大阪出身・会計事務所の娘がリーダー気質に育つまで
田淵さんは大阪出身で、実家は会計事務所を営んでいます。お好み焼きのメッカで育ちましたが、特別な大好物というわけではなく、あくまでソウルフードとしての存在だと話します。
お好み焼きが好きだからお好み焼き屋なんですか?とよく聞かれるんですけど、そうでもなくて。ソウルフードではあるんですけれども、すごい大好物というのとはちょっと違うかなと思ってます。
小学生の頃から学級代表や学年代表を任されるリーダー気質。誕生日が4月で身長も高く、自然と先頭に立つタイプだったといいます。
中高は大阪の四天王寺大阪市天王寺区にある中高一貫の女子校。医学部や難関大学への進学者が多く、独立心の強い校風で知られるという女子校に進学。ここで「女性でも社会で働くぞ」という独立独歩の精神が養われたと振り返ります。
ただし当時は就職氷河期。同級生の多くは医師、弁護士、あるいは大企業へと進む道を選んでおり、独立して海外でビジネスをしている田淵さんは「だいぶ珍しい」存在だといいます。
2004年、学生起業の世界に飛び込む
大学在学中、田淵さんが起業に目覚めたきっかけは2004年のプロ野球再編問題2004年に近鉄とオリックスの合併をめぐり、1リーグ制への移行案が浮上した騒動。堀江貴文氏による近鉄買収提案などで注目を集めたでした。
反対運動の学生スタッフとして関わる中、ブレーンを務める起業家たちと出会います。仕掛ける側に回る面白さに「ドチ狂った」と本人は表現します。
いろんなことを仕掛ける側に回る方が楽しいのかなっていう風に、その時ちょっとドチ狂いまして。先輩方を見てそう思ってしまって、学生起業したみたいな感じですね。
最初に手がけたのは学生を動員するイベント運営や人材紹介の仕事でした。就活イベントの司会も務め、女性の学生起業家として珍しい存在だったといいます。
ノートPC塗装ビジネスと、大手参入での即撤退
23、24歳で1社目を立ち上げた後、師匠の一人から「コンサルみたいな怪しい仕事ではなく実業をしろ」と言われます。そこで思いついたのが、ノートPCの塗装ビジネスでした。
2005年当時、ラップトップは黒やシルバー一色。Macのようなカラフルなラップトップが欲しかった田淵さんは、塗装を請け負いつつメーカー保証PCメーカーが提供する故障時の無償修理サービス。改造や塗装を施すと通常は保証対象外になることが多いを維持できる業者を探し当てます。
マウスコンピューターが対応してくれることになり、数台のOEM販売を開始。雑誌や新聞にも取り上げられ、大手メーカーからの解析ログのアクセスもひっきりなしに記録されたといいます。
会社の解析ログを見ると大手のパソコンメーカーさんがぶわーって並んでて。何このガキんちょは何をやってるんだと思うんですけど。
しかし大手各社が次々とカラーバリエーションを投入してきたため、販路で勝ち目がないと判断し即撤退。目の付け所は良かったものの、スピード勝負で押し切られた経験となりました。
離婚記念パーティーで生まれた「パリでお好み焼き屋」構想
その後は当時の元旦那が経営するIT会社を手伝います。MIXIアプリが流行していた時代の裏方仕事でしたが、性格にも夫婦関係にも合わず、結婚から間もなく離婚に至ります。
転機は離婚記念パーティーでした。別居先である親友(青山学院大学仏文出身)の中目黒のワンLDKに、日本人とフランス人が30人ほど集まる事態に。
大人数をさばける料理として選ばれたのが、タネさえ仕込んでおけば各自で焼けるお好み焼き小麦粉と卵をベースに、キャベツや具材を混ぜて鉄板で焼く大阪・広島発祥の料理でした。
フランス人の方に思いのほか好評でして。お好み焼きってこんな美味しいんだね、パリにないからやりなよって。やるか。やるわ。
別居・離婚
旦那の会社も辞めて無職・鬱・バツイチに
慰めパーティー
親友宅にフランス人含む30人が集合
お好み焼き披露
タネを仕込んで各自で焼くスタイルに
好評&提案
フランス人から「パリにないからやれば」と背中を押される
決断
「もう人生変えたい」とパリ開業を即決
無職、鬱、バツイチ。これ以上落ちるところがない状態だったからこそ、「人生変えたい」という気持ちで即決できたと話します。
修業3年は無理、それなら外堀から埋める
フランス経験は旅行で一度訪れただけ。お好み焼きへの確信もパーティー一夜の反応だけ。それでも田淵さんは飛び込みます。
東京駅近くの大手お好み焼き屋に修業を申し込んだものの、「焼き場に入るまで3年」と言われ断念します。
三年はちょっときついと思って。三年待ってからフランス行ったらもうだいぶ時間かかるじゃないですか。
そこで田淵さんが選んだのは、周囲に言いまくって退路を断ちつつ縁を引き寄せる戦略でした。
砂糖の原料メーカーからオタフクソース広島に本社を置く調味料メーカー。お好み焼きソースの代表的ブランドとして知られるの当時の専務を紹介され、自宅にお好み焼きキットや歴史書がどっさり届いたといいます。
2011年8月にはFacebookに進捗共有グループを開設。年に2回パリへ渡ってビザや物件の情報を収集し、翌年には学生ビザで移住に踏み切ります。
資金は結婚式キャンセル分とエンジェル株主
フランスでレストラン物件を取得するには、当時で30万〜50万ユーロが必要でした。今のレートでは約1億円近い金額になります。
田淵さんはまず学生ビザで渡仏し、物件取得後にアントレプレナービザへ変更する道を選びます。資金の出どころは、キャンセルした結婚式分の返金、両親が元夫に貸していた事業資金、そしてエンジェル株主2名からの出資でした。
最初のその資金とかってどう工面したんですか?
結婚式をしなかったから戻ってきたお金と。あとは彼に事業資金として貸してたお金があったので、うちの両親が。それを返してもらって、それを貸してもらいました。
さらに当時はユーロ円が105〜110円程度。現在は約2倍のレートになっているため、為替面でも結果的に追い風となったと振り返ります。
まとめ
田淵寛子さんの渡仏前夜の物語は、計画的というより「言い始めたら止まらない性格」と「外堀から埋める行動力」が積み重なった結果でした。後編では実際にパリでお店を開いてからのリアルが語られます。
- 大阪・四天王寺で育まれた独立独歩の精神が起業家マインドの土台になった
- 2004年のプロ野球再編騒動をきっかけに学生起業の世界へ飛び込んだ
- ノートPC塗装事業は目の付け所は良かったが、大手参入で即撤退する判断力を示した
- 離婚記念パーティーでのフランス人の反応をきっかけに、パリ開業を即決した
- 修業3年は断念し、人に言いまくって退路を断ちながら縁と資金を引き寄せた
