今日の牧場の1日と、ガチガチの酪農トーク宣言
水曜日の朝、川上牧場はすっかり冬の装い。フリースにネックウォーマーで完全防備の朝から、日中は18〜19度まで上がる気温差の激しい1日が始まります。
この日の仕事は堆肥の配達に加えて、繁殖検診での移植と種付け。牛の繁殖はタイミングによって夏産みや秋産みになってしまうので、悩みどころだと話します。
そしてこの日は、リスナーからの質問やコメントがなかったということで、いつもとは少し違う内容に。
今日はガチガチの酪農のお話をね、してみようかなと思います。
先日、広島で行われた酪農セミナーの資料をもらい、その中で興味を持ったテーマをAIでリサーチした、というのが今回の中身です。
一般の消費者の皆さんにはちょっと難しいかなっていうところがありますけれども、酪農業界の方はね、こんな技術があるんだと思って聞いていただけたら嬉しいなと思います。
「細胞が炎症を記憶する」って、どういうこと?
今回紹介されたのは、広島大学で行われた酪農セミナーで発表された研究です。テーマはずばり「細胞が炎症を記憶する」という現象。
紹介されたのは、ミズーリ大学のマシュー・ルーシー博士。乳牛の繁殖生理学、とくに分娩後の子宮の健康がその後の繁殖能力にどう影響するかという分野の第一人者だと説明されています。
そもそも「細胞が記憶する」とはどういうことなのか。ここは近年の免疫学でとてもホットなテーマで、専門的には訓練免疫自然免疫の細胞が最初の刺激をきっかけに再プログラムされ、次に別の敵が来ても素早く強く反応できるようになる現象。自然免疫記憶とも呼ばれますと呼ばれています。
これまで、一度かかった病原体を覚えるのはT細胞やB細胞といった「適応免疫」の役割で、ワクチンもこの仕組みを使っています。
一方、マクロファージや単球といった「自然免疫」は、敵が来たらすぐ攻撃する最前線の部隊で、特定の敵を記憶する力はない、というのがこれまでの常識でした。
ところが2011年頃から、その常識が覆されます。結核のBCGワクチンを打つと、結核菌以外のさまざまな感染症にもかかりにくくなることがわかってきたのです。
これは自然免疫の細胞が刺激によって「訓練」され、遺伝子の働き方が変化する、つまりエピジェネティックな変化を起こすためだと解明されてきました。これが訓練免疫、細胞の記憶の正体です。
良い記憶と、悪い記憶「炎症記憶」
この訓練免疫、感染から体を守る方向に働けばとても有益です。でも、記憶された過剰な反応が制御できなくなったり、間違った場面で発動したりすることもあります。
それが「不適応的訓練免疫」、あるいは「炎症記憶」と呼ばれる状態です。この悪い記憶が、動脈硬化や自己免疫疾患といった慢性的な炎症の引き金になるのではと、いま考えられています。
感染から体を守る方向に働く。刺激を覚えて、次に敵が来たとき素早く強く反応できる
過剰な反応が制御不能になったり間違った場面で発動する。慢性的な炎症性疾患の引き金になりうる
この「炎症記憶」という新しいレンズを通して、もう一度ルーシー博士の研究に戻ります。舞台は乳牛の分娩後の子宮です。
なぜ、治ったはずの牛が不妊になるのか
乳牛にとって出産は命がけの大仕事です。子宮は物理的に大きなダメージを受け、修復が始まりますが、同時に外からの細菌汚染にもさらされます。
ここで重度の子宮内膜炎子宮の内側の膜(子宮内膜)に起きる炎症。専門用語で子宮炎とも。乳牛の約40%が罹患するという報告もあるとされますが起こることがとても多いのだそうです。
これまでの酪農現場での大きな謎は、急性期の子宮炎を抗生物質で治療して一見治ったように見えても、なぜその牛が数か月後、あるいは生涯にわたって不妊になりやすいのか、というものでした。
ルーシー博士の研究は、この謎に答えを出しました。治療から数か月経った牛の子宮内膜を調べると、細菌はもういないのに、持続的な「刻印」が残っていたのです。
具体的には、健康な牛とはまるで別物の遺伝子発現。エネルギー代謝の遺伝子は過剰に働き、組織の再生や細胞増殖に必要な成長シグナルは低下していました。
さらにこの記憶は、物理的な傷跡としても残っていました。1つは子宮内膜が硬くなる「線維化」、もう1つは子宮内膜の組織が本来あるべきでない筋層の奥に入り込む「子宮腺筋症」です。
これらはもはや記憶というより傷跡です。こんなガチガチで構造が変わってしまった子宮では、受精卵が着床し育っていくのは困難となります。
しかも、この炎症記憶は、組織を再生する源である子宮内膜の幹細胞や前駆細胞そのものにまでダメージを及ぼしている可能性が突き止められた、と紹介されています。
診断と治療は、これからどう変わる?
この「炎症記憶」という視点は、これからの生殖医療をどう変えるのでしょうか。まず、診断が変わるかもしれません。
いまの慢性子宮内膜炎の診断は、組織を採取したり子宮内フローラを調べたりする方法が中心です。将来的には、炎症記憶が刻まれた細胞のエピジェネティックなマークや代謝の変化を直接見つけるバイオマーカー検査ができるかもしれない、と話します。
治療も変わる可能性があります。もし組織自体が「線維化しやすい記憶」を持ってしまっているとしたら、癒着を手術で剥がしても再発しやすい理由が説明できる、という指摘です。
いま不妊治療の現場では、PRP療法や月経血由来の幹細胞を使った再生医療など、子宮内膜を再生させる試みが始まっています。炎症記憶の研究は、なぜ再生がうまくいくのか、どうすれば記憶を上書きできるのかという問いに答えるヒントをくれるはずだと語られます。
細胞の記憶そのものに働きかけるエピジェネティクス医薬や代謝調整薬が、不妊治療の新たなフロンティアになるかもしれません。
抗生物質で炎症を抑えたり、手術で癒着を剥がしたりするだけではなく、細胞の記憶そのものに働きかける。そんな未来が乳牛の研究の先に見えているかもしれない、というのが今回のリサーチのまとめです。
どうですか?興奮してませんか、皆さん。これめちゃくちゃ面白いの僕だけなんでしょうか。
和牛移植と繁殖、現場の視点でどう考えるか
ここから川上さんは、この研究を自分たちの現場に引きつけて考えます。これまでは分娩した牛の子宮に抗生物質を入れたり、炎症を下げる医薬品を打ったりしてきました。でもその「以前」に、細胞が記憶するという仕組みがわかってきたわけです。
いま乳牛には、ホルスタインのお腹で黒毛和牛を産ませる移植技術が広がっています。黒毛和牛の子牛はホルスタインより大きく、大きく産ませて大きなお肉にした方が生産性が高いとされ、その方向で品種改良が進んできました。
ただ、大きな子牛を産ませることが本来のホルスタインの繁殖や牛乳生産に負担をかけ、生産性を著しく落としている面もある、と川上さんは指摘します。
だからこそ、優秀な牛にはホルスタインを産ませ、空いたお腹で黒毛和牛を産ませるといった組み合わせも含めて、長期的にどちらが生産性が高いのかを考えていく必要があるのではないか、と問いかけます。
人間の出産にもつながる話
この炎症記憶の話は、人間の出産にも同じことが言えるのだそうです。もともと人間の医療で進められていた技術が、牛にも応用され、両方が同時並行で動いているといいます。
難産や逆子で生まれてしまい、子宮を傷つけてしまった場合には、こうした炎症記憶の可能性が出てくるかもしれません。
もっとも、人間は牛のように何年も何十頭も産ませるわけではありません。それでも不妊に悩む人は多く、こうした新しい角度からの研究が、不妊治療をより良くしていく可能性がある、と締めくくられます。
まとめ
質問が少なかった日に飛び出したのは、「細胞が炎症を記憶する」という最新研究の熱いリサーチトーク。治ったはずの子宮に残る「記憶」という視点が、乳牛の繁殖から人間の不妊治療まで、これからの見方を変えていくかもしれません。
- 自然免疫の細胞も刺激を「記憶」する訓練免疫が近年わかってきた
- 子宮炎が治っても、炎症記憶が遺伝子発現や組織の傷跡として残り不妊につながりうる
- 記憶は幹細胞のレベルにまで及び、組織の再生能力を損なう可能性がある
- 将来はエピジェネティクス医薬など、記憶そのものに働きかける不妊治療が期待される
- 和牛移植と繁殖の生産性を、長期的な視点で考え直すきっかけにもなる話
