下町育ちからBEAMSへ、20年続いた理由
今回は種市さんのキャリアがテーマです。前回語られた小畑さんの経歴に対して、種市さんは自身のことを控えめに切り出します。
前回のね、小畑くんのエリートからベンチャーやってみたいな、絵に描いたサクセスストーリー。全く僕ないんで。一瞬で終わりますよ。
種市さんは東京の下町出身。高校が私服だったことが、洋服やカルチャーに親しむきっかけになったと話されています。
靖国神社の隣にあった学校で、私服だからこそ隙を見つけていろんな場所に遊びに出かけられたそうです。
大学卒業時は商社なども受け、アメリカ行きも考えていました。ただ、なんとなくBEAMSに向かって入社したと振り返ります。
入ったら面白かったからズルズル二年ぐらいいて。だから小畑くんみたいに軽やかに動いてないというか。
結果としてBEAMSには20年在籍しました。当時は店舗も少なく、ちょうど会社が大きくなり始めた時期だったといいます。
大卒者が面接に入り始めた頃で、棚卸しなども手書きでこなす、牧歌的な雰囲気だったそうです。
なぜ20年もいられたのか。「面白いこと」を許す社風
種市さんが長く在籍できた背景には、BEAMSの社風があったと語られます。設楽社長が元電通出身で、洋服以外の面白いことも好きだったことが大きいようです。
もし洋服だけを扱う会社だったら、飽きて辞めていたかもしれない。そう振り返るほど、付随するカルチャーを会社の中でやらせてもらえた点が続けられた理由だと話されています。
今でも辞めたいと思って辞めたわけではないというか、いろんなことが忙しくなってったから、そろそろ他のこといろいろやりすぎて会社にいるってのもあれかなって思ったから。
入社当初はお店のスタッフから始まり、メンズカジュアルのバイイングの手伝いでアメリカのマジックショーなどを見て回りました。
ただ、メンズカジュアルが急拡大した時期でもありました。大きくなるほど、満遍なく売って数字を作る仕事になっていったといいます。
好きだけでは済まされず、トレンドに合わせに行く場面も増えました。そこで種市さんは、もっと面白いことをしたいと考え始めます。
売らない店「BEAMS NEWS」で仕掛けたカルチャーの入口
種市さんが向かったのは、ものを売らずに置く店「BEAMS NEWS」でした。
なんすかそれ。
当時はBEAMSのプレスルームの横にあった店で、基本的に商品を売らずに飾るだけの場所だったといいます。
店が大きくなると商品を詰め込む必要が出てきます。その一方で、ブランド一つひとつが持つストーリーを掘り起こそうという狙いがありました。
このブランドの服をこういう形でディスプレイして、そしたらこのブランドはカルチャー的に音楽があるから、こことつながってるバンドの人たちが来て、ちょっと演奏してエキシビションしようとか。
売上は立たないものの、広告的な役割も果たす先鋭的な取り組みでした。種市さんはここでエキシビションの運営を手伝っていきます。
この「モノの背景にあるストーリーを面白がる」姿勢が、後の仕事にもつながっていきます。
嫌々始めた吉田カバンのプロジェクト。「新しいパイ」を作る
BEAMS NEWSの後、種市さんは突然社長に呼ばれ、吉田カバンとのポータープロジェクトを任されます。
当初は乗り気ではありませんでした。カバンに興味がなく、ディレクションの経験もないと断り続けたそうです。
嫌です、やれっていう押し問答が何回かあって。四回目社長室に行った時に、次断ったらどうなるかわかってんだろうなみたいな。
最終的に引き受ける条件として、自分の好きなようにやらせてほしいと申し出ます。さらに、サーフィンのために平日休みにしてほしい、店舗の内装までディレクションさせてほしいと願い出ました。
社長がおいよ、マジすか。だったらやりますって言って始まったんですけど。
ヘッドポーターがすでに若者に人気だったため、種市さんは同じ層を取りに行きませんでした。狙ったのは大人向けの「新しいパイ」です。
吉田カバンの商品を見て、大人が使える上質な革製品や歴史に驚いたといいます。ロゴをつけない商品も置き、大人っぽいコンセプトで代官山に店を構えました。
店の設計はWONDERWALLの片山さんが担当。BEAMSがお墨付きを与える形で、大人向けの店が立ち上がりました。
旅とカルチャーから生まれるプロジェクトの連鎖
種市さんは、旅をしながらコンセプトを作る手法にも取り組みました。世界中を回り、現地から生まれる企画を形にしていきます。
たとえばドバイでは、アートコンシェルジュ的な仕事をする人が店を訪れ、その場でプロジェクトが動き出しました。王族絡みの手配で現地に飛び、ドバイらしい素材で商品を作ったといいます。
ステューシーの創業者ショーン・ステューシー氏が店を訪れたときは、彼が元サーフボードのシェイパーである点に着目します。
あの人はもともとサーフボードのシェイパーだから、ボードケース作ろう、どうですか?って僕が言って。カリフォルニア行ってスペシャルで作って。
日本製できちんと作った結果、価格は10万円ほどに。ボード本体並みの値段で、あまり売れなかったと笑いを交えて振り返ります。
一方、俳優からの相談で作った革の台本カバーは、錚々たる俳優や映画監督に使われる人気アイテムになりました。
こうしたつながりから、種市さんはスタイリングの手伝いも頼まれ、ロンドンやキューバへ。仕事の枠がどんどん広がっていったといいます。
数字と面白さのミックス。ブランドが「結果として」できる
小畑さんは、BEAMSの自由さと種市さんの仕事の進め方に注目します。できる人を制限しすぎず、ギリギリの塩梅で泳がせる社風だったのではと問いかけます。
うまいことやりながら最後手綱引っ張られてる感じもあって。首輪つけてリードがビューンって伸びるやつで動かして、おもろも持ってこいみたいなところだったのかな。
社長からは、ロジックだけでなくパッションが大事だと言われていたそうです。種市さんにやらせたら面白くなる、という感覚を評価されたと話します。
その後、種市さんは空港に面白い店がないことに気づき、成田と関空にセレクトショップを立ち上げます。当時、空港にこうした店はほとんどありませんでした。
空港というトラベルの特別な場だからこそ、ブランド側も面白がって協力してくれたといいます。大量生産しなくても意味のある企画になったのです。
ただの服っていうよりかはおこがましいけど、なんか役に立ってるなってちょっと思うというか。なんかちょっとモチベーションになるというか。
小畑さんは、この話をブランディングの観点から受け止めます。数字だけを追えば大量生産して売る方が効率的ですが、種市さんはあえて非効率な道を選んでいたと指摘します。
空港に出したらいくら売れるの?みたいな話があるけど、こういうのが面白いよねっていうのの、右脳と左脳のミックスみたいな。結果としてブランドになってくみたいなのが面白いなと思って。
種市さんは、小畑さんが手がけてきたITとカルチャーの結びつきにも近さを感じていると語ります。領域は違えど、これからの面白いサービスにつながるのではと話されました。
最後に種市さんは、独立後の今の活動にも触れます。インターネットのない時代にクラブで情報交換していた仲間が、今では大手セレクトのトップやデザイナー、俳優として活躍しているそうです。
夜遊びしてた人たちがものすごい実はもう大手のセレクトのトップになってたりとか、すごいデザイナーになってたり。そういう人たちとちょっと面白いことをやりながらっていう感じかな。
まとめ
種市暁さんのキャリアは、モノを売る効率よりも「面白い」を優先し、カルチャーやストーリー、人のつながりを結びつけてきた歩みでした。数字を残しつつも新しいパイを作る姿勢が、結果としてブランドを形づくってきたと言えそうです。
- 高校が私服だったことが、洋服やカルチャーに親しむ入口になった
- BEAMSが続いた理由は、洋服以外の「面白いこと」を許す社風にあった
- 売らない店「BEAMS NEWS」で、モノの背景にあるストーリーを掘り起こした
- 嫌々始めた吉田カバンのプロジェクトでは、大人向けの「新しいパイ」を狙った
- 数字と面白さのミックスの結果として、ブランドが立ち上がっていった
