暴露と秘密の告白は違う
この回は缶ビールを飲みながら、話すことを決めずに始まったライブ配信です。
F.S.Tラジオは振り返りをするためのラジオですが、日々のインプットの振り返りは他の媒体で済ませてしまっているとのことでした。
そこで拾いきれていない話題として、まず「暴露と秘密の告白の違い」に気づいたという話が語られます。
「秘密の告白」というのは、松浦弥太郎さんのエッセイ集『エッセイストのように生きる』で論じられている考え方だそうです。
その本では、エッセイにおける秘密とは「自分が発見したものやことに隠されている本質」であり、他人から借りた感性ではなく自分の内側から生まれた言葉だと書かれていました。
つまり真実ではなく、この世の本質。「きっとこれはこうだ」と自分で発見したもののことです。
ここで対比されるのが日記です。日記は「今日はこんなところに行った」「こんなことがあった」と、起きたことを書くものだと整理されます。
一見すると、日記も自分しか体験していないことなので秘密の告白に思えます。けれど実はこれは違うと話されています。
「みんなに言ってないことを今言ったよ」というのは、ただの暴露にすぎないというのです。
「昨日こんなことがありました」とか、「幼少期こんなことがありました」とか、そういうことは全部暴露であって、鍵括弧でつく「秘密の告白」というのは暴露じゃなくて、自分が発見した本質なんですね。
この違いは、頭ではわかっても実感しにくかったそうです。実際にエッセイを4、5本書いても、どうしても暴露になってしまっていたと振り返ります。
転機は、初恋の記憶を書いたときに訪れました。
初恋を書いていて気づいたこと
初恋の記憶を書くこと自体は、Ryotaroさんの言葉を借りればすべて暴露です。けれど書いている途中で、あることに気づいたと話します。
初恋の人を思い出すときの気持ちが、すでに亡くなった人を思い出すときの気持ちと似ている、という発見でした。
初恋の人を思い出すのは、死んだ人のことを思い出すのと似てるみたいなのって、見たことも聞いたこともなくて。もしかしたら誰かが言ってるのかもしれないけど、僕は知らないんですよね。
この、自分だけが本質に気づいてしまった感覚が大事だと語られます。胸の内に秘めておけば秘密であり、それを世間に公開したことで初めて「秘密の告白」になるというわけです。
この気づきによって、エッセイがぐっと書きやすくなったそうです。まず暴露を書き、そこから秘密の告白へ展開する形で最近は書いているとのことでした。
ただ課題もあると話します。暴露パートを書いているうちに力尽きてしまい、肝心の秘密の告白がさらっと4、5行で終わってしまうそうです。
暴露は起こったことを書くだけなので書きやすい。だからこそ、秘密の告白の部分をもっと分厚くしたいと考えていると語られました。
起きた出来事や過去の記憶、言えなかった気持ちなど、みんなに言っていなかったことを言うこと。書きやすい。
自分が発見した、この世の本質。他人の借り物ではない自分の言葉。それを公開して初めて成立する。
現代にあふれる「ドン・キホーテ」
続いての話題は、オーディブルで聞いているという『ドン・キホーテ』です。
哲学者の下西風澄さん{要確認: 下西風澄}の講義でこの作品が紹介され、「ドン・キホーテは元祖ドパガキだ」という話が語られていたそうです。
ドパガキが何かはよくわからないとしつつ、刺激の強いショートコンテンツばかり見て、もっと強い刺激でないと満足できなくなった人たちのことではないか、と推測されています。
『ドン・キホーテ』の主人公は騎士道物語を読みすぎて、世の中のあらゆることが物語の世界観に見えてしまう男です。風車を巨人だと思い込む場面が有名だと紹介されます。
Ryotaroさんは、現代にもドン・キホーテはたくさんいると感じたそうです。
わかりやすい例が陰謀論者で、三角形や片目を見ればイルミナティに見えてしまう。何もかもがそう見えてしまうというわけです。
さらに身近な例として、日本人は青い服を着た女性を見るとナウシカに見えがちだ、という話が挙げられます。
青い衣を着て、何かに立ち向かってる人のことをナウシカって言っちゃいがちだよねっていう。もう頭の中がそういう物語で占められてしまっているなっていう感じはしますけどね。
しんちゃんは腰にタオルを巻かないだろう
次に語られたのは、映画館で観てきたというクレヨンしんちゃんへの違和感です。
最近のクレヨンしんちゃんはお上品になり、下半身を露出しなくなったと話します。「ぞうさん」も、ズボンを下ろすのではなく、前かがみで腕をお尻から出す形に変わっているそうです。
問題だと感じたのは、映画のお風呂のシーンでした。男湯でしんちゃんが何かを決意する場面で、洗い場でタオルを腰に巻いていたのです。
ズボンを下ろさないのはまだいい。けれど、湯船から出てきた五歳児が自分から腰にタオルを巻くだろうか、という指摘です。
コンプライアンス上出せないなら、湯気で隠したり、キャラクターの頭や風呂桶でうまく隠すべきだったと話します。
ここで引き合いに出されるのが『エヴァンゲリオン』の演出です。風呂上がりのシンジが缶ビールで隠れていて、ミサトがそれを取ると「見えちゃうじゃないか」と思わせて、実はもう一本ある、という「偶発的に隠れた」演出のほうがよいというのです。
つまり、時代の流れで隠すこと自体は理解できるけれど、しんちゃんが自分の意思で隠すという能動性は、キャラクターとして守るべきだったという主張でした。
教育にいいアニメとしてのしんちゃん
この違和感の背景には、Ryotaroさんが実はクレヨンしんちゃんを教育上おすすめしているという事情があります。
理由の一つは、チートが出てこないことです。高いところに登るときも、大人用の椅子をよいしょと動かしてよじ登る。「一の型」もウィンガーディアム・レヴィオーサもなく、フィジカルで問題を解決していくといいます。
もう一つは、しんちゃんから見える世界が子供の視点で描かれ、すべてが大きく見える描写など、子供が感情移入しやすい点だと語られます。
だからこそ、せっかくの持ち味を出さないのはピンチだと感じ、96年発売のテレビアニメ絵本のしんちゃんを4冊ほどネットで購入したそうです。古き良きしんちゃんを子供と読もうと考えているとのことでした。
専業主夫になるかもしれない不安
後半では、来年4月から専業主夫化するかもしれないという話が語られます。
妻が育休明けで仕事に復帰し、来年、息子が年中と満三歳の年齢になるため、二人を幼稚園に通わせ、Ryotaroさんがバスの送り迎えをするのがよいと考えているそうです。
オンラインでできる仕事だけを残す形で、自分の収入は減るものの、妻の復帰で世帯収入は上がるという見立てでした。
そうしていると頭が主婦脳になってきて、料理の調味料リストなどに反応してしまうと話します。
ここから、家事をしない男性への一つの見方が語られます。
家事をしようという頭になっていないから、そもそもインプットの段階で情報が入ってこない。だから期待してもやらないのではないか、というのがRyotaroさんの見立てです。
この構造を、スマホのOSとアプリに例えて整理していきます。
家事は「OSは更新されてもアプリが入っていない」
家事の不安は、仕事の不安とは質が違うと語られます。
仕事は鬼ごっこのようなもので、鐘が鳴れば終わり、また明日という区切りがあります。一方で家事は砂場遊びに近いといいます。
家事はプロジェクトではなく現状維持への不安であり、全方面が不確実性だと表現されます。8時に息子を送り、14時半のお迎えまでに昼食、買い出し、掃除、洗濯をこなす。
そこに「熱が出たので迎えに来てくれますか」という差し込みが入ると、一日の計画が崩壊してしまう。そうしたミクロな不安があると話します。
さらにマクロには、自分が家にいていいのか、家庭を守れるのかという不安もあります。加えて、家事はプラスを生む仕事ではないため報酬がなく、メンタルが脆弱になりやすいと語られました。
プラスを生む仕事をしていない自分というものって、報酬がないんですよね。だから、とてもメンタル的に脆弱になると思うんですよ。
一日を乗り切れるかというショートタイムスパンの不安と、一年やっていけるかというロングタイムスパンの不安が同時にあり、しかもうまくいってもプラスを生んでいない。そのパッケージをメンタルを維持しながらこなせるか、という不安だと整理されます。
リスナーからの反応を受けて、家事の面白さも語られます。おもちゃの片付けは、片付けても出されるので徒労だけれど、リセットする尊い行為でもある。だからこそ妻が帰ってきてから、褒められながらやりたいというのです。
そのうえで、家事をやろうと思っていない男性に家事を期待しても意味がないのでは、という話に戻ります。ワコールに行っても何を見ていいかわからない男性の例えを挙げ、リテラシーがない人に実行を求めても難しいと語られました。
ここで、思考のOSではなくアプリだ、という気づきが語られます。
夫婦で子供が大きくなり、送迎が必要になり、妻も復帰するという環境の変化でOSはアップデートされていく。男性はそれで自分もできると思い込んでいるけれど、家事アプリがインストールされていないから実行できない、という整理です。
鐘が鳴れば終わり、また明日という区切りがあるプロジェクト型の不安。
終わりがなく現状維持が目的。全方面が不確実で、うまくいってもプラスを生まない。
Ryotaroさん自身は、中学生の頃から家事をしてきたと話します。共働きの両親のもと、台所に立つ父を見て育ち、妹の焼きそばを作り、大学生の頃には自分専用の洗濯籠で洗濯を回していたそうです。
妹の保育園の送り迎えもママチャリでこなし、そのママチャリが「亮太郎がいる」という目印になっていたといいます。だからこそ、そうした経験がない人の思考がわからないのだと語られました。
ただし、同じ家事でも立場によって色が違うとも話します。子供の頃のヤングケアラー的な役割、一人暮らし、夫婦で半分こ、育休中の妻の補助はメンタリティが近い。けれど、ほぼ自分でやるかもしれないというプレッシャーだけは、まったく別物だと感じているそうです。
まとめ
缶ビール片手のノープラン回でしたが、エッセイにおける暴露と秘密の告白の違い、クレヨンしんちゃんへの違和感、そして専業主夫になるかもしれない不安と、それぞれに具体的な考察が語られました。特に家事を「OSは更新されてもアプリが入っていない」と捉える視点は、家事分担をめぐる話に一つの見方を示しています。
- 日記は暴露、自分が発見した本質を公開してこそ秘密の告白になると整理された
- 現代には、何もかもを自分の物語に当てはめてしまう「ドン・キホーテ」が多いと指摘された
- しんちゃんが自ら腰にタオルを巻く演出には、キャラクターの能動性を損なう違和感があると語られた
- 家事は現状維持への不安であり、仕事とは質の異なるショートとロング両方のプレッシャーがあると話された
- 家事をしない男性は「OSは更新されてもアプリが入っていない」状態で、期待しても難しいという見立てが語られた
