茨城・日立のフィジカル少年、サッカーを始める
鈴木さんは茨城県日立市の出身です。18歳で高校を卒業するまで、そこで育ちました。
サッカーを本格的に始めたのは小学3年生のとき。当時は幼稚園からサッカーを始めるようなチームはなく、地元の小学校の少年団に入ったのが最初でした。
この世代では、まだ野球のほうが人気があったといいます。テレビで巨人戦がたくさん中継されていた時代でした。
むしろ小さい時は野球の試合のほうを見てましたもん。巨人ファンで、中継が九時何分かで終わっちゃうと、そのあとラジオで聞いてましたもん。
野球は「見るのが好き」で、実際にプレーした経験はほとんどなかったそうです。
中学に上がる頃までは身長160cmに届いていませんでした。ところが中学2年で一気に伸び、178cmから180cm近くに。地元のレベルでは、フィジカルだけで何でもできてしまう選手になっていきます。
フィジカルでゴリゴリやってる感じで、対戦相手のチームのやつをよく流してましたね。試合の中になるとラフプレー多かったですね。
聞き手の種市さんが抱いていた「寡黙でストイック」というイメージとは、少し違ったようです。むしろ学生時代のほうが荒れていたと本人は振り返ります。
良い指導者がいない時代の「身体能力で戦う」選手
鈴木さんは、自分の学生時代にはきちんとサッカーを教えられる指導者がほとんどいなかったと話します。
あんまりサッカー自体よく知らなかった、教えてもらえなかったんで。プロでサッカーを教えるみたいな指導者なんてほとんどいなかった。ちゃんと教えられる人材はほぼいなかったと思うんですよ、全国に。
だからこそ、鈴木さんは身体能力を使ってプレーするタイプの選手として育ちました。茨城県内では圧倒的な存在だったといいます。
高校は、父親も出身だった日立市内の強豪・日立工業へ。父親が社会人でサッカーを続けていた影響で、週末に試合についていくうちに、自然とサッカーをやるようになったそうです。
ポジションは基本的にフォワードでしたが、小学生で全国大会に出たときはスイーパーでした。
日立市では、全日本少年サッカー大会に出るときだけ市内の小学校から選抜を組む仕組みでした。その選抜チームで茨城県を勝ち抜き、全国ベスト4まで進んだといいます。
鹿島アントラーズへ、同期はジョルジーニョ
Jリーグにドラフトはなく、オファーが来たチームの中から自分で選んで入団します。鈴木さんは高校1年から国体に絡み、1年生で国体の優秀選手に選ばれたあたりからスカウトの目に留まるようになりました。
そして声をかけてきたのが、当時から最強と呼ばれた鹿島アントラーズでした。
1995年に入団した鈴木さんの同期入団は、ブラジル代表としてワールドカップ優勝を経験したジョルジーニョ。実力差は「天と地」でも、同期なのでタメ口でいい、と笑います。
同期入団ジョルジーニョですかね。あいつ同期なんですよ。バリバリのブンデスリーガでワールドカップ優勝させてましたけど、あいつ同期だからタメ口でいいんですよ。実力はもう天と地の差ありましたけど。
同世代の選手はほとんどおらず、帝京を優勝させて筑波大を2年で辞めた阿部勇樹さんと、ジョルジーニョと鈴木さんの3人がその年に入ったといいます。
当時のアントラーズには、長谷川さん、黒崎さんといった日本代表フォワードに加え、ブラジル代表10番のレオナルド、本田泰人さん、秋田さん、相馬さんらがそろっていました。
ちなみに、鹿島の選手にはサーフィンをする人が多かったそうです。サーフィンで鹿島に通う種市さんが、かつて秋田選手を海辺で見かけた話にも、鈴木さんはうなずいていました。
日本代表の天才たちに感じた「力が欲しい」
小学校から高校まで挫折はなかったのか。そう問われると、鈴木さんは「そんなことない」と即答します。
高校でU18の代表に入ると、同期には中田英寿さん、松田直樹さん、宮本恒靖さん、福西さんら、後にスターとなる選手がそろっていました。
僕の場合はもうサッカー知らなかったんで。彼らはもうサッカーをよく知ってたし、中田ヒデなんて高校になった時にはもう別人でしたね。もうレベルが違う、完全にスターになってました。
中学の選抜では中田選手と同じ関東選抜にいたものの、高校では差が歴然としていたといいます。それでも、その中学の関東選抜から生き残ったのは、鈴木さんと中田選手くらいだったそうです。
当時の記憶で忘れられないのが、広島での合宿でした。
練習終わった後に、もうあまりのショックで空を見上げて、うわぁ力欲しいなって。自分に実力欲しい、力欲しいって。広島の空を見上げて悔しくなって。それいまだに覚えてますもん。
鹿島の練習初日、立っていられないほどの絶望
そして鹿島に入ると、広島で感じた差など「比じゃなかった」といいます。
レベルが違いすぎて、練習に入ることすらできなかったと鈴木さんは振り返ります。
練習場で立ってられないぐらい、くらくらしちゃうんですよ。基本の練習すらついていけないから、もうふわふわしてる感じですよ。全然みんなとリズムが違っちゃうんで、練習に入れないんですよ。
鈴木さんはこの状態を「絶望」という言葉で繰り返し表現します。希望が全くない状態で、それでもサッカーを続けなければならない毎日だったといいます。
もう希望がないんですよ。そんな状態でサッカーを続けなきゃいけないっていう、その地獄が毎日。鹿島入ってからね。
それでも「辞めたい」と思ったことは一度もなかったといいます。光が全く見えない暗闇のトンネルの中で、それでも辞めないというのは、両極端な状態でした。
茨城県内では圧倒的。フィジカルで何でもできる存在だった
鹿島では立っていられないほどの実力差。練習にすら入れない絶望の日々
「辞めない」を支えたプロで成功したいという思い
なぜ絶望の中でも辞めなかったのか。鈴木さんは、プロで成功したいという思いが揺るがなかったからだと語ります。
アントラーズの先輩方がカシマスタジアムとかで活躍してる姿を見て、俺も絶対こうなりたいって入った当初から思うんですよ。それは絶対揺るがない気持ちなんですよ。
当時の鹿島は、スタメンがブラジル代表か日本代表しかいないチームでした。サブの選手も、後に日本代表に入っていく面々だったといいます。1年目、2年目はベンチに入れるレベルですらありませんでした。
だからこそ、鈴木さんに残された道は「練習しかない」ものでした。朝、午後、夜と練習し、休みの日にも自分を追い込みます。
東京へ買い物や食事に出かけることはあっても、気持ちが晴れることはなかったといいます。うまくいっていない現実がある限り、何をしても楽しめなかったと話します。
何やっててもそれがうまくいってなかったら、何やったって楽しくないんですよ。結局それが一番自分の中でやりたいことだから。
同じ練習量では、天才たちを絶対に抜けない。そう考えた鈴木さんは、チームの練習以外にも自分でトレーニングを課しました。
誰も見てない、誰も叱ってくれない、誰も管理しない状況の中で自分を追い込むってすんごい難しいんですよ。でも僕はできるタイプだったと思います。できないやつはみんなクビになってたりとか。
当時は複数年契約ではなく毎年更新でした。この時期になると「クビなんじゃないか」という不安が常につきまとい、気持ちが晴れたことは一度もなかったといいます。
夜寝るのも怖いぐらいです。寝ると次の日の朝、練習に行かなきゃいけない。うまくいかない職場に行くって苦しくないか。でも絶対逃げられないんですよ。
華やかなイメージと現実、そして「見失わない」こと
種市さんは、当時ジュリアナに行くとヴェルディの選手をよく見かけたと振り返り、サッカー選手には華やかで遊んでいるイメージがあったと話します。
それに対して鈴木さんは、遊んでいても試合に出て結果を出している選手はそれでいい、と冷静に応じます。ただし自分は事情が違ったといいます。
試合にも全く絡めず、レベルも到達できない、レベルも違うような人間がそういうことしたら、世の中の決まり事として絶対成功しないじゃないですか。
そういうことをする人間は成功しない。鈴木さんは、その一線を小さい頃から一度も間違えたことがないと言い切ります。効率やロジックより先に、自分の現実を見失わないことがあったのだと感じられます。
まとめ
茨城で圧倒的だった少年は、天才たちとの絶望的な差を毎日突きつけられながらも、辞めることなく黙々と自分を追い込み続けました。第1弾は、その泥臭い没頭の原点までが語られています。
- 茨城県日立市出身の鈴木さんは、中2で身長が伸びフィジカルで圧倒するアマチュア選手だった
- U18代表で中田英寿さんらと出会い、「力が欲しい」と広島の空を見上げるほどの差を痛感した
- 鹿島の練習初日は立っていられないほどの実力差で、毎日が「絶望」だったと語る
- それでもプロで成功したい思いは揺るがず、辞めたいと思ったことは一度もなかった
- 誰も見ていない中で自分を追い込み、遊びに流されず現実を見失わないことを貫いた
