ニーチェの話を、なぜ別の本から始めるのか
この回は、前回から続くニーチェ『道徳の系譜』の2回目です。宮武さんは、この本には大きく2つのポイントがあると整理します。
1つ目は「偉大なる人の生産が必要だ」という主張です。2つ目は、その偉大なる人の生産が、道徳、特にキリスト教的な道徳によって止められ、社会が進まなくなっているという指摘です。
前回は「偉大なる人を作るには道徳を捨てなければいけないのか」という話が中心でした。今回は道徳そのもの、つまりニーチェが語る奴隷道徳と君主道徳に踏み込みます。
ただし宮武さんは、ニーチェの話だけを続けると難しいまま終わってしまうと考えています。そこで、スタートアップの事例を交えて議論しやすくするために、まず別の1冊を紹介するところから始めます。
共産主義から転向した哲学者バーナムとは何者か
宮武さんが紹介するのは、アメリカの哲学者で政治理論家のジェームズ・バーナムが書いた『The Managerial Revolution』です。日本語のタイトルはおそらくないといいます。番組では2022年の年末テーマの回で、バーナムの『マキアベリアンズ』に少し触れたことがあります。
草野さんが本を知ったきっかけを尋ねると、宮武さんは複数のVCがポッドキャストなどで薦めていたと答えます。特にアンドリーセン・ホロウィッツのマーク・アンドリーセンさんが、何度もこの本を推薦していたそうです。
この本は1940年ぐらいに書かれたもので、著者バーナムの経歴が面白いと宮武さんは話します。バーナムはプリンストン大学とオックスフォード大学で学び、ニューヨーク大学で哲学を教えていた人物です。
バーナムは1934年あたりから1940年ぐらいまで共産主義に強く賛同し、レフ・トロツキー ── ロシア革命の指導者の1人。スターリンと対立して国外追放され、亡命先で第四インターナショナルを組織しましたと友達になるほど、運動の中でリーダー的な存在でした。
ところが1939年あたりから考えが変わり始め、トロツキーとも喧嘩別れをして、より保守的な立場へ移っていきます。『The Managerial Revolution』は、ちょうどその転換期に書かれた本です。
そのためこの本は、カール・マルクスの考えを理解したうえでそれを拒絶するような内容で、マルクス主義への指摘でありながら、その要素も取り入れていると宮武さんは見ています。
ファシズム、共産主義、民主主義は同じ場所へ向かう?
バーナムがこの本を書いたのは、第二次世界大戦の真っ最中です。当時はファシズム、共産主義、民主主義という3つの政治系統があり、どれが勝つのかが議論されていました。
アメリカでは経済不況も重なり、民主主義が危ないのではないかという声もありました。そのなかでバーナムは、3つの体制は実は似ていて、最終的に向かう先は同じだと主張します。
その行き先が、マネージャーが世の中を支配する「管理者社会」です。草野さんはタイトルから、マネージャーにとって前向きな革命の話かと思っていたと話します。
なんかタイトル聞くと、マネージャーの革命みたいな、結構ポジティブな意味、マネージャーにとってのポジティブな意味合いなのかなと思ったら、全然ちょっと違いますね。
若干マネージャー(を)ネガティブに見てますから。
バーナムが挙げる例では、ファシズムのナチスにもヒトラーの下に官僚や幹部のレイヤーがあり、民主主義には政府があり、企業にはマネージャー陣や取締役がいます。
マルクスは、プロレタリアートがブルジョアジーを倒す革命を描きました。しかしバーナムは、マルクスがそこをミスリードしたと考え、ブルジョアジーを追い出すのはプロレタリアートではなく、まったく違うグループ、つまり管理者だと主張しています。
オーナーが経営する資本主義、管理者が経営する資本主義
宮武さんによると、マルクスは社会をブルジョアジーとプロレタリアートの2つに分けましたが、バーナムは3つ目の層として管理者がいると指摘します。そこから、2種類の資本主義があるという話になります。
1つはブルジョアジー的な資本主義です。ヘンリー・フォード的な、今でいえばイーロン・マスク的な会社のあり方で、オーナーイコールマネージャー、つまりオーナーが自ら会社を運営する形です。昔のGoogleや、基本的にスタートアップの多くはこのモデルだといいます。
草野さんが「ファウンダーのことか」と尋ねると、宮武さんはファウンダーが必ず社長になるわけではないので、正確にはファウンダーCEOを指すと補足します。この形では、マネージャーと株主の利害が完全に揃っています。
もう1つが管理者資本主義です。会社が大きくなると資金調達でオーナーの持ち分が薄まり、新しいCEOが入ることもあります。すると、オーナーシップの少ない人がオペレーションの権力を持つようになります。
宮武さんは、Gから始まる某大手テック企業を例に挙げます。上場して株主は何百万人もいて、ファウンダーは議決権の半分以上を持つものの今は事業に深く入り込んでおらず、実際に運営しているのは雇われ社長や管理者たちだという構図です。
オーナーが自ら会社を運営する。ファウンダーCEO型で、マネージャーと株主の利害が揃う。フォードやイーロン・マスク、スタートアップの多く
オーナーシップを持たない管理者が会社を運営する。会社の拡大や資金調達でオーナーの持ち分が薄まった後に生まれやすい
バーナムは、こうした展開は企業にとって割と自然であり、国や政治のレベルでも同じことが起きるという仮説を立てています。
管理者が運営すると、なぜ長期の利益が損なわれるのか
草野さんが「それは良くないという話なのか」と尋ねると、宮武さんはインセンティブの問題だと説明します。
結局インセンティブのアラインメントがなくなるので、いわゆる短期的なインセンティブには働くんですけど、会社の長期的なためのインセンティブが揃わなくなってしまうので、結果的に良くなくなる。
草野さんは、以前の回で話題になった「最初に発明した人がインセンティブをもらえていない」問題を思い出し、オーナーがずっとインセンティブを持ち続けることにも反対意見はありそうだと話します。現場で働く人がインセンティブを持つべきだという考えもわかり、難しい話だと感じています。
宮武さんも、誰がどこまで株を持つべきかはいつも難しいと認めます。創業者は永久に会社にいられるわけではなく、オーナーが運営を続けられなくなる場面は必ず来るからです。
一般的には、株主が会社を運営しているという考え方が多く、株を持つ人たちが力を合わせれば社長をクビにできます。草野さんは、中高生の頃にこの仕組みを知って驚いた経験を語り、お金以外で機能する存在をどう設計するかは難しそうだと話します。
VCこそ管理者システムだという指摘
宮武さんは、VC自身も同じ構造を持っていると指摘します。VCはほとんど自分のお金ではなく、LPから預かったお金でスタートアップに出資しているからです。
まあVCこそ管理者システムなんですよね。
ここで宮武さんが問題にするのは、LPとVCのあいだの金銭的なアラインメントです。LPがVCに出資するのは大きなリターンを期待するからで、そのためにキャリー ── キャリード・インタレストの略。ファンドが一定以上の利益を出したときに、運営者が受け取る成功報酬のことという成功報酬の仕組みがあります。
一方で、ファンド運営のための管理費用もあり、通常は毎年2%ほどです。10年間続けば20%になり、リターンがゼロでもその分は取られることになります。
宮武さんはこれを悪く言えば、ファンドサイズを大きくするだけで、大きなリターンを出さなくてもVCが儲かってしまう構造だと話します。LPが直接スタートアップに投資すれば起きない問題で、ミドルマンとしての管理者がどこまで良いのかはもっと議論されるべきだといいます。
ただし宮武さんは、VCが必ずしも悪いわけではないとも強調します。誰もが創業者になれるわけではなく、創業者が亡くなったり、スケールするスキルを持っていなかったり、それを望まなかったりする場合もあるからです。
MBAとコンサル出身者が経営層に並ぶ理由
宮武さんが大事だと考えるのは、誰が実際に会社を運営しているのかを理解することです。取締役やマネージャー層ができると、その人たちは自分のポジションを守りたくなり、管理者層そのものが1つのシステムになります。
その結果、社内政治やレポートラインが生まれ、場合によっては自分たちを守るための教育システムまで作られます。宮武さんはその延長線上にMBAがあると話しますが、MBAやビジネススクールが良い理由で作られた面もあると断っています。
日本でもアメリカでも、上場企業の経営層やVCのGPの経歴を見ると、MBA、コンサル出身、投資銀行などのファイナンス出身と、だいたい似通っていると宮武さんは指摘します。
管理者層ができる
取締役やマネージャー層が会社を事実上運営する
ポジションを守りたくなる
社内政治やレポートラインが生まれる
教育システムができる
ビジネススクールなどを通じて、同じ経歴の人が管理者になる道が作られる
管理者が問われなくなる
社会全体が、管理者がどこまで必要なのかを疑わなくなる
草野さんが「多様性がないことが問題なのか」と聞くと、宮武さんは、問題はそれ以前に「管理者がどこまで必要なのか」という問いが社会でされないことだと答えます。
管理者のインセンティブは元のオーナーとは違い、短期的な利益に向きがちで、給料のために動くケースもあります。それでも長期的な価値を問われないのは、自分たちを守るシステムを作っているからだと宮武さんは考えています。
でもなんか、経営者の中で、なんか多くが似たような経歴を持ってるっていうのって、本来であればおかしい話だと思うんですよ。
宮武さんは、上場企業の経営層には元弁護士などはいても高卒はほとんどいないと話します。草野さんがスティーブ・ジョブズを挙げると、宮武さんは例外はいるとしたうえで、創業者は例外になるはずで、平均的な上場企業の上層部にはいないと続けます。
草野さんは、知り合いや大学の友人を採用してネットワーク的に似た人が増える現象も関係しているのかと尋ねます。宮武さんは、それもシステムが自らを守ろうとする表れだと答え、学校が作られる理由にも同じ管理者を生み出す意味合いがあるのではないかと話します。
同じ考えの人が増えると、新しいことができなくなる
宮武さんは、管理者型の企業は組織を大きくすることにはとても長けていると認めます。難しいのは、新しいことがやりにくくなる点です。
同じような考えの人が増えると、今の組織編成を変えずに大きくする方法ばかりを考えるようになります。宮武さんは、だからこそイノベーションのジレンマ ── 経営学者クレイトン・クリステンセンが示した概念。優良企業が既存事業を伸ばすことに合理的に集中するあまり、新しい技術や市場への対応が遅れてしまう現象が起きると話します。
草野さんは、自分と似ていない優秀な人をどう測ればいいのかと疑問を投げかけます。学歴がすべてではなく、よく知っている人が優秀とも限らず、さらにその人に物事を動かすほどの権限を持たせるのはとても難しそうだといいます。
基本的には、その管理者層の人たちとしては、違う人を選ぶインセンティブがゼロなんですよ。
まったく違う人を選べば、自分が登ってきたキャリアと違うことをされ、自分の仕事がなくなるかもしれないからです。草野さんは、変えたくてもバイアスや好みがあるので、どうすればフラットに見られるのかが気になると話します。
宮武さんは、今年の採用に関する回の考え方も役に立つとしつつ、第一歩はそういうことが会社で起きていると理解することだと答えます。特にスケールした会社では、一般的にそうなりがちだといいます。
イーロン・マスクは真似るべきでない「例外」?
管理者社会の真逆にいる例として、宮武さんはイーロン・マスクさんを挙げます。真似るべきだという話ではないと断りつつ、オーナーが自ら会社を運営し、すべてではなくてもめちゃくちゃ深く関わっている点で、まさにファウンダーモードだと話します。Xには取締役会もありません。
草野さんが、取締役会がないことやイーロンさんの振る舞いをどう見ているかと尋ねると、宮武さんは長所と短所の両方があるとしたうえで、こう答えます。
プロコンは、えっと、あるものの、彼に関しては、ある程度もう自由にさせないといけないのかなって思っちゃいますよね。
宮武さんは、イーロンさんと話したことはないと前置きしつつ、アドバイスは聞いてくれるだろうが、判断するのは本人だと話します。だから正式な取締役会という形を取るべきかは、正直わからないといいます。
草野さんが「例外」とまとめると、宮武さんも同意します。そして、例外だからこそ、例外ではない人たちはどうしても管理者に寄りがちになるのが難しいところだと続けます。
宮武さんによると、アメリカの鉄道や街づくりも、上からの指示があったからこそ人々が動いていた面があります。イーロンさんは過激な事例ではあるものの、そういう人がいないと世の中は変わらず、管理者社会が進むほど変えにくくなるので、逆張りする人が必要だと話します。
偉大な起業家は、管理者社会への反動から生まれる?
宮武さんは草野さんに問いを投げます。管理者社会が広がるとイノベーションが生まれにくくなりますが、だからこそイーロンさんのような起業家が生まれるのか、それとも関係ないのか、という問いです。
偉大な起業家を生むには社会が悪化して危機的な状況にならなければいけないのか、それとも無理やりでも作りに行けるのか。草野さんは、作れないのではないか、どちらかといえば反動として生まれるのではないかと答えます。
草野さんは、カウンターカルチャーや反逆の精神が大事だと考えています。その例として、ポール・グレアムの『ハッカーと画家』を挙げ、ハッカーは規則に従わず、それがハッキングの本質でありアメリカの精神だと書かれていることを紹介します。
なんか、まあ、世間が同じ方向を向いている時に、それについて正しくないって言える人がより分かりやすくなるかなって気もするので。
周りが「それ言っちゃっていいの?」「そんなのできるの?」と言うなかで、「できますけど」「だからやりますけど」と淡々と実行していく人がいる、と草野さんは描写します。
宮武さんも基本的に同じ意見で、反逆者は自然に生まれるものだと考えます。ビッグテックが業界を支配する今は、その逆行が生まれやすい環境にあります。
ただし宮武さんは、生まれた反逆者が潰されるスピードもとても速くなっていると指摘します。かつてカトリック教会が地動説を唱えたガリレオを燃やした、と宮武さんはたとえ、そのスピード感が今は格段に速いと話します。
だからこそ、そういう人たちを支援するインフラ、情報、応援が今以上に必要になるかもしれない、と宮武さんは考えています。
草野さんが、トランプさんのようにキャンセルされても立ち上がり、どんどん強くなる人もいるのではと聞くと、宮武さんはそういう人は全然生まれてくると答えます。そのうえで、イーロンさんでさえSpaceXの最初の3回の失敗ではさすがに危なかったはずで、声をかけた人や資金を出した人に救われたのだろうと話します。
宮武さんは、そうした支援者を増やすこと、そして社会として失敗そのものが間違いではないと伝えられるようにすることが必要だと話します。特にメディアは失敗を責めがちだといいます。
ザッカーバーグの「ロックダウン」に見るファウンダーモード
イーロンさんは過激すぎるとして、宮武さんはもう1人の例にマーク・ザッカーバーグさんを挙げます。大手テック企業の上場企業でファウンダーモードを続ける人は少ないなか、元部下たちの話を聞くと、ザッカーバーグさんはファウンダーモードと管理者モードの切り替えがうまいといいます。
ザッカーバーグさんは、会社がスケールした今はすべてに関われないので、ベースは管理者モードです。しかし時々、バーナムのいうブルジョアジー資本主義のモード、ベン・ホロウィッツ ── アンドリーセン・ホロウィッツの共同創業者。著書でCEOを、平時に組織を整える「ピースタイムCEO」と、危機に陥った会社を率いる「ウォータイムCEO」に分けて論じましたのいう戦時のモードに入ります。
一方のイーロンさんは常にファウンダーモードで、草野さんの言葉を借りれば「フルタイムのウォータイムCEO」です。宮武さんは、それも1つのやり方としつつ、ザッカーバーグさんはどちらもできる人だと見ています。
その代表例が、Google+が登場したときの対応です。Google+はGoogleの製品だったので、多くの人が登録して使い始めました。ザッカーバーグさんは、ディストリビューション力を持つGoogleの参入を「これはやばい」と捉えます。
そこでザッカーバーグさんが行ったのが、本人が「ロックダウン」と呼ぶ施策です。Facebookの歴史のなかで何度も行われてきたもので、宮武さんはこれがザッカーバーグさんのファウンダーモードだと説明します。
昔のオフィスでは、ザッカーバーグさんの部屋の外に「ロックダウン」という文字があり、赤く光るとオンの状態でした。草野さんは、ライトを作って設置したやりとりを想像すると面白いと笑います。
宮武さんが特にすごいと感じるのは、ロックダウンから抜ける条件まで明確に定義していた点です。こうした判断は、オーナーであり運営もしている創業者だからこそできるといいます。管理者モードであれば、どちらかといえば自分のポジションを守りに行くからです。
管理者が株主に売っているのは「安定」
宮武さんはここでバーナムの議論をまとめます。マルクスのいう2つの階級に加えて、企業や国がスケールする中で管理者という3つ目の層ができ、その層が支配権を持つ社会へ自然に進化する、というのが仮説です。
草野さんは、ミドルマンは淘汰されつつある流れではないかと問いかけます。宮武さんは、それは特定の分野だけで、社会全体はそうなっていないと答え、管理者社会が行き過ぎたからこそDtoCのような直接のやりとりが重視され始めたのかもしれないと話します。
草野さんが「管理してほしい人もいるということか」と聞くと、宮武さんは、たとえばG社に10万円だけ投資した株主なら、自分の不安や声を代表してくれる管理者を欲しがるはずだと答えます。
いや、なんか創業者だと、イーロンみたいな、なんかやんちゃでなんかやばい人がいますみたいな。いや、うちらはそうではないですと。なんかもっとプロですよって。
イーロンもプロですよ。
もちろんですよ。これは管理者側が言うにはですよ。
宮武さんは、それが必ずしも間違いではないと補足します。株主の多くは管理者社会の中で動いているので、ある程度の安定性を求めています。
問題は、イーロンさんのような安定的ではない、少しカオスな人たちをどこまで世の中に解き放つべきかです。VCはそういう人に投資したがりますが、上場して大きくなるとその形態は保ちにくくなる、という社会構造があると宮武さんは話します。
ニーチェが見た、キリスト教の道徳とペイガニズムの対立
ここからようやくニーチェの話に入ります。宮武さんによると、ニーチェはバーナムよりずっと前に、似た構造に気づいていました。
ニーチェは西洋の考え方を、キリスト教的な考えと、古代ローマやギリシャのペイガニズム ── キリスト教から見た「異教」の総称。ここでは古代ギリシャ・ローマの多神教的な信仰や価値観を指していますの2つに分け、最終的にキリスト教の文化が勝ったと主張しています。
キリスト教は優しさや柔和さを説き、柔和な者が最終的に地を継ぐという教えを持ちます。一方、ペイガニズムにはゼウス、アテナ、ニケ、アレスといった強い神々がいて、キリスト教から見ると道徳に反する神々に映ります。
宮武さんは、ギリシャ神話の神々は嫉妬したり戦い合ったりと「全然大人じゃない」と話します。草野さんも、アキレウスの弱点のエピソードを初めて読んだときに「そんなことなんかい」と思ったと応じます。
反対にペイガニズムの側から見ると、キリスト教の神は無能に見えてしまう、と宮武さんは説明します。宮武さん自身がそう思っているわけではないと断ったうえでのたとえです。
「え、キリストのスーパーパワーってパンを倍増することですか?」みたいな。
キリストの奇跡とされる、5つのパンと2匹の魚を大勢に配った話や、水をワインに変えた話も、ゼウスのような神々を見てきた人からはそう見えるだろう、という説明です。
ニーチェは、共産主義、社会主義、フェミニズム、動物保護や環境のアクティビズム、さらには無神論や科学まで、キリスト教の道徳の上で動いていると考えました。人々がそれを自覚せずに動いていることを、ニーチェは間違っているとみなしています。
善から始まる君主道徳、悪から始まる奴隷道徳
宮武さんは、キリスト教の道徳が広まった理由の1つに、善と悪の定義の違いがあると説明します。ニーチェが調べたところでは、ペイガニズムの「善」は立派、貴族、高潔、特権といった言葉と結びつき、「悪」は普通、シンプル、一般といった言葉と結びついていました。
君主道徳、つまりペイガニズムの道徳は、「私は強い、私はいい人だ」という自己肯定から始まります。悪とは、自分が持っている要素を持たないことだ、という順番です。
奴隷道徳はその逆で、まず悪から定義します。君主が持っているものを悪とし、ニーチェによれば、それは羨ましさや嫉妬、怒りから君主の美徳を悪徳に変えているのだといいます。
| 君主道徳での呼び方 | 奴隷道徳での呼び方 |
|---|---|
| 野心 | 強欲 |
| 食欲 | 過食 |
| 性的能力 | 性欲 |
| 自信 | プライド |
| 強さ | 怒り |
奴隷道徳の善は、君主が持つものの逆として決まります。君主が強く断定的なら、もう一方の頬を差し出すことが善になり、お金や特権を持つ者は天国に入りにくいとされます。悪だけを定義し、善はその真逆にすぎない、というのがニーチェの見方です。
草野さんが「パワーを持つ者へのルサンチマン ── 強者への恨みや嫉妬が積み重なった感情を指すフランス語。ニーチェが奴隷道徳の根にあるものとして論じた中心的な概念ですのようなものか」と尋ねると、宮武さんはそうだと答え、あくまでニーチェの主張であって二人がそう言っているわけではないと念を押します。
ノーと言う道徳、イエスと言う道徳
宮武さんによると、奴隷道徳を持つ人は、拒絶が本能的にあるので「ノー」と言いやすいといいます。君主に対しても、それ以外に対しても「こういうことはやってはいけません」と言いがちです。
逆に君主道徳を持つ人は「イエス」と言いやすく、新しいことや違うこと、より危険なことにも「やってみよう」と飛び込みます。
「私は強い」という自己肯定から始まる。新しいことや危険なことに「イエス」と言いやすい
君主が持つものを悪と定義するところから始まる。拒絶が本能的にあり「ノー」と言いやすい
君主道徳のわかりやすい代表として、宮武さんはアメリカの高校のジョックを挙げます。海外ドラマによく出てくる、アメフト部の人気者で、スクールカーストのトップにいるような人たちです。危険なことやスポーツや飲酒を好み、怒っているからではなく面白いからいじめる、という像です。
一方、奴隷道徳の根には被害者という視点があります。古代ローマやギリシャの物語の主人公は、弱点を持ちながらも何千人も倒せるアキレウス、オデュッセウス、ゼウスのような強い存在です。
キリスト教では、キリスト自身が大工の家に生まれた地位の低い人物で、聖書のクライマックスは処刑の場面です。
古代ローマとか古代ギリシャの話って、勝者が勝者について勝者のために書いた話なんですよ。
ニーチェの捉え方では、キリスト教は逆に、被害者が被害者について被害者のために書いた本です。だからこそ、弱さや純潔さ、貧しさを強調します。
宮武さんは、今のアメリカ社会にもその影響が見えると話します。自己紹介で、移民として、アジア人として、と自分がどのように被害を受けてきたかを無意識に語る人がいて、それはニーチェから見れば1つのパワープレイだといいます。
対照的に、アキレウスは「ペレウスの息子のアキレウスだ」と先祖から名乗ります。そこに被害者意識はまったくない、と宮武さんは対比します。草野さんは、宮武さんが「ニーチェからすると」を繰り返すのを「免責的に使わないでください」と笑いながら突っ込みます。
司祭は人々の残酷さを自分自身に向けさせる
バーナムの議論に管理者という第3の層があったように、ニーチェの議論にも第3の存在がいます。それが司祭、英語でいうpriestです。
奴隷が人数で100対1と上回っていても、集まって君主を覆すのはまれで、そこにはリーダーが必要です。ニーチェによれば司祭は、心や魂が病的でネガティブでありながら、とても知的で、権力への意志が強い人たちです。宮武さんは、今それに最も近いのが管理者だと見ています。
司祭が広めたのが禁欲主義です。食べ物、水、睡眠など自分を満たすものを捨て、エゴを抑えることで、社会的地位などが得られるという考え方です。宮武さんは、お金持ちの寄付のように、欲がないことがよく見える現象にも通じると話します。
ニーチェは、人はそもそも残酷なことをしたいと思っていると考えます。かつてはコロセウムや処刑見物のように暴力が娯楽になっていて、今はビデオゲームや映画で発散していますが、それだけでは足りません。
そこで残酷さの矛先が自分自身に向かい、それをうまく誘導するのが司祭だ、とニーチェは主張します。宮武さんは、心の中の否定的な声を例に挙げます。
なぜ「お前」っていう言葉を使ってるっていう、別にお前でも君でもあなたでもいいんですけど、なぜ自分って言わないのか。
「お前は太っている」「お前はだらしない」のように、人は自分の話なのに二人称で自分を責めます。ニーチェから見ると、それは残酷さを向ける対象が必要だからです。宮武さんは、ジラール ── フランス出身の思想家ルネ・ジラール。人は他者の欲望を模倣するという「模倣の欲望」や、共同体の暴力をスケープゴートに向ける構造を論じましたも似たことを言っていて、ある意味正しい部分もあると話します。
ニーチェによれば、アダムとイブの原罪はバグではなく機能でした。人々は人生に意味を求め、痛みや苦しみを通して意味を見つけたがります。世界の五大宗教に苦しみや罪の話が出てくるのも、この道徳の中で生まれたからであり、それを広めることで司祭は奴隷を支配できるようになる、という見方です。
司祭と管理者は同じ論理で権力を握る
宮武さんは、ニーチェの司祭とバーナムの管理者を重ね合わせます。管理者は、イーロン・マスクさんのような人の強欲さが会社を悪い方向へ導くと語り、他の株主に「我々に任せてください、我々はそういう欲を持っていません」と訴えます。
草野さんが「権力を持ちすぎているし、私たちはそうなれない、ということか」と聞くと、宮武さんは、そうなれないことをうまく見せないのがポイントだと答えます。
| 観点 | ニーチェの司祭 | バーナムの管理者 |
|---|---|---|
| 立ち位置 | 君主と奴隷のあいだの第3の存在 | ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの第3の層 |
| 批判する相手 | 君主の強さや欲 | イーロン・マスクのような創業者の強欲さ |
| 自らの見せ方 | 禁欲で、欲がない存在 | 欲を持たず、会社のために動くプロ |
| 地位を守る仕組み | 宗教や教会 | ビジネススクールやコンサルなど |
草野さんは、映画『マトリックス』を引き合いに、社会というシステムが敵であり、そこに順応するとシステムに従わなければならなくなる、という構図は、ある意味で管理者社会なのかもしれないと話します。
なぜ今この話を?年末テーマへのセットアップ
宮武さんは、今回の話は特に難しく、ちゃんと説明できたか不安だと振り返ります。そのうえで、今年の夏に本を読んでから話したかったテーマを今取り上げたのは、次回から始まる恒例の年末テーマにすべてつながる、いいセットアップだからだと明かします。
こういう世の中だからこそ、何を知り、どう行動するべきかにつなげたい、というのが宮武さんの狙いです。2冊とも読んでほしいとしつつ、ニーチェの本は難しいので、グループでディスカッションしながら読むのがいいと勧めています。
草野さんは、日本では2019年や2020年ごろに、ニーチェ、ピーター・ティール、加速主義といった話題の本が出ていた印象があり、なぜ今あらためて注目するのかが気になったと話します。
宮武さんは、1940年ぐらいに書かれた80年以上前の本が、今もそのまま当てはまることに驚きを語ります。人間は根本的に似たところにたどり着くのだと感じたそうです。
でも、変えられると思うから大事だと思うんですよ。
草野さんは、ニーチェがアメリカの哲学者からインスピレーションを受けていたと本で読んだと話し、その名としてラルフ・ウォルド・エマソンを挙げます。宮武さんも、エマソンはすごい人だと応じます。続きは年末テーマの回で、という形でエピソードは締めくくられます。
まとめ
この回は、バーナムの管理者社会論を入り口にして、ニーチェの奴隷道徳と君主道徳を、スタートアップや大企業の構造に引き寄せて読み解いた内容でした。オーナーではない管理者が「安定」を売りに権力を持つ構図と、司祭が禁欲を説いて人々を導く構図が重なり、だからこそ創業者モードを持つ人を支える必要がある、という問題提起につながっています。
- バーナムは、ファシズム・共産主義・民主主義がいずれもオーナーではない管理者が支配する社会に向かうと考えた
- 管理者は短期的なインセンティブで動きやすく、似た経歴の人を再生産することで、自らの必要性を問われにくくする
- ザッカーバーグのロックダウンのように、創業者だからこそ会社を一時的にまるごと方向転換させられる
- ニーチェは、強者の美徳を悪徳と呼び替える奴隷道徳と、それを広める司祭の存在を指摘した
- 反逆的な起業家は自然に生まれる一方で潰されるスピードも速く、支援する人や仕組みが必要だと宮武さんは考えている





