長崎での幼少期と、英語との最初の出会い
萬野さんは長崎県長崎市の出身で、高校まで長崎で過ごしました。通っていたのは小中一貫のカトリック系私立男子校で、小学1年生から英語の授業がありました。
中学3年生までは毎週ミサがあったといいますが、本人はキリスト教徒ではないと話しています。
小学6年生のときには父親の仕事の関係で1年だけ東京に移り住み、中学受験の塾にも通いました。ただ、長崎に戻ることになり、受験はせずそのまま一貫校へ進んでいます。
英語との本格的な出会いは中学2年生のとき。希望者向けのオーストラリア研修プログラムに応募し、2か月間ひとりでホームステイを経験しました。ちょうどシドニーオリンピックの年、2000年のことです。
困ったことはないですよね。元からその外国語を話すみたいなのに躊躇がないので。
オーストラリアなまりの聞き取りには最初こそ苦労したものの、生活で困った記憶はないと振り返ります。ただ、この経験から強く海外志向を抱いたわけではないといいます。
別にすごく強く海外に行きたいとか、海外で働きたいとかは、それ自体は思ったことはないですよね。
灘ではなく青雲へ。志望校選びの意外な理由
高校は受験をして、青雲高校と灘高校の両方に合格しました。灘に進んでいれば、番組のもう一人のMCである坂本達郎さんの1学年下だったといいます。
最終的に青雲を選んだ理由は、通学距離と、意外なところにありました。
なんか椅子が机についてたんですよ。あれに座って年間授業を受けられないなと思って。
机と椅子が一体型の古い机が理由の一つだったと語ります。高校生活自体は楽しく、体育教師に気に入られていたことで、比較的自由に過ごせたと振り返ります。
留学などはなく、海外との接触もほとんどありませんでした。熱中していたのは、当時人気だったオンラインゲームです。
起きて家にいる時間は、全て費やしてましたね。
東大合格を「分析と対策」でハックする
萬野さんが東大を目指したきっかけは、9歳のときに見た宇宙飛行士・毛利衛さんが宇宙へ行ったというニュースでした。以来、宇宙飛行士に憧れ、航空宇宙を学べる大学を志したといいます。
ただ、進学先の決め手はもっと現実的な事情でした。浪人や私立に行かせる余裕はないと親から言われ、田舎の長崎を出て東京に行きたかったこと。そして、当時知っていた東京の国立大学が東京大学だけだったことです。
聞き手の森下さんは、背水の陣で最も浪人しやすい大学を選ぶ判断に驚きますが、萬野さんは数字で冷静に判断したと語ります。
二次試験がセンター試験含めて550点満点で、大体330取ればまあ合格なんですね。それが取れるのかって冷静に考えると取れるだろうと。
さらに萬野さんは、過去15年分の入試問題を各教科ごとに分析したといいます。勉強というより、分析と対策、テクニックで乗り切ったと振り返ります。
その発想の背景には、試験というものへの独自の見方がありました。
試験って絶対作った人がいるんですよね。教科書の指導要領に沿った問題しか出せないので。
20年もテストやってたら同じ問題が出るんですよね、絶対に。作ってる人はなるべく被らないように作るので、その年に出る問題って大体わかるんですよ。
ラクロス部と、AI研究への進路
宇宙飛行士になる夢は、視力の条件を満たせないため大学入学前に断念していました。それでも宇宙への興味は変わらず、航空宇宙を専攻します。
大学生活で熱中したのはラクロス部でした。もともとはアメフトを考えていたものの、入部のきっかけは受動的なものでした。
健康診断から出てきて、アメフト部を見た瞬間、でけえと思って。ここまででかくはなりたくないと思って。
体格のいい部を次々とかわして一息ついたところ、後ろから羽交い締めにされてラクロス部に連れて行かれ、その場で入部を決めたといいます。棒で叩き合うコンタクトスポーツで、それが楽しかったと話します。
航空宇宙は人気が高く、1年生の間に平均85点ほどを取る必要がある年もあったといいます。高校時代より勉強したと振り返ります。
進んだのはAIの研究室でした。航空宇宙では、地球から離れるほどリアルタイム通信が難しくなるため、自律的に動くシステムが必須になるからです。
当時僕ストロングAIが作りたくて、いわゆるドラえもん。
理論は当時からあったものの計算できるハードウェアがなく、下火だった時代です。やりたいことはあっても研究成果につながるちょうどよいテーマが見つからず、苦労したと語ります。
DeNA入社と、天才エンジニアたちとの出会い
大学院修士まで進んだ後、萬野さんはDeNAに入社します。もともとは博士課程に進むつもりでしたが、研究テーマが決まらず向いていないと感じたこと、そして博士に行くとこの世界から抜け出せないと考えたことが転機になりました。
就職活動の対策はしておらず、JAXAはエントリーシートが手書きだったため諦めたといいます。DeNAを受けたのも、キャンパスで先輩に説明会に誘われたことがきっかけでした。
当時のCEOやCTOが東大の航空宇宙出身で、CTOは同じ研究室でした。エンジニアとして入社したものの、コードを本格的に書いたのは入社後のインターンが初めてだったと話します。
人を相手にするよりコンピューターを相手にする方がよいと考えたこと、スキルは勉強すればできるだろうと思っていたことが理由だと語られています。
配属されたのは、日本有数のハッカーが集まる部署でした。そこで萬野さんは、コードを書く行為において自分は一生勝てないと悟ったといいます。
トップオブトップって、僕が問題読み終わった時にはもう解き終わってるんですよ。
問題を解く速さと正確さの前に、そもそも問題を読み解く時点で差がついていると感じたと振り返ります。練習でたどり着ける場所とたどり着けない場所があると考えたのです。
この経験が、萬野さんの進む方向を変えました。自分がトップになるのではなく、優秀な人たちが気持ちよく働ける環境を作る側になればいいと考えるようになったのです。
その人たちが気持ちよく働ける環境を作れる人間になればいいんじゃないかと思って。
このとき、最終的にプロダクトマネージャーになりたいという思いが芽生えたといいます。ただ、DeNA在籍中はずっとインフラのエンジニアを務めていました。
コードを書くトップエンジニアを目指す
優秀な人が働ける環境を作る側、プロダクトマネージャーを志す
ベンチャーへ、そしてベトナム拠点の立ち上げ
DeNAには約11か月在籍しました。退職のきっかけは、先に辞めた同期からの誘いでした。当時ソーシャルゲームが大ブームで、開発会社に行けば稼げると誘われたのです。
ところが転職してみると、その同期はすでに社長と喧嘩して辞めていたといいます。萬野さん自身もそこは違うと感じ、3か月で辞めました。
その後、たまたま声をかけられたワンオブゼムに入り、ここからベンチャーの世界へ本格的に足を踏み入れます。技術統括のポジションで全体を見ながら自らも開発し、3日間徹夜でゲームを作ることもあったと語ります。
2012年ごろには、3か月間ベトナムに滞在し、開発拠点の立ち上げにも関わりました。当時一緒に組んでいたベトナムの会社は、その後ベトナムITで最大規模に成長したといいます。
そのオフィスがちょうどうちから今15分ぐらいのところにあって。めちゃくちゃ久しぶりにそこの社長とお茶してきましたけど。
当時ともに立ち上げに関わった会社が、いまではテキサスにいる萬野さんの近くにオフィスを構えている、という縁が語られました。ワンオブゼムには1年半ほど在籍しています。
この後、ヘルスケア系スタートアップの共同創業や、Odenの設立へと話は続きますが、その詳細は後編で語られます。
まとめ
前編では、宇宙飛行士に憧れた長崎の少年が、東大でのAI研究を経てエンジニアとして挫折し、環境を作る側へと視点を移していく過程が語られました。数字で受験をハックする発想から、天才たちとの出会いによる転換まで、その後のグローバルなキャリアの土台が見えてきます。
- 9歳で見た宇宙飛行士のニュースが、航空宇宙という進路の出発点になった
- 東大受験は過去15年分の分析と対策で、テクニックとして乗り越えた
- AI研究の道に進むも、成果につながるテーマ探しには苦労した
- DeNAで天才エンジニアと出会い、コードで勝てないと悟ったことが方向転換の契機になった
- ワンオブゼムではベトナム拠点の立ち上げに関わり、ベンチャーの世界へ本格的に踏み出した



