W杯観戦から始まる自己紹介とオランダ移住
番組はゲストの前半で生い立ちやキャリア、後半でゲストならではのトピックを扱う構成で進みます。今回のゲストは、坂本さんと同じ大学ゼミの先輩で、オランダ在住の矢野方樹さんです。
収録日はサッカーW杯の日本対ブラジル戦当日。矢野さんは応援のユニフォームを着て臨んだものの、坂本さんは着ておらず、互いに「まさか」と思っていたと笑います。
矢野さんはオランダ移住3年目、坂本さんはもうすぐ2年目。矢野さんが1年ほど先にオランダへ来た「先輩」にあたります。
オランダ来て3年ですね、今。それでオランダに来てからサステナ系というか、気候テック系の日本のVCのメンバーとして活動してるんですけど。
その前はシンガポールに5年ほど滞在し、そこからベンチャー投資の仕事に関わるようになったと話します。それ以前のキャリアの大半は日本で、長く銀行に勤めていました。
30年ぶりのテキサスと、カーチェイスの記憶
矢野さんがヒューストンで暮らしたのは小学5年から中学・高校まで。日本に帰国したのは1993年で、最後にヒューストンを訪れたのは1994年、大学1年のときでした。
その渡航の目的は、地元チームのヒューストン・ロケッツが全米チャンピオンになった年のNBA決勝を観ることでした。ただ、決勝のチケットは入手できず、友人の家のテレビで観戦することになります。
ところが試合の途中、テレビ画面がいきなりカーチェイスに切り替わりました。元アメフト選手O.J.シンプソンの逃走劇です。O.J.シンプソン事件は、元アメフト選手O.J.シンプソンが1994年に起きた殺人事件の容疑で追われ、白いバンでのカーチェイスがテレビで生中継されたもので、その後の裁判はアメリカで大きな注目を集めました。
東京から飛んで、ヒューストンにわざわざ飛んで、友達の家でテレビでそのカーチェイスをなぜか見てるっていうね。そんなシュールな体験が最後にヒューストンいたのがそれだったんですよ。
そして今回、およそ30年ぶりに再びテキサスを訪れます。今度はW杯の日本対オランダ戦を観戦するためで、試合会場はヒューストンではなく同じテキサスのダラスでした。
なかなかね、巡ってくるチャンス、ここまでこう揃うのがなかなかないですけどね、オランダに住んでる日本人として。
一方の坂本さんは、オランダ対日本戦の前日まで日本で友人の結婚式に出席し、式の後すぐの便でオランダに戻って試合を観たといいます。相手のオランダが日本に敗れて悔しがる様子を、この目で見たかったからです。
生い立ちを深掘りする、VCという仕事の思想
話はいったん、矢野さんがなぜ幼少期をここまで語るのかという背景に移ります。きっかけはシンガポール時代に所属していたVC、リープラでの経験でした。
そのVCでは、投資先の起業家の生い立ちを深く掘り下げます。超アーリー期の投資では見るべきものが起業家自身しかなく、その人を突き動かしてきたものと、これからやりたいことが整合しているかを整理することに時間を割くのだといいます。
それを同じように対起業家でやるんであれば、自分たち自身も同じようにやっぱりやるべきなんじゃないか。サラリーマンマインドでやるんじゃなくて、本当に自分たちがやりたいことをやってるのかっていうのを問い続けた上でやらないと。
そのため、同業のメンバー同士でも互いの幼少期を掘り合う「自己開示の嵐」のような文化があったそうです。矢野さんいわく、今回の対話はその久しぶりの再現でもありました。
そして5年間そうやって自分を掘った結果たどり着いたのが、「ヨーロッパに住んでみたい」という思いでした。中高をアメリカで過ごした一方、ヨーロッパは旅行で少し訪れた程度で、よく知らない地域だったからです。
フライト2、3時間の圏内にこんなにいろんなものが詰まってるところってあんまないと思うんですけど。そういうところで腰を据えてやってみたいなっていう。
自分のキャリアと時代の方向性、そしてヨーロッパならではの強みを考えたとき、サステナ系という選択肢が見えてきた、と振り返ります。
インターネット以前のアメリカ移住と「アメリカ人化」
ヒューストンへ渡ったのは矢野さん自身の意思ではなく、石油化学メーカーに勤める父親の転勤によるものでした。1986年、日本企業が勢いづいていた時期で、現地でエクソンとの合弁事業を立ち上げるための赴任でした。
海外に住むのはこのときが初めて。英語もできず、しかも今とは決定的に違う環境がありました。当時はインターネットも携帯もなく、日本の情報がリアルタイムで入ってこなかったのです。
行く前に、アメリカ渡米の前に家にうちFM7って富士通のFM7ってパソコン、当時は割と早めに買ってたと思って。ソフトウェアのカセットテープでやるっていうような時代があったんですよ。
FM-7は富士通が1982年に発売した8ビットのパーソナルコンピュータで、この時代は記録媒体としてカセットテープが使われることもありました。
日本のコンテンツに触れる手段は、親戚がVHSのビデオテープを郵送で送ってくれるものだけ。時差もあり、日常的に触れられないなかで、矢野さんは中身もアイデンティティも次第にアメリカ人になっていったといいます。
その結果、少年ジャンプ全盛期のような同世代の共通体験を、そのまま逃すことになりました。
矢野さんとかと話すと、そういうネタ振られるじゃないですか。それは一応なんとなく笑顔で返してるんですけど、分かってないんですよ。
当時のアメリカの中高生の間で流行っていたのは、ドラマ「ビバリーヒルズ高校白書」。矢野さんもそうした青春ドラマに親しんで育ちました。
振り返ると、自分にはリアルな二つの人生の道があったと矢野さんは言います。あのままアメリカに残っていれば、国籍を変え、アメリカで家族をつくり、アメリカの会社に勤める日系アメリカ人になっていた、と。
その当時は思考も全部、夢も全部英語で回ってるし。
ただ、それは単なる滞在年数の問題ではないと強調します。補習校にも通わず、ヒューストン郊外で同じ学校に日本人がほぼもう一人という、日本社会から完全に遮断された環境で過ごしたことが大きかったのです。
そんな完全にそのある特定の社会というか、空間からこうパッと切れるっていうのって今もう体験できないですよ。
父の助言で日本へ、そして東大の帰国子女入試
そんな矢野さんが日本の大学へ進んだきっかけは、高校2年のときの父親の助言でした。周囲の友人はテキサスの大学へ進むのが当たり前という環境のなかで、父親が別の視点を示します。
日本語ができるアメリカ人と英語ができる日本人っていうのを比べたら、社会人の先輩として言うと、後者の方が競争優位。一度日本の大学行ってみて、それでダメだったらいつでも戻ってこれるだろうしっていう。
後年になって矢野さんは、これは父親なりの営業だったのではと振り返ります。相手が高校生なら、こうしたフラットな見せ方で誘導するのはたやすかっただろう、と苦笑します。
当時は帰国子女入試という枠があり、矢野さんはその制度を使って東京大学に進学しました。帰国子女入試は海外での就学経験がある学生を対象にした入試制度で、一般入試とは異なる基準で選抜されます。近年はAO入試などに統合される傾向がある、と矢野さんは話しています。
同世代の日本語がわからない|TSUTAYAでカラオケの持ち曲を探す日々
1993年に帰国したものの、最初につまずいたのは同世代との日本語でした。親や妹とは日本語で話していたため会話自体はできますが、同年代の「ノリ」がわからなかったのです。
同年代との日本語っていうのが話せないんですよね。例えば「マジ」とかいうのも、多分「真面目」のことなんだろうなっていう感じなんですよ。
難しかったのは言葉そのものだけではありません。同世代と盛り上がるための共通のネタを持っていないことが、大きな壁になりました。とりわけカラオケでは、歌える曲がなかったといいます。
最初にカラオケへ行ったとき、矢野さんが入れたのは前夜にテレビCMでたまたま流れていたZARDの「揺れる思い」。しかもサビしか知らなかったそうです。
これは良くないと思って。同年代で繋がる上のネタだからね。だから当時ネットとかないから、TSUTAYAで週間トップ10みたいなのを、ほぼ本当に毎週のように借りて、めっちゃ一生懸命勉強しました。
そうして矢野さんは、1993年から1994年のJ-POPだけはやたらと詳しくなったと笑います。坂本さんは、その様子を「完全に日本に留学に来た人」と評しました。
後悔は別にあんまなかったですかね。寂しいっていうから。
帰国して1年ほどは、離れた友人が恋しく、翌年ヒューストンを訪れることにもつながりました。ただ進路そのものへの後悔はなかったといいます。
金融だけは行くまい、から外資系金融へ
矢野さんと坂本さんは同じマーケティングのゼミの出身です。ただ矢野さんは、就職活動を始めた当初、金融だけは行くまいと思っていたと明かします。
親族に金融の人が誰もおらず、父はメーカー、祖父は鉄道会社で、まったく土地勘がなかったためです。当時は金融に「めちゃめちゃつまらない」という勝手なイメージを抱いていたといいます。
それでも、いろいろな業種の先輩の話を聞くなかで考えが変わっていきます。海外で仕事をしたいという希望に照らすと、金融は意外に間口が広い分野だと気づいたのです。
先進国、アメリカとかロンドンとか、シンガポールも後々入ってくるんですけれども、そういうところでの機会値で見ると、金融って実は間口が結構広いっていう話で。
当初は広告代理店や出版社といった華やかな世界に惹かれていた矢野さんですが、理性で考えたときに金融という選択肢がありだと思えた、と振り返ります。
マーケティングのゼミを選んだ理由も、アカデミックな内容そのものより、華やかでユニークな人が集まる雰囲気だったと語ります。
こうして矢野さんは、土地勘のなかった金融の道、そして外資系金融へと進んでいきます。海外へ出るという入り口を、そこに見出したのです。
まとめ
前編では、アメリカで育ち日本へ「留学生のように」戻ってきた矢野方樹さんの生い立ちが語られました。インターネット以前の環境がもたらした徹底したアメリカ人化と、そこからの再適応の物語です。
- 矢野さんは小学5年から高校までヒューストンで過ごし、インターネットのない時代に日本と遮断され、次第にアメリカ人化していった。
- 高校2年のときの父親の助言で、帰国子女入試を使って東京大学へ進学することを決めた。
- 帰国後は同世代の日本語やノリに苦しみ、TSUTAYAでカラオケの持ち曲を探すなど「留学生」のように日本へ溶け込み直した。
- 当初は金融を避けていたが、海外で働く機会の広さに気づき、外資系金融の道へと進んだ。
- 投資先の起業家の生い立ちを深掘るVCの仕事が、自らの人生を問い直しヨーロッパ移住を選ぶことにもつながった。
