農場ホテルからスラムの寺子屋まで手がける今の仕事
番組前半では、ゲストの生い立ちやキャリアをたどるのが恒例です。まず藤井さんが今ブラジルで手がけている仕事から話が始まりました。
藤井さんはブラジル在住17年目。建築を主としたデザイン事務所を経営しています。
扱うプロジェクトの幅はとても広く、大きなものではディズニーランド16個分の敷地を持つ農場ホテル、小さなものでは机や椅子まで手がけているそうです。
さらに、ブラジルのスラム街にある寺子屋のような施設も作っていると話されました。
ものづくりを軸にする一方で、日本のいいものをブラジルへ持ち込む活動もしています。九州のコーヒー用品メーカーが作るペーパーフィルターの、ブラジル販売独占権を得て、昨年から販売を始めたそうです。
もうなんか早速情報量がめちゃくちゃ多いんですけれども。
聞き手の坂本さんは、ブラジルの実情は後編で深掘りするとして、前半ではまず「藤井さんがどうやってブラジルに行き着いたのか」を聞いていくことにします。
『キャプテン翼』世代の少年に届いた「来月ブラジル行くぞ」
藤井さんの生まれは神戸ですが、2〜3歳の頃に東京へ引っ越したため、育ちは基本的に東京だといいます。
家庭はドメスティックな雰囲気でしたが、父が商社勤めでいろいろな国を転々としていました。ブラジルとの縁も、父の仕事がきっかけでした。
小学6年生のとき、突然家族会議が開かれ、父からブラジル移住を告げられます。
よし、来月からブラジル行くぞっていきなり言われて。そもそも家族全員びっくりしてしまい、ブラジルってなんだ、ジャングルかみたいな。
母も姉も顔が真っ青になるなか、サッカー少年だった藤井さんだけは大喜びだったそうです。
『キャプテン翼』黄金世代なんですよね。なんでもブラジルに移住って聞いただけでもバンバンザイで、自分一人だけもうバンザイしてたっていう。
当時の日本ではヨーロッパサッカーの情報はほとんどなく、むしろ南米サッカーの方が身近だったと2人は振り返ります。三浦知良やジーコ、Jリーグ初期に来日したブラジル人選手たちの名前が挙がりました。
藤井さんが渡ったのはジーコ来日の少し前。通っていたリオの日本人学校に、ジーコが挨拶に来たこともあったといいます。
まだ髪の毛はいっぱいあった時代ですけど。
空港で漂うアルコールの匂い、そして肌の色の多様さ
家族での海外生活は初めて。憧れていたブラジルに着いた藤井さんを最初に迎えたのは、意外にも「匂い」でした。
そこら辺でみんな道でボール蹴ってんじゃないかっていう、そういう思いしかなかったんですが、実際に行ってみたら、空港に降りた時点ですごい変な匂いがするんですよ。
その正体は、ガソリンではなくアルコール(エタノール)で走る車の排気でした。当時から、ブラジルではエタノールとガソリンのフレックス車が主流だったといいます。
次に驚いたのは視覚でした。サッカー選手のイメージから褐色の肌の人が多いと思っていた藤井さんですが、街には白人が多く、そこに肌の色の濃い人がちらほらいるという構成だったのです。
これは、ブラジルが移民でできた国であることに由来します。ポルトガルの植民地だった歴史から、ポルトガル、スペイン、ドイツ、ポーランド、シリアやイスラエルなど、実に多様な国から移民が集まってきたと説明されました。
坂本さんは、なぜヨーロッパから発展途上国側とも見えるブラジルへ移民が来たのかを尋ねます。藤井さんは、その背景を歴史からたどりました。
日本人移民が始まったのは1908年。日本の地方が飢饉や貧困に苦しみ、長男以外を海外へ送り出すことも多かった時代でした。
今のブラジルは、こうした1800年代半ばから来た移民の子孫が作り上げた国だと藤井さんは言います。日系人は5〜6世、ヨーロッパ系は8〜9世、10世という感覚だそうです。
今の時代に藤井さんのように外国生まれで移住してくる1世は、人口比でわずか数パーセント以下にすぎないといいます。
もう本当にそうですね、もう全てが混ざってますね。
学校とサッカーと英語教室だけ。閉じられた思春期
では、藤井さんはすぐに現地になじめたのでしょうか。話はリオの治安の問題へと移ります。
当時のリオは今より治安が悪く、親は中学生の子どもを1人で外に出しませんでした。藤井さんが外に出られたのは、日本人学校、地元のサッカークラブ、英語教室の3か所だけだったといいます。
送り迎えは全てスクールバス。サッカー好きだったんで、その地元のサッカークラブに通っていたのと、あと英語教室に行ってた。この3箇所だけ唯一その外に出るのを許してもらえた。
物を盗まれる、強盗、誘拐など、何が起きてもおかしくないという親の心配が背景にありました。今は親となった藤井さん自身は、当時の親は少し現実を知らなすぎたのではないかとも振り返ります。
一方、姉はアメリカンスクールに通っていました。授業以外はポルトガル語を話す環境で、ブラジル人と交わっていたそうです。
ただ、きちんとオーガナイズされたことを好む姉の性格には、ブラジルのやり方は合いませんでした。姉は約2年でブラジルに耐えられなくなり、中学2年生ごろに1人で日本へ帰ってしまいます。
同じ育て方をされた姉弟でも、ブラジルへの思いは正反対になった、と藤井さんは語りました。
時刻表がない国、3回リマインドしないと来ない会議
日本人から見た「適当エピソード」を坂本さんが尋ねると、藤井さんはブラジルの商習慣を具体的に語り始めました。
まずブラジルで時刻表なんてものは存在しないですよね。
国土は日本の25倍あり、地域によって県民性は大きく違うと前置きしたうえで、当時住んでいたリオでの会議の設定方法を紹介します。
2回目、3回目の確認をしないと本当に来ないのかと坂本さんが問うと、藤井さんは「来ない」と即答しました。もちろん個人差はあるとしつつ、噂に聞いていた通りで驚いたそうです。
ビジネスを成功させたいなら自分の利益のために来るはず、という日本的な発想とは、そもそも考え方の出発点が違うといいます。
もう一つ印象的だったのが、徹底した家族第一の価値観です。家族に問題があれば当然そちらを優先し、上司からも「なんで会社に来てるんだ」と言われるほどだといいます。
その環境がどうとか、職業がどうとかじゃなくて、もう徹底して家族っていうのは自分の根幹の一つにあるなっていうのは思いますね、ブラジル人は。
帰国、コンプレックス、そして「自分の力で戻る」決意
藤井さんは中学卒業までブラジルに滞在し、高校受験のために日本へ帰国します。ブラジルにいたのは3年ちょっとでした。
進んだのは大学付属の高校で、帰国子女が2割ほどいる環境でした。ただ、多くはアメリカやイギリス、フランス帰りで、英語やフランス語を話す「かっこいい」イメージの帰国子女だったといいます。
そのなかで藤井さんは、よくわからない国から来た、しかもポルトガル語もほとんど話せない存在でした。日本人学校で英語を習っていたため、3年以上いてもポルトガル語はほぼ話せなかったのです。
それでめちゃめちゃ自分はコンプレックスだったんですよ。それで帰国子女って言われて。
サッカーも飛び抜けてうまいわけではなく、「ブラジル帰りのやつがいる」と噂されて練習試合をしても、期待外れに見られることがあったといいます。
一方で、埼玉の本庄にある全寮制のような環境で時間だけはあり余っていました。そこで藤井さんは「自分とは何か」と自分の内面へ深く入っていきます。
考えを巡らせるほど、ブラジルという国が自分にあまりに大きな影響を与えていることに気づきました。そして17歳、高校2年のときに、ある決意に至ります。
坂本さんが「忘れちゃったものを取りに行かなきゃな、という感じか」と尋ねると、藤井さんは自分の人生の命題のようなものだと答えました。思春期に受けた体験が、そのまま人格形成に影響していたのです。
建築との出会いと、大使館で見つけた一枚のポスター
大学はそのまま付属の日本の大学へ進みますが、本来ならポルトガル語や外国語を学ぶ道もあったところでした。藤井さんは、ひょんなことから建築に出会ってしまいます。
建築とブラジル、ブラジルと建築、どっちが自分にとって大切なんだろうっていうのは、これは今でもずっと抱えていることなんですけど。
答えの出ないまま大学では建築を学びました。理系で忙しくブラジルへは行けませんでしたが、戻りたい気持ちは変わらず、卒業制作ではリオのスラムの改造計画に取り組みます。
その卒業制作のためにブラジルの文献を探して大使館に通っていたとき、一枚のポスターが目に留まりました。「働きながら学ぶ」というコピーの、青い空のポスターでした。
それは、1年間の文化交流ビザでブラジルへ派遣し、現地の企業や役所で研修しながら言葉と商習慣を学ぶプログラムを行う派遣団体のものでした。
もうこれしかないと思って、私、当時就職活動するかどうか迷ってたんですけど、そんなの全くまっさらにして、そっちに進むことにしました。
一度こうと思ったらやらずにはいられない性格だと藤井さんは言います。坂本さんは、そのチャンスとの出会いを運命的なものだと受け止めました。
親の都合で海外に行った少年が、カオスに惹かれ、コンプレックスを抱えながらも自分の意志でブラジルへ近づいていく。話は少しずつ、彼のキャリアの入り口へと向かっていきます。
まとめ
父の仕事で小6でブラジルへ渡った藤井さんが、異国のカオスに惹かれ、帰国後のコンプレックスを経て「自分の力で戻る」と決意するまでを振り返った前半回でした。後編では、実際にブラジルへ行ってからの話が語られる予定です。
- 藤井さんはブラジル在住17年目で、農場ホテルからスラムの寺子屋、家具まで手がけるデザイン事務所を経営している。
- 小6のとき父の仕事で突然ブラジル移住が決まり、サッカー好きの藤井さんだけが喜んだ。
- 空港で漂うアルコール車の匂いや、多様な肌の色に象徴される移民国家ブラジルに強い衝撃を受けた。
- 治安の悪いリオでは学校・サッカー・英語教室の3か所だけの閉じた生活を送り、姉は先に日本へ帰った。
- 帰国後にコンプレックスと向き合うなかで「自分の力でブラジルに戻る」と17歳で決意し、建築と大使館のポスターがその道をつないだ。
