なぜテック番組が音楽の歴史を語るのか?
この回は、SpotifyのMusic + Talk ── Spotifyのポッドキャストの中に、トークと一緒に楽曲を挟み込める機能。リスナーはアプリ上で、話と曲を続けて聴けますが日本でもリリースされたのをきっかけに、トークの合間に話題の曲を流す形で収録されています。
草野さんによると、Spotifyでは曲あり版と曲なし版の2パターンが配信されています。有料会員は曲をフルで、無料会員は30秒だけ聴けるそうです。AppleやGoogle Podcastsでは曲は入っていませんが、トークの内容はほぼ同じだと説明されています。
宮武さんは、このテーマをMusic + Talkの話が来る前から草野さんと話していたといいます。Off Topicではこれまで、カルチャーのシフトを理解するとユーザー行動やソフトウェアの変化が見えるという話をしてきました。今回はその逆に、テクノロジーがカルチャーを動かす側面を、音楽を軸に見ていく回です。
実はその逆もあって、テクノロジーがカルチャーをシフトしているっていうところもあると思っていて。
本題に入る前に、二人は好きな音楽の話をしています。宮武さんは子どもの頃、親の車の中でカセットで聴いていたビリー・ジョエルを挙げ、2年ほど前に70代になったビリー・ジョエルのライブを初めて観て「やっぱうまかった」と振り返ります。
草野さんはJ-POPも洋楽も幅広く聴くタイプで、日本では宇多田ヒカルやJUDY AND MARY、洋楽ではポップスやラップが好きだといいます。最近ではLogicの新しいアルバムを気に入っていると話しています。
レコードの物理的な制約が「3〜4分の曲」を決めた
宮武さんの歴史の話は、レコードから始まります。レコードが大衆向けに出始めたのは1948年ぐらいで、それより少し前からレコードという概念は生まれていたといいます。
当時のレコードには、1分間あたりの回転数に決まりがありました。標準は78RPM ── RPMは1分間あたりの回転数(revolutions per minute)。78回転のSP盤は初期レコードの標準規格で、後に33回転のLPや45回転のシングル盤が普及しましたで、この回転数とディスクの大きさで、録音できる曲の長さが決まっていたそうです。
宮武さんの説明では、10インチ盤で約3分、12インチ盤でも大体4分、最大で5分ほどでした。レコードの時点で、曲の長さは3〜4分に収めるしかなかったわけです。
じゃあほんと今のスタンダードを作った(きっかけですね)。
その後、同じ大きさで回転数の低いレコードも登場し、レコードはどんどん安くなりました。安くなったことでラジオ番組がレコードを購入し始め、ラジオで音楽を流せるようになったといいます。
当時のラジオは、全国に広がる唯一級のディストリビューションネットワークでした。ほとんどのラジオ番組が45RPMのレコードしか流さなかったため、ラジオで流してもらうには、曲を4分以下にしなければならなくなったと宮武さんは説明します。
レコードの規格
回転数とディスクの大きさで、収録できる長さが3〜5分に制限される
レコードの低価格化
大衆向けに広まり、ラジオ番組がレコードを購入し始める
ラジオで音楽が流れる
ラジオが全国規模の音楽の流通網になる
3〜4分の曲が標準に
ラジオに乗るために、ほとんどの曲が4分以下で作られる
このルールを破ったバンドもいました。5分を超える曲を作ったとき、ラジオ業界やアーティスト業界の多くの人が「その曲はラジオでは流せない」と言ったそうです。それでも実際に流してみると大人気になったのが、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」だと宮武さんは紹介しています。
ルーズベルトは「元祖ポッドキャスター」だった?
ラジオがニュースや情報の主要な流通網になると、音楽以外にも音声を使った「インフルエンサー」が現れたと宮武さんは話します。その初期の一人として挙げたのが、のちの大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト ── アメリカ第32代大統領(在任1933〜1945年)。頭文字からFDRと呼ばれ、世界恐慌や第二次世界大戦の時期に国を率いましたです。
当時ニューヨーク州知事だったルーズベルトは大統領を目指していましたが、選挙の対戦相手が新聞業界に強いネットワークを持っていました。そのため新聞でのプロモーションがやりにくかったといいます。
そこでルーズベルトはラジオを使い、月に1回のスピーチで自分のアイデアや思いを全国に伝え始めます。これが人気を呼び、大統領になってからも続けたそうです。宮武さんはこれを「この時点だと、いわゆるポッドキャスト」と表現しています。
ルーズベルトのラジオの人気ぶりを示すエピソードとして、宮武さんは映画館の話を紹介します。放送はリアルタイムでしか聴けなかったため、映画館は上映の途中で映画を止め、観客みんながルーズベルトのラジオを聴けるよう切り替えたといいます。
ルーズベルトは話し方にも工夫をしていました。国民を「あなた」と呼び、シンプルな言葉や誰でもわかる事例を使うことを意識していたそうです。
イベントでよく見る「ファイアサイドチャット」という言葉も、ルーズベルトのラジオ番組が由来だと宮武さんは説明します。大統領が一般家庭の暖炉の横で話しかけてくれるイメージから、CBSの記者が名付けた言葉だといいます。
もしかしたらポッドキャストはファイアサイドチャットって呼ばれてたかもしれない。
さらに重要な点として、宮武さんはルーズベルトが車椅子で生活していたことを挙げます。音声だけで話していたので誰もそれに気づかず、力を持つ人物としての大統領のイメージを保てたことが、歴史上よく重要だったと言われているそうです。
トランジスタラジオはビートルズをどう押し上げたのか?
ラジオはもともと、人が集まって一緒に聴く公共的なものでした。そこに新しく登場したのがトランジスタラジオで、宮武さんは「今でいうフォートナイトやSNSのように考えてほしい」と話します。
やっぱり新しいメディアのフォーマット、特にテクノロジーのフォーマットが出てくると、ユースカルチャーを変えるんですよね。
宮武さんによると、1960年代のティーンカルチャーを大きく変えたのがトランジスタラジオでした。持ち歩けるラジオなら、自分の部屋で1人で聴くことも、友達や家族、外の仲間と一緒に聴くこともできます。プライベートとパブリックの両方の聴き方ができるようになった点が重要だったといいます。
このトランジスタラジオをうまく活用できたのがビートルズだと宮武さんは話します。ビートルズは当時イギリスで大ヒットしていたものの、まだアメリカには来ていませんでした。
アメリカのキャピトル・レコード ── アメリカの大手レコード会社。ビートルズのアメリカでのレコードリリースを担いましたは、1964年1月後半ごろにビートルズのシングルを出すかを検討していました。ところが1963年12月10日、イギリスでのビートルズ人気、いわゆるビートルマニアを伝えるニュースがアメリカで流れます。
そのニュースを見たある10代の女性がローカルラジオ番組に曲をリクエストし、番組はたまたまリークされたレコードを手に入れられたそうです。曲が流れて人気が広がり始めたため、キャピトル・レコードはリリースを1963年12月26日に前倒ししました。
宮武さんはこのタイミングが2つの点で重要だったと説明します。1つは、1963年当時の平均的な10代が1日3時間ラジオを聴いていたこと。もう1つは、その年のクリスマスに、アメリカで最もリクエストされたプレゼントがトランジスタラジオだったことです。
トランジスタラジオは1962年までは550万台売れていましたが、1963年にはその倍になったといいます。クリスマスにラジオをもらった翌日、ビートルズがリリースされ、みんながビートルズを聴いたという流れです。
一番最初に流れてる曲がビートルズっていう。
その結果、ビートルズのアメリカ最初のシングル「I Want to Hold Your Hand」はリリースから3日間で25万枚売れ、ビルボード1位になりました。
宮武さんは、もし1月のリリースだったら、2月のエド・サリバン・ショー ── アメリカの人気テレビバラエティ番組。1964年2月のビートルズ出演は、アメリカでのビートルズ旋風の象徴的な場面として知られますにはタイミング的に出演できなかったかもしれないとみています。この出演が、アメリカではビートルマニアの始まりとよく言われているそうです。
宮武さんは、ビートルズの楽曲の質ならトランジスタラジオがなくてもアメリカで人気になっただろうとしつつ、新しい流通網を活用できたことが爆発的な広がりにつながったと話しています。ちなみに好きな曲として、草野さんは「Across the Universe」や「Strawberry Fields Forever」を、宮武さんはアルバム『1』をよく聴いていたと挙げています。
テレビ討論会はなぜケネディに有利だったのか?
続いて宮武さんはテレビの話に移ります。テレビは音楽だけでなく政治の概念も変え、アメリカでは教科書に載るほどの歴史的瞬間があったといいます。
宮武さんによると、テレビの普及率は10年ほどの間に8%から88%へ上がり、約9割の家庭がテレビを持つようになりました。そのタイミングの大統領選挙で、候補者の討論会が初めてテレビで生中継されたそうです。
その討論会は、リチャード・ニクソン対ジョン・F・ケネディでした。宮武さんは、ニクソンがグレーのスーツ、ケネディが濃いネイビーのスーツに赤いネクタイだったと説明します。当時のテレビは基本的に白黒で、グレーは画面上で印象が薄くなり、ケネディのほうが明らかに明るく目立って見えたといいます。
目線の使い方にも差がありました。ケネディはカメラを見て話しかけたため、視聴者は自分に話しかけてくれていると感じたそうです。一方のニクソンは、質問する記者のほうを向き、横や下を向くことが多かったといいます。
ラジオで聴いていた人の調査では、ニクソンのほうが人気だったと宮武さんは紹介します。音声だけだと内容に注目するため、評価が逆転したわけです。それでも9割の家庭がテレビを持っていたため、テレビ映えしたケネディが有利になりました。
濃紺のスーツに赤いネクタイ、カメラ目線で話すケネディが明るく印象的に映る
音声だけで内容を重視し、ニクソンのほうが人気だった
草野さんは、メディアの活用法を常にキャッチアップしないと国民に伝わらず、SNSの良い面と悪い面にも通じると受け止めます。宮武さんも、ラジオでは親近感を生む呼びかけ、テレビでは色や見た目、目線が問われたように、新しいフォーマットごとにインフルエンサーのあり方が変わると話しています。
ドラマ×音楽から、ヒップホップを押し上げたサウンドスキャンへ
テレビの時代には、シットコムやレイトナイトショーなど、一般のアメリカ人向けのコンテンツが増えました。宮武さんは、音楽を使うレイトナイトショーや、ドラマのオープニング曲がアメリカ文化をシフトさせたと話します。
ドラマを知らなくても音楽を知っていてドラマにたどり着くこともある、というのが宮武さんの見方です。ドラマと音楽の掛け合わせが、新しい親しみやコンテキストの作り方になったといいます。
音楽とテレビの組み合わせで言えばMTVです。宮武さんは、MTVともう1つの技術的な進化によって、ヒップホップがメインストリームになったと考えています。
そのもう1つが、ビルボードチャートの集計方法の変化です。宮武さんによると、1991年までビルボードチャートは実際のラジオ再生回数や販売数で評価されておらず、「どこかにいる白人の人」が何が売れているかを決めていたといいます。
すごいざっくり。どこの白人が。
選ぶ人にはそれぞれのテイストがあり、レーベルからの圧力やお金が絡むこともあったそうです。そこに、販売数を計測する技術サウンドスキャン ── 店頭のPOSデータから音楽ソフトの実売枚数を集計するシステム。1991年からビルボードのチャートに採用され、チャートの実態が大きく変わりましたが登場します。
トップ6社のレコード流通会社はまだ使っていませんでしたが、ビルボードのトップ100は導入を始めました。その結果1991年、ヒップホップグループのNWAがビルボード2位になり、多くの人が驚いたといいます。
さらに驚かれたのが、当時サウンドスキャンを使っていなかったビルボードのR&Bチャートでは、同じNWAが21位だったことです。
宮武さんは、選ぶ側が主に白人だった当時は黒人の音楽が選ばれにくい現実があったと指摘します。実際に聴かれていることが数字でわかるようになったからこそ、ヒップホップが全国に知られるようになったという見立てです。
MTVが映したラッパーのライフスタイルと、エミネムの伝説
ヒップホップを押し上げたもう1つのシフトがMTVです。1988年にはMTV内にヒップホップ特集番組「YO! MTV Raps」が生まれ、次世代のラッパーを紹介する場になりました。宮武さんはそこから出てきた存在として、ドクター・ドレー、ビギー、2PAC、アイス・キューブ、ウータン・クランを挙げ、草野さんはスヌープ・ドッグも加えています。
テレビなのでビジュアルを見せられ、アーティストはファッションを含むライフスタイルまで発信できました。宮武さんは、スニーカーやストリートファッションの人気にもつながった部分があると話しています。
宮武さんはヒップホップに詳しいわけではないとしたうえで、ドクター・ドレーが見つけたアーティスト、エミネムの話を紹介します。草野さんは、当時は白人ラッパーがほとんどいなかったと反応しています。
エミネムはラップバトルに出ていて、デトロイトで少しずつ知られていました。そのバトルを、ドクター・ドレーのパートナーのインターンがたまたま見に行き、エミネムからテープを受け取ります。
テープはパートナーを通じてドクター・ドレーに渡り、聴いた瞬間に「こいつやばいな」となって「連れてこい」と言ったそうです。ドクター・ドレーの家に現れたエミネムは全身黄色のスウェットスーツで、それにまず驚いたといいます。
ドクター・ドレーが自宅のスタジオで遊び半分にビートを流すと、4秒ほどでエミネムがラップを始めました。この様子は動画に残っていて、そのとき最初にレコーディングしたのが「My Name Is」だと宮武さんは説明しています。
しかもあの動画見ると、「あ、この人やばいな」っていう、なんかやっぱエミネムの天才ぶりがわかるっていうところですね。
CDとカセットが変えた曲の長さと「ミックステープ」
次のテクノロジーとして宮武さんが挙げたのがCDとカセットです。重要な点は2つあるといいます。
1つ目は曲の長さです。レコードで制限されていた長さを延ばせるようになり、1959年から1992年にかけて平均の曲の長さは78%伸びたそうです。3分が中心だった曲に、5分の曲も多く出始めました。
2つ目は、いろいろな曲を自分でミックスできるパーソナライゼーションです。宮武さんは、ミックステープを作れるようになったことが世の中を大きく変えたと話しています。
レコードの規格で曲は3〜4分が中心。アルバムは作り手が決めた並びで聴く
平均の曲の長さが78%伸び、ミックステープで自分好みの並びを作れる
草野さんはカセットを触ったことがないかもしれないと言いつつ、最近のTikTokで若い世代がカセットを聴く動画をよく見かけると話します。ビリー・アイリッシュやオリヴィア・ロドリゴ、BTSなどのカセットが出ているのか、ファンが作っているのかもしれないと感じたそうです。
可愛いですよね、(カセットが)回ってるの。
宮武さんはノスタルジアもあってか流行っていると応じ、自身の思い出として、子どもの頃に車で聴いたビリー・ジョエルやディズニーの曲を挙げます。中でも好きなのが、マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチー、ビリー・ジョエルらがアフリカへのチャリティーのために集まった「We Are The World」で、今でもよく聴くといいます。
iTunesはアルバムをどうバラバラにしたのか?
今回の最後のテーマはiPodとiTunesです。宮武さんは、iPod自体はCDやカセットの延長だとみていて、業界を大きく変えたのはiTunesだと話します。
iPod以前のAppleの売上は約1ビリオン、日本円で1000億円ほどで、iPodの影響で大きく伸びたといいます。そのうえでiTunesのすごさは、アルバムをアンバンドル化したことにあり、1曲ずつ買えるようになった点だと宮武さんは説明します。
この変化はアーティストにも影響しました。宮武さんは、ピンク・フロイドが26分の長い曲をレコードのA面・B面に合わせて2曲に分けた例を挙げます。iTunes的に考えれば、2曲より8曲に分けたほうが得になるというわけです。
なんで結構やっぱりその影響でアーティストが曲をスプリットするっていう概念が出てきたりとか、その長い曲を作らなくて、もう少し普通の曲をいっぱい作るっていうのが出てきたのかなと思いますね。
草野さんは、アルバムの冒頭にあるイントロのようなトラックもその影響がありそうだと指摘し、宮武さんも同意しています。
iPodの思い出として、草野さんは2001年ごろのシルエットが踊るCMが印象に残っていると話します。初めて買った音楽機器はiPodで、最初に買ったCDのブラック・アイド・ピーズのアルバムも、iPodに入れるために買ったそうです。MDプレーヤーは姉が持っていたものの、今考えると「謎のデバイス」だったと笑います。
宮武さんは当時日本に住んでいて、ポルノグラフィティやアゲアチョなどの日本の曲のCDを買っていたほか、誕生日に「明日があるさ」のCDをもらった思い出を語ります。音楽好きの親が洋楽のCDを多く持っていて、エルトン・ジョンがダイアナ妃に捧げた曲を収めた特別なCDもあったといいます。
今回は前半で、次回はストリーミングやインターネット、SNS、TikTokの話に進む予定です。草野さんが「どんどん音楽が短くなりそうな予感」と言うと、宮武さんも同意しています。
ちょっと物足りないなと思ったりもしつつ、でもサビだけ聴きたいっていう気持ちもわからなくもないです。
まとめ
この回では、レコードの規格からiTunesまで、新しいテクノロジーやメディアが登場するたびに、曲の長さ、ヒットの生まれ方、政治家の伝え方までが変わってきたことが、具体的な歴史エピソードとともに語られました。
- レコードの回転数と大きさの制約と、ラジオという流通網が「3〜4分の曲」という標準を生んだ
- ルーズベルトはラジオの親しみやすい語りで支持を集め、ファイアサイドチャットという言葉も生まれた
- トランジスタラジオの普及とリリースの前倒しが重なり、ビートルズはアメリカで一気に広がった
- テレビは見た目と目線で政治を変え、サウンドスキャンとMTVはヒップホップをメインストリームに押し上げた
- CD・カセットは曲を長くし、iTunesはアルバムをバラバラにして、曲の作り方そのものを変えた


