外資系金融は「グローバル」より「サバイバル」だった
前半では中高アメリカ、大学で日本に戻り、外資系金融機関に入るまでが語られました。後半は社会人編と海外移住編です。
グローバルな仕事がしたいという動機で入った矢野さんですが、実際の日々はまったく違ったといいます。
最初はそういうことは考えて入ったんですけど、そんな視座の高いことを考えて日々過ごしてるわけもなく、もうサバイバルの毎日で。
最初に配属されたのは、モルガン・スタンレーの社債の引受という部門でした。
M&Aのような華やかな選択肢もありましたが、金融の土地勘がなかった矢野さんは「どこでも勉強になる」と考え、割り振られた部門に入ります。
結果として、お金の貸し借りから始まる金融の基本を学ぶ良いスタートになったと振り返ります。
深夜2時のホッチキス止めと、それでも辞めなかった理由
当時の1年目の仕事は、今の投資銀行では考えられないものだったといいます。
毎晩、深夜2時半ぐらいまで仕事してたんですけど、資料を印刷してホッチキス止めして、ページ番号が一個間違ってたら、全部の修正液でページ番号を書いていくとかいう。
有給は1年目に一日も取らず、土日も必ずどちらかは出社していたといいます。
とにかくクビにならないように、体を壊さないように年間過ごせればもう御の字だなと思ってたんですよ。
坂本さんが「東大出て、俺はこんな仕事しに入ったわけじゃない、とはならなかったのか」と尋ねると、矢野さんは全くならなかったと答えます。
理由は、投資銀行の仕事にあったチームスポーツ的な楽しさでした。
コーポレートのお客さんに向かって仕事するのは、もっとチームワークなんですよね。ゴールドマン・サックスや野村証券と競争しながら、いかにシェアを取っていくっていう仕事。
仕事取った時が一回目、無事実行できた時が二回目っていう、大体二つの打ち上げのタイミングがあって。それはすごい楽しかったですよ。
一度PEに転じて、また戻った理由は「営業の原体験」
キャリアの多くは株の引受に携わり、上場する会社の手伝いを通じてスタートアップとの接点も増えていきました。メルカリや楽天が上場するタイミングにも当たったといいます。
通算20年近くモルガン・スタンレーにいましたが、20代後半に一度、アドバンテッジパートナーズというプライベートエクイティファンドに移っています。
金融の世界では、証券会社側をセルサイド、投資する側をバイサイドと呼びます。バイサイドに行った人がセルサイドに戻るのは珍しいと言われたそうです。
戻るきっかけは、投資先の取締役会での一言でした。それっぽく発言した矢野さんに、社長がこう返したといいます。
一応それっぽく頑張って発言した後に、「いいからいいから、一個でいいから取引先紹介して」って言われたんですよ。
当時の矢野さんには、紹介できるものが何もありませんでした。ここで痛感したのが、営業の原体験の欠如です。
最初の3年もチームの一員として営業に関わってはいました。しかし、アカウントを持つ人と、ページ番号を修正する自分とでは立場が全く違うと感じたといいます。
この問題意識から、勝手知ったる投資銀行に戻ることを決めます。戻ったのは2004年でした。
40代で浮かんだ「なぜゴールにボールを入れるのか」という問い
戻ったモルガン・スタンレーでは、リーマンショックも経て、IPO支援や上場企業のエクイティファイナンスを扱う部門の責任者を最後の数年務めました。
2018年に退職し、シンガポールへ移住します。当時考えていたことは二つあったといいます。
一つは、中年の危機とも言える問いでした。チームスポーツの楽しさはあるものの、その前提そのものに疑問が浮かんだのです。
なんでそもそもそのゴールにボールを入れる意味があるの?っていう問いが浮かんじゃったわけ。それは聞いちゃいけない質問じゃない。それ聞いちゃうとスポーツとして成り立たなくなっちゃう。
40代に入り、仕事の意味を持続的に考えるようになったといいます。
もう一つは、子供を海外で育てたいという思いでした。東京勤務では日本市場が担当スコープで、自身が海外オフィスに移る機会はほとんどなかったのです。
そんなとき、シンガポールのリープラがCFOを探しているという話にたまたま遭遇し、移住を決めます。丸藤さんはじめ、当時リープラに知り合いはいなかったといいます。
子どもに残したいのは「ストリートイングリッシュ」という感覚
子供を海外で育てたい思いの背景には、矢野さん自身が中高を海外で過ごした原体験がありました。前半で語られた、英語ができる日本人は希少価値が高いという父親の発想を裏付ける形になったといいます。
ただし、矢野さんが重視するのは単なる読み書きではありません。
英検できますっていうのと、同じような空間を共有できる、感覚を共有できるのとは違うじゃないですか。人間関係を作れる。
坂本さんはこれを「ノリが近いかどうか」と言い換えます。日本でもローカルな話題で人間関係が深まるのと同じで、外国の空間で育つことにこそ価値があるという話です。
当時、上の子は小学校卒業のタイミング、真ん中が小4、一番下は幼かったといいます。矢野さん自身がアメリカに渡った年齢と近いものでした。
明るい北朝鮮、そして移民依存が浮き彫りにしたシンガポールの裏側
移住してまもなくコロナ禍が訪れます。シンガポールのコロナ対策は、当初は優等生として世界中で引き合いに出されました。
トップダウンで意思決定が早く、WhatsAppでルール変更が突然通知され、臨機応変に変わっていったといいます。
スタートアップよりも超意思決定が早かったですよ。明日からルール変更でこうなりますみたいなのがいきなり来て、それがものすごく臨機応変にコロコロ変わっていく。
しかし途中で変曲点が訪れます。シンガポールの工事現場には、シンガポール人がほとんどいないのです。労働は移民に依存していました。
移民労働者は島の周縁部の寮で暮らしており、その衛生環境の悪さから感染が爆発。国全体の感染者数が急増しました。
工事の停止は別の問題も招きました。放置された水たまりに蚊が大量発生し、デング熱の記録的な流行につながったといいます。
シンガポールは罰金や相互監視でルールを徹底する国でもあります。マスクを守らない外国人が24時間後に国外退去になったといったホラーストーリーも意図的に広められたと矢野さんは見ています。
「明るい北朝鮮」とも呼ばれる一方で、世界一治安のいい場所でもある。その効果と厳しさはバランスの上に成り立っていると話します。
この話題から、日本との統治の違いにも及びます。
神の目の代わりに人の目が監視してるっていう話をすると、すごいウケますよね。おーみたいな。
日本の統治は明文化されたルールよりも、周囲の目に依存している。この違いが海外では興味を持って受け止められるといいます。
無職で飛び込んだオランダ、居候先の友人が今の同僚に
次はシンガポールからオランダへの移住です。ヨーロッパは矢野さんにとって未知の地域であり、サステナ分野に取り組みたいという思いがありました。
場所が強いものに取り組みたいという考えのもと、ヨーロッパ、サステナ、ベンチャー投資という三つの重なりを求めていたといいます。そこに日本のVCという柱も加わりました。
さらりと語られましたが、その入り方は普通ではありませんでした。
最初来た時は、僕、無職で飛び込んでるんですよ。
2023年6月1日、単身でオランダに入国。家族は一旦日本に帰していました。まず直面したのが、オランダの深刻な住宅問題です。
無職の状態では貸し手も敬遠します。最初に申し込んだ物件は断られたといいますが、それでも貸してくれる人が見つかりました。
日本国パスポートを持つ人はオランダで無条件にビザが下りるため、無職でもビザを取得できたといいます。
そして職を得たのは、居候させてもらっていた友人の存在がきっかけでした。相手はモルガン・スタンレー時代の同僚です。
プータローしてんだったら、うちの社長に会ってみたらって言われて。それで出会ったのが今のVCなんですよ。
出だしの頃の同僚と、25年ほどを経てまた同僚になったのです。
「何をするにもエネルギーが必要」だから領域は無限に広い
日本のVCがオランダに人を置く理由は、サステナ分野ではヨーロッパが市場の中心だからです。現地での情報収集や投資に加え、日本の投資先の欧州進出支援も担っています。
ヨーロッパはルールメイキングと社会実験の場でもあり、規制緩和がどう消費者行動を変え、どんなM&Aを生むかといった先行事例が豊富だといいます。
海外に住むことで、日本のことも海外のことも説明を求められ、勉強を強制される感覚があると二人は共感します。
海外にいると、勉強に迫られていいというか、日本ってどうなのよっていうのは、ありとあらゆること日本のこと知ってるでしょ、あんたみたいな感じで来るじゃん。
矢野さんは、サステナ分野の魅力を領域の広さに見出しています。金融でお金が何をするにも必要だったように、エネルギーもまた何をするにも必要だという発想です。
何をするにも必要。財務省が権限を持つのも、各官庁の活動に資金が要るから。
機械の動力だけでなく、自転車を漕ぐ人の食事まで、あらゆる活動に必要。
坂本さんは、漫画を描く液タブの電池からエネルギースタートアップまで、ツーステップで結びつくと例えます。AIの普及やホルムズ海峡の情勢まで、あらゆる話題がエネルギーに関わってくるといいます。
矢野さんは、この仕事を始める時に友人が薦めた本として『エネルギーを巡る旅』を挙げました。著者は古舘恒介さん、2021年刊行の一般書です。
なぜアカデミックな英語を学ぶのか、大人になってわかること
最後は、矢野さんの一番下の子供をめぐる相談です。中1にあたる年齢で、シンガポール時代から海外が長く、友達作りを含めたストリートイングリッシュは得意だといいます。
しかし本人から、こう聞かれたそうです。
ストリートの英語はできて日々の生活も問題ないのに、なぜアカデミックな英語を勉強しなきゃいけないのか
坂本さんは、思いつきと前置きしつつ二つの答えを示します。
一つは、文学的な楽しさです。古文や漢文、あるいはネットスラングを共有した相手とニヤッと笑えるように、教養ある英語同士でも通じ合える瞬間があるという理由です。
英語で喋ってて、それお前トゥービーオアナットビーみたいだよねって言うと、お前ちゃんとわかってんじゃんみたいな感じになるじゃないですか。
もう一つは、ビジネスや外交の場で下に見られる悔しさです。
言語が下手くそなだけで、頭の良さで言ったら俺だって負けてねえんだぞっていう悔しさは、やっぱりあると思ってて。
いずれも大人になってわかることだと二人は認めます。学生の頃は、いい大学に入るため以上の学習の意味を考えたことがなかったと坂本さんも振り返ります。
坂本さんは、オランダの教育がプロジェクトや施設訪問を通じて社会との接点を意図的に作っている点をいいと感じているといいます。
必要に迫られる立ち位置にいた方がいい。二人は、大学時代の時間の使い方への後悔を共有しながら、そう結論づけました。
まとめ
外資系金融でのサバイバルから、営業の原体験を求めての出戻り、そして無職でのオランダ移住まで、矢野さんのキャリアは「その場所でしかできないこと」への一貫したこだわりで貫かれていました。ご縁と必要に迫られる環境が、次の一歩をつくってきたことが伝わる後編でした。
- 1年目の投資銀行は付加価値の低い作業の連続だったが、チームスポーツ的な勝ち負けの楽しさが矢野さんを支えた
- PEでの「取引先を紹介して」の一言が営業の原体験の欠如を突きつけ、セルサイドへの異例の出戻りにつながった
- 40代で仕事の意味を問い直し、子供の海外育児も兼ねてシンガポール、そしてオランダへ移住した
- オランダには無職で単身入国し、居候先だった元同僚の紹介で今のサステナ系VCに参画した
- お金と同じくエネルギーもあらゆる活動に必要で、サステナ分野は領域の広さが尽きない面白さだと語られた





