奈良から東京へ、そして美大中退
番組の急なゲスト回として、nonnativeのディレクター藤井隆行さんが登場します。小畑翔悟さんは自らファンだと明かし、藤井さんの人物像がわかるように、話は幼少期からたどられていきます。
藤井さんの生まれは奈良です。小学校2年生のときに転勤で大分県の中津に引っ越し、中学1年までそこで過ごしました。その後また奈良に戻り、18歳で大学入学のために上京します。
入学したのは武蔵野美術大学でした。ただ、大学生活のなかで洋服や遊びに夢中になり、学校にはあまり行かなくなっていったと話されています。
藤井さんが通っていたのは、今でいう空間演出デザイン学部にあたるファッション系のクラスでした。ただモード系の授業が中心で、自分の関心とは合わず、勉強が頭に入ってこなかったと振り返ります。
本当は文化服装学院に行きたかったものの、専門学校ではダメだと親に反対されたそうです。武蔵野美術大学に入れたのは、東京の大学へ行きたい一心で受験に臨んだ結果でした。
東京の大学しか受けなかったんですよ。みんな関西も受けるんですけど、東京行きたいだけだったから。むしろ浪人してもいいぐらいで、東京の大学に行ければよかったんで。それぐらい浅はかに入っちゃったんで。
国分寺の古着屋で目覚めた洋服への熱
上京後、藤井さんは国分寺の古着屋兼セレクトショップでアルバイトを始めます。そこにいたのが、後の「時知らず」に関わる人物や、BEAMSの入江さんら、のちに業界で活躍する面々でした。
店ではレッドウィングやビルケンシュトック、エアマックスなどを扱っていたそうです。18歳、19歳の頃、藤井さんは遊びとバイトにすっかり目覚めていきました。
大学3年生の頃には、洋服屋になりたい、留学したいという思いから、学校を辞めることを考え始めます。ただ、奈良の実家の親は厳しく、留学も古着屋も認めてくれませんでした。
「俺ここ入るから」BEAMS JAPANへ飛び込む
中退を決めた藤井さんが選んだのは、建設中だったBEAMS JAPANでした。当時、父親が単身赴任で新宿の本社近くにいたことから、藤井さんは父を呼び出して宣言します。
BEAMS JAPANが建設中の時に、俺ここ入るからつって。(大学を)辞めていいかっつって。
親を説得できたのは、BEAMSがきちんとした大きな会社だったからでした。古着屋ではダメだと言う親も、これならと納得したのです。こうして藤井さんは大学を中退し、新宿店地下1階のオープニングスタッフとしてアルバイトで入ります。
当時、藤井さんは何も考えていなかったと語ります。高校時代は裏原ブームで、店員そのものが憧れの職業でした。デザイナーというより、雑誌の表紙になるような店員に惹かれていたと話されています。
その時(は)デザイナーさんっていうよりは、店員さんがとにかくもう憧れの職業。表紙になったりとかあるじゃないですか。だからあんま考えずなかったですね。
雑誌に載る20歳、自由すぎたBEAMS時代
BEAMSに入った20歳前後の頃、藤井さんは雑誌の取材やスナップで1ページを飾るようになります。種市さんが後から新宿店に配属された際、社員よりもアルバイトのほうが目立っていたと振り返ります。
当時の様子はかなり自由でした。店に売っていないものを着ていたり、昼夜問わず靴を買いに抜け出したり、合わせが気に入らないからと出勤しないこともあったといいます。
今日合わせが気に入らなかったから来ないみたいな。いやいやいや、(それは)遅刻じゃないですか。もうめちゃくちゃだったよ。
新宿店には、後に有名なスタイリストになった人や、SSZの加藤さん、元博報堂の皆川さんら、のちに業界を担う人々が客としても集まっていました。ネットがなく、雑誌のスナップが情報源だった時代の熱量です。
華やかに見えたBEAMS時代ですが、藤井さんが在籍したのは実は1年半ほどでした。人員削減の話が出た際、藤井さんは早い段階で自ら店を出ることを申し出たといいます。
まあ割とスター選手でアルバイトもたくさんいたの。だけど多分最初の方に、あ、俺じゃあ出ますって言って。俺それ聞いて、あ、こいつなかなか胆力あるなって。
1000人が応募したSILASへ、そしてnonnativeの始まり
次の当てがないまま、藤井さんは求人誌「トラバーユ」で見つけたSILASの募集に応募します。応募者は約1000人、採用枠は10人という狭き門でした。
うち2人はすでに内定が決まっているという噂もあり、実質的にはさらに厳しい競争でした。それでも藤井さんは、BEAMS出身であることや雑誌での露出も後押しとなり、社員として入社します。
SILASに1年ほど在籍した2001年、その事務所の上にあったのがnonnativeのオフィスでした。創設者は当時トップモデルだったサトシさん。友達の友達という縁でつながり、Tシャツしか作っていなかったブランドで、藤井さんが服づくりに関わることになります。
ブランド名「nonnative」は、ハーフであるサトシさんの「ネイティブではない」という意味に由来すると藤井さんは語ります。無所属というイメージともどこか通じる名前です。
2001年の初出張はロサンゼルスでしたが、その日がちょうど9.11でした。すべての便が止まるなか、英語が話せるサトシさんの助けもあり、藤井さんは比較的早く帰国できたと振り返ります。
お直しへの偏愛が生んだ、美しいシルエット
藤井さんは店員時代から、ただ売るだけでなく企画も出していました。BEAMSでは、こういうチノパンを作ったほうがいいのではないかと絵を描いて提案していたそうです。採用されることはなかったといいます。
さらに藤井さんが没頭していたのが「お直し」でした。当時のアメリカ製の服は日本人の体に合わず、裾が太く長かったため、それをバラして全部細く縫い直していたのです。
たとえばアメリカ製のグラミチのパンツは、切ると裾がとても太くなります。それを解体して細くする作業を続けていました。この手仕事が、そのまま今のnonnativeのシルエットにつながっていると話されています。
(アメリカ製のパンツは)長くて、切っちゃうと裾めっちゃ太いんですよ。それをバラして全部細くするんですよ。だからその時にやってたのが、今の(nonnativeで作ってる)形と一緒です。
藤井さんは自身の小柄というコンプレックスから、市販のインポート服がどうしても合わないという不満を感じていました。だからこそ、自分の理想のシルエットへの意識がすっと入ってきたのだと語ります。
これまで自分が買い集めてきた服が、そのまま理想の設計図になっていました。積み重ねてきたこだわりが、サトシさんとのブランドで一気に具現化したのです。
初展示会で流した涙と、2年越しの手応え
とはいえ、ブランドは最初から順調だったわけではありません。サンプルは3色展開でも1色しか作れず、資金面でも苦しい時期が続きました。
最初の展示会の後、藤井さんは泣いていたといいます。来場者の多くはサトシさんの友人やモデル仲間で、服そのものを見てくれる人が少なかったからです。
サンプルも3色展開だけど1色しか作れないけど、みんないっぱい来てくれるんですけど、(それは)サトシの友達。誰も服見てくれなくて、その時。
それでも、BEAMS時代の縁から仕立てのオーダーをくれる人もいました。地道にできることを積み重ねながら、藤井さんは前に進んでいきます。
アパレルは資金の回収に半年以上かかる商売です。最初にまとまったお金がかかり、サンプルを全色作れるようになったことが、軌道に乗った実感につながったと語ります。
転機となったのは2年ほど経った頃でした。松田奈緒希さんら人気スタイリストが服を借りてくれるようになり、メンズノンノなどの雑誌に取り上げられる機会が増えていきます。雑誌が情報の中心だった時代、その露出が地方の取り扱いにも波及していきました。
当時のnonnativeは、裏原系の中でもセレクト系のような佇まいを持ち、そこが強みになっていたと藤井さんは振り返ります。時知らずでの取り扱いも決まり、点と点がつながっていきました。
当時多く存在し、ノリやカルチャーの色が強い
セレクト系のような佇まいを持ち、そこが差別化の強みになった
まとめ
美大中退からBEAMS、SILAS、そしてnonnativeへ。藤井隆行さんの歩みは、洋服への純粋な熱量と、自分の体に合わないものを直し続けた「お直し」への偏愛が、そのままブランドの核になっていった物語でした。
- 奈良から上京し武蔵野美術大学に入るも、国分寺の古着屋で洋服とバイトに目覚め中退した
- 建設中のBEAMS JAPANの前で「俺ここ入るから」と親に宣言し、アルバイトで飛び込んだ
- 1000人が応募したSILASを経て、モデルのサトシさんとnonnativeを立ち上げた
- アメリカ製の服をバラして細く直す「お直し」の手仕事が、今の美しいシルエットにつながっている
- 最初の展示会では悔し涙を流し、雑誌露出をきっかけに約2年で軌道に乗せた
