鹿島でクビ寸前、ブラジル留学という賭け
前回、鈴木さんは鹿島アントラーズで試合に出られない「光が見えない絶望」を語っていました。今回はその続きから始まります。
鈴木さんは一年目、二年目とまったく試合に出られませんでした。高卒三年目までは見てくれるチームでしたが、三年目に活躍できなければクビになると薄々わかっていたと言います。
解決方法はなく、ただ練習を頑張るしかない状況でした。そんなシーズンの前後に、ブラジルへの留学の話が舞い込みます。
当時ジーコが、ジーコブラジル代表の元スター選手で、鹿島アントラーズの創設期を支えた人物。鹿島の常勝クラブ化に大きく貢献したとされます。リオデジャネイロ州の山あいに作ったプロのクラブチームに、試合に出ていない若手を送って経験を積ませる制度でした。
鈴木さんは話が来た瞬間に「絶対行きます」と即決します。短期留学は過去にもありましたが、選手登録してリーグ戦に出るのは鈴木さんが初めてでした。
もう何が何だかわかんない状態だけど、でも絶対行かなきゃいけないっていうことで、もうこれしかないっていう感じで飛びついて、ブラジルに行くっていう。
想像を超えた生活と治安
行き先は山あいの街で、鹿島とはまるで違う環境でした。ジーコが作ったクラブなので練習場があったことだけが救いだったと言います。
報酬は多くなく、上手い選手が集まるわけでも、遠征先が綺麗なスタジアムなわけでもありませんでした。何より生活そのものがきつかったそうです。
食事は外食が中心でしたが、ブラジル料理が最初は合わず苦労します。治安についても、約三十年前のリオはさらに危険だったと振り返ります。
日本人は目につきやすく、危険と隣り合わせでした。鈴木さんは少しでも現地に溶け込むため、あえてボロボロの格好で過ごしていたと言います。
日本人ということで、危なかったりはしなかったんですか。
目立つので危険は常にあり、サンダルも短パンもTシャツもボロボロのものを身につけて、現地に溶け込む処世術としていました。
練習場までの往復と、砂のようなグラウンド
一年目は同期入団の阿部寿幸さんと二人で渡り、それが救いにもなりました。ただ生活を整える苦しさは大きかったと言います。
最初は世話役の人が送迎してくれましたが、やがてチームが借りた車を自分たちで運転するようになります。
練習場が使えない日は空港の向こうのグラウンドまで行くこともあり、普段30〜40分の道が渋滞で2時間半から3時間かかったそうです。
日用品の買い出しや洗濯も自分でこなします。鹿島では当たり前だった環境が、ここではすべて自分の手作業になりました。
洗濯とかももう手洗いで洗ってたりとかもしてましたし。
リーグ戦の遠征先も過酷でした。芝生のまともなグラウンドはほとんどなく、原っぱや半分砂地のような場所でプレーしなければなりませんでした。
ブラジル人選手は球際が強く、荒いプレーも平気でしてきます。日本人はさらに目をつけられ、ちょっかいも受けたと言います。
これが正解なのか。眠れない日々
日々の楽しみは一切なく、練習場と家の往復だけの生活でした。買い物で気分を発散しようとも思えなかったそうです。
つらさの中心は、この選択が正解かわからない不安でした。鹿島にいた方が技術も伸び、環境も整っていたのではないかという思いが鈴木さんを追い込みます。
鹿島にいた方がちゃんと技術的にも上手くなるし、筋トレルームもあるし、周りも上手いから上手くなるんじゃねえかって、それが一番きつかったです。恐ろしいですよ。夜寝れなかったです、怖くて。
一方でリーグ戦にはなぜか起用され、しかも活躍していました。ブラジル3部でもレベルは低くなく、上手い選手やいやらしい選手が多かったと言います。
チームには20歳の鈴木さんより年上の選手も、スラムから通う選手もいました。彼らは朝4時半に家を出て、満員バスに2時間半立って通ってきたそうです。
お金がないため昼食は持たず、午前の練習が終わると食べずに2時間かけてすぐ帰る選手もいました。サッカーで生計は立たず、多くが別の仕事も抱えていたと言います。
自分がもう活躍して、自分の家族を養うっていうのがやっぱりみんなの目標なんで。もう命がけですよ、みんな。
自分の契約や家族の生活がかかった選手たちは、練習から捨て身でスライディングしてきました。かける気持ちの違いが、そのままプレーの差になっていたと鈴木さんは語ります。
一人残された家で。深夜のビーチを走る誓い
鈴木さんは1シーズンを戦い、チームを昇格に導きました。しかしリーグ戦が混戦し、上位4チームでの決定戦にもつれ込みます。
契約は半年で、阿部さんはすっぱりと帰国しました。ですが最後までやり通さなければ気が済まない鈴木さんは、一人だけ残る決断をします。
阿部さんを空港へ送り、家に戻った瞬間、鈴木さんは自分のしたことに恐怖しました。ブラジルで初めての一人暮らしでした。
俺なんかかっこつけないで帰ればよかったと思って、その時に。もう本当にその時恐ろしかった。
しかも決定戦の日程がなかなか決まりません。スタッフに聞いても「そのうち決まる」と言われるばかりで、鈴木さんはノイローゼ気味になっていきます。
このままではダメだと感じた鈴木さんは、ここに来た意味を考え直します。そして毎日、長いビーチを6キロ走ると自分に課しました。3キロ先で折り返して戻る、それを帰国まで続けると勝手に決めたのです。
鈴木さんは小さい頃から、一度決めたことを破ったことがありませんでした。だからこそ、このルールは絶対に破れないものになりました。
僕それ破ったら僕の人生全部終わりって思ってたから、絶対破れないことなんだけど、毎日毎日ね、自分の精神状態がやばい状態じゃないですか。だから行けないんですよ、そのビーチに出て。
涙が枯れるまで泣いた砂浜
精神的に追い込まれ、昼間はビーチに出られない日もありました。それでも破れないため、深夜1時から走りに出ることもあったと言います。
ある夜、3キロ走った折り返し地点で足が動かなくなりました。気づけば涙が止まらず、堤防に座り込んで3時間ほど泣き続けたそうです。
もう気づいた時にはもう涙がぶわーって出てて、その堤防のところに座り込んじゃって、そこから3時間ぐらい。でもさすがに3時間なると涙止まるんですよ。もう何の感情もなくなるんですよ。
泣き止んだ後は走れず、ビーチをてくてくと歩いて帰りました。こうした日々を、帰国前日まで約2ヶ月続けたと言います。
自分のルールの厳しさに後悔もありました。ビーチの脇には走りやすい道路もあったのに、「ビーチを走る」と決めた以上、道路を走ることはできませんでした。砂浜は普通の道の3倍から5倍きついそうです。
俺なんでこっちの道路の方に走るって決めなかったんだと思って。でも一回決めたら破っちゃダメだから、もうずっと下走って。
盗まれないようサンダルをスタート地点の砂に埋めて走り、帰りに埋めた場所を見失って腹が立つこともあったと言います。効率とは真逆の、自分で決めた誓いだけが鈴木さんを支えていました。
昇格ゴールと、日本へ帰る涙
阿部さんの帰国から約1ヶ月半後、ようやく決定戦の日程が決まりました。4チームによるホームアンドアウェイの全6試合です。
鈴木さんは2試合目で逆転ゴールを決め、4試合目には自ら得たPKを決めて昇格を決定づけます。
試合前日、鈴木さんはジーコに「明日勝ったらその足で日本に帰ります」と伝えました。残り試合やサンパウロとの大会が控えていたため、ジーコには「お前何言ってんだ」と止められます。
それでも1秒たりともブラジルにいたくなかった鈴木さんは、初めてジーコに逆らい、何を言われても帰ると決めました。
その時以外に何か言われたら絶対それに従ってたんですよ、ジーコに対して。でも絶対に従わないって決めて、何言われても絶対帰るって決めて。
勝った瞬間、チームは大泣きしました。ですが鈴木さんの涙は昇格の喜びだけではなく、やっと日本に帰れるという感情の爆発でした。生まれて一番泣いたと振り返ります。
勝った瞬間にもう大泣きですよ。みんな大泣きだけど、俺だけ、俺やっと日本に帰れるっていう感情が爆発して。今まで生まれた中で一番涙出たと思うぐらい泣いた。枯れるほど泣いたから。
帰国を試合終了まで誰にも伝えていなかったため、チームは驚きました。それでも胴上げで送り出され、鈴木さんは字も書かれていないトロフィーを抱えて空港へ向かいます。
大きすぎてスーツケースに入らないトロフィーを持ってセキュリティを通り、居合わせたブラジルの女子バスケチームに「チャンピオン」と声をかけられ、空港で叫んだそうです。
ブラジルで得たものは、技術ではなかった
晴れやかな気持ちで鹿島に合流した鈴木さんは、「絶対やれる」と意気揚々と練習に入ります。
ところが、周囲とのレベルは縮まってもいませんでした。相手はブラジル代表や日本代表であり、10ヶ月ほどの留学で技術差が埋まるはずもなかったのです。
全くレベルが追いついてなかった。縮まってもない。やったらやっぱりあれ、めちゃめちゃ上手いなと思って。
大きなショックを受けます。しかし後から振り返ると、ブラジルで精神的に成長できたことが、その後のすべてにつながったと鈴木さんは語ります。
もし日本に残っていたら、その後のサッカー人生も成功もなかったと言います。人より何十倍も苦しい場所で経験を積み、人間的に成長したことが、後の困難を乗り越える力になりました。
まとめ
鈴木隆行さんがブラジル3部で得たのは技術ではなく、極限状態を自分で決めたルールだけで突破する精神の強さでした。効率やロジックを超えた没頭の話が、二回にわたって語られました。
- 鹿島でクビ寸前だった鈴木さんは、選手登録して臨むブラジル留学の第一号として過酷な環境に飛び込みました。
- 砂のようなグラウンド、満員バス通勤、手洗いの洗濯、治安の恐怖の中、命がけの選手たちと対峙しました。
- 決定戦の日程が決まらないノイローゼ寸前の日々、鈴木さんは深夜のビーチ6キロ走を自分に課し、破らないことだけを支えにしました。
- 昇格ゴールを決めた瞬間、日本に帰れる喜びで枯れるほど泣き、初めてジーコに逆らってその足で帰国しました。
- 技術差は縮まっていませんでしたが、そこで得た精神的成長がその後のすべてにつながったと鈴木さんは振り返ります。
