無力感を抱えて帰った1年目と「30歳で戻る」という決断
大学卒業後、藤井さんは日本ブラジル交流協会の青年派遣事業でブラジルへ渡りました。卒業設計でリオのファベーラの改造計画をやったこともあり、スラムに関わる仕事がしたいと考えていたそうです。
ところが実際に派遣されたのは、サンパウロ郊外の市役所の都市化事業部でした。そこがやっていたのは、スラムを撤去して公共団地を作るという、藤井さんの望みとは真逆の仕事だったといいます。
藤井さんによると、リオのスラムは丘の上にあるのが特徴だそうです。森林保護地域や崖の上など、本来住んではいけない場所に掘っ立て小屋を建てて住んでいると説明します。
リオの場合は本当に逆で、ファベーラ、スラムが丘の上の方にあって、お金持ちはもうちょっと下の方に住んでるみたいな、という都市構成なんですね。
現場でスタッフとして入ると、住民たちは日本から来た建築学士にいろいろ聞いてきました。しかし彼らは全部セルフビルドで家を建てているため、コンクリートの作り方や墨出しなど、実務の知識は藤井さんより詳しかったといいます。
大学4年間学んだことが全く役に立たない。その現実を痛感し、このままいてもブラジルの人に貢献できないと感じたそうです。
このままブラジルにいたいって思いはあったんですけど、ちょっとこのままいても、ブラジルの人に対して自分は失礼っていうか、全然貢献できないなっていう思いが強かったんですよ。
そこで藤井さんは一度日本へ戻り、修行を積むことを決めます。当時21、22歳。「30歳になったらブラジルにもう一回戻る」と自分の中で期限を設定しました。
履歴書を持って本社に突撃、待遇150分の1のブラジル再挑戦
日本で設計事務所などに勤めて約8年。29歳になった藤井さんは、ブラジルへ行く具体的な道を探し始めます。まず狙ったのは、建築・建設分野でブラジルに進出している日本企業でした。
調べてみると、当時ブラジルに支店を持つ中堅ゼネコン・戸田建設が見つかりました。就職活動をほとんどしたことがなかった藤井さんは、履歴書を持って八重洲の本社カウンターへ直接向かいます。
その履歴書を持ってカウンターに行って、ブラジルで雇ってもらえませんかねって突撃ですね。
受付に突撃っすか。
ところが、たまたまその日にブラジルの支店長が一時帰国して海外事業部にいました。話を聞いてもらえることになり、受付から一気に道がつながります。
すげえ漫画じゃないですか。
支店長も、日本語を話せる建築士をブラジルで探していたところでした。藤井さんは駐在ではなく、あくまで移住を前提とした現地採用を希望します。その条件を了承し、就労ビザだけ出してもらう形で、2週間後にはブラジル移住が決定しました。
ただし現地採用の待遇は、駐在とは比べものにならないものでした。二つ返事で受けたその条件を、藤井さんは今の収入と比べてこう振り返ります。
今自分の収入と当時の収入を比較すると、150分の1、もっとかな。
日本語手当のようなものもなく、一介のブラジル人スタッフとして雇用されたため、外食もできないギリギリの生活だったといいます。それでも「30歳で行く」という自分の決断が最優先でした。
ブラジル人と競うのをやめた瞬間に開けた道
移住後、藤井さんは最初、ブラジル人の同僚に「絶対勝ってやる」と躍起になっていました。しかし、同じ土壌でいくら頑張っても現地の人には勝てないと気づきます。外国人という変えようのない事実があるからです。
そこで発想を切り替えました。ブラジル人としてではなく、日本人であるがゆえのメリットをどう会社に還元するか。周りと同じことをするのではなく、自分にしかできないことを探すという方向です。
この「唯一無二性」の追求が、その後の飛躍の起点になったといいます。その象徴が、5年かけて取得したブラジルの建築士資格でした。日本人でこの資格を取った人がいないと知っていたことが、取得を目指す理由になりました。
なんかもうサッカー留学してる人の話かなっていうキーワードですよね。唯一無二性大事で、個人技が評価される土壌だからね、ブラジルは。
藤井さん自身も、ブラジルでは組織より個人の力で結果を出すことが商習慣的にも重要だと語り、「サッカーと一緒だよね」とよく言われると話します。
隈研吾を巻き込んだ「ジャパンハウス」と、独立への道
転機のひとつが、外務省が世界3都市に日本文化の発信拠点「ジャパンハウス」を作る計画でした。サンパウロ総領事から入札への参加を打診された藤井さんは、当時勤めていた戸田建設で実現を目指します。
本社は文化施設の実績がないと難色を示しましたが、支店長を味方につけてゴリ押しで説得します。入札要件には日本の著名建築家の登用も含まれており、藤井さんが即座に浮かべたのが隈研吾さんでした。
縁のあった隈さんに電話で持ちかけると、二つ返事で承諾。隈さんが加わったことで本社も前向きになり、入札に勝つことができました。
隈さん、サンパウロでこういう案件あるんですけど、一緒にやりませんかって言ったところ、彼も二つ返事で「面白そうだね、やろうよ」って言っていただいて。
その後、外務省の規約で兼業ができず、藤井さんは戸田建設を辞めてジャパンハウスのスタッフになる道を選びます。約2年勤めた後、隈研吾さんをさらに口説き、隈事務所のブラジル代理人としても動くようになりました。
この関係は今も続いています。藤井さんが現地で新規営業して受注し、設計は東京やパリの隈事務所が担い、現地のプロジェクトマネジメントを藤井さんが受け持つという役割分担です。
95%がブラジルの顧客、日本の建築が世界で評価される理由
独立した藤井さんの事務所では、カフェや日本食屋、家電量販店など、300〜400平米規模のインテリアを中心に手がけています。顧客の約95%はブラジルの人だといいます。
その背景には、日本の建築やデザインが世界的に高く評価されているという事情があります。現地の建築家も日本の禅や侘び寂びを知っていて、それにインスピレーションを受けているそうです。
藤井さんによれば、建築界のプリツカー賞で最も多く選ばれているのは日本人だといいます。それほど日本の建築家は世界で評価されていると説明します。
一方で、日本の建設業界の海外展開は苦戦してきました。バブル後に海外へ出たゼネコンは中東などで大赤字を抱えて撤退し、ブラジルでも清水建設や竹中工務店といったスーパーゼネコンが撤退したといいます。
その原因を、藤井さんは現地の顧客をほとんど持たなかった点に見ています。日系企業のために進出し、その間に営業もしなかったことが失敗につながったという見方です。
撤退した大手と、17年サバイブしてきた自分との違いは何か。藤井さんは、現地の顧客と現地の考え方に向き合ってきたことを挙げます。日本の本社ばかりを見る構造では、うまくいかないという指摘です。
同じ国でこんなに違う、リオで痛感した「貴族の壁」
藤井さんは去年まで2年半、リオに住んでいました。もともとリオに住みたいという思いに加え、隈研吾事務所で受注したプロジェクトがあったため、家族でサンパウロから引っ越したのです。
ところが、2年半で新規案件を1件も受注できませんでした。サンパウロでは取れていたのに、リオでは全くうまくいかなかったといいます。
その理由を、藤井さんは後になって理解します。リオは日本でいう京都のような場所で、かつてポルトガルの王室がそのまま移ってきた歴史がありました。王族とともに来た貴族たちの子孫が、今も「オールドファミリー」として多く残っているというのです。
部外者は受け付けない、本当に一見さんお断りという世界。
ブラジルは貧富の差がインド以上と言われるほど大きく、人口の約3%の高所得者層が国全体の富の7割ほどを占めるといいます。リオではこうしたトップ層の牙城を崩せず、大きな案件は取れなかったと振り返ります。
結局サンパウロに戻ると、すぐに仕事が入ってきました。人口約1600万人、ブラジル全体のGDPの約4割を占める南半球最大の都市であり、「別の国のような感じ」だったといいます。
ブラジルに残る理由と、移民の国が育てた人の魅力
藤井さんがブラジルに残り続ける理由は2つあります。1つは子育てです。6歳の娘をブラジルで育てたいと、夫婦の考えは一致しているといいます。
藤井さんが注目するのは、娘の表現力とコミュニケーション能力です。学校で特別に教わったわけではないのに、日本の子どもとは違うと感じるそうです。一時帰国して学童に行くと、目を離した隙に娘が周りの子へどんどん声をかけてしまうといいます。
いかにして人と話を始めて、人の心を開けて、そこに入っていくかっていう能力は、教えても身につかないもので、自分でやって身につけていくもの。
もう1つの理由は、その人の魅力から生まれるクリエイティビティです。藤井さんは、ブラジル人を「話すだけでなく、まず人の話を聞く」懐の深さがあると評します。
ベラベラ話してるようなイメージだと思うんですけど、意外と聞いてくれるんですよ。意外と聞いた上で、自分の自己主張を始めるんですけど。
こうした人が生み出すアートやデザインも圧倒的だと藤井さんは言います。例に挙げたのが、ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーです。
今ちょうど画像検索して見てるんですけど、生成AIかなっていうぐらい違和感ある建築いっぱい作られてますね。
藤井さんは、こうしたクリエイティビティが生まれる土壌の根本に、200年、100年単位で続くさまざまな移民のルーツがあると分析します。ブラジルにしっかり馴染んだ上で、それぞれのルーツが脈々と残っているのだといいます。
「信頼できる日本人」、120年の移民が築いた土台
ブラジルには日系人クラブやポルトガル系、シリア系など多様なコミュニティがあり、互いにいがみ合わずリスペクトし合っているといいます。同じ移民の国でも、アメリカやヨーロッパに比べて差別が圧倒的に少ないと藤井さんは感じています。
これに対し坂本さんは、オランダでの経験から、ヨーロッパでも移民への反発的な雰囲気はあると応じます。ブラジルはそこからさらに100年以上先を行っているという見方に、藤井さんも共感します。
来年は日本人のブラジル移民120周年にあたります。最初の移民は、数年働けば稼いで帰れるという触れ込みで渡ったものの、実際は奴隷のような扱いを受け、収入も農場主に取られる過酷な暮らしだったといいます。
それでも日本人は真面目で裏切らないという国民性を保ち、コツコツ貯めた金で子どもに教育を与えてきました。120年続いたその積み重ねが、ブラジル社会での高い評価につながっています。
嘘をつかない、裏切らない。日本人には当たり前でも、多くの国の人が混ざるブラジルでは希少価値があるといいます。ビジネスの場でも「日本人は心の友達だ」とよく言われるそうです。
過去の120年前の日本人の方々が苦労された土台に立たせてもらって、ビジネスをやってるっていう意識は常に持ってますね。
坂本さんも、海外に出ている身として、この話に背筋が伸びると応じます。先人が培ってきた信頼を損ねてはいけないという思いを共有しました。
藤井さんは、サンパウロの日本移民資料館を訪問先として勧めます。落合陽一さんを案内した際も「一番良かった」と言われたといい、120年の歴史とストーリーが詰まった場所だと語ります。
「一番遠い国」が「一番近い国」になる理由
番組の最後、藤井さんはブラジルを「日本から一番遠い国の一つ」と言われるが、来てみると「一番近いかもしれない」と言われる、と紹介します。その理由が、世界最大の日系人コミュニティの存在です。
ブラジルに住む日系人は約280万人。人口約2億1000万人の中で1%ほどですが、サンパウロ州ではその割合がさらに高くなるといいます。
訪問の時期については、サンパウロは意外と寒く、南半球で季節が真反対だと説明します。おすすめは秋の終わりから冬の入り口にあたる5月から6月ごろ。寒いのが苦手ならリオのカーニバルがある2月頃もよいそうです。
藤井さんは携帯を見ながら歩く「ながら歩き」だけは避けるよう注意を促しつつ、治安面は自身の幼少期とは違い、今は家族で夜も歩けるほどだと語りました。坂本さんも近々の訪問を約束し、対談は締めくくられました。
まとめ
ブラジルで17年サバイブしてきた藤井さんの歩みは、周りと競うのではなく唯一無二性を磨くこと、そして本社ではなく現地に向き合うことの大切さを示しています。移民の国が育んだ人の魅力と、120年の日本人移民が築いた信頼という土台も、両国の絶妙な関係を物語ります。
- 大学で学んだ知識が通用しない無力感から、藤井さんは「30歳で戻る」と決めて日本で8年修行した
- 現地採用は待遇150分の1という過酷さだったが、ブラジル人と競うのをやめ唯一無二性を追求したことが飛躍の起点になった
- 日本の建築は世界的に高く評価される一方、本社ばかり見る海外展開は現地の顧客を掴めず失敗しやすい
- 同じブラジルでもサンパウロとリオは大きく異なり、リオでは貴族的なオールドファミリーの壁に阻まれた
- 120年の日本人移民が築いた「信頼できる日本人」という評価が、今の日本人ビジネスの土台になっている
