ラスベガスからの対面収録とコミスマでの役割
この回はいつものオンライン収録ではなく、聞き手の坂本達夫とゲストの福西祐樹が並んで対面で収録されています。
収録場所はアメリカのラスベガス。慰安旅行ではなく、ライセンシングエクスポというイベントへの出張中の収録です。
海外には住んでおりませんが、今はなぜか海外におります。コミスマでエンタメやってます、福西と申します。
福西は漫画アプリなどを手がけるコミスマの取締役COOです。今年からCOOの役割がつきましたが、それ以前も取締役として関わってきました。
コミスマ事業に加わったのは2015年で、すでに約10年になります。何をやるかよりも、代表の佐藤さんと働きたいという思いが出発点だったと話されています。
メディアの担当がいないので、君がプロジェクトオーナーをやってねと言われて。そこからずっとメディア事業を見ています。
その後、メディア事業以外の新領域が始まるたびに「まずはよろしく」と任され、コーポレートとコンテンツ以外の事業領域の立ち上げを幅広く担ってきたといいます。
セプテーニ発、独立へ至ったコミスマの成り立ち
コミスマ事業は、もともとセプテーニ社の新規事業として2013年にスタートしました。
当時セプテーニ社の代表だった佐藤さんが、今はコミスマ社の代表かつ編集長を務めています。福西も佐藤さんも、現在はセプテーニグループからは独立しています。
福西自身は2006年にセプテーニへ新卒入社し、丸10年をデジタルマーケティング事業に、その後の丸10年をコンテンツ事業に費やしてきました。
生え抜きではあるものの、途中で乗っていた船が母体から切り離される形で会社が変わっており、独特な経歴になっています。
ただし、最初のデジマの10年は佐藤さんとバディのように働いていたわけではなく、事業の一つのセクションを見ていたに過ぎなかったといいます。
常務会議やらなんやらは一緒にやってましたけど、二人でやることはないみたいな意味では、バディ感はなかった。
川崎の社宅で育った野球少年
話は福西の生い立ちへと移ります。現在は大阪在住ですが、育ちは神奈川県です。
小学校までは川崎市多摩区のゼネコンの社宅で暮らしていました。エレベーターのない4階建てで、住人が全員同じ会社という団地です。
3人兄弟の真ん中で、社宅には同世代の子どもが大勢いました。家の鍵は閉まっておらず、子ども同士が勝手に行き来する環境だったといいます。
僕はどっちかっていうと勝手に入っていく方だった。家にファミコンなかったんで。ファミコンと漫画がある家に大体上がりこんでました。
野球好きの父の影響で、兄弟3人とも半ば強制的に少年野球チームに入れられました。福西のポジションはキャッチャーでした。
ただし所属チームは同学年が3人しかいない弱いチームで、体が一番大きかったためキャッチャーになったといいます。ちょうどJリーグ開幕のサッカーブームとも重なり、野球に人が集まりにくい時期でもありました。
情報も準備もないまま飛び込んだ強豪校の硬式野球部
中学から鎌倉市へ引っ越します。父の地元に2世帯住宅を建てての転居で、鎌倉の小学校には2ヶ月しか通っていません。
当時の鎌倉は今のイメージとは違い、田舎だったと福西は振り返ります。中学受験という言葉すら知らず、周囲に受験する人もいなかったといいます。
高校は、中3のとき甲子園で活躍する松坂世代を見て、野球がしたいという理由で選びました。学区内で強豪だった日大藤沢に進学します。
ただし福西自身は、中学時代は地元の軟式野球部にいた程度で、強豪校で通用するようなガチ勢ではありませんでした。硬式野球という存在すらよく知らないまま入部します。
入部初日にマウント取られたのは、僕のグローブが軟式グローブだったんで。
この無知さについて、福西は反省すべき点としつつも、自分の人生に影響していると語ります。
今の情報量が世の中にあったり、人に聞いて何か検討するみたいなものを変に身につけてたら、多分入ってないかもしれない。
結局、背番号は一度ももらえないまま3年間続けました。100人近い部員のうち、ベンチ入りの背番号は18番までという環境です。
どのポジションでもこなす。培われた「まず飛び込む」姿勢
福西は試合で活躍する選手のサポート役に回り、バッティングピッチャーを数多くこなしました。コントロールが良く、体が強かったため重宝されたといいます。
体は強かったんで、いつでも投げれましたし、200球でも300球でも。
さらに、キャッチャー、ピッチャー、内野、外野と、どのポジションもこなせたことも特徴でした。小中でやっていたキャッチャーが好きではなく、高校ではショートだと言い張って入ったといいます。
聞き手の坂本も、サッカーでキーパーから始めて、その後さまざまなポジションを経験し、どれも60点ぐらいこなせる選手になったと共通点を語ります。
二人は、この「やったことはないけれど、とりあえずやってみる」姿勢が、今の仕事にも通じていると重ね合わせます。
やってみよう。もっと上手い人を連れてくればいいとか。
福西は、ポジションにはこだわらない一方で、続けることへのプライドはあると話します。才能のある人と一緒に働き、その人たちを活躍させて結果的に勝てればいい、という考え方です。
情報や準備が完璧に揃う前に、まずやってみる。硬式野球未経験のまま強豪校に入った経験がその原点
自分が主役になるより、才能ある人を支え、結果としてチームが勝てばいいと考える
建築学科からネット広告ベンチャーへ
2006年、福西はセプテーニに新卒入社します。当時はホリエモンや藤田さんがテレビに出ていた時代でした。
大学は建築学科でしたが、みんなが新建築やカーサを読む横で、福西は広告批評を読むような学生だったといいます。
就職活動では建築系を受けず、テレビ局やマスコミ、広告代理店を志望します。当時勢いのあったサイバーエージェントなどネット系広告事業も視野に入れました。
総合代理店はOB訪問だけして受けなかったといいます。人が多く、ビルが大きいことに「なんか違う」と感じたためです。
すごい奴らがいるところに行って背番号取りに行くよりは、今から始まってる感じのチームに入ってやった方が、やれんじゃないのかなって思ったのかもしれない。
建築学科でベンチャーを受ける人はほぼおらず、一人で就活をしていたといいます。親には干渉されず、「インターネット回線の会社だと10年くらい思われていた」と笑って振り返ります。
ドベンチャーの営業修行と、佐藤さんへ直接送ったメッセージ
入社当時のセプテーニは、正確ではないものの300人ほどの規模で、わかりやすい営業会社だったといいます。創業者の七村さんはリクルート出身で、ゴリゴリの営業文化が残っていました。
福西も四季報の1枚目から全部テレアポし、ときにはビルを上から順に飛び込み営業するなど、今では珍しいやり方も経験しました。
ああいうのって実際受注取れるもんなんですか?
取れるわけないじゃないですか。飛び込み営業で取れた記憶ないですね。
飛び込みで受注が取れた記憶はほぼないものの、連絡先がわからない企業が増えるなか、方法をいろいろ試す一環だったと説明します。
その後、福西は社内公募とは別の形で、佐藤さんに直接連絡を取り、コミスマへの転籍を願い出ました。入社10年目、32歳頃のことです。
10年頑張ってやってきた実績の全部の貯金をはたけば、このわがままは聞いてもらえるんじゃないかなぐらいの感覚です。
コミスマに関心を持った理由は、ずっとBtoCをやってみたかったこと、そしてコンテンツが嫌いではなかったことです。ただ最も大きかったのは、佐藤さんと直接働いたことがほぼなかった点だと語ります。
転籍後は、エンジニアと働いた経験がほぼないまま、初日からプロダクトオーナーを任されました。担当がいなかったためです。
福西はエンジニア系の本を読み込み、外部講師にも教わりながら、型を学びつつ実践でキャッチアップしていったといいます。ここでもまた、準備が整う前に飛び込む姿勢が貫かれています。
まとめ
前編では、川崎の社宅で育った野球少年が、情報も準備もないまま強豪校の硬式野球部に飛び込み、その姿勢のまま広告ベンチャー、そして漫画事業へと進んでいった原点が語られました。
- コミスマ取締役COOの福西は、2006年にセプテーニへ新卒入社し、デジマ10年・コンテンツ10年を歩んできた
- 高校の硬式野球部に未経験のまま飛び込んだ経験が「まずやってみる」という姿勢の原点になっている
- どのポジションもこなし、才能ある人を支えて結果を出すという考え方が、今の仕事にも通じている
- 建築学科ながらネット広告ベンチャーを選び、営業修行を経て、佐藤さんと直接働くためコミスマへ転籍した
- 転籍後は未経験のままプロダクトオーナーを任され、独学と実践でキャッチアップしていった
