聞き手はツドイの今井雄紀さん。Off Topicとの長い縁とは?
今回のゲストは、「編集とイベント」を中核事業とする企画集団ツドイの今井雄紀さんです。今井さんは40歳になるところで、テキスト、動画、イベント、そして最近はPodcastまで、さまざまなものを作る編集者です。
今井さんが話している番組は主に2つあります。クラシコムの青木さんと話す「考えすぎフラグメンツ」と、1人で話す「編集者のハイポシシス」です。
今井さんとOff Topicの縁は古く、草野さんが高校生だった14、5年前に取材をしたのが最初の出会いだといいます。Off Topicが始まってからも、配信が1話しかない頃から聴いていたそうです。
あの1話目が100再生行ったかどうかだと思うので。
そのうちの1再生ですね。
宮武さんとは、食事をしたり人を紹介し合ったりする関係です。今井さんが支援するPodcast番組に宮武さんが出演したことや、今井さんたちが立ち上げたイベント「PodcastWeekend」に二人が来場し、翌年にグッズのスウェットを作ったこともあったと振り返られています。
今井さんは「ツドイの編集学校」も運営しています。講師が入れ替わる形式が多いなかで、すべて今井さん自身が体系的に教えること、リアル限定であること、そして明日使えるティップスではなく、良いものを作り続けるための態度やスタンスを教えることが特徴だと説明されました。4か月間、海を越えて通う受講生もいるそうです。
(編集の)やり方を我々も学びながらアマチュアでやってるので。
なぜ「宮武さんの半生」を聞くのか。静岡生まれ、ニューヨーク育ちの幼少期
今井さんが今回の企画を提案した理由は、300回を超えたOff Topicでも、二人の人生が「線」として語られた場所はテキストにもない、と感じていたからです。長く聴いている今井さんでさえ「この二人は一体何なんだ」と思うことがあるといいます。
今井さんの手元にあるのは「0歳日本で生まれる」程度の超ざっくりした経歴だけです。宮武さんの生まれは静岡ですが、静岡の記憶はほとんどありません。
多分2歳の時にあのアメリカに。3年半ぐらい行っているので、どちらかというと多分最初の記憶はアメリカの方が多分先ではあったんですけど、それもうっすらしか覚えてないっていう感じですね。
アメリカで過ごしたのは、ニューヨーク州の北のほうにあるイーストチェスターです。5歳半まで過ごしたあと、家族は神戸へ戻りました。
家族が移り住んだのは、宮武さんの父の仕事の都合でした。父は帝人 ── 大阪に本社を置く日本の化学・繊維メーカー。繊維事業のほか、素材や医療など幅広い分野を手がけていますで繊維、具体的にはリサイクルポリエステルの販売をしていたといいます。一度家族でアメリカに行き、全員で戻ったあと、父だけが単身赴任でマンハッタンに渡り、10年以上過ごしたそうです。
宮武さんには2歳上の兄がいます。ニューヨーク時代の宮武さんは幼稚園に少し通った程度で、基本的には家で母に育てられていたと話しています。
一度も日本の学校に通わなかった。インター育ちと「アメリカへの憧れ」
神戸に戻った宮武さんが通ったのは、インターナショナルスクールでした。宮武さんは一度も日本の学校に通ったことがなく、ずっと英語で教育を受けてきたといいます。
両親はともに日本人なので、家庭では日本語を使っていました。ただ、話す相手によって言葉が変わっていたそうです。
親に対しては日本語で、兄に対してはミックス。
英語ファーストで日本語セカンドみたいな感じですね。
宮武さん自身の認識では、得意な言語は「完全英語」です。新卒で入った日本の会社のころは日本語があまり良くなく、そこから鍛えられたと振り返っています。今井さんも、初期のOff Topicには「これって日本語で何て言ったらいいのかな」という場面が多かったと話していました。
兄弟そろってインターに通った理由について、宮武さんは、たまたま住んだエリアの近くにインターがあったことを挙げます。そのうえで、父のアメリカへの思いも背景にあったのではないかと話しています。
だから多分そもそも(父が)選んだ仕事もアメリカに行けるからっていうので選んだはずなので、そういう意味では多分アメリカに対する憧れは何かしらあったのかなと思います。
父が好きだったのは、文化だけでなくスポーツも含めたアメリカの雰囲気だったのでは、と宮武さんは見ています。現在の父はサステナビリティに関心があり、服や食べるものにも気を配っているそうです。ランニングも好きで、ニューヨークに単身赴任していた頃にはニューヨークマラソンも走っていたといいます。
バスケ、映画、スクールカースト。神戸のインターでの日々とは?
5歳から14歳まで通った神戸のインターには、日本の部活動とは違う仕組みがありました。宮武さんによると、アメリカ式の学校ではスポーツが季節制で、季節ごとに入れるチームが変わります。
宮武さんは中学から、主にバスケをやっていました。背は「どこ行っても一番小さい」ほうでしたが、細くてスピードがあったので、その速さで勝負できたそうです。最初はサッカーが好きでしたが、バスケ好きの兄に影響され、次第にバスケを好きになったといいます。
インターでの話題が日本の学校と違ったかという今井さんの質問に、宮武さんは「そんなに変わらない」と答えます。当時はインターネットもほぼなく、テレビで見るものが中心でした。ただ、宮武さんが通ったインターは日本人が少なかったため、日本のドラマを見る人は限られていたそうです。
どちらかというと、例えば『ロード・オブ・ザ・リング』とか『ハリー・ポッター』とか、なんかそっち系は友達と一緒に映画館で見に行ったりとか、それはやってましたね。
スクールカーストはインターにも「全然あります」とのことです。宮武さんは、ある程度勉強ができて運動神経もあったので、全般的に好かれていたのではと話します。当時の学校は悪いいじめもほとんどなく、「すごい安全な場所」だったと振り返っています。
学校のあとの時間は、親の影響でさまざまな習い事をしていました。クラシックからジャズへ移ったピアノ、そろばん、水泳、バスケ、サッカー、将棋、囲碁などです。
そろばんとか、途中で途中でめんどくさくなってサボり始めて、親に捕まって怒られるっていうパターンは全然ありました。
教育にコストをかけてもらったという点について、宮武さんは、高校と大学もアメリカだったこともあり「親にはもう何も言えない」と話しています。
ボストン近郊のボーディングスクールへ。兄の2年越しの受験から始まった進学
14歳でインターを離れた宮武さんは、ボストン近郊のボーディングスクールに進みます。きっかけは、2年前から兄がアメリカのボーディングスクールを受験していたことでした。ボーディングスクールという仕組みは、父が調べるなかで知ったものだといいます。
兄の受験当時は情報がほとんどなく、父もやり方がわからなかったため、トップ校にしか応募していませんでした。兄が受けた学校にはアンドーバー ── マサチューセッツ州にある名門寄宿学校フィリップス・アカデミーの通称。アメリカ有数の伝統校として知られますやエクセターがあり、2年間受験したものの合格には至らなかったそうです。
宮武さんの番では、少しレベルを落として出願したところ、運よくいくつかの学校に受かりました。ただ、本人は友達のいるインターを離れたくなかったといいます。
僕はあんまり(ボーディングスクールに)行きたくはなかったんですけど、まあ今考えると行ってすごい良かったなと思います。
宮武さんが通った学校では、多くが寮生活の生徒で、残りは近所から通う「デイスチューデンツ」でした。宮武さんは、ボーディングスクールをプレップスクール ── 大学進学の準備を目的とするアメリカの私立中等学校の呼び名。寄宿制の学校が多く、名門大学への進学実績で知られる学校もあります、つまり大学の準備校として捉えるのがよいと説明しています。
生徒は全般的に優秀だったものの、みんなが意識の高い生徒だったわけではないといいます。学費が高いことに加えて、親が卒業生だと入りやすい制度や、寄付によって校舎に名前が付く文化があり、祖父の名前が付いた建物のある学校に孫が通っている例もあったそうです。今井さんは、東京大学の安田講堂や福武ホールを似た例として挙げています。
父がニューヨークにいたとはいえ、寮生活の宮武さんは基本的に一人でした。日本人の生徒もいなかったそうです。
最初はやっぱりしんどかったですね。(中略)ただそのおかげで大学がめちゃくちゃ楽になりました。
Off Topicの原石は高校にあった?エッセイの書き方という教育
宮武さんは、高校が学生時代で一番厳しかったと話します。厳しかったのは卒業の条件ではなく、授業の内容です。
特にそのインターナショナルから来る学生が、アメリカの大学で一番困るものってエッセイの書き方なんですよ。
宮武さんのいう「エッセイの書き方」とは、仮説を立て、エビデンスを示しながら論を組み立てる方法です。宮武さんの高校は、それを英語で徹底的に学ばせていました。
今井さんもこの話に納得します。Off Topicは作りが英語論文のようで、そこにポップな事例がたくさん出てくるので、事例を重ねて仮説に近づいていく読後感がある、と今井さんは表現しています。
陸の孤島で週2回の試合。高校のスポーツと、毎朝NBAのスタッツを覚えた日々
ボーディングスクールは基本的に田舎にあり、宮武さんの高校も大学より広いキャンパスを持っていました。一番近い街まではバスで15分ほどかかったため、生徒は閉じこもって勉強するしかなかったといいます。
一方で、宮武さんの高校ではスポーツが必修でした。1、2年生は3シーズンすべてでスポーツを行い、学年が上がるにつれて必修のシーズンが減っていきます。宮武さんは秋がサッカー、冬がバスケ、春が野球でした。
水曜と土曜は授業が半日で、午後は他校との試合です。バスで遠征したり、相手校を迎えたりして、週2回試合をするパターンが多かったそうです。ラクロスが強い学校で、全米ランキングに入った先輩のときには、テレビの取材が来たこともあったといいます。熊が出たこともある田舎町だったそうです。
今井さんは余談として、アメリカのスポーツがプロもアマチュアも個人ランキングを作りたがる理由を尋ねます。宮武さんの答えは「感覚です」でした。数値で決めているわけではなく、ドラフトとも関係するうえ、エンタメ化したスポーツではランキングが一番わかりやすいからだといいます。
だから誰が、これはこの人は本当は5位の方がいいんじゃないかみたいな討論にはなったりするので。
この頃にテックへの関心が芽生えたのかという問いには、「高校の時はそんなに」という答えでした。代わりに宮武さんが熱中していたのは、NBAのスタッツでした。
毎日朝起きて、朝大体6時ぐらいに起きてたんですけど、その前の日のNBAの試合のスタッツを全部出して、各試合のスタッツを全部出して、それをなぜか覚えてたっていう。
それをひたすらやってたっていう。何も意味ないんですけど。
何の大学か知らずに入ったバブソン大学。必修の「起業する授業」とは?
大学進学にあたって、宮武さんは日本に戻ることをまったく考えていませんでした。高校は1学年80人ほど、4学年で320人ほどの小さな学校で、アメリカの大学に進むのが当たり前だったからです。
宮武さんが進んだのはバブソン大学 ── マサチューセッツ州ウェルズリーにある私立のビジネス大学。起業家教育に力を入れていることで知られますです。ただ、本人は入学前、ビジネス系の大学という程度しか知らなかったといいます。ルームメイトの兄が通っていたことで存在を知り、応募したそうです。
僕は正直もっといい大学に入ろうとしていたので、それがえっと、全然うまくいかなくて、結局あのバブソンか、えっと、あとそこのライバル校のベントレーっていう学校があるんですけど、そっちのどっちかに行くっていう、そこの2択で最終的に迷って。
バブソン大学の特徴として、宮武さんは留学生の比率の高さを挙げます。留学生は確か3割ほどで、親が起業して成功したビジネスを持つ2代目、3代目の学生も多かったそうです。将来が決まっているため勉強しない学生もいて、グループプロジェクトではやる気のある人とない人が混ざる現実を体験できたといいます。
専攻はビジネスの1つだけです。なかでも特徴的なのが、1年生全員が履修するFME(Foundations of Management and Entrepreneurship)で、実際に起業する授業です。
利益が出たら、自分たちが選んだチャリティにすべて寄付するルールでした。ただし、寄付することは売るときに言ってはいけない決まりです。ところが宮武さんによると「全員言う」そうで、売り先もほとんどが他の大学生か親だったといいます。
正直そこで学べることって、あの-そのビジネスについて学ぶっていうよりも、多分そのグループでグループワークの大変さを学ぶのが多分一番のことだなと思うので
社長、CTO、COOといった役員と平社員がいる組織で、どの会社でも何かしらのドラマが起きたそうです。自分のアイデアが勝つと思い込んで、先に在庫を仕入れた学生もいたといいます。
役職も投票で決まり、宮武さんはCTOに選ばれました。本人は、アジア系で少しオタクっぽく見えたので「パソコン触れるだろう」と思われたのでは、と推測しています。
CTOとして社長を追い出す。授業で起きたクーデターと宮武さんの反省
宮武さんの会社でも、当然のようにドラマが起きました。社長を追い出すクーデターです。
元のアイデアは、大学のマスコットであるビーバーのぬいぐるみを作り、卒業年やスポーツチームなどでTシャツをカスタマイズできるようにするものでした。しかし、ビジネスプランに書かれたサプライヤー候補に一部嘘があり、実際には何も動いていなかったといいます。
ビーバーのぬいぐるみ案
Tシャツをカスタマイズできるぬいぐるみを事業に選ぶ
プランの綻び
サプライヤー候補に一部嘘があり、何も動いていなかった
運営期で停滞
事業を運営する後半に入っても進まない
役員がクーデター
宮武さんを含む役員が社長を追い出す
(僕含めて)他の役員が、「これはちょっともう潮を変えないと話にならん」となって、結局クーデターを起こしました。
クーデターのあと、宮武さんはCOOと共同代表になります。ただ、宮武さんはこの時期について「すごい反省したところいっぱいある」と話しています。時間どおりに来ること、言ったことをちゃんとやることを厳しく見ていたため、冷徹な人と思われていたかもしれない、と振り返っています。
その「仲良くする必要ってあるんですか?」っていうのが多分このスタンスだったんですよ。その時。
象徴的なのが、CMOから今後について話したいと言われたときの出来事です。ミーティングだと思っていたところ、お互いを知るために食事をしたいと言われ、当時の宮武さんはその意図をまったく理解できなかったそうです。
「え?え?」みたいな。「なんでランチしないといけないんだろう」みたいな感じで。
宮武さんは、先生からは「ちゃんとやる人」として好かれていた一方で、チームにとっては扱いにくい共同代表だったのではないかと話します。周囲からの評価にギャップがあったのかもしれない、という振り返りです。
ボストンキャリアフォーラムに上だけ黒のスーツで。1年目の日本企業インターン
バブソン大学では、1年生のうちからインターンを探すのが普通だったといいます。一方で、在学中に起業する学生は、宮武さんの学年ではそれほど多くなかったそうです。
1年目のインターン先はNetprice(現在はBnosとのこと)というネット系の会社です。この会社とはボストンキャリアフォーラム ── 毎年ボストンで開かれる、日英バイリンガル人材向けの大規模な就職イベント。日本企業や外資系企業が多数参加しますで出会いました。兄も参加していたため、1年生から足を運んだそうです。
全身黒のスーツで行くっていう概念がなかったんですよ。
なので上は黒だったんですけど、下カーキだったので。
日本の就活を知らなかった宮武さんは会場で一人だけ目立ち、兄からもそう言われたそうです。
夏のインターンでは2つの仕事を担当しました。社長直下のリサーチ系プロジェクトと、他のインターン生との新規事業アイデアの検討です。この会社はデジタルガレージとともにOpen Network Labを立ち上げた会社でもあり、起業やスタートアップの世界をそばで見ていたといいます。
テックへの関心はいつ芽生えた?ガラケーの大学生と「弁護士かコンサルか」
今井さんは何度も「テックへの興味はいつから?」と尋ねますが、宮武さんの答えはなかなか「はい」になりません。関心の芽生えは大学3年生の頃で、宮武さんが立ち上げたクラブの1つ、マーケティングクラブの活動がきっかけでした。
(カンファレンスで)初めてUberのトラビスさんの登壇を見たりとか、あのAndroidを作ったアンディ・ルビンさんとかの登壇見たりとかして、そこで「あ、なんかこういう世界もあるんだ」っていうのが、そこでようやく多分知るって感じですね。
ハーバード大学やMITのカンファレンスで面白そうだと思った一方、テック業界に進みたいとはあまり考えていなかったそうです。当時の宮武さんはマーケティングが好きでした。
宮武さんは日本にいた頃は携帯電話を持っておらず、高校で初めて持ったのもBlackBerryではなく、赤くて薄いガラケーでした。大学時代も同じ機種を使っていたため、テックをほとんど見ていなかったと自身を振り返っています。
大学時代の遊びは、バスケ、ルームメイトとのChipotleやボウリングなどでした。大学でもずっと寮に住んでいたそうです。
周囲からかけられた言葉として、宮武さんは高校時代に「弁護士になった方がいい」と言われたことを挙げます。一時期は、ロースクール入学試験のLSAT ── アメリカやカナダのロースクールに出願する際に受ける共通試験。読解力や論理的思考力を測りますの勉強もしていました。進路はもともと、コンサルか弁護士かの2択のようなものだったそうです。
コンサルもそうですし、弁護士もそうなんですけど、すごいロジカル。えー、な、多分人っていうところで、多分そこである程度評価されてたのかなと。
「存在しない枠」だった夢のインターン。ボストン・セルティックスで何をした?
大学時代の話で、宮武さんが「絶対言った方がいい」と挙げたのが、NBAのボストン・セルティックスでのインターンです。
あのボストンセルティックスっていうNBAのバスケチームのあの、インターンさせてもらったことがあったので、それはもうなんか僕の中でも一生宝に残ってるものですね。
このインターンは、もともと存在しない枠でした。当時のGMで元セルティックスの選手でもあるダニー・エインジ ── 1980年代にボストン・セルティックスで活躍した元NBA選手。引退後は同球団のバスケットボール運営部門を長く率い、GMとしても知られますがバブソン大学で登壇した際、宮武さんは話しかけに行ってインターンを直談判しました。すると、あっさり「いいよ」と言われたそうです。
まあこれもまたチャンスがないと思って、ちょっと図々しく、「ビジネスのインターンやりたくないんですよ」っていうのを言って。「バスケ側のインターンをやらせてください」と。
こうして宮武さんは、これも存在しないポジションだったスカウトのインターンをすることになります。時期は2012年から2013年にかけてで、2008年に優勝したチームの選手が少しずつ衰え始めていた頃でした。スター選手を抱えて予算に余裕がないため、ヨーロッパでチームにフィットしそうなセンターを探すのが基本の仕事でした。
なんか、いや、これ、これを仕事としてやっていいのかっていうのがいろいろあったので。なんか試合見るのが仕事だみたいなことを言えちゃうので。
インターンは大学に通いながら1年弱続けました。GMが大学から歩いて5分以内のところに住んでいたため、声をかけられて一緒に試合を見ることもありました。そのたびに、見ている視点がまったく違うと感じたそうです。
ドラフトの判断が難しい例として、宮武さんはギリシャ出身のヤニスという選手を挙げます。ヤニスはドラフト当時ギリシャの3部リーグにいて、ハイライト映像もわずかしかありませんでした。その情報だけでは選べないと判断して指名しなかったことが、結果的に大失敗だったといいます。選手の性格もかなり見ていたそうです。
スカウトを一生の仕事にしなかった理由は2つです。球団がビザを提供していなかったことと、バスケの知識のレベルの差を痛感したことでした。
トレード期限の前には、経営陣を説得するための材料集めも任されました。たとえば、GMが評価していない選手について、その選手が出場するたびに相手選手のスタッツを洗い出し、「ディフェンスが下手なのでは」という説を確かめる仕事がありました。
もう1つは、オールスター選手を放出してチームをリセットした場合に、見返りの選手が良くなくても成績が上がった事例を探す仕事です。そこで見つかった事例の1つが、選手時代のダニー・エインジ本人を放出したケースでした。同じチームで働く息子さんに「お前じゃん」といじられていたそうです。
今井さんはこの話を受けて、宮武さんにとってリサーチは苦ではないのだろうと話し、宮武さんも「多分そこは好きだった」と応じます。前半はここまでで、後半に続きます。
まとめ
今回の前半では、宮武テツローさんの幼少期から大学時代までがたどられました。インター育ち、仮説と根拠で組み立てるエッセイ教育、起業の授業でのクーデター、セルティックスでのデータとリサーチの仕事など、今のOff Topicにつながる要素が各時期に見えてきます。
- 宮武さんは静岡で生まれ、ニューヨーク州と神戸のインターナショナルスクールで育ち、日本の学校には一度も通っていない
- ボーディングスクールで学んだ、仮説とエビデンスで組み立てるエッセイの書き方を、宮武さんはOff Topicの原石だと考えている
- バブソン大学の必修授業FMEでは、CTOとして社長を追い出すクーデターを経験し、仕事の進め方への反省も残った
- テックへの関心は大学3年生のカンファレンスで芽生えたが、当時の関心はむしろマーケティングにあった
- GMへの直談判で実現したセルティックスのインターンで、データベースを使ったスカウトやトレードの材料集めを担当した


