戦力外へ。鹿島に居場所がなくなるまで
ブラジルから帰国した後も、鈴木さんの置かれた状況はほとんど変わりませんでした。試合に出られない日々が続き、6年目には鹿島に自分の入れる場所がなくなっていたと話されています。
理由は、後から入ってくる選手たちのレベルにありました。上も上手いのに、下からもさらに上手い選手が入ってくる状況です。
どんどん後々日本代表になってくるようなやつしか入ってこなかったんですよ。もう上も上手いのに下も上手い奴しかいないってなったら、もういる場所ないでしょ。
鈴木さんが名前を挙げたのは、柳沢、平瀬、そして下からは中田浩二や小笠原満男といった、のちの日本代表クラスの選手たちでした。
6年目、鹿島スタジアムのピッチに立ちたいという夢は叶わず、シーズン初めから川崎フロンターレへレンタル移籍することになります。
Cチームという残酷な現実
フロンターレでは、はじめこそ試合に使ってもらえました。しかしチームが勝てなくなると同時に、鈴木さん自身も活躍できなくなっていきます。
半年後にはCチームに追いやられました。AチームとBチームの紅白戦で余った選手が、横で別の練習をさせられる立ち位置です。
大体それって高卒上がりの1年目、2年目ぐらいの奴らがそこにいるはずなんだけど。もう24(歳)とかなのに、高卒しかいないのに、俺はもうそこに入ってて、ほぼほぼ戦力外みたいな扱いだったです。
当時24歳。J1に昇格した年で、チームは新しい選手をどんどん補強していく方針でした。鈴木さんは8月にはほぼ戦力外の扱いになっていたと話されています。
人生を変えた一本の電話
そんな絶望の淵にいた鈴木さんに、鹿島から一本の電話がかかってきます。ちょうどオリンピックが開催された時期でした。
鹿島からフォワードの柳沢と平瀬の2枚がオリンピック代表に抜かれ、前線が足りなくなったのです。強化担当として知られる鈴木満さんからの誘いでした。
フォワードが足りなくなるから、お前試合出てないんだったら帰ってくるか?って。
しかし鈴木さんは迷います。リーグ最下位クラスのチームのCチームでプレーしている自分が、リーグトップの鹿島に戻って試合に出られるのか、と考えたからです。
さらに、一度決めたら最後までやり通したいという自分ルールもありました。当初はフロンターレに残る、と考えていたと話されています。
背中を押した「お前と俺の人生は違う」
迷う鈴木さんの背中を押したのは、鹿島から一緒に移籍していた奥野さんの言葉でした。高校卒業で入団してからずっと世話になっていた人です。
お前と俺の人生違うよなって。お前が求められてる場所があるんであれば、そっちに行くのが一番いい選択なんじゃないかって。
鈴木さんの中には、チャンスがある方を選べない自分への情けなさや甘さへの怒りもあったと話されています。
同時に、家族のように付き合ってきた人たちとの別れもありました。一緒に移籍していた、現在の鹿島の監督である鬼木さんもその一人です。
もう一生一緒にサッカーはできない。そう思うと涙が止まらなかったといいます。それでも、その別れが鈴木さんの背中を押しました。8月、鈴木さんは鹿島に戻ります。
戻って2日、いきなり先発と3試合連続ゴール
鹿島に戻った鈴木さんは、常識で考えれば試合に出られるはずがない立場でした。ところが2日ほど普通の練習をしただけで、その週の試合にいきなり先発します。
当時の監督は2月から就任した元ブラジル代表のトニーニョ・セレーゾさん。鈴木さんのことをほとんど知らない監督でした。
もうそれしかもうチャンスない。ラストチャンスじゃないですか、それって俺にとって。もう無我夢中でその試合プレーするわけです。
すると、その試合で鹿島での先発初ゴールが生まれます。次の試合も先発で起用され、またゴール。さらに次も先発でゴール。3試合連続ゴールでした。
そのままリーグ戦でも先発で使われ続けます。オリンピックから柳沢と平瀬が帰ってきても、鈴木さんはフォワードの軸として先発から外れませんでした。
結果として、この半年間、鹿島は一度も負けませんでした。日本のサッカー史上初めて、リーグ・天皇杯・カップ戦のすべてを制する三冠を達成します。鈴木さんはナビスコカップのニューヒーロー賞も受賞しました。
なぜゴールを取れたのか。誰も見ていない準備
翌2001年には日本代表に初選出され、コンフェデレーションズカップで先発2得点。代表に定着していきます。そして2002年ワールドカップでのゴールへとつながっていきます。
鈴木さんは、人生で最も大事だったポイントは鹿島に戻ってゴールを取れたかどうかだったと振り返ります。あそこで取れなければ、その後のサッカー人生はなかった、と話されています。
そしてそのゴールは偶然ではないと言い切ります。理由は、誰も見ていないところでの準備にありました。
絶対に出れないっていう状況でも、俺必ず体作ってたんですよ。休みの日も欠かさず球が走って、筋トレして、足りなければ一人でフィジカルトレーニングしたりとかしてた。
試合に絶対使われない週でも、休みの日も、鈴木さんは自分を追い込み続けました。誰も強制しないし、いつでもやめられる。それでも妥協しなかったといいます。
その原点は小学生時代にありました。大雨で誰も来ないグラウンドに、鈴木少年だけが行くのです。
そこで練習できないけど、練習をやろうと思う気持ちが大事だと。そういうことを小学生の時からやってたんですよ。
ドロドロの水たまりの中では、当然まともな練習にはなりません。それでも「やろうとすること」が大事だと考えて続けていたと話されています。
だから鹿島に戻っていきなり使われても、体が動いた。ずっと準備をしていたからこそ、そのチャンスをつかめたのだと鈴木さんは語ります。
今さ、効率がいいとか無駄なことやらないとかってあるけどさ、見えないところの、本当の一瞬のチャンスを逃さないって、必然なんだよね。
日本代表で戦える選手とは
話は、鈴木さんが「本当にすごい」と感じた選手にも及びました。断トツで挙げたのは、ブラジル代表の右サイドバックだったジョルジーニョです。
狙ったら狙ったところに一発でボールが飛んでいくみたいな。どういうキックでもできる。その精度が普通のレベルじゃない。
鹿島ではジョルジーニョをボランチで起用することが多かったといいます。ボールを触る機会が多い中心のポジションに置くためです。
日本人では、パートナーとして多く組んだ柳沢が、高卒で入ってきた時からすでに完成されていたと話されています。足元、裏抜け、ポストプレー、そのすべてができたそうです。
中田英寿さんや中村俊輔さん、小野伸二さん、稲本さんの名前も挙がりました。特殊なタイプとして、常にゴールを狙ってポジションを取り続ける大黒さんのオフザボールの動きも印象に残っているといいます。
そして、日本代表に定着できる選手とそうでない選手の違いを、鈴木さんは「戦えるかどうか」だと断言します。
根性あってハードワークしてきて、球際戦えて、命がけでやれるかやれないか。足元や技術だけでやってるやつは、球際で勝てないから絶対使えないんですよ。
さらに、自分では気持ちが入っていると思っても、外から見て入っていないと思われるプレーでは実戦で使えないと言います。客観的に戦っていると理解されることが必要だという指摘です。
上手いだけでは取れないゴール
番組では、ワールドカップに出場した日本人選手が20数年で120人ほどしかいないという話も出ました。その中でゴールを決めた選手はさらにわずかです。
鈴木さんは、上手い選手は自分よりはるかにたくさんいたと認めます。しかし大一番でゴールを取れるのは、積み重ねてきた深さや重さを持つ選手だといいます。
適当に生きてたり、実力だけはあるけど、そういう奴ってゴール取れないんですよ。神様が取らしてくれないのよ。
ゆるく話すつもりで始まった回でしたが、準備と没頭の価値をめぐる濃い裏話になりました。効率やコスパが叫ばれる現代に、あえて非合理に積み重ねることの意味を考えさせる時間です。
まとめ
戦力外のCチームから運命の電話で鹿島に戻り、3試合連続ゴールで三冠を支えた鈴木隆行さん。その逆転劇の裏には、誰も見ていない場所でも妥協しなかった準備の積み重ねがありました。
- フロンターレでCチームに追いやられた24歳に、鹿島から復帰の電話がかかってきた
- 迷う鈴木さんの背中を押したのは、奥野さんの「お前と俺の人生は違う」という言葉だった
- 復帰2日後にいきなり先発で初ゴール、3試合連続ゴールで軸に定着し、鹿島は無敗で三冠を達成した
- チャンスをつかめたのは、試合に出られない時でも小学生時代から続けてきた準備があったから
- 大一番でゴールを取れるのは技術だけでなく、積み重ねの深さと「戦える力」を持つ選手だと語られた
