちゃんとブレーキをかけたり整えてくれたりする人と一緒にやるみたいなことはしてましたね。
まとめ
玉置真里さんの歩みは、ダイヤルQ2からGMO、占い事業、そして教育事業へと続く、インターネット黎明期そのものの記録でした。数字より面白さを軸に、失敗を糧にしながら道を切り開いてきた姿が語られました。
- 彼氏との結婚という動機で始まった20歳の学生起業が、すべての出発点だった
- 借金2億円の返済生活を経て熊谷正寿と出会い、GMOの前身インターQを立ち上げた
- 利益一辺倒でない会社を目指してザッパラスを作り、占い業界の健全化と地位向上に取り組んだ
- 失敗を避けず、ゼロやマイナスを恐れない姿勢が、起業家としての原動力になっている
- 「面白いと思ってやったことは全部伝説」という言葉に、玉置真里の生き方が凝縮されている
