組織はどこまでも「入れ子」になっている
後編の冒頭で宇尾野さんは、前回の収録で「秩序」と「安心」というキーワードが出たことを振り返り、為末さんに感想を尋ねます。
為末さんはまず、組織をどのレイヤーで捉えるかによって話が変わると指摘します。完全にすべてから離れられている人はほとんどいない、という前提から話し始めました。
組織っていうものをどのレイヤーで捉えるかっていうのは、考えてみると入れ子みたいな話じゃないですか。
少なくとも街に生きた以上はある組織にいるし、そもそもどこかの国籍を持つと、その国の組織の中に入っている。
組織の大きさによっては、何かしらのパターンが生まれる。そのパターンからは免れられないが、うまくチューニングすればいいこともある。為末さんはそう考えながら前回話していたと語ります。
これを受けて宇尾野さんは、今回のテーマとして「思い込み」を挙げます。自分自身が何によって思考や動きを形成されているのかを、組織の視点から考えられると面白いと切り出しました。
諦めるとは「明らかにする」こと
宇尾野さんは、自己認知をどう深めていくかに強い興味があると述べ、為末さんが普段どう考えているのかを尋ねます。
為末さんは、引退後に最初に書いた本『諦める力』に、自分の競技人生のエッセンスが詰まっていたと話します。
なぜそのタイトルになったのか。為末さんは「諦める」という言葉を仏教用語からたどっていきます。
諦めるっていう発想をいろいろ考えていくと、仏教用語で「明らかにする」っていう、明るいっていう字にらめるがついて、要するに世の中のことをあるがままに認識するっていう。
認識してみると、これは執着だったんじゃないですか、っていうふうに発想が生まれて、そういうものはどんどん捨てて現実に即していきましょう、みたいな発想なんですね。
為末さんがこの発想に興味を持ったのは、思い込みは、選手にとってのメンタルブロックそのものだからでした。
気づいた時点で、それはもう思い込みではない
為末さんは、子供の頃に「メジャーリーグで日本人は活躍できない」と平気で言われていた時代を例に挙げます。
野茂さんが出てきて、イチロー選手が出てきて、大谷選手が出てきたり。
陸上でも、100mで10秒を切れないと言われていたのに、一人が切った後、3年で4人ほどが続いたといいます。為末さんはこうした現象に強い興味を持っていました。それは、自分もそういう思い込みに囚われているはずだと感じていたからです。
ここで為末さんは、思い込みの厄介さを語ります。
この「気づいていない何か」への関心が、為末さんの一貫した興味なのだと語られます。
言葉のレベルで、私たちは何かに縛られている
思い込みの深いところとして、為末さんは「言葉」の話を持ち出します。言葉は物理世界の関係になぞらえて理解されることが多い、というのです。
健康になったって英語で言う時って、大体アップって言うんですね。不健康になった時はダウン。物理世界の上下っていう感覚を健康に当てはめて理解しようとしている。
時間についても同じで、未来が「やってくる」と言うように、前と後ろという物理的な感覚で捉えていると為末さんは指摘します。物理世界の法則でしか物事を捉えられないこと自体が、一つの縛りだというわけです。
これを組織に当てはめると、ビジョンやミッション、明文化されていなくても組織内でよく使う言葉に、人は縛られていると為末さんは考えます。
その上で為末さんは、縛りを取り払う瞬間について語ります。よく使う言葉を一度取っ払い、新しいものに置き換えると、「これが全てじゃなくて、違うのもあるかもね」という余白が人の間にできるというのです。
その人が思い込みからすっと解き放たれる瞬間があるっていうので、それが揺らぎとか揺さぶりとか遊びなんじゃないかって思ってるんですね。
組織はシステムとよく使う言葉でできていて、人は毎日その中にいる。だからこそ思い込みが作られ、スタックしたりロックインされたりするのではないか。為末さんはそう見ています。
思い込みを取り払う入り口は「身体的な何か」
宇尾野さんは、ロックインされていることに気づいてすらいない状態から、どう明らかにしていくのか、その入り口となる作法があるのかと尋ねます。
為末さんは、それが明確なら人事コンサルタント会社を作って儲けているだろう、と冗談まじりに答えつつ、難しさを認めます。
その上で、直感的には身体的な何かではないかと語ります。
言葉だけを使ってやるってよりも、もうちょっと体験としてハッと思うようなことの方が、より本質的に人の見方を変えてくれるんじゃないか。
海外の大ざっぱな指導が教えてくれたこと
宇尾野さんは、為末さんが実際にハッと気づいた体験を尋ねます。為末さんはまず選手時代の話として、アメリカとオランダでの練習を挙げました。
日本の指導は肘の角度や膝の使い方を厳密に積み上げていくのに対し、海外はかなり大ざっぱだったと為末さんは振り返ります。
この点とこの点に向かって走れば、あとはどんな風に動いても構わないみたいな感じだったんですよ、指導方法は。
為末さんは、目の前のボールをつかむ動きを例に説明します。日本型は肩、肘、手首、指と順に指導するイメージ。海外は「ボールを大きくつかめ」とだけ言い、関節の角度は自由にやりなさいという方式でした。
この違いは為末さんにとって大きな気づきになりました。人が学習する方法は積み上げ型だけではない、と知ったからです。
肩、肘、手首っていう順番で人は学んでいくんだと思ってたのが、いきなり大学入りなさいって言った後に自由に学びなさいって言われたみたいな気分。
一方で、この2つの学習スタイルには、それぞれ別の結果が生まれると為末さんは指摘します。
選手の幅が大きく動きはバラバラだが、一部の人間だけが異常に伸びる
プロセスをしっかり踏むためみんな伸びるが、才能があっても型ができて突き抜けきれない
為末さんは当時の陸上を例に、この傾向を語ります。ある種目で世界トップ100に日本人は一人もいなかったが、トップ300から500には日本人が最も多かったといいます。これが学習スタイルを象徴していたと振り返りました。
「お客さんがいる」ことに気づいた瞬間
宇尾野さんは、社会に出た後に気づいた思い込みについて尋ねます。為末さんが挙げたのは、人に喜んでもらうために動くことを考えたことがなかった、という気づきでした。
選手時代は自分が速く走ることだけを考えていて、それでみんなが喜んでくれた。その転換が起きた時は驚いたと為末さんは話します。
それは引退して7、8年から10年ほど経った頃のことでした。
誰があんたの会社のお客さんなの、って言われた瞬間に、そうだ、お客さんがいるんだっていう。
為末さんは、この気づきを存在意義の転換として語ります。
自分が定義してお客さんを選ぶのではなく、お客さんによって自分が何をすべきかが定義される。為末さんはこの転換を、ある意味「自分なんてどうでもいい」に近い感覚だったと振り返ります。
みんなこれ普通、社会人に入って一年目でやることかもしれないですけど、それはすごい勉強になった。
アイデンティティも一つの思い込み
宇尾野さんは、その後に為末さんが夢中になったテーマを尋ねます。為末さんは、人の思い込みが取り払われる瞬間が好きだと答えます。
自分自身に向けていたベクトルを社会に向けると、あらゆる社会課題のベースに人の思い込みがあると気づいたといいます。偏見も、うまくいかないと限界を決めてしまうことも、その一つです。
ここで為末さんは、思い込みが厄介である一方、必要でもあるという逆説を語ります。
アイデンティティも思い込みだし、自分とは何ものかって定義も、ある種の思い込みだと思うんです。
本当に思い込みから全部取り払われたら、自分が何ものかがなくなって、それはそれで苦しいような気がするんです。
だからこそ為末さんの関心は、思い込みを消すことではなく、固定化されないよう柔軟に柔らかくしておく方法に向かいます。
この関心が、2025年4月から始めた研究室でのアプローチにつながっていると為末さんは語ります。
AI時代に問い直される「遊び」の価値
宇尾野さんは、いま為末さんが触れていきたい社会の思い込みのジャンルを尋ねます。為末さんは、遊びに興味があると答えます。
為末さんが最大の思い込みと見るのは、AIが出てきて仕事が奪われたら人間は何をするのか、という問いです。仕事をすることが自分たちの価値であり意義だと、いつしか思うようになったのではないかというのです。
ただ、それは産業革命より前はそうではなかったのではないか、と為末さんは指摘します。
遊びっていう言葉が出てくるのはホイジンガが1900年ぐらいなんですけど、産業革命のあとなんですよね。
仕事の時間ができたことで、仕事ではない時間、つまり余暇や遊びが意識されるようになった。為末さんはそう見ています。そしてAIが24時間働くようになると、再び「自分たちの価値や活動とは何か」という問いが浮かび上がると考えます。
遊んでいるのか働いているのか、曖昧になる時間
宇尾野さんは、2000年代にワークライフバランスという言葉が流行った一方で、AI時代には遊んでいるのか仕事しているのかわからない時間が増えていると指摘します。
為末さんも、具体的な自身の作業を例に挙げます。
クラウドで開発しながら、許可ってボタンが出てくるんですけど、それをずっとポチポチ押してる時に、これって労働なのか何なのか。
AIが動いている最中に本を読んだり動画を見たりする人が増えている。宇尾野さんがそう補足すると、為末さんはこの整理の難しさを率直に認めます。
全部取っ払って24時間働けってのも、文化的にもいろいろ無理があると思うし、どういう整理にするといいんだろう。
「遊び」とは飛び地に行く可能性があること
宇尾野さんは、為末さんが考える遊びの意味や価値を尋ねます。為末さんは、遊びを根源的なところで捉えたいと述べ、その定義を語ります。
簡単に言うと、飛び地に行く可能性があることをやるみたいな感じだと思うんですね。
目的がないのにやりたいからやってしまうことと、不確実なことをやること。この2つを掛け合わせると、今までのパターンと全然違うものが出てくる可能性が生まれる。為末さんはそう説明します。
さらに為末さんは、これをAIと結びつけて語ります。AIが遊び出した瞬間、それは強制されずに自発的に何かをしたことになるため、本当のAGIの完成ではないかというのです。
人間同士が一緒に遊び合う中でポッと新しいものが出てくる。為末さんは、そのパターンが崩れる感じに強い興味があり、それを「遊び」と呼んでいると語ります。
遊びを、経営にどう組み込むか
宇尾野さんは、スタートアップの創業期にも遊びの要素があると応じます。創業メンバーへのインタビューでは、最初は遊ぶように熱中して新しいものが生まれる、という話が多いといいます。
一方で、事業が広がるにつれて遊びの要素が落ちていく。すると経営者がバーンアウトしたり、資本家に認められるものを作る感覚になっていく。宇尾野さんはそうしたシチュエーションを見てきたと語ります。
だからこそ、遊びを経営にどう回帰させ、組み込んでいくかが大事なテーマだと宇尾野さんは述べます。
為末さんは、この感覚を「遊び」と呼んでいるが本当は別のネーミングかもしれない、と可能性を残しつつ、研究室での仕事の狙いを語ります。
これから先10年、20年射程が残って、しばらくそれについてみんなが議論できるような問いをポンと投げかけるっていうのが一番大きい仕事かな。
AI時代の「人間の営み」を言葉にしたい
為末さんは、過去に生まれた概念を例に、言葉の射程について語ります。MITにいた研究者が作った「タンジブル」という言葉です。
デジタル空間と私たちの身体の間の接触点がないと、我々はデジタル空間を操作できないって言って、そこにマウスとかタッチパネルみたいな概念が出てくる。
その言葉は2、30年、あるいはもっと長く残る射程を持ったと為末さんは言います。同じように、AI時代における人間の営みとは何かを問う言葉を提起したいというのが為末さんの狙いです。
宇尾野さんは、いま働く人たちが新しい何かに乗りたいのにわからず、ソワソワしていると応じ、為末さんの研究を学びたいと語ります。
人間防衛軍みたいな気持ちで、今私は。人間らしさを防衛するぞみたいな。
最後に宇尾野さんは、また次回に続きを作っていきたいと締めくくり、対話を終えました。
まとめ
後編で為末大さんが一貫して語ったのは、人や組織を無意識に縛る「思い込み」の正体と、そこから解き放つ手がかりでした。思い込みは気づいた時点で思い込みではなくなるという厄介さを抱えつつ、消すのではなく柔らかく保つことが鍵になると語られます。そしてAI時代に問い直される「遊び」が、パターンを崩し飛び地へ向かう力として位置づけられました。
- 諦めるとは仏教用語の「明らかにする」に由来し、執着を捨ててあるがままを認識すること
- 思い込みは気づいた瞬間に思い込みでなくなるため、気づいていない何かが人を縛っている
- 言葉やよく使う表現のレベルで人も組織も縛られており、置き換えることで余白が生まれる
- 自分の存在意義は「どうしたいか」ではなく「何を届けるか」で決まるという転換があった
- 遊びとは目的のなさと不確実性を掛け合わせ、飛び地に行く可能性を生む営みである



