AIが読み上げた驚異的な実績
番組ではまず、小畑がAIに聞いたというプロフィールを読み上げる形で、玉屋2060%さんを紹介しました。
その内容は、パンクの衝動とアイドルの多幸感を融合させた高密度音楽の第一人者で、電波組、ゆずなど50組以上に楽曲を提供しているというものでした。
2025年には自身のバンドWiennersでスーパー戦隊シリーズの主題歌も担当したと紹介されています。Wiennersは、玉屋2060%さんが2009年ごろに結成したバンドで、パンクとポップを融合した高密度な楽曲性が特徴とされます。
続いて紹介されたのが、楽曲「倍々ファイト」の記録です。SNSでのバズをきっかけに、2025年の音楽シーンを象徴する存在になったと語られました。
関連動画の総再生数はTikTokで40億回を超え、TikTok楽曲ランキングで史上最多の10週連続1位を記録したとされています。
これ、これちょっとマジビビったんですけど、TikTokの総再生数40億回とか。40億回ですよ。
さらに、ストリーミングでは累計1億回再生、YouTubeの公式ミュージックビデオは1100万回を突破したと紹介されました。
楽曲を使ったUGCは20万本を超え、単なる流行にとどまらず音楽的なクオリティも公に認められたと語られています。UGCはUser Generated Contentの略で、ユーザーが自分で作るコンテンツのこと。ここでは楽曲を使って作られた動画投稿を指します。
第67回日本レコード大賞優秀作品賞を受賞し、第76回NHK紅白歌合戦にも初出場しました。
種市さんは、その規格外ぶりに終始驚いていました。
だってアディダスのラインも6本ついてるの初めて見た。三本じゃないもん。規格外。
中学の同級生とパンクとの出会い
玉屋2060%さんは玉井姓で、「玉屋2060%」は芸名だと明かされました。
そして小畑とは、東京都西東京市にある中学校の同級生です。西東京市は、かつて保谷市と田無市が合併してできた市だと語られました。西東京市は東京都多摩地域の市で、2001年に保谷市と田無市が合併して誕生しました。番組内では合併前の「保谷」という地名にも触れられています。
同じクラスになったのは一度だけで、一緒に過ごしたのは中学の三年間だけだといいます。それでも今も交流が続いていると話されました。
仲良くなったきっかけは音楽でした。玉屋さんは、当時ハイスタンダードに衝撃を受けたと振り返ります。ハイスタンダードはHi-STANDARDのことで、1990年代の日本のメロディックパンクを代表するバンドで、多くの若者に影響を与えました。
種市さんはブルーハーツ世代で、少し上の世代だと語りました。当時はインディーズブームやいわゆる青春パンクが盛り上がっていた時期でもあったといいます。
二人は公民館のようなふれあいセンターで、一緒にライブをやったこともあると振り返りました。
ドラムのバスドラがないからゴミ箱で。みたいな感じの超手作り感。要はちょっとその反骨精神とかが若干芽生えてくる。
吉祥寺と西荻窪、10代の衝動
西東京市に住んでいた二人にとって、一番近いライブの街は吉祥寺でした。
ただ、中学生や高校生でお金がないため、バスではなくチャリで通っていたといいます。
チャリで行ってた。二百十円なんですよ、バス代。往復すると(お金が)かかるから。
最初は道がわからず1時間ほどかかったものの、通ううちにコツをつかみ、30分ほどで着けるようになったと話されました。
さらに隣の西荻窪には、当時二人が大好きだったアンダーグラウンドなパンクハードコアのシーンがあり、そのライブハウスにもよく通ったといいます。
そのライブハウスは「西荻WATS」という、汚さがパンクを象徴するような場所だったと語られました。
上が米屋なんすけど、あまりにもうるさいと米屋が怒鳴り込んでくるんすよ。お前らうるさいぞみたいな。
警察が来ると、外に溜まるなら帰れ、いたいなら店から出るなと言われたそうです。玉屋さんは、そうした刺激的な場所に10代で行けたことは大きかったと振り返りました。
当時のファッションは、好きなバンドのTシャツに古着のデニム、スニーカーというラフなものでした。マーチンや革ジャンで決めるパンクとは違う文化だったといいます。
売れたくないという強がりと矛盾
高校では二人は別々になりましたが、玉屋さんは高校時代からバンドを始めていました。
ここで玉屋さんの意外な一面も語られます。高校で留年し、4年間通ったというのです。
ただし不良だったわけではなく、出席日数も足りていたのに、赤点で落ちてしまったといいます。
俺めちゃめちゃちゃんと学校行って出席日数も足りてるし、テスト全日とかめちゃめちゃ寝ずに勉強したのに単純に赤点で落ちてんすよ。
それでも中退せず、きちんと卒業したことに種市さんは感心していました。
当時好きだったパンクは、売れないほうがカッコいいとされる音楽でした。玉屋さんも、これでは飯を食えないと心のどこかでわかっていたと話します。
好きなことをやりたいけれど金にならない。その矛盾と向き合わないように10代を過ごしていたと振り返りました。
転機は、20代でWiennersを結成したときでした。一度本気を出してみようと組んだバンドだといいます。
一回マジで自分たちの音楽を超本気でやって、自分たちが納得するぐらい超かっこいいものを作ったら、世間でどれぐらい売れるかっていうのを試してみたいと思ってバンド組んだんですよね。
それまではアンチメジャーで、メジャーに行くのはカッコ悪いと考えていました。ですがWiennersでは、逆に売れたいと思ったといいます。
その背景には、以前から感じていた矛盾がありました。売れたくないと言いながら、客を呼ぶために告知をする。それは売れるためではないのか、というものです。
十人二十人の前で、なんか政治の批判してるようなポリティカルなバンドがいたら、いやお前それ十人二十人の前でやっても政治変わんねえぞと。だったら売れて何万人の前で言った方が変わるよって思ってた。
牛乳配達のバイトと二万円のご祝儀
Wienners結成当初は、バンドだけでは食べていけませんでした。
玉屋さんは、当時は牛乳配達のバイトをしながらバンドを続けていたと明かします。
一方の小畑は高校卒業後に大学へ進み、就職しました。ここが二人の道の大きな違いだと語られています。
小畑が2012年から13年ごろに挙げた結婚式には、玉屋さんも呼ばれてギターを弾いたそうです。
そこで印象的なのがご祝儀の話でした。一般的には三万円のところ、玉屋さんは二万円だったといいます。
玉屋さんは、それを頑張ってくれたのだろうと振り返りました。
本当は一(万円)だったんだけど、やっぱ一番仲良かったから。物理的に無理。ないない。どう数えてもないんだもん。
当時は親に借りたのかもしれないと語るほど、本当にお金がなかった時代だったと振り返られました。
結果を出してから好きをやることの強さ
話は、売れる前に不満を言うことへの違和感に移ります。種市さんは、仲の良い俳優の例を挙げました。
その俳優は、売れていない役者が売れている人へ愚痴を言うことに対し、同じステージに上がっていないのに、と感じていたといいます。
そして自ら大きな舞台に上がり、連続ドラマや大河にも出て成功しながら、今も下北沢の舞台に立っているそうです。両方でやれることがカッコいいと種市さんは語りました。
玉屋さんも、広く認知されるためにやることは、カッコ悪いことではないと考えています。
自分が好きなことをどう説明する、世間に対して説明するか。それをやることイコール売れるためにすることだと思ってるから。俺は別にそんなカッコ悪いとも今は思わないし。
昔カッコ悪いと思っていたのは、自分が売れないだろうということへの予防線であり、強がりだったと振り返りました。
好きだったショートチューンに時代が追いついた
なぜ過去を深掘りするのか。それは、当時の音楽性が今の楽曲に色濃く反映されているからだと小畑は語ります。
小畑は、中学の教室では頼りない男に見えた玉屋さんが、ギターを持って歌うと当時からすごかったと振り返りました。
高校の文化祭では、留年して一つ下の学年にいたにもかかわらず、玉屋さんのステージに多くのファンが集まったといいます。
その二面性みたいなのがものすごい彼の魅力で。
種市さんも、銀縁眼鏡の目立たないタイプに見えた玉屋さんが、速いライトハンド奏法を披露して周囲の見る目が変わった瞬間を印象深く覚えていました。ライトハンド奏法とは、ギターの弦を右手の指で叩いて速いフレーズを弾く技法で、派手で目を引くプレイとして知られています。
玉屋さんは、そこが自分の輝ける場所だったと語りました。
ここだったらヒーローになれるぞみたいな。輝ける場所みたいな。
活動の場は、公民館から高校の文化祭、ライブハウスへと少しずつ大きくなっていきました。当時から好きだったのが、30秒ほどのショートチューンでした。
40曲入り20分みたいなアルバムを。そういうの好きだったから。
そして今、TikTokや切り抜き文化が到来し、30秒やサビ前だけでバズらせる曲が求められるようになりました。それを15年前からやっていたと玉屋さんは言います。
たまたま今時代がTikTokとか切り抜き文化っていうのが来て、その30秒とかサビ前だけでバズらせるような曲を求められてることを俺らは15年前ぐらいからやってた。
バズるためにやったことはなく、もともと好きでやっていたことに時代が追いついたのだといいます。
ただし種市さんが指摘するように、それはやり続けたからこそ訪れたチャンスでもありました。
チャンスは一生来ないかもしれない。それでも、来た時にサボっていたら当てられない。玉屋さんは、そのどちらも大事だと語りました。
まとめ
売れることをカッコ悪いと信じていたパンク少年が、好きを本気で振り切った末に40億回再生のヒットメーカーになりました。時代に媚びるのではなく、好きを続けた場所に時代のほうが追いついたという原点が、旧友との距離感で語られた回でした。
- 玉屋2060%さんと小畑は西東京市の中学の同級生で、音楽をきっかけに親しくなった
- 吉祥寺や西荻窪のアンダーグラウンドなパンクシーンに10代で通った経験が、今の楽曲に色濃く反映されている
- かつての「売れたくない」は強がりであり、Wiennersで一度本気を出そうと売れることに向き合った
- 好きだったショートチューンに、TikTokや切り抜き文化の時代が追いついた
- チャンスが来た時に当てるには、好きなことを振り続けることが欠かせない
