自己完結する言語化に意味はあるのか
この回でしもちゃんが最初に投げかけたのは、言語化の意味を正面から疑う問いです。他者との意思疎通には言葉が必要でも、自己完結する場面では言葉は無駄ではないか、と話し始めます。
言語化の無意味性について議論したくて。
他者との意思疎通の上では必要だと思いますが、自己で完結することにおいて言葉は結構やっぱ無駄やなって思ってるんすよ。
しもちゃんが例に挙げたのは、「自分ってこうだよな」「仕事ってこうだよな」といった、頭の中での定義づけです。「生きるって何かな」「死ぬって何かな」のような問いも含めて、大半は無駄ではないかと言います。
これに対していなけんは、無駄と言い切るのは行きすぎだと応じます。まず問題になるのは、何を目的にするか、という点でした。
無駄とまで言い切ると、それはそれな気するけど。まあだから何を目的とするかじゃない?
リンゴと晴れ、名前をつけた瞬間にこぼれるもの
いなけんはまず、言語化とは何を指すのかを整理しようとします。目の前のリンゴを「リンゴ」と呼ぶことは言語化なのか、それとももっと概念的なことを言葉にすることが言語化なのか、という認識合わせです。
しもちゃんの立場は、その両方を含みたい、というものでした。目の前のリンゴを「リンゴです」と言うことも、不要な言語化に当てはまると言います。
しもちゃんはさらに、多くの人が言葉をすごいものと思いすぎている、という感覚を語ります。友達と「リンゴ食いたいよな」と話しても、互いが思い浮かべるリンゴは同じとは限りません。
友達が想像するそのリンゴが虫食いリンゴかもしれへんし、僕が想像するリンゴがまだ実になってない時期のものかもしれへん。
人の認識なんて脆いし、分かった気になってるだけで会話してることが多いと思うんですよ。
いなけんは、しもちゃんの言いたいことを、言語化は何かを捨ててしまう行為ではないか、と読み替えます。「Aである」と規定した瞬間に、その円の外にある周辺のことが取り除かれてしまう、という捉え方です。
いなけんが次に持ち出したのは「晴れ」という言葉です。雲の割合や配置は一分一秒変わっていくのに、わかりやすいから「晴れ」と一括りにしている、と言います。
ただ晴れてる状態って本当に晴れてる状態なんだっけ?みたいな。
この流れをまとめると、名前をつけた瞬間に、その言葉の外側にある曖昧な感覚がこぼれ落ちるという話になります。しもちゃんはそれを、近からず遠からず、と受け止めます。
なぜ人は言語化してしまうのか
話は「するかしないか」から「なぜするのか」へ移ります。しもちゃんの引っかかりは、言語化のメリットがよくわからない、という点でした。
なんでするんかがよくわからないっていうだけですけどね。メリットあるんかなって思っちゃう。
ここでいなけんがちゃぶ台を返すように問い直します。そもそも世の中の大半の人は、しもちゃんが言うような言語化をしているのか、と。
この問いから、二人の関心は「なぜ自分たちは言語化してしまう脳になっているのか」へと切り替わります。しもちゃんは、言語化していないと思われる人の例として、以前話したメンズエステの女性やタイにいた日本人を挙げます。
しもちゃんが出したのは、生育環境に関する仮説でした。感情を表に出してはいけないと思い込んでいた時期がある人は、頭の中で会話する癖がついているのではないか、という見立てです。
自分の感情を表に発露してはいけないって思い込んでた時期がある人にとって、頭の中で思考するっていうのが癖づいてるっていう説はあると思うんですよ。
いなけんはこれを、反芻思考を持つ人か否かの差ではないか、と言い換えます。頭に言葉が浮かぶ人と浮かばない人がいて、自分たちの側からは後者が理解できない、という話にもなりました。
理解できない。勝手に出てくるもんだって。
さらにいなけんは、言葉が現実の見え方を規定するという例として「虹」を挙げます。虹を七色と思っているから七色に見ようとするが、二色や三色と数える国もある、という話です。
言葉を先に知ると、現実もなんていうか違って見えるし、裏を返すと、その状態も言葉で表そうとする。
反芻思考は本当に無駄なのか
ここで議論はいったん、言語化そのものの是非へ戻ります。いなけんは、言葉で理論を構築するよりも、まず動いたほうが早いのではないか、というしもちゃんの発想の背景を尋ねます。
そんなことしてる前に、現実動かした方が早いから。
しもちゃんは、理論を突き詰めることより、現実を実行する人が一番偉いと考えている、と続けます。反芻思考して言語化している時点では、まだ一歩も前に進んでいない、という指摘です。
現時点、反芻思考でなんか考え事して言語化してるって、今現在時点では一歩も前に動いてないから。
一方でいなけんは、スポーツの例を持ち出して反論します。何も考えずに素振りを繰り返すより、対話しながら取り組んだほうが次の動きの精度が上がるのではないか、という見方です。
何も考えずに本能だけで行けるのは、ひと握りの天才しか高みに到達できない気がしてて。凡人であるなら、反芻思考はした方がむしろいいんじゃないとも思ってる。
しもちゃんは、集中する上で反芻思考は邪魔ではないか、と問い返します。頭が空っぽでない状態は、余計なノイズが入っている状態だ、という認識です。
いなけんは自身の調子の波を例に、答えの糸口を示します。調子がいいときは、考える時間と頭を空っぽにする時間を意図的に切り分けられている、と言います。
調子いい時は、意図的に考える時間と頭空っぽにする時間をなんか切り分けられてる気がしてて。
この整理を受けて、二人はいったんの着地点にたどり着きます。反芻思考そのものが悪なのではなく、考える時間と空っぽにする時間を選択的に使い分けられることが強いという結論です。
選択的にできるのが一番強いと思ってるんで。
選択肢を提示できる雄は強いのか
使い分けの話から、しもちゃんは男女の関係に話題を広げます。相手に選択肢を提供し続けられる男性は、かっこいいし強い、という仮説です。
わかりやすい例として挙げられたのはデートの店選びでした。イタリアン、フレンチ、和食といったジャンルや、カジュアルからドレスコードのある店、公園で食事する選択肢まで提示できることは、どれにも知見がある状態を意味する、と言います。
その選択肢全てを提供できるってことは、つまりどれに対しても知見がある状態じゃないですか。
いなけんはこれを、選択肢の多さは雄としての強さのシグナルである、と言い換えます。しもちゃんはさらに、感情の面にも同じことが言えると続けます。
喜怒哀楽全てを選択的に選べる男性って、僕やっぱり強いなと思うんですよ。
しもちゃんによれば、怒っても笑っても泣いてもいいという関係性を相手に提供できることも強さです。自分で選択肢を取れることと、それを相手に提供できることは、どちらも強い個体の条件だと語ります。
自分に優しくできない人は、他人にも優しくできないのか
ここでしもちゃんは、自分と相手はつながっている、という考えを持ち出します。「自分に優しくする」とは、自分を構成する一つひとつの細胞に優しくすることだ、という捉え方です。
しもちゃんは、皮膚も顕微鏡で分解していけば自分ではなくなる、と言います。細胞さえも他人だとするなら、その細胞に優しくできない人は、実在する他人にも優しくできないはずだ、という理屈です。
その他人に優しくできないやつは、この実在すると思ってる他人に対してもやっぱ優しくできないと思うんですよね。
いなけんは、以前話したメンズエステの女性の話を引き合いに出します。リストカットの跡があったという話を、自分を大切にできていない例として重ね、しもちゃんの「自分と相手はつながっている」という考えとつなげようとします。
しもちゃんはこの話を、選択肢を提示できる雄は強いという気づきと、自分に優しくできない人は相手にも優しくできないという気づきの2つとして整理し直しました。
坂本龍馬はどのスケールで自分を見ていたか
いなけんは、自分の高知県での思い出を持ち出し、話を歴史へ広げます。江戸から明治の人々の多くは、自分の人生を家族や村くらいの単位でしか見ていなかったのではないか、という見立てです。
その中で坂本龍馬が違ったのは、見ていたスケールだと言います。日本という塊すら今ほど固まっていなかった時代に、海外まで視野に入れていた、という捉え方です。
自分の体をどのスケールで見てるかっていうのが、坂本龍馬は当時の人と違ったっていう話なんですよ。
しもちゃんは、これを一人の人に対する解像度の高さと結びつけます。目の前の一人への解像度が高くなければ、世界史のような大きな視野も持てないのではないか、という応答でした。
そこの解像度高くないと、世界史だって見れない気がしてて。
話し込むうちに、しもちゃんは「言葉多すぎるから一回瞑想してみますか」と提案し、二人は番組内で軽く瞑想の真似ごとをします。そこから、リスナー限定で使える瞑想アプリを作る、というジャストアイデアの脱線へと流れました。
悩みを選択肢に分解すると、なぜ楽になるのか
脱線から戻り、しもちゃんは最初の「選択」の話につなげます。迷っていることや悩んでいることは、選択肢の一つとして見た瞬間に楽にならないか、という問いです。
いなけんは具体例を求めます。しもちゃんが挙げたのは、会社を辞めるかどうかで迷う場面でした。今の会社で生きていく、所属しながら転職活動をする、独立する、といった選択肢に分解できると言います。
いなけんはこれを、選択肢に分解できると選択肢同士の比較になり、悩みから一段降りられる、と言い換えます。ただししもちゃんは、その理由づけには慎重でした。
これは因果か相関かはわかんないですけど、ただ、ただそうなってるよねっていう、それだけを伝えたかっただけです。
しもちゃんは、悩みを構造として捉える発想を語る一方で、「なぜそうなるか」という理由づけそのものを疑います。理由は後付けで、その時々の感情によって左右されるからです。
そん時の自分の解釈ですからね。それやったら理由付けの必要ってあるかなと思うんですよ。
代わりにしもちゃんが重視するのは、前提の確認でした。起こっている事象の解釈は前提で変わるのだから、理由より前提を確認したほうがいい、という主張です。
大体起こってる事象の解釈なんか前提で変わんねんから、前提の確認をした方がいいと思う。理由より。
いなけんはこれを、道の比喩で受け止めます。「右に行きたいから行く」という理由ではなく、条件が揃えば右に行くしかない、という捉え方への転換です。
右に行くしか選択肢がこの条件が揃ったらなくない?ってことだよね。
言葉を捨て、自分で選ぶという強さ
終盤、いなけんは自身のサッカー時代のエピソードを語ります。怪我をしたとき、多くの人が「痛っ」で終わるのに、自分は倒れながらどこがなぜ痛いかを説明していた、という思い出です。
痛い箇所がなんで、どうして痛いかを言った方が処置が楽になるし、この後の周りからの対応がスムーズになるなと思った。
その様子をチームメイトから「お前なんか難しいこと言うな」と言われた情景が、今も残っているといなけんは言います。しもちゃんは、その頃から言語化してしまう性質の片鱗があったのだ、と受け止めました。
話を締めるにあたり、しもちゃんは改めて自分の立場を言い切ります。言葉を捨てること、そして反芻しないことを、自分は成長であり強くなることだと考えている、という宣言です。
悩みを選択肢に分解し、前提を確認したうえで、自分で選ぶ。言語化への疑いから始まった雑談は、この一点に静かに着地しました。
まとめ
言語化に意味はあるのかという問いから始まったこの回は、名前をつけると世界が少し狭くなるという感覚を確かめつつ、最終的に「自分で選ぶ強さ」へと着地しました。反芻思考の否定ではなく、考える時間と空っぽにする時間を使い分ける選択性が、通底するテーマになっています。
- 自己完結する言語化は、名前をつけた瞬間に周辺の曖昧な感覚を切り捨ててしまう側面がある
- 反芻思考自体が悪なのではなく、考える時間と頭を空っぽにする時間を選択的に使い分けられることが強い
- 選択肢を自分で取れること、そして相手に提供できることは、どちらも強さの条件として語られた
- 悩みは選択肢に分解すると比較へと変わり、悩みから一段降りられる
- 理由は後付けで感情に左右されるため、理由より前提を確認したほうがよい


