テキスト通話アプリを手がける起業家の来歴
聞き手の森下明さんは、アプリ系イベントで西村さんと偶然出会い、そのキャリアに共通項と稀有さを感じてポッドキャストに招いたと話します。前編では西村さんの生い立ちとキャリアの前半に触れていきます。
西村さんは、テキスト通話アプリを提供する株式会社Jiffcyの代表を務めています。1995年に埼玉県で生まれ、幼稚園時代から東京や大分を移り、小学1年生でシンガポールへ渡りました。
シンガポールに2、3年ぐらいいて、小学4年生から中学2年の最後まではタイにいました。そこから日本に戻って、日本の高校、大学に行って、今はグローバルにプロダクトを展開しています。
海外移住のきっかけは、仕事の都合でいろいろな場所を移る転勤族だった親の事情でした。西村さん自身は、幼少期に親に連れられるまま海外へと出ていったといいます。
「デフォルトでグローバル」という感覚
幼少期に海外へ出た経験は、今のプロダクト開発にどうつながっているのか。西村さんは、その根底に「デフォルトでグローバル」という感覚があると語ります。
日本人にだけ、日本にだけサービスを提供するというのは、名古屋人向けにサービスを作るのを目指しているようなイメージに近くて。
もともと自分が住んでいたところの友達やタイ人の友達が使わない前提でサービスを作るのが、すごく変な感じがするんです。
この感覚は、大人になってからグローバルを意識し始めた起業家とは根本的に違うと西村さんは話します。
森下さんは、自身がビジネスでグローバルに関わり始めたのが2021年ごろで、後天的に意識してきたと打ち明けます。シンガポールで暮らす3人の娘には、生まれながらにグローバルな視野を持ってほしいと考えているといいます。
1プレーヤーとしては、いや、なんか違いを見せつけられたなという感じですね。
幼少期から海外で育ち、世界中の人が使う前提でサービスを考えるのが自然な感覚
大人になってから意識的に「グローバルをやらなきゃ」と取り組む姿勢
祖父と父から受け取った起業家精神
森下さんには、この回にひとつの裏テーマがありました。起業家である祖父や父の背中を見て育った子はどうなるのか、という関心です。子育て中の森下さんにとって、西村さんはその「被験者」のような存在だったといいます。
西村さんは祖父と直接会う機会はほとんどなく、電話やエピソードを通じて話を聞いて育ちました。その中で、経営に関する話に急激に現実味が出てきたと振り返ります。
前例がなくて、専門家に聞いても無理と言われるようなことを、じゃあこう(やったら)いいんじゃないかと言って、それを実現しちゃったりとか。
答えを知ってそうなものなのに、答えはむしろ作っていくものなんだと聞いて。
当時はかっこいい言葉で考えていたわけではなく、西村さんは世の中のイメージを別の言葉で表現します。
世の中が直方体みたいなイメージだったのが、もっとぶよぶよしたゼリーみたいな感じだったっていう。
この「世の中は流動的だ」という気づきに、森下さんも強く反応します。小学5年生のとき、立方体や直方体の面積計算に「世の中にそんな単純なものは存在しない」と違和感を覚え、高校で微分積分を学んで初めてその感覚が間違っていなかったと腑に落ちた経験を語りました。
現地に根ざす教育方針とCCレモンへの憧れ
シンガポールでもタイでも、西村さんは現地の学校に通いました。タイ語や英語が中心で、一部日本語もあり、日本人やハーフの生徒も混じる環境だったといいます。
日本人コミュニティにはあまり入り込まなかった一方で、西村さん自身は日本人と仲良くしたかったと明かします。
むしろ日本への憧れがすごくて、めちゃくちゃ小さい時に飲んだCCレモンを飲むのが夢なんだよね、みたいな感覚でした。
ところが、親の方針は現地になるべく根ざした活動をすることでした。住む地区も日本人コミュニティから微妙に外れた場所が選ばれ、日本の文化がよくわからない曖昧な状態だったといいます。
この方針の背景には、父親自身の経験がありました。
父がアメリカで育ったんですけど、現地の学校に放り込まれて放置された経験が、結果として良かったらしくて。それを踏襲してきたっていう。
父親は高校から大学にかけてアメリカに放り出されたため、幼少期から現地に入る西村さんの方が負担は大きそうにも見えます。それでも、大人になった今は良かったと感じていると話します。
引っ越しは「次のゲーム」という感覚
父親はシンガポールで会社を辞め、個人としてタイへ移りました。タイでは現地のものを売ったり日本へ輸出したりしていたほか、現地の人とバンドを組んで音楽で収入を得ることもあったといいます。
そうした父の意思決定を、西村さんは当時どう見ていたのか。会社を辞めたことは後から知り、当時は突然タイ行きが決まったという感覚だったと振り返ります。
小さい時から引っ越しを繰り返していたこともあって、引っ越しがエンタメというか、楽しいことだったんですよね。
次のゲームに行くというか。そろそろ飽きたでしょ、はい次、みたいな感覚でした。
一方で、長く日本にいると飽きもあると西村さんは言います。起業家として日本のベンチャーキャピタルから出資を受け、どの市場に取り組むかを考える中で、今もっとも住みたいのはアメリカだと話します。
今後、近いうちにアメリカに軸を移したいなと思っています。
『13歳のハローワーク』に感じた違和感
記事で印象的だったエピソードとして、森下さんは『13歳のハローワーク』の話を挙げます。西村さんはこの本を読んで、やりたい仕事が見つからなかったといいます。
両親から本を渡され「なりたい職業を選んでみて」と言われた西村さんは、載っている職業に心が躍らなかったと振り返ります。
読んでめちゃくちゃつまらなくて、心が躍るものがなくて。全部なりたくないみたいな感じで。
違和感の中心にあったのは、ひとつの専門的なことに定めて生きることへの疑問でした。
一つの専門的なことに定めてそれをやるって、おかしくない?みたいな感じもあって。
何でもやれる職業があればよかった、それが社長業や経営者に近いのではないか、と西村さんは語ります。祖父や父の姿を見る中で、この違和感が徐々に晴れていったといいます。
違和感を持ったまま生活していく中で、祖父の話や父親の姿を見て、だんだんもやが晴れてきたイメージです。
大分のヨット部と、性質としての「面白いこと」
中学卒業後、西村さんは家族とともにタイから大分へ移り、日本の進学校に入学しました。学校選びは自分で決めたというより、自動的にそうなっていたと話します。
高校時代に打ち込んだのが、聞き慣れないヨット部でした。好奇心のまま入部したところ、全国大会でよく勝つ強豪だったといいます。
強豪なので練習が本格的で、冬にはクリスマス合宿もあって、冬の海を泳ぐみたいな。
シンガポールとタイの温暖な環境で育った西村さんにとって、冬の海はこたえるものでした。
ずっと夏の感じで育ったので、冬慣れしてなくて。冬の海きつかったです。
それでも振り返ると、この選択も自分の性質から来ていたと西村さんは考えます。
「作りたいから」から「ユーザーがつくものを」へ
大学は日本の大学に進み、西村さんは学習支援サイトや、累計400万ダウンロードを記録したメモ帳アプリを自ら開発します。プログラミングは独学で学びました。
ただし、この段階になると原動力は単純な好奇心とは変わっていたといいます。祖父や父の話を通じて、経営の道に進みたいという意識が明確になっていました。
好奇心というより、こういうサービスを作ったらみんな使うんじゃないか、これがあったら自分も使うな、という感じで作っていました。
この転換は段階的なものでした。最初は「作りたいから作ろう」という粒度で、その結果ユーザーがつくものとつかないものが分かれていったといいます。
ユーザーがつく方がやっぱり面白いじゃないですか。なんでつくんだろうと思ったら、みんな欲しがっていたり、初見でインパクトがあるとか。
そこから、より多くのユーザーがつくものを作りたいという方向へ進んでいったと西村さんは語ります。
まとめ
前編では、シンガポールとタイで育った西村さんの「デフォルトでグローバル」という感覚と、祖父や父から受け取った起業家精神が、プロダクト開発の原点になっていることが語られました。後編では、大学後半から現在に至るまでのエピソードが深掘りされます。
- 海外で育った経験から、世界中の人が使う前提でサービスを考えるのが自然な感覚になっている
- 祖父や父の話を通じて「世の中は流動的で自分次第」という気づきを幼少期に得た
- 『13歳のハローワーク』への違和感が、何でもやる社長業への関心につながった
- 高校ではヨット部に打ち込み、面白いことをやりたいという性質を再認識した
- 大学では「作りたいから」から「ユーザーがつくものを」へと開発の動機が変化した
