目に見えない極細線を作るグローバルメーカーとは
河田さんはMisuzu Holdingという香港に本社がある会社の社長を務めています。もともと本社は日本にありましたが、親子逆転して今は香港が親会社になっています。
2025年1月からは日本の社長も兼任するようになり、香港と日本を半々ずつ、さらに中国3拠点やラオス1拠点なども行き来しているといいます。
会社の事業は金属の加工業です。電線の中に入っている銅などの金属の線を、引っ張って細くしたり、潰して平べったくしたり、撚り合わせたりして作っています。
電線って言ってもめちゃくちゃ太いものから、目に見えない細いまであるんですけど、弊社のやってる仕事はもうその目に見えない一番細いところ。
聞き手の森下さんが、その細い線が最も多く入っている身近なものを尋ねると、河田さんはトップ2として半導体製造設備と自動車を挙げました。
半導体は精密なものを作るため部品が小さく、そこに入る電線も細くなります。自動車はカーナビやエアバッグ、センサー、シートヒーター、カメラのケーブルなど、あちこちに電線が使われているといいます。
海外を身近にした父と「人と違うことを」という母
河田さんは兵庫県神戸市の生まれ育ちです。地域としては新興住宅地で、本人いわく「本当にごく普通」の幼少期だったといいます。
ただし神戸は昔から海外に開港された港町で、外国の雰囲気が端々にあり、外資系企業も多い土地でした。
河田さんの父親はスウェーデンの会社に勤め、総務の仕事をしていました。そのため物心ついた頃から、家に外国人が訪れることがあったといいます。
駐在員のスウェーデン人の家に招かれてパーティー行ったりとか。すごいなと、めちゃくちゃ大きな家だなみたいな感じで、そういうのをちょこちょこ経験していて、なんとなく海外が身近だった。
父親自身も九州の田舎の出身で、大学時代に英文タイプ部にいたと河田さんは語ります。有名大学ではなく日系の一流企業への就職は簡単ではなかったため、外資系企業に採用されたという流れだったそうです。
一方で、今の人格形成に影響したこととして河田さんが挙げたのが、母親の教えでした。小さい頃から「人と違うことをしなさい」と言われ、宿題の内容などにも「ちょっとアクセントを一つつけなさい」というきらいがあったといいます。
母親がちっちゃい頃からよく人と違うことをしなさいみたいな、そういう母親だったんですよ。今となっては感謝してますね。
この話に森下さんは、自身も長女に対して同じようなことをしていると共感します。インターナショナルスクールでは、イベントに出るかどうかを子ども自身に選ばせる文化があると話しました。
森下さんは、サイエンスの発表会に参加した子どもたちのパッションに触れ、人がやらないことをやる大切さを改めて感じたと語ります。
英英辞典で鍛えた「英語で考える癖」
河田さんは公立の小中高に進み、高校は兵庫県で公立ナンバーワンと言われる長田高校に進学しました。
長田高校は「文武平等」を掲げ、徹底した文武両道で知られていたといいます。体育の授業の初めに全員で2400メートル走り、雨が降ればその倍を走らされ、卒業までに全員がバタフライをできるようになるほどだったそうです。
そこ来る人たちって変わった人が多くて、非常に面白い仲間に恵まれて、小中高大学全部含めても高校が一番楽しいし好きだなっていう。
この学校で河田さんの転機となったのが、英語の先生が紹介してくれた英英辞典でした。英語がわかるようになるにはこれで調べた方がいいと考え、受験勉強の中でも英英辞典を使い続けたといいます。
わからない単語を英英辞典で引くと、説明文の中にまた知らない単語が出てくる。その繰り返しで終わらない日もあり、受験勉強としては超遠回りだったと河田さんは振り返ります。
英語のことをいちいち日本語に翻訳せずに英語で考える癖とか、難しいことをやってると、これ簡単に思えてきたりとかいうのがあるので。
何のこだわりもなかった大学入学と就職活動
大学は当初、京都大学の法学部を第一志望にしていました。ただ法学に強いこだわりがあったわけではなく、「レールの上でなるべく優秀なところに」という感覚だったといいます。
結局、センター試験の点数が良かったこともあり、浪人を避けて大阪大学経済学部に進学しました。河田さん自身、経済をやりたいと思っていたわけではなく、何のこだわりもない入学だったと振り返ります。
受験勉強のゴール、ゴールになっちゃってますよね。ほんともうそこが一旦レールのゴールぐらいな感じで、何のこだわりもない、そういう入学でしたね。
就職活動の時期になると、河田さんはみんながスーツを着て一斉に活動する様子に違和感を覚えるようになっていたといいます。大学に入った時点で一度レールが終わり、少し斜に構えていたのではないかと自己分析します。
運命を変えたゼミの師の教えと初めての一人海外
大学で河田さんが「運が良かった」と語るのがゼミ選びでした。海外で働きたいという子どもの頃からの興味を活かせる、開発経済学のゼミに入ったのです。
ゼミには外国人留学生や海外志望の学生が集まり、担当教授は世界銀行で長く勤めた後に大学教授になった人物でした。不真面目な学生に対しても丁寧に付き合ってくれたといいます。
その教授が常々語っていた言葉が、河田さんの支えになりました。迷ったら、半分は自分のことを考え、もう半分は世界のことを考えなさいという教えです。
自分が今意思決定することが自分にとってどうなのかっていうことと、世界に対するインパクトとか、世界に対していいことなのか悪いことなのか、そういったことを考えれば道を踏み外すことはないし、まともな人生になりますよと。
森下さんは、自分半分・世界半分という考え方を、余裕がなくなりがちな今の時代にこそ重要な視点だと受け止めました。
ゼミの仲間の影響で海外旅行にもよく行くようになり、大学時代には初めて一人で海外へ渡ります。ユーレールパスと時刻表を手に、キャセイパシフィックで香港経由でドイツに飛び、スイスやチェコを回って帰国したそうです。
河田さんはこの旅で面白さと同時に、言葉が通じない無力さも感じたといいます。当時の英語力は、聞くのも話すのも半分程度だったと振り返ります。
新卒2年目で香港へ、そして上海・北京の成長市場で
大学卒業後、河田さんは遅い時期に募集していたコクヨに入社します。海外に力を入れ始めそうな雰囲気、環境への取り組み、そして「早期に一人前にする」という育成方針が決め手になったといいます。
実際、同期には創業一族で現在社長を務める人物がおり、特殊な教育を受けたそうです。面接で海外に行きたいと伝えたところ内定が出たため、入社を決めました。
入社1年目は国際調達関連の部署で日本に過ごしましたが、部門ごと香港に移ることになり、新卒2年目の途中で香港赴任が実現します。
多分あの会社史上一番早かったですし、ただただラッキーで。部門が引っ越したからついでに引っ越しみたいな感じで連れてってもらいました。
香港では文具のOEM先を探し、品質管理や貿易実務、クレーム対応などを担当しました。事務所と工場を行き来する日々だったといいます。
香港に2年いた後、結婚を機に一度日本へ帰任します。日本で海外部門の仕事を続けるうち、再び海外に戻りたい思いを募らせていました。
入社6年目頃、上海から声がかかります。コクヨが上海で立ち上げていた、日本のアスクルのような事務用品の即日配送ビジネスの立て直しでした。
河田さんは企画とマーケティングの責任者として、初めてのマネジメントに挑みます。上海と北京を合わせて7年間、中国で過ごすことになりました。
初めて行った部門で4人か5人部下いたんですけど、もう数ヶ月でボロが出て。マネジメントやめて部門解体して一人で全部やるみたいな感じになって。挫折、挫折の繰り返しだった。
中国では言葉の壁も大きな課題でした。中国語しか話せない部下ばかりの部署を任され、お互い歩み寄るしかない状況の中で、中国語が上達したといいます。
河田さんは、言語よりも文化の違いのほうが大きかったと語ります。仕事の進め方も文化も異なる中で、それをどう乗り越え、活かすかが大きな学びになったそうです。
森下さんも中国での仕事経験から、日本のようにマイルストーンを引いて逆算する進め方とは異なる、ゴールの見えにくい進行に苦労した記憶を語ります。
一方で、2006年に赴任した当時の上海は爆発的な成長市場でした。イケイケの時代にビジネスを経験できたことは、河田さんにとって大きな財産になったといいます。
各社日系企業も優秀な方を送り込んでたので、素敵な方にも出会えましたし、刺激にもなったし、ひと回りは成長できたんじゃないかなっていうのは思いますね。
まとめ
極細線メーカーの3代目社長・河田壮一さんの前編では、神戸の少年時代から中国駐在までの原点が語られました。海外を身近にした父と「人と違うことを」という母の教え、英英辞典で鍛えた英語感覚、ゼミの師の言葉が、後のグローバルキャリアの土台になっています。
- 河田さんが率いるMisuzu Holdingは、半導体設備や自動車を支える目に見えないほど細い電線を作るニッチなグローバルメーカー
- 外資系に勤める父と、人と違うことを促す母の存在が、海外への憧れと独自性を大切にする姿勢を育んだ
- 高校時代に始めた英英辞典が「英語で考える癖」を育て、ゼミの師の「自分半分・世界半分」の教えが人生の指針になった
- 新卒2年目で香港赴任、その後上海・北京で計7年、成長市場での挫折と学びを重ねた
- 現職への転身や経営者に至る道のりは後編で語られる



